[詳細探訪]
 
               参考:(株)青木書店発行阿部義平著「蝦夷と倭人」
 
〈蝦夷とは何か〉
 日本史に出てくる「蝦夷」は、この日本列島の北半に古くから住んでいた人々を指す
用語であり、普通は「エゾ」と読む。その読み方は、平安時代末から江戸時代まで約千
年間続いたのであるが、更に遡った古代の約500年間の蝦夷を「エミシ」と読むことが出
来る。これらは各時代の読み方に従ったものだが、何故そう読むのか、またその読み方
の意味、また何故読み方が違ってきたかも、納得出来る説明が出来ていない。各時代の
人々が、東や北の人々を指した実際の呼び方に、蝦夷の字を当てたと見るべきもので、
漢字からは「カイ」と読む他はないであろう。然もこの人々に蝦夷の字を当てる以前に
は、毛人の文字を当てて「エミシ」と読んでいた。このような「エミシ」とは一体何者
であったのであろうか。
 
 「エミシ」を歴史の書物で探ると、『日本書紀』の神武紀に「えみしを一人、百モモな
人、人はいへども、たむかひもせず」と云う久米歌に出てきて、そこでは「愛瀰詩エミシ」
と書かれている。伝承された歌であろうが、「エミシ」には本来雄武な人を指す意味が
含まれることが了解出来る。7世紀に倭国の大臣になった蘇我蝦夷ソガノエミシを始め、奈良
時代までの少なからぬ人名に蝦夷が使われている点からも、そこには少しも卑賎の意味
が無かったことが分かってきた。
 倭国の有名な五王の武が、中国南北朝の宋の国に出した上表文には、倭国が征服統合
したうちの東方五十五国の人々を毛人としている。この毛人も、矢張り古代の人名に使
われていて、同じ人の名が蝦夷で適用することが見られるので、これが「エミシ」に当
てた最初の書き方であったと考えられる。とすれば、5世紀以前から東方の人々は「エ
ミシ」と呼ばれていたことにもなる。
 
 その後、中国の唐の国の歴史書の一つである『旧唐書クトウショ』では、倭国の東や北の国
境にある大山の向こう側に毛人がいると記録がある。これは倭国の使いの申し立てによ
る記事と見られるので、倭国では古くから東方や北方に毛人がおり、その毛人には倭国
内に統合された毛人と国外の毛人がいたことになる。
 斉明天皇五年(659)に、この人々が倭国の使いと共に唐朝を訪れており、この時に唐
朝側は公式にこの人々に蝦夷の文字を当てて記録し、呼んだことが知られている。毛人
の文字が蝦夷の文字に切り換えられる契機になった出来事と見られる。
 国内に組み込まれた倭国の領域内では、文化や人間形質までも同質化が進められる側
面があり、東方の人々を「エミシ」と呼ぶことは少なくなって行く。しかしそれでも平
安時代以降にも、東国の武者達を東夷アズマエビスなどと読んだ由来がそこにあると云われ
ている。
 
 律令国家が形成された奈良時代前後、「エミシ」は国の東や北の縁辺地帯やその外側
に住む人々、現在の東北地方の中程から北海道方面までの広い地域の人々を指すように
なった。律令国家内の戸籍に載せた公民とは異なる人々であった。この時代、「エミシ
」との間には平和な交流や交渉も盛んにあったが、反面では蝦夷の居住地に日本国の領
域を拡大したり、広く権威を示すための硬軟取り混ぜた交渉と、それに伴う戦争が断続
的に起こされた。今でも東北地方には、多賀城跡を始め、広大な古代城柵の遺跡が沢山
残っている。この時代には城柵が次々に造られ、その城柵が落城した焼かれたり、城柵
の北の「エミシ」の村々が焼かれるなど流血の歴史が展開した。このことは、今では実
感しにくいが、正しく歴史上の事実なのである。日本国と蝦夷の二つの勢力が、いわば
総力戦を闘い、9世紀に入って「エミシ」は遂に屈服した。
 
 この結果、国域は本州島の北端部まで押し広げられたが、「エミシ」はその後も北方
の住民の大部分を占め、反乱などを通じてこの地域の動向を左右するに至っている。ま
た降伏した「エミシ」の一部は、国内各地に移住させられたりしたので、日本人の遺伝
形質には西日本をも含めて、「エミシ」に辿り着く部分があると見られるのである。
 
 俘軍と云う傭兵部隊が編成される程、武力を持っていた「エミシ」達の居住地は、奈
良時代以降も東北地方北半から北海道を含めた広大な地域を占めており、蝦夷国と云う
表現をされることすらあった。「エミシ」の領域より更に北方に、考古学者がオホーツ
ク文化と呼ぶ広域文化が形成され、その人々は律令国家側から「アシハセ」と呼ばれ、
海獣狩猟を含めた特異な生業を繰り広げていた。そのオホーツク文化についても最近調
査が進展し、古代に日本国や大陸の国などと交渉を持っていたことなど、その内容が判
明しつつある。
 
 「エミシ」は戦争に敗れた結果、降伏した人々の意味の「俘囚フシュウ」と呼ばれるよう
になり、現在の津軽海峡辺りで実質的な取扱いが分けられ、南は日本国に取り込まれ、
北は北海道島を中心に日本国内とは別の擦文サツモン文化を発展させ、オホーツク文化との
交流や融合を経て、日本国の側から「エゾ」と呼ばれる文化とその領域を形成して行く。
 時代が遥かに降って、18世紀後半から19世紀にかけての国際的緊張関係のうちで、近
代日本の国域を定めるとき、「エゾ地」と呼んでいた地は、それまでの繋がりもあって
日本国の領域となり、アイヌと云う民族文化と歴史を持った人々が、この地の住民であ
ることも漸く明瞭になった。こうした永い経過からすると、「エミシ」はアイヌ民族の
文化が形成されるよりも古い時代に、列島北部のより広い一定の地域に広がっていた人
々で、古代の日本国家との間で戦争を含む緊迫した交渉を持った人々と云うことになっ
てくる。
 「エミシ」と呼ばれた人々の文化は、何時、どのように形成され、古代の日本国やそ
の住民とどのような交流や関係を持ったのであろうか(下略)。
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