鹿角の近代人物伝 |
泉沢恭助は文化三年十月、織太の長男として毛馬内古町に生まれた。泉沢家は、織太 (禄泉ロクセン)・恭助(修斉シュウサイ)・熊之助(貞享テイキョウ)と三代続けて家塾を開き、代々 毛馬内の御師匠様として多くの人材を育成した家柄である。 また文政五年(1808)、津軽藩主を襲撃した相馬大作が泉沢家の小屋に十三日間も潜伏 していたという逸話もある。 恭助は、幼少の頃より神童の誉れ高く、父の教えを受け、四書五経を学び、長じて学 が大いに進み、修斉と号した。父の家塾を継ぐや、毛馬内周辺の子弟で入門する者が多 く、師匠様として尊敬された。 近隣の学者との交流も多く、大館の中田錦江・高橋松園・江者(巾偏+者)エバタ晩香、 石垣又兵衛(柯山カザン)、盛岡の江者(巾偏+者)エバタ梧楼、川上東巌等と交流し、鹿 角第一の儒者と称された。 また、内藤仙藏(天爵テンシャク)と共に小池普藏に長沼流の兵法を、櫻井起雲に荻野流の 砲術を学び、この分野においても後進の指導にあたった。門人に熊谷助右衛門直興、内 藤十湾、馬渕乙次郎(南渓)、田中茂八郎など優秀な人材がいる。花輪からは栗山新兵 衛が同僚の川村左学、大里寿、奈良正敬ら数十名を勧誘し、毛馬内まできて学んでいる 。 万延元年(1860)藩主利剛の鹿角巡視の際、修斉は召されて孝経と兵要録を講じてお り、さらに門弟等と荻野流砲術を実演して賞讃を博した。 このほか修斉は絵画も好んで、盛岡の田鎖蘭室に学び、花輪出身の川口月嶺とも親 交があって、その技は趣味の域を脱していたといわれている。修斉の習作は、毛馬内の 田中家に所蔵されており、先人顕彰館で借用保存している。 明治維新後、廃藩置県が行われ、鹿角が江刺県に編入された明治三年、県が寸陰館 スンインカンを設け、花輪に分館を置いた。この時修斉が花輪詰を命じられ、寸陰館舎長とな った。既に老齢で持病もあったが、名字帯刀・馬上出勤を許されている。しかし益々健康 を害して、分館舎長を辞した同年十月十三日、享年六十五歳で病没した。 |