抗魔の戦士

 巨大な黒い拳が、ハンマーのようにふりそそいだ。
 怒涛のいきおいでふりおろされるその凶手を、サドラ・ヴァラヒダはにこやかに笑いながら見あげている。
 ごぶ、と、重苦しい異様な音がひびきわたった。
 思わずアリユスは、顔をそむけた。
 反射的な行動だ。
 そしてすぐに、おのれの行動が実質的にはまるで無意味な、本能的なものであったことに思いあたり、ハッと視線をあげる。
 打ちおえた姿勢のシャダーイルの、巨大な背中があった。
 その下で、無邪気に微笑む赤ん坊の姿も、また。
 見えぬ壁にはばまれでもしたように、黒いこぶしが潰されていた。
 どす黒い液体がつたい落ち、赤ん坊の額にぴしゃりと打ちつけた。
 つやつやとした額をすべり落ちて妖魔の血液は鼻わきをすりぬけて無邪気に笑うくちびるへと達し──ぞろりと現れた十数枚の舌が、それを愛しげになめあげた。
 満足そうに、にい、と笑う。
 そして赤ん坊は小さな口をいっぱいにひらいて──
 吼えた。
 咆哮とともに吹き出した暗黒が、巨魔の肉体を枯れ葉のように吹き飛ばした。
 ひざをついてぼうぜんと見守るアリユスの肩をかすめて、黒い巨体はさらに飛び──背後の壁に、クレーター状の陥没を描いてめりこんだ。
 ぐう、と巨魔の喉がよわよわしくうめきをあげる。
「すなおに、わが一部となればよいものを」
 にこやかに笑いながら天使の笑顔が地獄の言葉を口にした。
 その血走った双眸が──じろりとアリユスに向けられる。
「だがどうやらその必要もなさそうだ」暗黒を吐きながら、妖魔王はいった。「“紅玉”は、おまえがもっているのだろう」
 にたりと、笑った。
 暗黒がぐらりとかたむき、再度、赤子の小さなからだを抱えこんで宙を滑空させた。
 アリユスの眼前まできて妖魔王はそのままとどまり、黒い息を吐きかける。
「どうだ?」
 アリユスはこたえず、くちびるをかみしめた。
 サドラ・ヴァラヒダは、にくにくしげに小さな顔をゆがめ──
「どうなのだ!」
 吼えた。
 吼えながら、凶猛な暗黒をその口から吐き出した。
 アリユスのからだが、吹き飛ばされた。
「く……ユール・イーリアよ!」
 吹き飛ばされながらアリユスは叫び、すばやく印形を結ぶ。
 間一髪、四囲をかこった結界が緩衝となって、激突の衝撃をやわらげた。
 が、すべてを吸収しきる、というわけにはいかなかった。
 痛撃を背中にうけてアリユスはうめき、前方にたおれこんだ。
 そのふところから──ごろごろと、まるいものがころがり出した。
 拳ほどの大きさの、薄紅のゼリーのようなかたまり──
「おお!“紅玉”!」
 叫び、滑空するサドラ・ヴァラヒダの眼前に──
 黒い影がすばやく立ちあらわれ、ころがる淡紅色の球をひろいあげてかけぬけた。
 怒気が暗黒の蒸気となって妖魔王の口もとからあふれ出す。
 紅玉を抱えこみながらほくそ笑みをうかべてふりかえったのは──ガレンヴァールであった。
「化物めが。おまえなどに不死なる存在の肉など、もったいないわ」
 こずるく笑いながら告げ、くわ、と大口ひらいた。
 吐き出された闇が、弾丸のように赤子を強襲した。
 それをサドラ・ヴァラヒダは──真正面からうけとめた。
 口をひらいて、のみこんでしまったのである。
 げっぷ、と黒い煙を吐いてぎろりと邪法師をにらみ、にたりと笑った。
「これはいかん。息子たちよ!」
 邪法師の叫びに、わらわらとあらわれた螺旋の金属塊が、その戯画のような手足をせわしなく動かしながら浮遊する黒い影に殺到した。
 めんどうそうに妖魔王は小妖物に視線をめぐらし、ふん、と鼻をならす。
 同時に、暗黒がひろげた翼をはためかせた。
 たかりかけていた“ガレンヴァールの息子たち”はつぎの一瞬──ひきつぶされた猫のように、まだらの臓物をはみ出させてひらべったく潰されていた。
 だがその一瞬のすきをついてガレンヴァールは──手にした球をのみこもうとしていた。
 怒りの咆哮をあげて妖魔王が血走った目を投げる。
 まにあわない──!
 が──太った幻術使がおのれの勝利を確信した、まさにその瞬間をつくようにして、激烈な衝撃がガレンヴァールの背に叩きつけられた。
 アリユスか、と灼熱の後悔に歯がみしながら、衝撃に思わず球をとり落としつつ地に打ちのめされた幻術使は、怒りに燃える目でふりかえった。
 そして思いもかけぬ顔を、そこに見出した。
 すずしげな美貌の青年の視線が、自分ではなく何か移動するものを追いかけているのに気づいて、ハッと太った邪法師はころがる紅球の行方に目を転じた。
 飛びつこうとするより先に──枯れ枝のような手が、それをひろいあげるのを目撃する。
 巨体の衛兵にささえられて老タグリは、よぼよぼとしたその動作にはまるで似つかわしくないすばやさで──ひろいあげた玉をぺろりと飲みこんだ。
 ち、と、ガレンヴァールの背後でソルヴェニウスが舌をならす。
「“紅玉”はわたしがいただこうと考えていたのですが、ご主人さま」
 言葉はていねいでも、口調には憎悪が燃え盛っていた。
 首からさげた紫色の宝石に手をやり、異様な声音で呪文をとなえた。
「吐き出してもらいましょうか!」
 叫び、宝石を指にたばさんだ手のひらを老タグリにむけた。
 紫色の閃光が、球となって枯れ木の老体に襲いかかった。
 起きているのか眠っているのか判別さえつかなかった、しわにうもれた醜貌が、か、と眼を見ひらいた。
 紫色の閃光が命中する直前──ごくりと、大きく喉をならしてのみこんだ。
 閃光に打たれて、巨体の衛兵ごと吹き飛ばされながら、にたりと笑った。
 息子そっくりの、邪悪な笑顔だった。
「なんてこった」
 怒りを通りこしてあきれたようにガレンヴァールがつぶやいた。
 その後方でアリユスもまた、
「親子だわ」
 と感心したようにつぶやく。
「おのれ!」
 憎悪をむき出しにして、あるじに向けてソルヴェニウスが飛びかかった。
 いましも折れそうな貧弱な老体を、乱暴にゆすぶった。
「吐け! 吐け、この老醜の権化めが!」
 わめきながら顎を圧搾し、ひらいた口から手をつっこんだ。
 もがき、うめきながら老タグリは執事の手にかみついたが、歯のかけた顎でなかったとしても、ソルヴェニウスは屈服するつもりはなかった。
 老タグリをたきつけてその妄執をかきたて、幾度となく探索させてユスフェラの様子をさぐらせてきたのが、ソルヴェニウスであった。
 すべて、おのれが“紅玉”を──大地のごとき永遠の生命を手に入れるために企てたことだった。
 ここで妄執にとりつかれた無力な老人にそれを横どりされるわけには、いかなかった。
「吐け! 吐け! 枯れ枝めが! ミイラめが! おまえにそれは必要ない! おれのものだ! 吐け!」
 わめき、ずた袋の中身をさぐりまわすように荒々しい手つきで老人の口腔内をかきまわした。
 死斑のうかんだ老人の顔が、紫色にふくれあがる。
 怒りの咆哮をあげながら巨漢の衛兵が、ぬいた剣をソルヴェニウスの頭上にふりおろした。
 その軌道上に──美貌の青年は、酸欠に膨張しながらなおもかみつく顎の力をゆるめようとしないしなびた老人の身体を、投げつけるようにして持ちあげた。
 ざく、といきおいのままに剣は老人の肉体を裂き──
 老タグリの妄執にみちた双眸が、つきせぬ憎悪をこめてソルヴェニウスをにらみつけた。
 エレア、としわがれた喉が懺悔の呼びかけをしぼり出したのを、ソルヴェニウスは感覚で感じとった。
「愚かなり!」叫んだ。「おまえは最初から最後まで、わたしの手のひらの上で踊らされていたのだ! そのことに、やっと今になって気づくとはな! さあ、吐け! 吐くのだ! この死にぞこないの猿めが! 吐け!」
 ぐるりと、老人の目がうらがえった。
 ふいに全身から力がぬける。
 にやりと、美貌の青年は笑った。
「わたしの勝ちだ!」
 叫んだ。
 その背後から──
「いいや」
 憮然とした声が、いった。
 ぎくりとふりかえったソルヴェニウスの頭上に──
 白光が、ふりかかった。
 おお! と叫びながらとっさに後退する。
 が、剣先はそれを上まわる速度で前進し──
 右肩のわきから背中にくいこみ、そのまま下方にむけて一気に下降した。
 胴を縦一文字に断ち割られて、哄笑と驚愕とをその面貌に半々にとどめたまま、ソルヴェニウスは絶命した。
 手をつっこまれて絶息した老タグリのからだごと、ばたりと地にたおれ伏す。
 なすすべもなく一部始終を見守るばかりだった巨漢の衛兵の前で──ダルガは怒りにみちた視線を、妄執の権化たちにむけて投げおろした。
 ぎろりと、その視線をあげて、めぐらせた。
 ガレンヴァールから──浮遊してことのなりゆきを見守る形の、サドラ・ヴァラヒダまで。
 赤子の姿をした妖魔王の上でその視線をぴたりと停止させ──吐き捨てる。
「おまえら、どいつもこいつも最低だ」
 ぴしゃりと、決めつけた。
 無表情に様子をうかがっていた赤ん坊の顔が──応じて、にたりと笑みをうかべる。
「わたしこそが、至高の存在なのだ」
 傲然と、そう告げた。
「ほざけ!」
 叫びざま、銀閃が赤子目がけててかけぬけた。
 がきりと、見えない壁にはばまれた。
「無力なり」赤ん坊が異様な声音でうそぶいた。「このような剣でわたしを屠ることができるなどと考えるとは──あさはかさもきわまるな」
 いって──ごう、と暗黒の煙を吹きかけた。
 打たれたダルガが宙に飛ぶ。
 打ちつけられた。
 アリユスのかたわらに。
 ぐう、とうめきつつ、それでも前進しようとするダルガの肩に、女幻術使が手をかけた。
 怒りにみちた凝視を冷徹な、湖のように深い視線でうけとめて、アリユスは首を左右にふる。
「真正面からでは、あれはたおせないわ」
「では、どうすればいい」
 吼えるようにいうダルガの、もう一方の肩にもアリユスは手をかけて向き直らせた。
「あなたの力を貸して。──あのときのように」


 めりこんだ壁からからだをひきはがして、シャダーイルはよろよろと倒れこむように立ちあがった。
 どうにかおのれの肉体が命令どおりに動くことを確認し、周囲を見まわす。
 どう考えても逃げるが得策の状況であることは充分理解できた。
 それでも、深山を根城に数百年を生きてきた妖魔が、ほかに生きられる場所などないと考えた。
 忠実にその復活を待ちつづけてきた下僕を、その超絶の力の足しにするためだけに、ひとのみにしようとした己があるじに視線をむける。
 歯をむき出して、獰猛に笑った。
「おれの死よ」
 うめくようにひとりごち、よろめく足どりで歩きはじめた。


 打ちかかってきた少年を一息でおしかえして哄笑しながら、妖魔王は地に伏した老タグリに視線をむけた。
 ソルヴェニウスの腕をのみこんだまま、枯れ枝のような肉体がびくり、びくりと、その内部に元気のありあまった子犬を抱えこんででもいるように異様な勢いではねあがっていた。
「ぬう」
 うめきながらサドラ・ヴァラヒダは宙をただよい、もがきまわる枯れたからだに接近する。
 その行く手を阻んで、巨漢の衛兵が立ちはだかった。
 歯をくいしばって剣をかまえている。
「むだだ。見ていただろう」
 暗黒の吐息とともに、妖魔王は言葉を吐きかけた。
 ぎり、と衛兵は歯をかみしめて宙を遊弋する赤子をにらみあげ──気合いとともに、打ちこんだ。
「愚か者めが」
 つぶやき──サドラ・ヴァラヒダは、暗黒を吹きかけるかわりに大きくその口をひらいた。
 魔法のように、打ちかかった巨体が口腔内に吸いこまれた。
 ごくりと喉をならして妖魔王は衛兵をのみくだし、いまやピンポン玉のようにはげしくのたうちながら跳ねまわりはじめた老タグリにぎろりと視線をむけた。
「まにあうだろう」
 にたりと笑って、暗黒の触手をのばし──
 口腔内に手をつっこんだまま絶命した形のソルヴェニウスごと、跳ねまわる老タグリの肉体を強引にのみこんだ。
 収縮する喉の奥に二つの肉体は消失し──
「おおう」
 うめいて、妖魔王は眼をむき出した。
 暗黒を道連れに、ぽとりと地におちた。
 その頭上に──黒い影が立った。
 巨体であった。
 光沢を放つ異様な皮膚はみごとな筋肉に鎧われて彫像のようにもりあがり、獣の顔の両端には螺旋状に渦をまく巨大なツノがあった。
 ひくひくと痙攣しながら、うつろなまなざしで妖魔王は、おのれの頭上にたたずんで睥睨する黒い影に視線をむける。
「シャダーイル……」
 よわよわしい声音で、つぶやくように呼びかけた。
 こたえて黒い巨魔は、仁王立ちのまま口にした。
「おまえが、おれの死だ」
 無機的な、それでいて無骨で力にみちた、静かな声音が──宣告するようにつづける。
「さもなくば、おれが!」
 咆哮とともに、ハンマーの一撃が──今度はまごうかたなく、赤子の肉体上にふりそそいだ。
 潰されたこぶしがそのまま小さな肉体をごぐりと圧しつぶし──
 まるい、小さな後頭部が左右にはじけてひろがり、砕けた頭蓋のすきまからあふれ出した白い内容物と赤い血とが、びしゃりと地に弾けた。
 ひらたくおしつぶされた顔面はちぐはぐに両の目を左右におしひろげ、つぶれた鼻の下で繭の形にゆがんだくちびるがひくひくとうごめく。
 その口が──おし潰されたシャダーイルの巨大なこぶしの下で、にたりと笑った。
 ごぶ、とあふれてきた血を吐き──
 暗黒が膨張した。





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