炎と水

 

「おお」
 とうめくシャダーイルの下で、異様な感触がうごめいた。
 ひきつぶされた赤子の肉体がゆらめきながら輪郭をくずし──まぼろしのように、その存在をうすれさせはじめた。
 透明にうすれながら拡散する。
 流れる水のように。
「これは……」
 ぼうぜんとうめくシャダーイルの下からぬけ出して、うすれた輪郭がのびあがり、さらに膨張した。
 わずかに青みがかった半透明の肉体が、天のように立ちはだかって黒い巨魔を見おろした。
 見おろした、としか表現しようがない。
 たとえその存在に、目らしき器官がどこにも見あたらなかったとしても。
 そのとき初めて、シャダーイルを恐怖が支配した。
 背をむけて、逃げようとした。
 果たせなかった。
 見えぬ手が、ふわりとシャダーイルの背中をなでた。
 瞬間──黒い巨体が塵と化して風に散った。
 あとには影ひとつ残らなかった。
「おお……」腰をぬかして一部始終をながめやっていたガレンヴァールがつぶやいた。「あれが究極の形態か」
 ぼうぜんと口にする。
 実体があるともないともつかぬ、小山のようなまぼろしの獣が、そのつぶやきにこたえるようにおだやかに視線を向ける。
 もはやそこには──妄執も邪悪も、存在してはいなかった。
 ただ、とてつもない危険があるだけだった。
 無垢ゆえの危険、とでもいえばいい。
 それはすでに、おのれが何のためにどのようにして生まれてきたのかさえ自覚してはいまい。
 ただまさに生まれたての赤ん坊のようにうつろに、ひたすら無邪気に、そこにあるだけだった。
 問題は、その無垢な存在が世界を震撼させるほどの力を内包していることだろう。
 見えぬその体内で、いましもあふれ出んばかりに逆まき荒れ狂う強大な力を感知して、ガレンヴァールは背筋を凍らせる。
 この存在が外界にまろび出せば、暗黒神の目覚めを待たずして世界はゆっくりと、滅ぼされていくにちがいない。
 赤ん坊のはいずったあとに残された廃虚を思い、邪法師はごくりと喉をならす。
「よかった……あんなもん飲まなくて……」
 心の底から、そうつぶやいた。
 そんな邪法師に向けて──
 出現したまぼろしの獣は、ゆらりと前進した。
 姿さえさだかならぬおぼろな存在の、圧倒的な力が噴きつけてくる。
 焼けるような熱風とも、凍って砕けおちそうな冷気とも思えた。
 おぼろに吹きつける吐息のようなものでさえ、それだけの力を内包しているのだった。
 冗談じゃない、とうめきながらガレンヴァールは、そのころころとしたからだを手だけでいざらせる。
 無垢の視線でそんな邪法師のぶざまな姿を追いながら──まぼろしの獣は、さらに一歩をふみだした。
 あまい芳香が、ふ、と邪法師の鼻先をかすめて過ぎた。
 それが前哨であったのか──臓腑をうらがえすほどに強烈な腐臭が、どっと襲いかかってきた。
 たまらず、げぼ、とへどを吐いた。
 刺激に粘膜が反応して、涙と鼻水もふき出した。
 荒れ狂う狂気の兵隊が粒子と化して体内に侵入したかのような悪寒が、腹の内部で暴虐の嵐を吹かせた。
 凶悪な悪寒であった。
“息子たち”で顕現した不快感とは、比ぶべくもない壮絶さだった。
 これは研究課題だ、と呑気な感想を抱きつつ、邪法師はなすすべもなくのたうちまわった。
「ひどい。死んだほうがましだ」
 のたうちながらうめいた。
 こたえて心地よいひびきの声音が耳にとどいた。
「だったら、ぜひ死んでいただきたいわね」
 身をおしもんで吐きつづけながら、邪法師は視線をあげる。
 悪夢の風をおし戻す、見えぬ壁をはりめぐらせて、アリユスとシェラ、そしてダルガがそこにいた。
「ひどいぜ、風のアリユス」必死のていで通り名を口にし、ずりずりと小太りの邪法師は結界めがけてはいずった。「わしも入れてくれ」
「かわいそうだけど、ダメ」
 と、うれしげに笑いながらアリユスが宣告した。
 情けなげに涙と鼻水まみれの顔をゆがめるガレンヴァールを、シェラだけが気の毒そうにながめやる。
 ダルガは一瞥さえくれず、額に縦じわを刻んで瞑目したまま、結跏趺坐して微動だにしない。
 何かを懸命に念じている姿であった。
 すずしげに笑いながらアリユスがいう。
「お気の毒だけれど、いまはあなたなんかにかまっているヒマはないの」あなたなんか、の、なんか、にとりわけ力をこめた。「それに、あなたのような人だって、あのはためいわくな化物同様いなくなってくれたほうが世の中のためだという気がするわ」
「冗談じゃない」うめき、からえずきを吐きながらガレンヴァールはいった。「あんなのとわたしをいっしょにしないでくれ。あれは断じて神などではない。まして──真理などでは」
 最後のセリフだけは、底知れない苦渋をこめて口にした。
 そんなガレンヴァールをアリユスは、一瞬だけ真顔で見やり──そしていった。
「とにかく、おとなしく見物していることね。可能なら、できるだけこの場からはなれたほうがよさそうだけど」
 むりをいうな、と苦情をのべ立てる邪法師にちらりと微笑をむけ──真顔に戻ってアリユスはいった。
「では、そこで見ていなさい。忘れられた太古の神──ヴァルディスの炎を!」
 口にし、瞑目するダルガの背後に立ってひざをつく。
 そして呪文を口にしながらアリユスもまた目をとじた。
 ず、ず、と、巨大な圧迫感が、呼ばれた犬のように前進した。
 吹きつける存在感が、アリユスの見えない壁をゆるがす。
 真正面に受けて幻術使と少年は瞑目したまま、一心に念じつづける。
 力を。
 すべてを灰に戻す、強大な炎を。
 そのかたわらでシェラは、祈るような思いで見守るばかりだった。
 シェラの水の属性が炎のいきおいを削ぐおそれがある、とアリユスが告げたからだった。
 が、アリユスにはさらにべつの目算もあった。
 ともあれ、そうして見つめるシェラの眼前で──異様な内圧を秘めた光が、ダルガの体内に膨張しはじめた。
 あの、圧倒的な力にみちた炎の幻像であった。
 同時に──呼応してか、まぼろしの獣がずずずと壁めがけて一気に前進した。
 興味深い物体をそこに見つけたかのごとく、小山のような半透明のその巨体をアリユスの“壁”にのしかからせた。
 じゃれるようなしぐさだったが──受けるほうはそれどころではなかった。
 く、と、アリユスの眉間のしわが深まった。
 同時に“壁”がゆらめいた。
 懸命に呪文をとなえつづけるが、力がいやおうなしに分散される。
 まずい、と稲妻のように思考がかけぬける。
 結界が破られて、この圧倒的な存在がのしかかってきては、すべてが終わりだった。
 だが“壁”を維持しつづけるには、おおいかぶさってくる存在の圧迫感はあまりにも巨大すぎた。
 これまでか、とほぞをかむ底から──
 わき出るようにして、力がふくれあがった。
 ちらりと片目をひらいて視線をやる。
 いのるシェラと──ガレンヴァールであった。
「一蓮托生だからな」
 苦しげに軽口をたたき、邪法師は片目をつぶってみせた。
 微笑をくちびるの片端に刻みこみ──アリユスはふたたび瞑目する。
 ダルガの内側にふくれあがった火球の内圧はいまや臨界ぎりぎりで、いまにも弾け飛びそうだった。
 だが──まだたりない。
 頭上にのしかかる巨大きわまりない存在を吹き飛ばすには、まだ圧倒的にその力が不足していた。
「賭ね」
 小さくつぶやき、アリユスはいっそうの念をダルガの精神世界にむけて凝集した。
 遠い、遠い時の彼方に封印された、大地の底に渦まく大いなるうねりにさえ匹敵するほどの力を秘めた存在が、そこにはうごめいていた。
 深い。
 あまりにも底知れない。
 狂気のように野放図で、地獄をも焼きつくすほど獰猛だった。
 制御しきる自信は、まるでなかった。
 それでも、ほかに手はない。
 みしみしと盛り返した結界がふたたびきしみはじめるのを感知する。
 力を送りこんでくる太った邪法師の念が、はやくせんかい、と焦慮にみちた督促を投げかけてきた。
 かすかに微笑み──呼びかける。
 暗黒の底にむけて。
 そこに燃え盛る、凶猛なる炎にむけて。
 ダルガの底に眠る存在がわずかに首をもたげ──
 つぎの瞬間、爆発した。
 ぎりぎりまで膨れあがっていた内圧が一気にはじけて“壁”を一瞬にして破り──
 おぼろで強固な悪夢の獣を、その光圧でぐばりと圧しかえした。
 小山のような巨体が大きくはねあがり、苦鳴が世界をゆるがせた。
 のたうつ。
 そこにむけて暴虐な炎が、怒涛のようにおしよせる。
 一瞬にして──神にも比すべき力を秘めたまぼろしの獣は、光塵と化して消失した。
「やった!」
 思わず快哉を叫び──すぐにそれはおさえようのない焦慮に、とって変わられた。
 膨張する強大な炎は、瀑布のように荒れ狂いながらなおもあふれつづけた。
 暴走だった。
「シェラ!」
 叫び、アリユスは今度はすばやくシェラの背後にまわった。
 属性の水を、暴走するダルガの炎にむけるためだった。
 呼応してシェラもすかさず印を結び、爆発する炎の流れに意念を集中する。
 幻術にはまるで無頓着なダルガとはちがって、多少とも行をおさめているシェラの力はすぐにわき出した。
 だが、圧倒的に力がたりなかった。
 アリユスは歯がみする。
 ガレンヴァールの力を借りる手もあるが、いずれにせよ焼け石に水だ。
 ヴァルディスに匹敵するほどの存在でなければ、この暴走を抑制することなどどだい不可能なのだ。
(ヴァルディスに匹敵する存在……)
 苦渋にみちた思考の内部で、めまぐるしく考えた。
 あった。
 ひとつだけ。
 しかし、それを呼ぶことは、シェラに破滅を一歩近づけさせることでもあった。
 絶望感にさいなまれつつ、アリユスは薄目をひらく。
 シェラの瞳が、真正面から見つめていた。
 ゆるぎない決意が、アリユスに向かって静かにうなずく。
 苦渋をかみしめて──
 アリユスは印形を結んだ。
 虚無からとらえて悪夢で鍛えた、七本の無窮の剣はそのまま世界をおおう暗黒の薔薇の図像でもあった。
 印の意味するところは疾く、底知れぬ暗黒へと警報を発し──
 そして──夜よりも、宇宙よりもなお深く、底知れぬ闇が顔をあげる。
 天界よりいたりて暗黒神と同列にならぶ者。
 時を支配する神ガルグ・ア・ルインを、時の壁の彼方でひきつぶした大いなる力もつ貴公子。
 かなわぬ恋を追いつづけ、永遠と無窮とのあいだを放浪する存在。
 地獄の公爵スティレイシャ。
 ──後継者争いにまきこまれてシェラは、実の兄の手によってその祭壇に捧げられた。
 それが、シェラのもって生まれた宿命でもあった。
 イシュールでも有数の幻術使、アリユスの尽力によって暗黒の王の手にかかり永遠の顎のもとにくわえ去られることこそ免れたものの、大いなる存在の影はつねにシェラの背後につきまとっている。
 それが手をのばしてこないのは、アリユスの設けた結界のせいであるよりは、気まぐれな公爵の気分によってである可能性のほうが大きいだろう。
 それでも、このまま遠ざけておける希望はあった。
 ──みずから呼ばわらぬかぎりは。
 救援を求められれば守護神然とかけつけることは充分に予想できたが、そのあとにどう動くかはまるでわからなかった。
 最悪の場合、シェラの魂は闇の鉤爪にかけられて地獄の底へと運び去られるだろう。
 それでも、シェラはうなずいたのだ。
 世界のために。
 そしてあるいは──ダルガのために。
 発現点たるダルガ自身を焼きつくすいきおいで膨張する、凶猛なヴァルディスの炎にむけて、黒い闇をマントのようにひろげた大いなる存在がふわりと接近する。
 闇と炎とがからまりあい、暴風のように荒れ狂った。
 竜巻のように虚空をまきあげ、悪夢のように重く果て知れない闘争を展開する。
 魔神は炎に焼かれ、古代神は闇にまかれた。
 このままでは、この闘争自体が世界を滅ぼしかねない──苦渋とともにアリユスが思いをかみしめたとき──
 さらに別のものが、反応した。
 ダルガの中で。
 目をみはる。
 この上、この少年の内部にいかなる存在が眠っているのか。
 そして、思い出した。
 ダルガの属性。
 炎と──そして、空。
 空は闇。
 ダルガ──暗黒の龍!
 スティレイシャが降臨するはるか以前から、バレースの空をかけめぐりバレースの闇を支配してきた存在だった。
 ダルガに冠せられた名が、その本質と通底している。
 それが、荒れ狂う地獄の公爵の波動を受けて、反応したのである。
 さらに巨大な存在がうねりながら上昇し──
 その流れを見て、アリユスはただひとつだけ、たすかる手段があることにもうろうと思いあたった。
 だが、それを実行するだけの余力は、アリユスの内部にはもう、かけらも残ってはいなかった。
 吹き荒れる暴虐の嵐に翻弄されて、あとは舞い散るだけだった。
 そんなちっぽけな存在をまきこんで、大いなる存在たちは狂おしく上昇をつづけた。
 地獄の公爵と太古の炎、そして“暗黒の龍”とが、もつれあって天をめざした。
 荒れ狂う大地と虚無と天空の力が一体となって上昇し──そして消えた。
 残されたのは、あまりにも圧倒的な力のぶつかりあいに翻弄されて夢界まで吹き飛ばされた混濁だけだった。





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