出現
暗黒の奥まった一角に何者かが身じろぐ気配を感じて、ガレンヴァールは闇に慣れはじめた目をすばやく向けた。
「なにかいるな」
つぶやき、視線をこらす。
暗闇のなかに、何かがうずくまっていた。
ふむ、とうなり、邪法師はなおしばらくのあいだ目をこらしたが、しびれを切らし、背後に従う“息子たち”をふりかえる。
「様子を見てきておくれ、わがかわいい息子たちよ」
命令を受けて従順にちょこまかと走りはじめた“ガレンヴァールの息子たち”の総数はいまや、両手の指にあまるほどに激減していた。
闇のむこうにかけつけた小さな影が、がさごそとはいまわり──何者かにつきとばされて、つぎつぎにころころところがされて戻ってきた。
「おやおや。おまえたち、どうやらきらわれてしまったらしい」
つぶやく丸顔の邪法師に、闇の奥からこたえがかえった。
「下賎の者めが。失せるがいい」
はりのある、女の声音だった。
「下賎の者……」苦笑しつつガレンヴァールはくりかえす。「わしはこれでも、ザナールのむこうでは貴族でとおっている家の出なんだがね。このような山奥の田舎豪族に下賎の者呼ばわりされるとは、なんともなさけない」
太鼓腹を抱えて笑う。
だがさしものガレンヴァールもつけられた傷がひびくのか、笑い声にも力はなく、消え入るようにとぎれて落ちた。
ふう、とよわよわしい息をつき、ぎろりと闇奥に視線をあげる。
「おまえさん、あのサドラめの愛娘のエレアかい?」
問いかけた。
こたえたのは、耐えかねてもらすような笑い声だった。
「海のむこうから来た蛮族めが、えらそうな口をきくのはこっけいきわまりないわ」
くすくすと笑いながら傲然と口にした。
うんざりとガレンヴァールはため息をつく。
「下賎の者呼ばわり合戦はもういいだろう。おまえさん、贄にささげられたのではなかったのかね?」
「贄?」
と、あいかわらずおかしげに笑いをとどめながら、闇奥の存在は邪法師の言葉をおもしろそうにくりかえした。
「このわたくしが贄? おもしろいわ、下賎の者。父様は冗談を口にされたのよ。贄? いいえ、わたくしが贄になど、なぜささげられなければならないの? ちがうわ、愚かな下賎の者。わたくしは贄にされたのではない。──選ばれたのよ」
太った幻術使はけげんそうに眉をよせた。
「それがどうちがうのか、わしにはよくわからないな……。が、まあ、おまえさまはとにかく無事だったらしいねえ。それはわしにも朗報だ。なにしろ、あの強力な“風のアリユス”と、この状態で一戦まじえるのは、いかなわしでもちょっと願い下げなんでねえ。おまえさまの身柄さえおさえておけば、取引に使えるから。さあ、こちらにおいで、お嬢ちゃん。この“闇のガレンヴァール”がおまえさまをやさしく介抱してあげよう。さあ」
ゆっくりとふみだす邪法師に、くすくす笑いはとぎれずふりそそぐ。
「まるで変態だわ、そのいいぐさ。ああ、まるで、というのはちがっているのかしら。もしかして、変態そのものといったほうがいいみたいね。でも、おまえはとんでもない勘違いをしているのよ、下賎の者。おまえのような愚劣で卑小な下賎の者は、わたくしのような高貴な存在には、ふれようと考えることすら冒涜なの。もっとも、そんなこともわからないからこそ愚かな存在でいられるのでしょうね。いい? おぼえておきなさい。わたくしにふれていいのは、このわたくしを愛することのできる資格のあるおかたは──父様をのぞいてはいないのよ」
父様、と耳にして邪法師は、欲にまみれて妖魔にのまれた田舎豪族、とせせら笑おうとした。
笑うよりさきに──凍りついた。
娘の呼びかけに呼応するようにして──闇の底の深いどこかで、何か異様な存在がごそりと、身じろぎする気配を感じたからだった。
起こった現象を解釈しようとするが──思考さえもが氷結したまま、まるではたらこうとはしなかった。
言葉さえ出ず、あぐ、あぐ、とえずきのような音で喉をふるわせるのがせいいっぱいだった。
闇の奥から嘲笑がひびいた。
──ふたつ。
邪悪な気配も──またふたつ。
そのふたつの邪気は──ガレンヴァールには、重なりあっているようにしか思えなかった。
疑問符がうずまいた。
解答は出なかった。
否。
出すことを、恐怖が拒んでいるのだった。
「おまえたち……」
無意識が言葉となってほとばしった。
邪悪な哄笑が、重なりながら応えた。
刻まれては消える亀裂は、螺旋の渦を描きながら湖の周囲をゆっくりと経めぐっていく。
それを追って走りながらシェラは、虚空につけられる傷が不規則に上下左右しながらも、徐々に下降しつつあるのに気づいた。
近づいている、と直感する。
打開策を思いつかずやみくもに痕跡を追って走りつづけるだけだったが、いちかばちか試してみる気になった。
つぎに亀裂が刻まれると見当をつけた方向にむき直り、印を結んだ。
アリユスから伝授された幻術のひとつを、思考内部で反芻する。
自信はなかったが、ためらっている余裕もまたない。
目をとじ、気配だけを読みながら呪文をとなえる。
ぴし、と、ひび割れる音を耳にしたような気がした。
幻聴だったかもしれない。
かまわず、シェラは最終句をとなえて瞠目した。
「イムリエスの名にかけて“水の刃”よ、亀裂を撃て!」
叫び、組みかえた印の下から気合いを打ちだした。
たん、と青い閃光が空に走る。
おりしもひび割れはじめた虚空の傷口めがけて、鋭利な刃と化したシェラの水が打ちかかり──
通りぬけて、背後の壁に四散した。
あ、と失望の吐息をつき──すぐにゆるみかけた表情をひきしめる。
「タイミングがおそすぎたわ」
ひとりごち、ふたたび印をむすんで瞑目した。
それに、威力もよわすぎた、と心中でつぶやき、ふたたび意念を集中しつつ呪文を口にする。
韻律が青い薄闇の底に流れ、気配を追ってシェラは無意識のまま姿勢をかえた。
「ハッ!」
打ちこんだ。
今度は、刃はなにもない空間をなでて飛びすぎ、放物線を描いて地におちた。
亀裂があらわれたのは、それからであった。
「はやすぎたのね」
苦渋をおしころしてつぶやき、もう一度印をむすぶ。
打った。
瞠目すると同時に、心中で快哉を叫んだ。
“水の刃”は出現しはじめた亀裂の、まさに中心めがけて飛んだ。勢いも申し分ない。
成功を確信すると同時に──しかし刃は、はっきりと虚空に刻まれているはずの亀裂を背後におきざりにしてすりぬけてしまった。
壁に当たり──今度はそこに穴をうがった。
が、命中しても透過してしまうのでは、どれだけ威力があろうとまるで意味がない。
「どうして?」
失望に顔をゆがませる。
そのあいだにも、亀裂は痕跡をのこしながらゆっくりと移動した。
──同調しなさい。
ふいに、脳裏に言葉がひらめいた。
ハッとして、アリユスをふりかえる。
よろこび身もだえるレブラスを前にして、間断なく“風の槍”を打ちこみつづける背中が、遠くそこにあるだけだった。
が、その背中にシェラは再度うなずき、そしてもう一度、移動していく亀裂に向き直った。
同調する。
と同時に、音がきこえた。
みりぱちと、硬質のものを砕きながら何かがひそやかに移動していくような音だった。
その彼方に、激烈ないきおいで流動し、火花をちらす力にみちた存在がふたつ、感じられた。
──ダルガ……!
心中呼びかけ──
きっと顔をあげ、印をむすんだ。
呪文をとなえ、同調した異界めがけて、意念の内部で照準をさだめる。
ぴたりと、かけていた破片がおさまる感覚がふいにおとずれた。
「ハッ!」
気合いとともに、シェラは“水の刃”を打ちだした。
青い鋭利な刃が、宙を裂いて飛翔する。
いのる思いでその軌跡を追うシェラの耳もとに──ぱきりと、ガラスが砕けるような音がたしかにひびいた。
同時に、ひらいた亀裂が砕けて飛んだ。
その彼方に、異様ないろどりの渦まく混沌が、巨大な存在が苦しみもだえるようにうねっているのをシェラは見た。
亀裂は、かわききった泥土がはげ落ちるようにつぎつぎに砕け落ちながら、螺旋の軌道にそって移動をつづけた。
湖の上空に、さしかかっている。このまま移動しつづければ、その焦点は──
小島の“祭壇”だ。
「ダルガ!」
叫びながら追って走り──湖の直前でためらってたたらを踏んだ。
そして――目を見はる。
満々とたたえられていた青い粘液質の水が、ほとんど枯れかけていた。
──ようやく
闇の奥底で、地獄に通じるどこかから、それはうめくように口にした。
傲慢にガレンヴァールを嘲弄した少女の声音では、だんじてなかった。
──ようやくとどいたぞ。
深い、地鳴りのようなひびきのその声音が、歓喜をにじませそういった。
──力があふれるようだ。
そして何かが、巨大にゆらめく気配。
恐怖にかられて邪法師は、よろよろと無意識のまま後退した。
「あ……まさか……」
うごめく暗黒の存在が、まるでマグマが地中から噴き出すようにして膨れあがってくる気配をまざまざと感じながら、無意識のままぼうぜんとつぶやく。
「転生呪術……?」
だれか見知らぬひとがうめいてでもいるように、おのれのつぶやきを耳にした。そしてガレンヴァールは、うごめく存在が肯定して歓喜の哄笑を放つのを、たしかにきいた。
「あ……あ、父様」
暗闇の奥でその小さなからだを身もだえさせながら、少女が恍惚と口にした。
──還ってきた。
あふれ出る歓喜を爆発させ、それは宣告した。
切り刻みつづける疲弊も切り刻まれる恍惚もおきざりにして、アリユスとレブラスはひとしなみにぼうぜんと、同じ方角に視線をむけていた。
その先では、やはり闘争を中断したマラクとシャダーイルが同様にぼうぜんとした視線を、同じ線上にのせている。
その先──そそり立つ石柱の内部に、異様な気配がみちあふれていた。
「遊んでいる場合じゃないわね、レブラス」
その異様な存在に視線をすえたまま、アリユスは背中ごしに妖魔にむけて呼びかけた。
肉塊はこたえず、痴呆のように思考も感覚も根こそぎうばわれた視線を、石柱に向けていた。
はじける。
大音声。閃光。暗黒。腐臭。衝撃。
噴出した混沌がそこにいる者すべての意識を嵐のように擾乱し──
そそり立つ岩柱に、稲光のようにして縦一文字の亀裂がはしりぬけた。
左右に、裂けて崩れる。
その底から──暗黒が噴き出した。
暗黒の魔形が。
ずしゅうううと、無骨な動力機関が黒煙を吐きあげるようにして、翼をひらくごとく左右に大きく暗黒はひろがり──
ひらかれた闇の花道に、ひとつの小さな影が、はいだした。
どすぐろい血にまみれたその小さな影は──赤ん坊だった。
四つんばいで不器用にその小さなからだを運びながら、そのつぶらで邪気のない瞳で、おのれが生まれでた世界を感動にみちてながめやりでもするかのように、ゆっくりと睥睨する。
そのさくらんぼのような小さな口もとに──笑いがきざまれた。
天使のような笑顔であった。
そして赤子は、笑いながら──口にした。
「還ってきた」
歓喜の声音は、天使の歌声を思わせるすずやかさで、洞内にひびきわたった。
呼応して、赤子の周囲をつつんだ暗黒がゆらめいた。
「サドラ……」
アリユスがぼうぜんとつぶやき──
かぶせるように、三匹の魔が異口同音に口にした。
「おお、ヴァラヒダ!」
と。
転生呪術。
死界を経ることによって超越を手に入れる、究極の呪術である。
それを媒介にして、サドラ・ヴァラヒダが最凶の形で、その復活を果たしたのである。