51 鹿角の人々は蝦夷アイヌ人か蝦夷日本人か
 
             参考:(株)平凡社発行工藤雅樹著「蝦夷の古代史」ほか
 
〈縄文時代(縄文人)に起因する蝦夷アイヌ説と蝦夷日本人説のこと〉
 東日本・北日本のうち、蝦夷の世界でなかった阿武隈川の河口、信濃川・阿賀野川の河
口以南の地域の古代文化の変遷の仕方は、わが国古代史の最も典型的な形である。即ち
縄文時代の次には弥生時代の文化、古墳時代の文化、飛鳥・奈良・平安時代の文化へと推
移し、この地域の縄文人の子孫は各段階の変遷を辿った後、中世東日本日本人、近世東
日本日本人、近代・現代日本日本人へと繋がった。
 注:「蝦夷」とは、古代の奥羽地方から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして
   大和朝廷に服従しなかった人びとのこととされる。
   「蝦夷」の読み方について、七世紀の半ばまでは毛人エミシと表記しており、その後
   蝦夷エミシへと変わり、平安時代の末近くになって蝦夷エゾと読むようになった。
   [詳細探訪(蝦夷の読み方)] [詳細探訪(蝦夷とは何か)]
 
 一方、縄文文化の世界の最も北に位置する北海道では、北海道縄文人の子孫は、何段
階かの文化の変遷を辿った後に、アイヌ文化の担い手、即ちアイヌ民族になったのであ
った。そして北海道の南に接する東北地方北部の場合は縄文時代以来、北海道、特に道
南地方とは類似する文化の変遷を辿っており、弥生時代に一時的に稲作を受け入れたこ
とがあったとは云え、それもそのまま普及定着したのではなく、七世紀頃までは北海道
に中心のある続縄文文化の圏内にあった。
 注:「続縄文文化」とは、本州の弥生・古墳時代に北海道に見られる文化で、北日本の
   縄文文化の伝統を受け継ぎ、独自の採集経済社会を形成した。奈良時代に擦文文
   化に変容して行く。
 
 その後この東北地方北部の地域では、再度稲作が行われるようになり、土師器の文化
が見られるようになったものの、盛岡市と秋田市を結んだ線から「北」の部分は、平安
時代の末近くまで、政府の直接支配が及ばない「地域」であり続けた。しかし、政府側
の政治的・文化的・経済的な影響はこの地域にも強く及んでいたのである。このような状
況は、北海道の擦文文化社会でも大きな差異はなく、東北地方北部と北海道の文化状況
には、なお決定的な差は見出しにくいと云う状態であった。
 注:「擦文文化」とは、8〜13世紀に北海道全域と東北地方北端に見られる文化で、擦
   文土器を指標とする。北海道特有の続縄文文化に、当時の本州の文化が刺激を与
   え、成立したものである。石器は消滅し鉄器が普及、農耕も行われたが、狩猟・漁
   労に生活基盤を置いた。近世アイヌ文化の先駆であるとされる。
   擦文とは、土器の表面を木片などで擦コスったときに付いた、刷毛目状の痕跡を云
   う。
 
 しかし、平安時代の末から鎌倉時代以降は東北地方北部も、平泉藤原氏、そして鎌倉
幕府の支配下に入って、政治的にも文化的にも著しく日本化し、この地域の住民は日本
民族の一員に組み込まれることとなったのである。
[次へ進んで下さい]