GLN鹿角のルーツあれこれ

四郎兵衛屋敷と難破船

イ 安宅新の銅板について ‐ 川良雄氏(石川県史編纂委員長)当時(昭和30年5月)記録

 新春の話題の種子となったものに、安宅新海浜から掘り出された銅板がある。ニュース映画になる。安宅新は一躍有名になった。 最初にこれを記事にした記者は、本社から特種賞を貰ったとか某記者は間違って安宅町を終日さがしまわって、遂に得る処がなかったとか、銅板に多量の金が含まれているから、その価値を莫 大なものだとか、話は益々にぎやかになっていった。
 
 この銅板事件に巻き込まれた一人として、大体の経過をまとめることにする。県から、実地調査を依頼された時に、まず二つの事前調査を行った。一つは文献の上で、安宅新海浜の海難事件があるかどうかと言うこと。これについては、藩の公的記録の集成せられている「加賀藩史料」を調べたが、該当するものが全然ない。次に、こうした社会事象を豊富に含んでいる「小松日記」即ち「小松史史料編」をあさったが、安宅における遭難が書かかれているが、年代が一致しない。その他の海事資料をひもどいても見当たらない。第二に、銅板そのものは、鉱山法の適用を受けるや否やの問題である。これは簡単に県商工課に問合せた結果、人工が施されていて天然のものでないから、鉱山法に抵触しないことが判 明した。こんな程度で、1月7日夕方小松警察に赴いて、拾得物として届出されている銅板24枚を見せて貰った。円形の楕板型で、大小さまざまである。大きな物は8貫余、小さい物でも4貫程、一定の鋳型に入れて作ったものでもない、裏はさびに砂や石がこびりついているが表面は所々、波や石にこすられたと見えて、銅色の光澤のある部分もあって素人目にも銅板とわかる。翌1月8日に、安宅新町に出かけた。ここでは、海岸の発掘現地を見る外に、これについての伝説採集と、傍証となるべき材料をあさる三つの仕事がある。荒れ狂う浜辺で、30人程の町民が、鍬やスコを持って、波の引け間に砂を掘り返しているのを一時間も見ていたが、遂に1枚も掘り出す者はなく寛永通宝2〜3枚出たばかり。共同墓地に遭難者の墓があると言うのでそれを見に行く。三寸余の高さの台石二重の上に、三尺ばかりの高さで八寸角の墓石が建てられている。
 正面には、六字の名号の下に
権四郎、卯兵衛、長右衛門、乙松、幾松、金蔵、吉松の7人の名がほられ、
右側に「文化12乙亥10月9日」
左側には「おぼるとも浮世にたのむ神無月六字にすがれ七人の墓」
とある。
 墓石や文字の摩滅の程度から見て、文化12年より以降のものと考えられる。岡田町内会長宅に記録が残っているとのことで拝見した。
 続いて、川良雄氏の記録に戻ることにする。金の含有について、石 川県工業試験場での銅板分析の結果が出たので報告する。
 1.新しい物でなく、120〜130年も経過したものである。
 2.銅の含有量は99%で、金の量は僅か100万分の3にすぎない。
 3.海中にあって、含有物の溶解も考えられるが、このように高度に銅を含んだもので、金銀の少ないものは裏日本の鉱山では、能美郡の鉱山のものではないか。
 
 以上のことが知らされた。そこで、伝説もとりいれて、次の憶測をしてみた。能美郡の銅山として有名なのは、尾小屋銅山であるが、これは明治12年試掘に始まる新しいものであるから除外される。とすれば、遊泉寺か金平の製品を梯川で船積してきて、安宅港で大阪の八荷屋新兵衛の持船に積換えて出帆直後に、秋の台風に遭遇して、安宅新の波打際で船が沈没してしまった。
 
 墓に書かれている乗組員の中で4人は溺死して同海岸に死骸が上がり、3人は江沼郡の田尻の浜に打ち上げられた、船頭四郎兵衛他11名は九死に一生を得て、海岸にたどりついたものの、船は沈む積荷は流される、散々な目にあってしまった。船をなくした彼等はしばらく安宅新に住んで居たとみえて、今も銅板発掘地点の背後の松原に四郎兵衛屋敷という地名が残つて居る。そして、慈悲深かった肝煎又助の手によって、田尻からの死体も運ばれて、7人の者がここに埋葬され後に、共同墓地に墓が建てられたとされている。
 
 さて、海浜で拾得された船の破片や錨、網など競売に附したが、安宅の人達は落札もせず預かろうともしないので、四郎兵衛はこれを安宅新の村役人に委託して、後に後記の預かり證文と引替にそれらの品物を持ち去ってしまった。船に積まれていた銅板は、重いもの故、水中に沈み四郎兵衛らはこれをあきらめてしまって、大阪に帰ったものと思われる。
 
 こうして、波打際近くに沈んでいたものが、風波のために一部あらわれたのが、元旦の住吉神社詣での帰途、流 木を拾い乍ら岸辺に沿うて家に帰る安宅新町の林氏の目にとまた。これが今日の銅板騒ぎの発端となった。
 
 町の人は、銅板は海浜に埋められていたと言っているが、現地の状況から見て、一箇所にまとめて計画的に埋められたものとは思われない。次に、銅板は、どの銅山のものかと問題が残っているが、金平銅山は天明3年に沢の十村源次が開いたが4年休山、文政3年藩宮として再興されたもの故、年代の上から該当しない。遊泉寺銅山も、安永、天明の頃に埴田の十村半助が採掘して、45年で休鉱していたのが文政3年に藩が復興したものだから、これ亦該当しない。だから、どの鉱山のものとも確定することは出来ない。ともかく、公的記録に海難記録がないにしても、銅板の産地が明らかにされないにせよ、銅板が掘り出されたことそれ事態が事実である。埋蔵文化財に当たらぬが、単なる拾得物とて処理して、一枚位は小松市図書館に保存の途を講ずる方が妥当であると県へ報告を終っておいた。

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