52 俘囚と鎮兵のこと
 
             参考:(株)平凡社発行工藤雅樹著「蝦夷の古代史」ほか
 
〈俘囚フシュウとは〉
 俘囚とは、囚トラわれた人(虜トリコ・俘虜フリョ)のこと意であるが、朝廷の支配下に入り、
一般農民の生活に同化した蝦夷エゾのことを特に俘囚と云う。同化の程度の浅いものは、
夷俘イフと呼んで区別せられた。
 注:浮浪フロウとは、さすらうこと・さまようこと(流浪)の意であるが、律令制におい
   ては本籍地を離れた者を浮浪・浮浪人と云う。
 
 蝦夷(前項を参照)を東北地方から他の地域へ強制移住させたことについては、平安
時代になってからの事例がよく知られていると云う。しかしながら、蝦夷の他地域への
強制移住は、平安時代に限ったことではなく、古くからの伝統に従ったもので、奈良時
代以前から行われていた。
 例えば『続日本紀』の神亀二年(725)閏正月の条には、陸奥国の俘囚144人を伊予国
に、578人を筑紫(九州)に、15人を和泉監イズミノゲン(現在の大阪府和泉市周辺)に配置
したとある。俘囚を筑紫に配したと云うのは、大宰府に送ったと云うことで、大宰府で
は更にこれらの578人を九州各地に割り振ったものと考えられている。
 その他の例としては、正倉院に収蔵されている『駿河国正税帳ショウゼイチョウ』、『筑後国
正税帳』などにも、俘囚が陸奥国から筑後国などに送られたことが記されている。
 
〈鎮兵チンペイとは〉
 鎮兵とは、奈良時代から平安初期にかけて、諸国から徴発し、陸奥・出羽両国の守備に
遣わされた兵士のことである。
 注:因みに防人サキモリ(崎守サキモリ、すなわち辺土を守る人の意)で、 古代に多くは東国
   から徴発されて筑紫・壱岐・対馬など北九州の守備に当った兵士である。令には3年
   を1期として交替させる規定があった。
 
 例えば、天平五年(733)に出羽柵が現在の秋田市にある「秋田村高清水岡」に遷され
た。この秋田の出羽柵が、後には秋田城と呼ばれるようになった。
 これに先立つ和銅元年に、大崎平野(宮城県古川市付近)とその周辺には、幾つかの
城柵が築かれ、諸柵には鎮兵などが配属された。鎮兵として常陸、上総、下総、武蔵、
上野、下野などから騎兵1000人が動員されたと云う。
 天平九年には、出羽国大室駅オオムロノエキ(山形県尾花沢市東部)にも大量の鎮兵などが派
遣されたと云う。そして雄勝村(秋田県)へ軍を進めようとしたが、雄勝村の「俘長」
ら三人の申し入れを受けて、強行突入は見送られたと云う。
 
 その頃「蝦夷の地」である鹿角には、俘囚となって故郷を去った人々や、鎮兵として
やってきて定住した人々があったのでしょうか。
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