鹿角の近代人物伝 |
治右衛門は天保十一年十二月十二日、治兵衛定直の長男として花輪六日町に生まれた 。父治兵衛は花輪の酒屋大和屋の家政一切を取り仕切っていた。 文政の初め頃、大和屋の初代小田島右平太が武士なったのを契機に、治兵衛は酒造業 を譲られ酒屋となった。 その後、治兵衛は度々の献金によって士分(さむらい)を得ている。 武士となった初代の後を継ぐ二代目右平太は、山口流剣法の免許皆伝を受けた、鹿角 有数の剣士で、酒屋の治兵衛は二代目から剣法を学び、治右衛門にも山口流剣法を伝え た。 父から剣法を教えられた治右衛門は長じて江戸に登り、神田お玉ケ池にある北辰一刀 流の達人で幕末の三剣士といわれた千葉周作の道場に入門した。修業すること四年、治 右衛門は剣の道を学び帰郷し、酒造業を営むかたわら、邸内に四、五間に八間の道場を 建てて、武術の鍛錬につとめ、熱心に門人の指導にあたった。道場は大人の有段者が百 数名、さらに一般青年、学童も稽古に通うという盛況ぶりで、門下生には児玉道場で名 をとどろかせた児玉高慶(別掲)もいる。 また、治右衛門は戊辰戦争において南部藩花輪隊鉄砲方をつとめ、十数名を引きつれ 奮戦し、勇士としての名声を博している。 小田島道場は明治に入ってからも着々と実績をあげており、四十三年十月、時の秋田 県知事森正隆は、治右衛門に名誉師範の称号を贈って、その業績をたたえている。 さらに治右衛門は四十二年八月、押されて花輪町長となり、温建清廉な町長として信 望も厚く、また、明治の末期には、アラビア馬を導入し、畜産改良にも功績をあげてい る。 治右衛門の長男陽之助は、東京郁文館に学び、かたわら名剣士榊原健吉より剣を学ん で、明治天皇の御前で兜の試し切りをご覧に入れて、賞賛を博している。 治右衛門は大正三年一月にその生涯を閉じたが、鹿角剣道の興隆に尽くした功績は永 遠に輝くことであろう。 |