盛岡市と秋田市を結んだ線より「南」の地域は、平安時代の初期までに城柵が設けら
れ政府の直轄支配の手が及んだ。この地域のうち、太平洋側では例えば仙台平野及び大
崎平野では、弥生時代から古墳時代にかけての文化のあり方は、阿武隈川の河口以南と
は殆ど差はなかったが、この地域は国造制の時代に遡って、朝廷の直接の支配の外の地
域にあったので「蝦夷エミシ」の世界とされ、大化以後に城柵が設置され、政府の直接支配
地に組み入れられたのである。しかし、この地域は文化的には阿武隈川の河口以南の地
域と殆ど同じ伝統の下にあったので、奈良時代の末以前に、蝦夷の世界であるとの認識
が殆ど無くなっていたようである。
 注:「柵(城)キ」とは、敵を防ぐための垣・堀などの構築物(城塞とも)のことであ
   る。
   大化改新後、従来からの国造制(国クニ)の外の地域に城柵を置き、城柵を中心に
   郡コホリを設定して、地域支配を行う拠点とした。
 
 一方、宮城県大崎平野から更に北では、盛岡市と秋田市を結んだ線より南の地域に平
安時代初期までに城柵が設置され、政府の直接支配地に組み入れられても、簡単には蝦
夷の世界であると云う標識レッテルが剥がされることはなかった。より北の地域と共通する
文化伝統によるものであろう。であるからこの地域を拠点とした安倍氏が滅亡した「前
九年」の合戦、清原氏の主流派が滅亡した「後三年」の合戦が、ある部分で「蝦夷との
戦い」と意識されたのもこの点と関係があると思われる。しかし、この地域も平安時代
末には平泉藤原氏の拠点となり、盛岡市と秋田市を結んだ線以北に先がけて日本化した
のである。
 注:「前九年の役」とは、源頼義・義家父子が奥羽地方の豪族安倍頼時とその子貞任・
   宗任らを討伐した戦役。平定した1062年(康平5)まで、実際は12年に亘って断続
   した。後三年の役と共に源氏が東国に勢力を築く契機となる。
   「後三年の役」とは、奥羽の清原家衡・武衡と一族の真衡らとの間の戦乱で、前九
   年の役に続いて1083年(永保3)より87年(寛治1)の間に起り、陸奥守源義家が
   家衡らを金沢柵カネザワノキに攻めて平定した。
 
 つまり阿武隈川、信濃川、阿賀野川の河口以北の縄文人の子孫は、地域によって程度
の違いはあるものの、途中までは北海道の縄文人の子孫と歩みを揃えていると云う色合
いが強かったが、徐々に阿武隈川、信濃川、阿賀野川の河口以南の日本人と同じ色合い
を強めて行った。
 
 前述のようにエミシ・エゾと云われる人々や、エミシ・エゾと云う語の意味するものは、
時代によって異なるのである。そして平安時代の末に近くなって、蝦夷の読み方がエミ
シからエゾに変化すること、ほぼ同じ頃に東北地方北部の大部分の地域には郡制が布か
れ、朝廷の直轄支配地に準ずる扱いになり、それ以後は朝廷の直轄支配の外の住民と云
えば、基本的には北海道の住民に限られることになった。そのように考えると、古代の
蝦夷と中世以後の蝦夷、即ちアイヌは決して不連続ではないことが云えるのである。
 
 古代の蝦夷のうち、史料に多く出てくるのは東北地方北部の住民であるが、北海道の
住民もまた蝦夷の範疇に含まれていた存在であった。その中の東北地方の蝦夷は、平安
時代の末までは政府の直接の支配の外にあって、蝦夷としての実態を有していたのであ
るが、平泉藤原氏の時代あたりから政府側の直接の支配が及ぶようになり、更に鎌倉時
代になると幕府の支配が東北地方北部まで及んで、蝦夷としての実態を失い、日本民族
の一員となった。
 
 ここの至って、中央政府の直接支配の外にあって蝦夷としての実態を保ち続けたのは
北海道の住民のみとなったのである。このように考えれば、古代の「蝦夷」と中世以後
の「蝦夷」がエミシとエゾと云う発音の違いはあるものの、文字の上で連続するのは、
寧ろ当然のことと云うことにもなるのである。
 
 このように考えるならば蝦夷アイヌ説と蝦夷日本人説の対立は解消してしまい、古代
の蝦夷はアイヌなのか日本人なのかと云う問題設定そのものが、意味をなさないことに
なるのである。アイヌ民族も日本民族も、長い間の日本列島を舞台とした歴史の中で成
立したもので、超歴史的な存在ではなかった。
 
 古代の蝦夷とは、日本民族とアイヌ民族成立の谷間にあって、北海道の縄文人の子孫
と共に、アイヌ民族の一員になる可能性も十分にあったのであるが、歴史の展開の中で
アイヌ民族の一員となる道を採らずに、或いは阻まれ、最終的には東日本日本人の一員
に組み入れられ、歴史的には最後に日本民族の一員になった人達である、と云うことに
なろう。
 名所歌枕:錦木塚
 縄文前後
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