絵は川口月嶺、俳句は於曾此一に学ぶ。 参考(出典):「鹿角のあゆみ」
文政十一年〜慶応四年。十和田町毛馬内の武士で、同町柏崎(通称館)に生れた。 丹治専弥の長男で、家は毛馬内一帯を知行していた桜庭氏の配下で、町では上流 の武家の出である。熊谷姓は母方のものであるが、早くして母を失い、二度も義母 が変わったので、母恋しさに自ら”熊谷”を名乗ったらしい。 少年時代盛岡に出、沢出椿庵(尾去沢出身)の熟に入門、更に長沼流の兵法、宝蔵院流 の槍、新当流の剣、大坪流の砲術を学び、江幡梧楼に漢詩、毛馬内の滝麟趾(玄積)に 俳句を習う教養人でもあった。 絵は川口月嶺に学び、作品は毛馬内にわずかに残るのみであるが、品格を持った豊かな 線をみることができる。 戊辰の後の戦いで、真中の板沢で戦死、そのとき懐中に自筆の「勤皇論」を持参していた と云う。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 勤王思想と時勢論 − 熊谷助右エ門は、文政十一年丹治専弥の長男として生まれ、諱(いみな)は直興、月郷と号した。 母は熊谷氏の出であるが早く亡くなり、二度も義母が変わったので、母恋いしさから熊谷姓を 名乗ったといわれている。 彼は若くして盛岡に遊び、沢出椿庵(尾去沢出身)の塾に入って勉強した。またその弟善平の門に 入り長沼流の兵法を学び、江者(巾偏+者)梧楼について詩法を問い、槍は法蔵院流を今渕氏に学び、 剣は新当流を漆戸氏に習い、大坪流の馬術を戸来氏から、砲術を桜井氏から授けられた。 更に風流を好み、川口月嶺に従って四条派の画を、滝麟趾(りんし)からは俳諧を学んだ。 このように幅広い教養を身につけて、桜庭家の家宰となり忠勤に励んだ。 助右エ門は正直な反面、勇気に富み、幕末の世論紛々の時に当たり、勤王の議を主張し慶応四年六月 「時勢論」を草し、桜庭裕橘家来、熊谷助右エ門直興と署名し南部藩主に奉ったが、いれられず、 まもなく戊辰の戦いになったので、主公に従って出陣し、得意の戦術を展開して戦ったが慶応四年九月二日、 大館市真中の板沢において戦死した。その時懐中に「時勢論」がはいっていたのである。 「時勢論」は「恐れながら謹んで申上げ奉る事」という書き出しで、わが国の尊厳な国体を説き、 朝命を遵奉するの国風に及び、大義名分を明らかにして勤王の大義に殉ずべきだと大所高所から論断した ものである。彼は生前四歳の年下であるが親友の内藤十湾にこれを示してその所感を求めたということだ。 まもなく両人は共に出陣したが、有為の彼は戦死し余は生き残ったのは恥しいと、十湾はこれを詩に 託して彼の死を惜んだ(内藤十湾編「出陣日記」参照)。
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