鹿角教学の祖。 参考(出典):「鹿角のあゆみ」
通称恭助 文化三年毛馬内に生れた。泉沢家は代々桜庭家の家臣で、とくに録泉 (織太)、修斎(恭助)、貞享(熊之助)の三代にわたったので、いわゆるお師匠様と して家塾を開き、郷土の人々の教育に当った。修斎は川口月嶺と交わって絵画をよくし、 また処士小池普蔵に長沼流の兵法を学び、文武両道の教授に当った。 万延元年藩主利剛公が本郡を巡歴した際、修斎は御前において孝経及び兵要録を講じ、 砲術の秘技を供覧したので、賞として金一封及び時服を賜った。 参考(出典):「十和田町の先輩」
恭助は修斎と号し、文化三年十月織太の長男として生まれた。父の没後引きつづき桜庭の家宰となった。 幼い時から父の庭訓をうけ、長じて学を好み、毛馬内周辺の子弟が入門して師匠様として喜ばれた。 従って名士と交わり、大館の中田錦仁、高橋松園、江者(巾偏+者)晩香、盛岡の江者(巾偏+者)梧楼、 川上東巌らと親しかった。また絵画を好み、盛岡の田鎖蘭室や花輪の川口月嶺と交わりその技が大いに 進んだ。また先輩の内藤天爵と共に小池晋蔵について長沼流の兵法を学んだが天爵の没後は、自ら後進 を導いた。熊谷直興、内藤調一らは優秀であった。また花輪からは、栗山新兵エ、大里寿、川村左学、 奈良正敬ら数十名来り学んだ。 万延元年、藩主利剛公が鹿角郡の巡視に当たり、文武の技をご覧のため、恭助が召されて、 孝経及び兵要録を講じ、さらに砲術を実演して賞讃を博した。 明治維新から廃藩置県となり、本郡は江刺県となり花輪に寸陰館が置かれ、修斎はその館長となったが 明治三年病のため没した。三十二年修斎の三十年祭に当たり門人らが碑を建て「修斎先生遺稿」を 出版した。修斎の長女容子は内藤十湾に嫁し、次男熊之助は初代毛馬内小学校長となった。
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