エピローグ

 

 


 撹拌されて形をなさない混沌とした悪夢からさめてアリユスは、声もなく目をひらいた。
 陽光が、まぶしく目を射た。
 夢の底からさし染めてきた光の記憶を刺激され、目を細めながら首を左右にふった。
 上体を起こす。
 川原にいた。
 草深い。
 その、かなり丈の高い草が、クッションとなってアリユスのからだをささえているのであった。
 がさがさと草を鳴らしながら立ちあがる。
 もうろうとした意識が、はるかにたたずむユスフェラの山容をとらえた。
 ほとんど、ふもとのツビシの町に近い位置であるようだった。
 なにがどうなったのかさっぱりわからない。
 あれだけの巨大な存在がぶつかりあった以上、無事に切りぬけられるとはとうてい思えなかった。
 運よく生きのびたとしても、アリの巣のようにユスフェラの山の地底に築かれた洞窟は、あの大震動によって崩れ、下敷きにならずにはいられないはずだった。
 それが、ふもとに近いここに倒れていたのだ。
 きつねにつままれた面もちで周囲を見まわした。
 ほど近いところにダルガとシェラのからだが、やはり丈高い草むらに抱かれるようにして横たわっているのに気がついた。
 草をかきわけて近づき、それぞれが息をしているのを確認してホッと安堵し、さらに大きく周囲に視線を走らせる。
 見知った顔が、草むらの切れ目の砂利場に腰をおろしているのに気がついた。
 しわのたたまれた禿頭をぴしゃぴしゃとたたいているのは、野虫にでも刺されたからのようだ。
 ぶつぶつと文句をたれつつ、見える左眼でしきりに周囲を飛びまわる羽虫を追いながら、不器用なしぐさでやせた腕をふりまわす。
「パラン」
 ダルガとシェラを交互にゆり起こしながら、アリユスは微笑をうかべて呼びかけた。
「おう」
 ひどい猫背の老人は、うろんな笑みをその口もとに刻んでふりかえり、歩みよってきた。
「あなたのおかげかしら?」
 問いかける幻術使に、なんのことだと占爺は一度はとぼけてみせたが、少年と少女がいまだ夢の底にあると見て説明をはじめた。
「なに、あの老タグリとソルヴェニウスたちの挙動が、いってることと微妙にくいちがっているのはおまえさんも感じていただろう。だからわしは、屋敷で療養しながらも、それとなくあやつらの動静を監視していたのじゃ。すると、案の定、幻力が屋敷内で駆使されての」
 そして老タグリは巨漢の衛兵にかつがれソルヴェニウスをともなってあわただしく屋敷をはなれた。むろん、そうと目星をつけていたパランもひそかに跡を追い“青の洞”にたどりつく。
「そこでおまえさんがたが苦戦しているのに出くわしてな。いやはやアリユス、おまえさんもかわいらしい顔ににあわず、無鉄砲な真似をするものだなあ」
 にやにやと笑いながらいうパランに、アリユスもまたかえす言葉もなくただ笑顔をうかべるしかなかった。
「まあ、いずれにせよわしも、ほんの少しばかりなら見えぬ力を制御できぬでもない。なれば針で刺すほどであろうともおまえさんがたの無謀な試みに力をそえてやろう、とも考えないでもなかったが──万にひとつの目算が、ないでもなかったのでな」
「わかってるわ」と、アリユスは微笑みながら口にした。「最後の瞬間にわたしたちはどの一人も、もてる力を使い果たしていたから。もしわたしがその方法に思いいたったとしても、とても実行はできなかったはずだしね」
 事実、おぼろに打開策を思いうかべていたことをアリユスは今になってようやく思い出していたのである。
 すなわち、暗黒の龍を中心にして三つの大いなる存在がまき起こす、巨大なエネルギーの上昇気流のベクトルを、ほんの一部だけねじ曲げて制御すること。
 暴虐な力のかけらさえつかむことができれば、崩壊する地下世界を逃れて外界へと帰還することも不可能ではなかった。
 問題は、かけらであれその力と方向を制御することだったろう。
 あれだけの力の奔流の中で、出発点にほど近いこの位置に到着点をえらび、そしてみごとそれを実現させたパランの制御ぶりこそ、アリユスにとっては驚異であった。
 尊敬の念をこめて自分を見やる美貌の幻術使の視線を受けて、よせやい、とでもいいたげにばか笑いしながら占爺はしわだらけの体をよじらせた。
 うめきながら上体を起こすダルガとシェラに、助けを求めるように歩みよってぴしゃぴしゃと頬をたたいたりしはじめる。
「なんだ、じじい。生きていたのか」
 開口一番、にくまれ口をたたく少年にむけて応酬を開始した。
 そんな二人のじゃれあいのすきをぬって、アリユスは問うた。
「ところで占爺。ガレンヴァールはどうしたかご存じ?」
「おお、あの太った幻術使か」ぱんと手を打ち、占爺はいった。「あれならば、ヴァルディスの炎に化物が吹き飛ばされた時点で、尻に帆かけて逃げ出したようじゃよ。まったく、機を見るにさといとはあのことだな。おそらくはあれも生き延びて、いまごろはどこかとんでもない遠くをすたこら逃げていることじゃろうて。やれやれ」
 いってパランは、晴れやかに笑った。
 魔物どもや、欲に憑かれた人間たちとはまるでべつの意味で邪悪な存在だったが、どこか憎めないその容貌と言動とを思い出し、アリユスもまた声を立てて笑った。
「召還されたあの存在たちは、どこへいったのかしら」
 不思議そうに疑問を口にするシェラに、アリユスは真顔になってこたえる。
「おそらく、呼び出す前にたゆたっていたそれぞれの深い場所へと帰っていったのだと思うわ。つまり、すべてはもとどおりってことね」
「もとどおりってこともあるまいが……」
 暗い口調でつぶやいたのは、ダルガだった。
 ついに護りきれなかったエレアのことを思っているのだろう。
 元気づけるためによりそおうとしてアリユスは、その必要がないことに気がついた。
 一瞬、哀しみをうけて泣き顔にゆがんだシェラが、ふりしぼった快活な笑顔とともにダルガの背中をバン! と派手にたたいたのである。
「だいじょうぶです、ダルガ。あの娘も、最後には笑っていきました。──あなたのおかげで」
 いって、ダルガを真正面から見つめ、かわいらしくにっと笑ってみせた。
 ほのかに頬を染めながら、そうかな、と自信なげにつぶやくダルガの背中をもう一度どやしつけて、そうです、と笑いながら断言する。
 やがて、かたむきかけたティグル・ファンドラの炎が山稜にふれかけたころ、四人はつれ立って腰をあげた。
 それぞれの前に、遠い道が口をひらいて待っていた。



 ヴァオルの紅玉──了







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