鹿角の近代人物伝
 
…… 東北有数の文化人 ……
△諏訪冨多   明治十六年(1883)〜昭和五十六年(1981)
 諏訪冨多は明治十六年一月一日、音治・奈美の長男として大湯に生まれた。曾祖父の代 に財を築いた諏訪家は、代々進取の気性に秀れ、明治初年には郡内第二の大地主となっ ていた。
 
 少年時代物心共に恵まれた家庭に育った冨多は、毛馬内小学校高等科を卒業し秋田中 学校に進んだが、夏休み中、親戚木村某、弟綱俊と遊戯中、左眼を失明した。後、上京 して郁文館中学に学び、土井晩翠より英語を学んだ。さらに三十四年金沢第四高等学校 に進み、哲学者西田幾太郎に独語哲学の指導を受け、三十九年東大では西洋哲学を修め た。
 四十二年には、平田篤胤より三代目盛胤の次女廣女と結婚した。秋田弥高神社の平田 篤胤の資料は、(冨多)翁の力により秋田に移されたものである。
 
 同四十三年、前途有為の哲学士として郷里に戻り、農業指導、地域開発に専念するこ とになった。四十四年毛馬内大湯間の新道の完成に尽力し、大正三年には十和田湖景勝 顕彰のため、発荷峠までの新道実現に努力している。
 七年、小坂鉱山の煙害で苦しむ七滝村の農家五十一戸の救済のため、私財を投じ て、人跡未踏の大清水の原始林百五十三町歩を開拓し、武者小路実篤の新しき村に優る 、理想郷の建設に力をそそいだ。これが後に、ここを通る国道大館八戸線の実現へとつ ながっていったのである。
 
 昭和七年、中通環状列石(現在の大湯環状列石)が発見されると、大湯郷土研究会を 組織し、会長としてその顕彰に努力した。(国の)特別史跡指定は、翁の力によること 大である。
 さらに十和田高原神都論を展開し、学会の注目を浴び、その実証考証のため、数万枚 に及ぶ論文を書いている。
 一方、地元産業の育成のため、自ら「大湯ホテル」を建設して、十和田湖への要路を 宣伝する他、多方面にわたる土産品の開発をも手がけている。
 
 晩年には、大学誘致や北奥羽開発を提唱するなど、その壮大さは眼を見はるものがあ る。さらに、詩や歌をもたしなみ、霊泉と号して書画もよくするなど、稀有の文化人で あった。同五十六年四月二十九日、九十九歳の天寿を全うして永眠した。

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