[詳細探訪]
 
               参考:(株)平凡社発行工藤雅樹著「蝦夷の古代史」
 
〈蝦夷の読み方 − 「エミシ」から「エゾ」へ〉
 初めに「エミシ」と云う古語があり、それに対して初めのうちは「毛人」と云う漢字
を当てたのであるが、次の段階になると「蝦夷」と記すようになり、最終的には「蝦夷
」の読みが「エミシ」から「エゾ」に変わったと云うことになる。
 この変化のそれぞれの段階について、著者(工藤雅樹氏)は次のように分かりやすく
明快に解説している。
 なお「エミシ」という語は平安時代末以後も、「エビス」と変形した姿で後世まで生
き残った。
 
△第一段階 − 「エミシ」が東国人を広く意味した時代
 第一段階はほぼ五世紀以前である。この段階では大和朝廷の勢力は、一応は関東地方
から更には途方九地方の南部まで及んでいたが、なおそれは安定したものではなく、時
によっては大和の王族や重臣が遠征に出て、地方の勢力と戦うこともあり、「エミシ」
と云う語は時には大和の勢力と戦うこともあった東国人を広く意味した。
 この段階の「エミシ」と云う語には、強い人達、それ故に「些イササか敬意を払うべき人
達」と云う意味合いニュアンスがあった。「エミシ」に「毛人」と云う漢字が当てられること
になるのは、この段階においてである。「毛人」の表記が初めて見えるのは倭王武の上
表文(国書)であることからすると、五世紀の頃に東アジアの複雑な国際関係を背景に、
「毛人」と云う漢字表記が行われるようになったと考えられる。
 
△第二段階 − 朝廷の直接支配の外の人達が「エミシ」と呼ばれた時代
 第二段階はほぼ六世紀から七世紀の前半である。この段階では日本海側では信濃川・阿
賀野川の河口以南、太平洋側では阿武隈川の河口以南の地域に国造クニノミヤツコ制と云う地方
制度が行われ、この範囲では大和に敵対する勢力は、基本的には存在しなくなった。そ
こでこの段階でなお時には朝廷の軍とも戦った「エミシ(毛人)」は、国造制が行われ
た地域の更に外側の住民と云うことになった。
 この段階の「エミシ」の主流は、仙台平野など東北地方中部の人達である。仙台平野
に代表される東北地方の中部の地域では、弥生時代以来水田稲作が行われていた。ここ
では弥生時代特有の石包丁イシボウチョウ(稲の穂を摘み取るための道具)や蛤刃石斧ハマグリバ
セキフなどの大陸系の石器や、鋤・鍬を始めとする木製の農具も普遍的に発掘され、東日本
型の弥生文化の展開が見られる。また古墳時代には全長170mの大型の前方後円墳である
名取市雷神山ライジンヤマ古墳を始めとする多くの古墳も造られており、文化伝統の上では阿
武隈川河口以南の地域と差が見られない。
 
 従ってこの段階での「エミシ」と云う語は、なお、「強い人達、恐るべき人々、けれ
ども些か敬意を払うべき人達」と云う意味合いが含まれていたものの、それに加えて朝
廷の直接支配の外の人達と云う語義が強く意識されるようになっている。この段階の「
エミシ」と云う語の意味するところは「強い人達」と云う点も然サる事ながら、朝廷の直
接支配の外、即ち国造の「国」が置かれなかった地域の人達と云う意味合いの方が強く
意識されるようになったのである。しかしこの段階の「エミシ」と云う語には未だ異文
化の担い手と云う意味は殆ど無かったと思われる。
 ただしこの段階の「エミシ」が朝廷の直接支配の外の人達であると言っても、朝廷と
「エミシ」との間に接触・交流が無かった訳ではない。そのことは、やや希薄ながら「エ
ミシ」の地域にも古墳が存在し、都からもたらされたと思われる、例えば頭椎大刀カブツチ
ノタチのような出土品があることからも知られる。
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