妖魔王暴虐
く、とうめき、アリユスはちらりとシェラのたたずむ方角に視線をむけた。
目にとめた亀裂は崩れてその彼方から混沌が顔をのぞかせていたが、いまだ第四の妖魔も救世主の姿もそこには見あたらない。
くちびるをかんでひとり、走りだした。
レブラスにも、マラクやシャダーイルにもわずらわされぬよう距離をとって、ゆらめく暗黒を従えた赤ん坊に正対し、片ひざをついて身がまえる。
赤子のあどけない天使の瞳が、真正面から幻術使を見つめた。
微笑んだ。
春の陽射しがふりそそいできそうな微笑みであった。
闘志が、その微笑みに吸われていくように錯覚し、アリユスは強くくちびるをかむ。
その端から、真紅の筋がたらりとしたたった。
「サドラ・ヴァラヒダ……ユスフェラの死の元凶!」
おのれをはげますように口にして、すばやく印形を組みかえる。
大気を裂いて、かまいたちが疾走した。
ぱん、ぱん、と、四つんばいで顔をあげた赤ん坊の両側面で爆発の煙があがった。
嘲弄するように、暗黒にのまれていく。
「く」
と、アリユスはうめいた。
はずすつもりはなかった。
それがみごとに左右にはじけたのは──無意識が魔力の影響をうけているからだ、と感得していた。
左右に噴き上がった炎を見て、赤ん坊は無邪気そうに、だあ、ともみじのような手をたたいて笑った。
「愚弄するな、サドラ・ヴァラヒダ!」
アリユスはむりやり怒りをかき立てて叫んだ。
つぶらな瞳が、くもりのない凝視でこたえる。
世界にむけて、おまえがそれほど美しいのはなぜかと賞賛とともに問いかける視線であった。
くちびるの端にたまった血を、アリユスはかたまりにしてべっとかたわらに吐き捨てた。
「冗談じゃないわ」
ひとりごち、氷の視線を赤ん坊の顔上に固定した。
「サドラ・ヴァラヒダ!」
なかば悲鳴のように、叫んだ。
だあ、と、赤子は微笑みながらたどたどしく両手をあげた。
「サドラ・ヴァラヒダ! イア・イア・トゥオラの名にかけて“風の槍”に打たれよ!」
叫び、印形とともに気合いを打ちだした。
白い閃光が──赤ん坊の顔面にむかって一直線に疾走した。
悲鳴が心中にひびきわたる。
自分自身のあげる、悲鳴だった。
思わず、目をとじて顔をそむけてしまいそうになる。
奥歯をかみしめ、凝視した。
妖魔の顔面に、風の槍がえぐりこむのを。
それが──
パン、と、はじけるような音とともに四散した。
──赤ん坊のもみじのような手のひらの前で。
かわいらしい声を立てて、赤ん坊は笑った。
そして──天使の声音で、言葉を発した。
「なんのためにわたしは転生したのだと思う?」
と。
アリユスは、くちびるをかんだ。
そのとおりだった。
転生呪術は、おのれをより高いレベルの存在と化さしめるためにおこなう呪術である。
“風の槍”が抗すべくはずもなかった。
赤子は──転生した妖魔王、サドラ・ヴァラヒダは──声を立てて笑った。
無邪気な赤子の笑い声に重なって──おぼろに、どこか遠いところから、不気味な底ひびく地獄の邪鬼のごとき哄笑がひびきわたった。
ゆらめく黒い巨影が、その異様な笑い声がひびくたび広がっていく。
そして異妖の存在はふいに、笑いやめた。
つぶらな瞳に猛悪な邪気をこめて、四囲を見まわす。
「ある」そして、いった。「ある。あるぞ。どこかすぐ近くだ。求めていたものが、すぐ近くまでやってきている。──どこだ?」
ぎくりとしながらアリユスは、おのれの胸に──珠をしのばせた懐中に思わず手をやりそうになるのを、かろうじて自制した。
それには気づかず、妖魔王はもどかしげに首をめぐらせていたが、癇癪を起こしたようにその小さな足で地面を蹴りつけた。
同時に──
地下世界が、まるで蹴りつけられた衝撃に悲鳴をあげて身をよじらすごとく──轟音を立てて震動した。
ほんの一瞬のことにすぎなかった。
それでも、いましも壁が崩れてすべてが瓦礫の底にうずもれてしまいそうなほどの衝撃力を、その震動はともなっていた。
アリユスばかりか、なりゆきを見守っていた三匹の妖魔までもが恐怖にごくりと喉を鳴らした。
「見えぬ」
そのような存在の動揺になど気づきもせぬ、とでもいいたげに赤子の姿をした妖魔王は、うめきあげた。
その声も、幼子の無邪気な歓声に重なって、異様な悪夢のひびきを底ひびかせていた。
「見えぬ。ここまでたどりついていながら、まだ見えぬのか。すぐ近くにあるはずだというのに」
ため息をついた。
ごう、と、蒸気のように暗黒の霧が吹きだした。
その口もとに笑いをきざむ。
もはやそれは、天使の笑いではなかった。
地獄からの帰還者にふさわしい、猛悪にしておぞましき妖魔王の笑いそのものであった。
そして、ぎろりと視線をはしらせる。
──三匹の妖魔にむけて。
「おまえたち──レブラス」
告げるその声もまた、天使の歌声から化物のうなり声へと移りかけていた。
肉塊の妖魔にその悪夢の凝視をすえ、暗黒の息を蒸気のように吹き出しながら笑った。
「レブラス。おまえだ」
短く無造作に告げて──きょとんと見返す造作のくずれた妖魔に、赤子は翼をひろげるようにして両手をさしのばしてみせた。
同時に、背後にひろがる暗黒が──くちばしに獲物をくわえこむ猛禽のように、赤ん坊の小さなからだをくわえこんだ。
ふわりとうきあがる。
影にささえられて赤ん坊は、宙をすべって移動した。
移動するさきは、レブラスがたたずむ洞廊の前。
高い高いをされて歓喜する幼子のように笑いながらサドラ・ヴァラヒダは滑空し、赤黒い肉瘤をもりあげた巨体の前に魔鳥のごとくおり立った。
はいはいの姿勢で、たたずむ肉の化物をにらみあげた。
すると、幼児をここまで運ぶ形をとっていた背後の暗黒が、その翼をのばすように、ぬう、とレブラスめがけておどりかかった。
逃げるべきか受け入れるべきか判断がつかぬままレブラスはあっというまに暗黒にのみこまれ──
腐臭を放つその手足をばたつかせながら、宙につるしあげられる。
赤ん坊の姿をした、死界からの帰還者の頭上へと。
「レブラス、おまえはわたしの力となれ」
邪悪に笑いながら赤ん坊はそういって、つるしあげられた妖魔の巨体にむけて──あんぐりと、口をひらいてみせたのである。
「おお、ヴァラヒダ──」
悲鳴とも歓喜ともつかぬ声をあげて身をよじらせたレブラスが、つぎの瞬間──
まぼろしのように赤ん坊の小さな口の中へと、ひとのみで飲みこまれていた。
ほんの一瞬──おのれの体直径よりはるかに巨大な卵を、あんぐりとひとのみにした蛇のように赤子の喉がぐばりと伸張し──
すぐに、なにごともなかったかのごとく、もとどおりになった。
腹がふくれたわけでもない。
赤子はあいかわらず、その小さな尻を地につきながらつぶらな瞳で四囲をながめわたしているだけだ。
にもかかわらず──レブラスが消失し果てた、まさにその瞬間に、妖魔王の気配がひとまわり増大したことを、アリユスは感じた。
「悪夢だわ……」
ひそかにつぶやいた。
げぷ、と赤ん坊は満足そうに音を立てて黒い煙を吐いた。
そしてゆっくりと四囲をながめわたし──いった。
「まだたりぬ」
そして、その悪魔の視線を──マラクの顔上に固定した。
にたりと笑う。
「マラク。おまえも、わたしの力となれ」
告げられた言葉とともに、暗黒がゆらりとゆらめいて再度、その手をのばした。
「いやだ!」
赤い妖魔は叫び、接近する暗黒をはらいのけるようにして四本の腕をふりまわしたが──迫りくる暗黒に対してなんの効果もおよぼせなかった。
均整のとれた巨体が軽々とつるしあげられ、もがき狂うのにもまるで頓着せず暗黒の翼はサドラ・ヴァラヒダのもとにマラクの肉体をとどけた。
「歓喜せよ」
憎悪の視線を投げかけるマラクにむけて、赤ん坊は傲然といいつつ笑いかけた。
マラクの誇り高き野蛮な美貌が、恐怖にひきゆがむ。
その美貌もまた一瞬後には──妖魔王の小さな口にのまれて、消失した。
むくりと、その邪悪な気配がさらにひとまわり巨大化する。
そうしてサドラ・ヴァラヒダはさらに視線を周囲にはしらせ、うめいた。
「ある」
そして──
ぎろりと、アリユスのいる方向にその邪悪な凝視を固定した。
「ある」
くりかえす。
ふ、う、う、と、とじた唇の両端から黒い息をもうもうと吐きだし、笑った。
「あるぞ。たしかにある。感じる。近い。ごく近くだ」
いいつつ、なおも凝視を投げかけ──
首をかしげた。
「だが、まだおぼろげだ」
そして、その視線をぎろりと、最後に残った妖魔、シャダーイルへと向けかけた。
が──
黒魔は、マラクやレブラスのようにはみすみすとのみこまれるつもりはなかったらしい。
妖魔王の睥睨が自分の頭上に固定される寸前──
弾かれた玉のようにシャダーイルは、地を蹴りつけて走り出した。
もりあがった筋肉が強力にうごめいた。
たたきつぶすつもりらしい。
反応しきる間もなく、黒い巨魔は赤ん坊の小さなからだの前に立ちはだかり──その右腕を高々とさしあげた。
ふりおろせば、ぐしゃぐしゃにつぶされた肉塊がその下に製造される──ぼうぜんと見やりつつ、アリユスはその光景を思わず思いうかべた。
ハンマーの一撃が、赤子の頭上にふりそそぐ。
暗闇の中、石柱内部は血まみれになっていた。
びしゃ、びしゃ、と血の海をふんで近づく気配に、瀕死のエレアはうつろな視線を投げあげる。
「エレアさま」
と、すずしげな声が抑揚を欠いた口調で呼びかけた。
こたえようとしたが、うめき声が喉をよわよわしくふるわせただけだった。
地獄の激痛にすり切れ、麻痺した精神がかすかに、近づいたおのれの死を自覚する。
自分はやはり生け贄にすぎなかったのだ、と、苦々しい想念がおぼろにうかんだが、それもまるで深い泉の底にゆらめいた水草の影のように、うつろで遠かった。
それでも、もやのかかったようなおぼろな視界にエレアは、そのひとの顔を識別していた。
ソルヴェニウス、とくちびるの形がよわよわしく呼びかける。
紙のように白くなった頬に、青年はいとおしげに手のひらをよせた。
愛撫するようにして、指先をうつろにはわせる。
「お気の毒に、エレアさま……」
静かな声音で、そう告げた。
死神ム・ワジュアの呼びかけを片方の耳でとらえながら、エレアは現実界の青年の言葉に反応し、みずからの境遇と重ねてわきあがる悲哀に、涙をにじませた。
このまま死んでもいいのかもしれない。
そんな、意味のない諦念をかすかなやすらぎとともに感じた。
やさしげな思い人の──つぎの言葉を耳にするまでは。
「ですが、おかげでどうやら“紅玉”のありかもわかりそうです。感謝しますよ、エレアさま」
ソルヴェニウスはいって、淡く微笑んだ。
美貌の青年にその微笑みをうかばせるために、躍起になってあれこれ気を使ったこともあった。
そんな微笑みであった。
怒りや憎悪はわかなかった。
ただ悲哀が、いっぱいにわきあがっただけだった。
自分は何のために生まれてきたのだろう、とひろがる悲哀の底で涙とともに思った。
元来、それほど強い娘ではなかった。
弱く、傷つきやすい、小さな魂の持ち主だった。
その魂が、愛する父に蹂躙されひき裂かれ──そして今またここで、かつての思い人に非情な言葉を投げかけられて、ガラスのように粉々に砕けておちた。
悲哀もまたふりそそぐ瓦礫のような魂の破片に、うもれて沈んでいく。
そんなエレアの想いも知らぬげに、やがてかすむ視界のむこうでソルヴェニウスは立ちあがった。
死にかけた娘に背をむけ、暗闇の中から、淡い青の燐光でみたされた外の世界へと、声ひとつかけることなく歩み去っていった。
このまま死んでいくのか、と、うつろに落下していく意識の中でエレアはかすかに考えた。
悲哀も何もかも、わきあがってきた暗黒の中にのみこまれていく。
せめて、だれかわたしを見送って、とわずかにうかんだ切実な想いも、わきあがった水泡がはじけるようにして消えていった。
その暗黒を──おしのけるようにして、野蛮な叫びが傍若無人に呼びかけてきた。
「エレア!」
と。
もう、そっとしておいて……と、おぼろな意識の底で考えた。
だが、そんなエレアの思いを無視して声は、さらに暴虐にひびきわたった。
「エレア! この、お嬢さま! 馬鹿野郎、死ぬな!」
心地よい暗黒からむりやりに意識をわしづかみ、ひきずり出そうとするその呼びかけに、おぼろないらだちとそして──かすかな希望を抱く。
うすく、目をひらいた。
冷徹の仮面に鎧われていたはずの黒髪の少年の顔が──涙にぐしゃぐしゃにぬれながら自分を見おろしていた。
願望の生んだ錯覚なのかもしれない、と少女はかすかに思った。
錯覚でもいい。
心のかたすみでそうつぶやいて、かすかに微笑みをうかべる。
「無礼……者……」
自分のくちびるが奇跡のように言葉を発するのを、まるで他人事のように耳にした。
「わたく……しに……ふれても……いいの……は……」
そこまでいって、力がつきた。
最後にもう一度、かすかに、かなしげに微笑んで──
エレアは、その命の灯をとぎらせた。
「ダルガ……」
少女の小柄な亡骸を抱きしめるように抱えあげたダルガの背が、すべての動作を凍結してぴたりと動かなくなった。
シェラの呼びかけにも、少年はまるで反応しようとはせず、見ひらいた目で頭をたれた少女の、愛らしい顔をにらみつけるようにいつまでも見おろしている。
そのかたわらには、ひび割れて裂けた空間のほころびから半身をはい出させるようにして、髭面の剣士のからだが倒れ伏していた。
胴を、両断されていた。
そしてその顔貌は──妄執をはらせなかった無念に歯をむき出しにして怨念を叫んでいるとも、また、あらゆる苦痛のくびきからたたれるその瞬間にうかべた歓喜の表情ともつかず──ただ見ひらいた目で虚空をうつろにながめあげているだけだった。
「ダルガ……」
もう一度シェラは呼びかけ、歩みよって少年の肩に手をのばした。
その手が、宙で静止する。
氷結していたダルガの肩が、小刻みにふるえているのに気づいたからだった。
ダルガ、と、出かかった呼びかけをのみこみ、シェラは顔を伏せた。
「お……」
と、ダルガは全身をふるわせながらうめいた。
「おお……おおおおおおおおおおおおお!」
そして──エレアの、力のぬけた小さなからだを抱きしめたまま、天をあおいで咆哮した。