鹿角の近代人物伝 |
奈良靖規ヤスノリは明治三十年十月二十五日、奈良吉太郎の長男として大湯上の湯に生ま れた。父吉太郎は三十一年創設された花輪准教員養成所(準備場)で教育学の講師を勤 めた思想家であった。その教え子には伊東良三、高橋克三などがいる。 靖規は幼少のころから父に従って各地を転々し、のち毛馬内準備場に進み、さらに秋 田師範学校に学んだ。学校では教育、哲学、語学、音楽にすぐれていた。 大正六年同校を卒業し、山本郡の切石小学校に赴任した。時の校長は大湯出身の曲田 慶吉(別掲)だった。靖規はここで世界の新教育運動の思想やフランスのベルグソンの 生命哲学を学んだ。八年、十二所の成章小学校に転じ、新教育の実践にはげんだ。得意 の語学を駆使して、アメリカの図工教科書八巻やジョンソン著の「児童の歌声指導法」 翻訳、研究誌に連載した。いずれも当時の教育界に大きな反響をまきおこし、ジョンソ ンの著は「音楽教育家の羅針盤」とも評価されている。この本は中山晋平の手で出帆さ れる予定であったが、関東大震災で原稿を焼失、出版中止の止むなきにいたっている。 また十三年には、全県(秋田県)の同志を糾合して雑誌「美の教育」を創刊した。靖規 が二十六歳の時である。 その後、東京に出向し、富士小学校に勤めた。ここでも情熱をもって生徒を指導、同 校の名を高らかしめた。また、ウォッシュバーン・ラッグ博士来朝には、公立学校を代表 し授業を提供、説明役をしている。昭和八年崎門学の内田周平に入門し、十一年には東 北で唯一崎門学者の免許を許されている。 同年八月富士小学校を退職して、三友社に入社し、編集長として「御民の教育」を創 刊した。また参謀本部嘱託を命ぜられ、「総力決戦論」などを著している。この間、崎 門学の塾を開設し、十九年には高清水道場長に推されている。 戦後は大湯町公民館長、大湯町・十和田町教育長として、地域教育改革を推進した。公 民館在職中は、鹿角産業文化研究会を創立し、観光みやげ品の開発にあたった。同四十 四年には勲五等瑞宝章を受けた。六十年四月三十日、八十八歳の生涯を閉じている。 |