鹿角の近代人物伝 |
小笠原達トオルは大正十二年四月一日、三春・ツルヨの次男として大湯川原ノ湯に生まれ た。 当時この地区には、小坂鉱山止り滝の宿舎の一室に開設された同鉱山診療所に、老年 の代診がいるだけだった。毛馬内小笠原医院から小坂鉱山病院院長に迎えられていた小 笠原季治は、大湯にも病院を創立することを決意し、宮城県北浦村から末永三春(東北 大学出)を、長女ツルヨの婿養子に迎え、大湯小笠原医院を独立させた。毛馬内の小笠 原医院は、三春の長女静セイを養女とし、跡を継がせた。三春は温厚篤実で、急病人があ ると、どんな深夜でも気軽に馬で往診し、地域の信頼が厚かった。 達は大館中学を経て二高に進み、東北大学の黒川利雄博士の下で学び、昭和二十五年 同大学を卒業した。最初、大館病院内科医として勤めたが、二十八年には東北大学附属 病院鳴子分院助手に任命された。ここで同大学名誉教授となった杉山尚と運命的な出あ いとなり、杉山教授の秘蔵弟子として懇切な指導を受け、温泉医療の道に進んだ。 同三十一年医学博士となり、鳴子病院では消化器病の権威として将来を嘱望されてい た。翌年、父三春の死にともない、地域医療と学問研究のいずれを取るか迷ったが、断 然名利を捨て、父や祖父の志を継ぎ、大湯医院院長の道を選んだ。五十三年杉山教授と 共に西ドイツなど施設の完備したヨーロッパの保養温泉を視察、五十四年七月、それに 劣らない温泉病院大湯リハビリ温泉病院を創立した。 その後幾多の困難もあったが、大湯を温泉保養のメッカにしようとの情熱と努力によ り、着々と施設を拡充した。そして苦心経営の結果、全国にもまれに見る百五十余床の 大病院に成長させたのである。現在も(秋田)県内外からの入院患者・通院患者三百数十 名が、進んだ設備で快適な療養生活を送っているのは、全く達の温泉医療にかけた努力 のたまものである。 平成二年六月二十八日、不幸病魔に侵され、六十八歳の生涯を閉じた。もう十年の歳 月を与えたならばと、その早世を惜しまれている。 最後に創立されたデーケア室は、全国的にも希に見る施設であり、今後温泉医療をに なうものである。 |