鹿角の近代人物伝
 
…… 鹿角の近代教育の大先達 ……
△川村左学   天保十二年(1841)〜大正二年(1913)
△川村才太郎   文久三年(1863)〜昭和五年(1930)
 川村左学 は天保十二年十一月三十日、花輪南部(中野)氏の家老右学の長男として花 輪横町に生まれた。三歳で父と死別し、叔父川村寛平について漢書の素読を学んだが、 幼少の頃から英才の誉れが高く、常に衆を抜いていたという。
 長じて花輪南部家家老となり、幼君のお守り役を兼ねた。さらに盛岡へ出て、作人館 の塾頭江者(巾偏+者)エバタ梧楼ゴロウに儒学や長沼流の兵法を学んだ。数年にして花輪 に戻り、私塾を開き、子弟の教育に専念した。また一方では、大里寿と毛馬内の泉沢修 斉に入門し、長沼流兵法、桜井流砲術を修めた。
 
 明治七年、近代学校創立に備えて、秋田伝習学校に学び、鹿角の教員の養成にあたっ た。同年三月、鹿角で最初の花輪学校創立とともに初めての教員となった。
 十年の西南戦争においては、戊辰戦争にも参加した左学は、率先して同志を募り出陣 している。帰郷後、一等訓導に任ぜられ、花輪学校校長となった。のち郡内の教員養成 にあたり、大里、谷内、三ケ田、尾去沢、柴内学校長を兼務して多忙をきわめた。十九 年、学区制が廃止されて兼務校長の職をとかれ、四十六歳の若さで退職した。その後は 町議として政治に貢献し、晩年は詩歌・俳句を楽しんだ。花輪桜山の戊辰戦争招魂碑 の漢詩は、左学の作である。大正二年九月二十三日、七十二歳をもってその生涯を閉じ た。
 
 その子才太郎は文久三年十月十六日、左学の長男として横町に生まれた。性格は後に 至るまで聡明篤実、多くの人に敬愛された。明治九年、秋田に中学校が設置されるや、 石田八弥、大里文五郎等と共に入学し、その後師範学校に転じた。
 十四年明治天皇の東北巡幸に際しては、御前に於て生財論を講じ、賞詞を賜り、十五 年花輪小学校訓導となった。のち藤琴・本荘市の鶴舞等に転じ、由利教育会の創立などに 貢献するところ大であった。
 時の教え子真田幸憲法コウケン(後の奈良女子高等師範教授)はその学徳を慕い、生涯音 信を欠かさなかった。同二十二年から大正四年まで三十年間、校長であった。昭和五年 二月二日六十八歳で病没している。
「鹿角の碑文探訪:顕彰碑」

[次へ進む]  [バック]  [前画面へ戻る]