マラク対シャダーイル

  ごふ、と、獣の鼻が炎のような息を吐きかける。
 光る凝視を投げかけたまま、アリユスは瞬時の乱れもなく呪文をとなえつづけた。
 一刻一刻、結んだ印形を呪文にあわせ、めまぐるしく変えていく。
 黒い巨魔がうなり声をあげて、手をのばした。
 淡い暖色の光を放つ魔法陣が、結界に妖魔の指先がふれたとたんに光を増した。
 かげろうのようにわきあがる閃光が、魔怪の皮膚にからんで燃えあがる。
 黒い皮膚が、またたくまに焼けただれて溶けおちた。
 骨がのぞく。
 その骨もほんの一瞬で、関節から砕け落ちるようにしてぼろぼろと崩れはじめた。
 ぐむう、とうめいて巨魔は手をひっこめる。
 感覚をもたぬ、と豪語した以上、痛みに退いたわけでもあるまいが、慈悲神ユール・イーリアの強力無比な護身輪に、魔怪たる身を浸食されてこの世から消え失せはてたのでは話にもならない、ということだろう。
 しゃふう、と威嚇の熱い息を結界内の幻術使にあびせかけ、獣の口をゆがめた。
「みごとな護法術だ。これならば七魔王とて破ることあたわぬだろう。が、これではおれたちを調伏するにはほど遠いぞ、幻術使。あきらめて失せるか? 追わぬ、とは保証せぬがな」
 嘲笑する。
 対してアリユスは、視線を眼前の巨魔にすえたまま、まるでよどみなく呪文をとなえるだけ。
 とまどいつつ背後でシェラも、師の援護のために唱和の姿勢をくずさない。
 シャダーイルはそんなふたりの様子をしばらくは無表情にながめていたが、やがていかにもいまいましげに獣の顔をゆがめて、うなった。
「おのれ」
 吐き捨て、口をがばとひらいた。
 ごはあ、と、内臓の底からしぼり出したような異様な声とともに、青い霧を吹きはじめた。
 とぎれめなく吹きだされる霧は、結界に護られた半球状の空間をとり囲んで、周囲に青々とみちはじめる。
 やがて、見えぬ壁の表面に異変がおこりはじめた。
 みちみちと、何かがはじけるような、溶けるような異様な音を立てはじめたのである。
 視線をやると、青い霧は結界の境界上で結露してつぎつぎに泡をはじけさせていた。
 それが見ているうちに、徐々に、徐々に、結界の有効半径をじりじりとおし戻しはじめているのである。
 ちらりと、アリユスの美貌に苦渋の色がうかんだ。
 見てとって、シャダーイルはふたたび嘲笑した。
「どうした、幻術使。ユール・イーリアの結界が魔力によっておし戻されるのが不思議か。それともきさまのような力もつ術使のことだ。この青い水の正体、すでに気づいているのかな」
 黒魔はアリユスの顔をのぞきこみ、呪文をとなえつつにらみかえすばかりなのを見て、顎をそらして笑った。
「そのとおりだ、幻術使。この水はヴァオルの血だ。打たれて散った地神の血液が、地下水とまじって凝固しかけたままたゆとうているのが、この青い湖の正体なのだ。ゆえに幻術使よ、われらユスフェラの魔もまた、生まれついての邪悪な妖魔というわけではない。なにしろ、神の血より生まれいでし存在なのだからな」
 声を立てて笑いながら、シャダーイルはいった。
「ヴァオルの血……?」
 背後でシェラがぼうぜんとつぶやくのを耳にしながらアリユスは、呪文をとぎらせぬまま心中歯がみする思いだった。
 幻視の地で大いなる存在と邂逅して以来、ユスフェラの山中にあるすべての異変がヴァオルの死とその際にまきちらされた血肉にかかわりがあるのでは、と見当はつけていたが、まさにこうして魔怪自身の口からそれを告げられては、救われぬ思いであった。
「さて、どうする幻術使よ。このままではいずれ遠からずおまえたちは結界を破られて青い湖にまみれ、のみこまるは必定。されば妄執による転生をのぞめぬおまえたちでは、うつろに輝く燐光となって永劫の空虚とともに“青の洞”の壁にただようおぼろな存在と化すのみだぞ。結界を解け。解いて、おれと闘え」
 いって黒い巨魔は、声を立てて笑った。
 シェラはすでに呪文を唱和することさえなかば忘れて、気味悪げに背後の壁に視線を走らせた。
 山腹にうがたれた入口からずっと、この深く底知れぬ洞窟の壁をおぼろに照らしていた燐光が、青い水の作用で変容したはての生物の姿だとすれば──この悪夢の深山はこれまでに、いったいどれだけの罪なきものの存在をのみこんできたというのか。
 みちみちとはじける音が、ゆっくりと近づいてくる。
 青い霧が結界を浸食する速度が、徐々にはやまってきたような気がしてシェラは、ごくりと喉を鳴らした。
 これまでか──と、アリユスもまた観念し、呪文をやめて印形を組みかえようとしたまさにその寸前──
「シャダーイル!」
 もりもりと粘液質の波を蹴立てて接近しつつ、黒い巨魔の背後からマラクが、憎悪とも歓喜ともつかぬ炎をその不吉な双眸に宿らせつつ叫んだのであった。
「シャダーイル! わたしを愚弄した怨み、今ここで晴らさせてもらうぞ!」
 歯をむき出しにして獰猛な威嚇の表情をうかべつつ、マラクは声高に布告した。
 困惑気味にふりかえった黒い巨魔が、皮膚の色こそたがえどほぼ復活をはたしたマラクの半身を目にしてひそかにうめき、鼻頭にしわをよせつつ赤い妖魔と正対した。
「マラク。外法師の口車にのってくだらぬ内輪もめをしているときではない」
 無機的な声音にどこかいらだちをこめて巨魔が口にする。
 きく耳もたぬ、とでもいいたげにマラクはずしりと、地響きを立てて岸にその巨体をひきずりあげた。
 炎がただよってきそうな、凄絶な笑みをうかべる。
「口車はわかっている」豪語した。「しょせんは人間ども。われらにとっては虫けらのようなものではないか。それよりもこの胸の痛みのほうがわたしにとってはよほど大事だぞ、シャダーイル! 立ちあえ!」
 わめき、威嚇するごとく大きく四臂をかかげた。
「人間どもとて」うめくように口にしながら黒魔は、ちらりと背後のアリユスに視線をむけた。「ゆめ油断ならぬ者はいくらでも存在する。われらがあるじ、ヴァラヒダを復活させる鍵となったのも、下界よりおとずれた欲にまみれた人間の妄執であることを、おのれは忘れたか、マラク。とりわけ今は、この幻術使を放置しておくわけにはいかぬのだ」
「きく耳もたぬ!」
 ぴしゃりと決めつけたマラクの怒りの形相が──ふいにアリユスたちの背後、この地底の大空間へと一同を導いた洞廊の方角にふと視線をそらして──
 笑顔にかわった。
「なればシャダーイル。肩代わりをさせればよかろう」
 そういった。
 赤い妖魔の不可解な言葉にシャダーイルはいぶかしげに背後をふりかえり──
「なるほど」
 得心したふうにうなずいてみせた。
 同時にふりかえったアリユスとシェラは、思いもかけず打開の方向に転換しかけていた展開が、むりやりもとに戻されたのを知って、深い絶望感を抱く。
 ずしゃり、ずしゃりと異様な音を立てて近づいてくるのは──レブラスの醜悪な巨体であった。
 く、とうめいてアリユスはついに呪文をとぎらせ、
「渦をまけ、風の槍! イア・イア・トゥオラの名にかけて!」
 叫びざま、放った閃光ではじけた青い霧を吹きはらった。
 シャダーイルが巨体をそらせて哄笑する。
「幻術使、残念だぞ、このおれの手でおまえを屠ることができなくてな」
 笑いながらマラクにむき直った。
「二百年ぶりになろうかな。このようにしておまえと手をあわせるのは」
「それほど時が経ったか」
 マラクも裂けるような笑みを満面にたたえつつ、四本の腕の開閉をくりかえしながら悠々とした足どりで前進した。
「このような地の底ですごしていては、時の経つのがはやすぎて困る!」
 わめきざま、巨体が突進した。
 シャダーイルは一歩も動かず、真正面からマラクの突進を受けとめた。
 赤と黒が地響きをたててぶつかりあい、にらみあった。
 歯をむき出す。
 ぐ、と、シャダーイルが両の手を頭上にさしあげた。
 にい、とマラクは笑う。
「腕二本分、ハンデをやろうかシャダーイル」
 嘲弄にとりあわず、黒い巨魔はさしあげた手をさそうようにふりまわす。
 マラクの赤い腕がふたつ、呼応した。
 ふたつの頭上で、がっちりと組み合った。
 赤と黒の筋肉が、はちきれそうにもりあがった。


 ぐふう、ぐふう、と耐えがたい臭気をまきちらしながら接近する醜悪な肉塊の山に正対し、アリユスは印を結びかえながら叫んだ。
「レブラス! ラッ・ハーイー・アの名にかけて“空の檻”にしりぞけ!」
 叫びと同時に、青い暗黒の底に収束する虹色の壁にむけて──肉瘤の集積によってできた妖魔は、汚物がはじけるような異様な音で対応した。
 びちゃりと、醜怪な妖魔の表皮が内圧に打ちだされるようにして弾け飛び、完成直前の“空の檻”に打ちかかった。
 パン、と小気味いい音とともに呪術の結晶がいとも簡単にはじけて消えた。
 ぐふう、と妖魔は顔面をねじ曲げて不気味な笑顔をうかべる。
「あの小人はいないな」ゆっくりと周囲をながめわたし、うれしげにそう口にする。「ならば、おれを阻むものはない」
 びしゃりと歩をふみだした。
 とっさにシェラは背後をふりかえった。
 小島の上に救援の姿を求める。
 消えていた。
 岩柱にぶざまにつりさげられていたはずのガレンヴァールはもとより、その柱の周囲をなすすべもなくちょこちょこと走りまわっているだけだった、あの金属質の螺旋の小妖物たちまでもがこつぜんと、その姿を消しているのだ。
 いぶかしく思い──小屋ほども直径のある岩柱の一部に、黒い穴が口をひらいているのに気がついた。
「祭壇……」
 つぶやき、そのことをアリユスに告げようと視線を転じかけて──
 発見する。
 頭上であった。
 そそり立つ石柱の頭頂近く──それは、金剛石の切り子面がふいに虚空にきざみこまれるごとく、何のまえぶれもなくあらわれた。
 何もないはずの空間に突如走った亀裂──
 見おぼえがあった。
 シャダーイルにつれられて魔怪と化したデュバルが出現する、まさにその瞬間に顕現した現象である。
 が──今度にかぎっては、亀裂が破れてその内部から魔怪があらわれることなく、虚空にうがたれた異様な紋様はうすれるようにしてみるみる消えていくのであった。
 ダルガ、とシェラは口の内部だけでつぶやく。
 すると、呼応するように、さきほどとはかなりはなれた空間の一点に、再度、あり得ざる亀裂がびしりとはしりぬけた。
 そしてまたもや──まるで一瞬のみ天空を引き裂いて消える稲妻のように、きざまれた亀裂はゆっくりとうすれて消えた。
 デュバルの魔力が作用したのか、この世界の裏側へと死闘の場は移された、ということらしい。
 そして悪夢のような闘争をくりひろげつつ“場”は、この世界への接点をかすめながら移動をつづけているのだろう。
「ダルガ!」
 叫んでシェラは反射的に走りかけ──アリユスとレブラスとの死闘が現に眼前で展開されていることを思い出して、われにかえった。
“風の槍”を肉の魔怪にむけてとぎれめなく放ちながらアリユスは、ちらりと横目でシェラを見る。
 背後でおこっている怪現象には、アリユスもどうやら気づいていたらしい。
 肩ごしにシェラに向けて小さくうなずくや、そちらの方角でおこっているできごとにはいっさい興味をなくした、とでもいいたげに背をむけ、切断されてもだえる妖魔をにらみつける。
 その背にうなずきかえし──シェラは移動していく虚空の亀裂を追って走り出した。


「おお!」
 頭ごしにもちあげられて投げつけられたシャダーイルの巨体が、ず、ずんと重い地響きをひびかせ洞窟を震撼させた。
 ぐふ、とうめきながら上体を起こしかけたところへ、上空から投下弾のようにマラクの赤い巨体がふってきた。
 肩口に、重い頭突きの衝撃がきざみこまれる。
 黒い巨魔の肉体が反動でふるえながら大きくバウンドし、大の字になった。
 は、は、は、は、と哄笑しながらマラクは立ちあがり、大きくひろげた手のひらをツノの渦まくシャダーイルの顔面にがしりと食いこませた。
 みちみちと、妖魔の頭蓋が音を立ててきしみはじめる。
 黒い喉が苦鳴らしきうめきを低くひびかせた。
 笑いながらマラクは残る三本の腕で巨体をおさえこみ、くわえこんだ頭蓋を圧搾する手のひらにいっそうの力をこめた。
 その哄笑が、徐々に、とだえていった。
 とだえさせたのは、力だ。
 合計四本の腕を駆使しておさえこまれた形のシャダーイルの上体が、壮絶なふるえとともに圧搾する力にまっこうから抗して、もちあがりはじめたのである。
「シャ……ダーイル!」
 上からおさえこむ形のマラクの声に、苦悶がきざまれた。
 頭蓋を圧搾されたまま、黒い巨魔の口もとに笑いがうかぶ。
 ぶつかりあう力と力の均衡が、じりじりとおし戻された。
 両者の表皮から、どす黒い汗が滝のようにしたたり落ちる。
 かみしめた奥歯の底にうめきをおしころし、筋肉が生きた山のようにもりあがった。
 四本の腕を駆使して上からおさえこむ有利にもかかわらず、マラクの圧力は黒魔の、機械のように着実な膂力にもちあげられて──
 ついに、赤い妖魔の均整のとれた巨体は、バーベルのようにシャダーイルの頭上にさしあげられた。
 ごお、と吼えた黒い妖魔の口から青いしぶきが衝撃となって、捕縛するマラクの手のひらに打ちかかる。
 思わずはずした瞬間に──投げられていた。
 湖にむけて。
 だぷ、と重い水をわって赤い巨体が沈み──
 起き直るよりはやく、黒い巨体の襲撃を受けた。
 軽々と宙に舞ったシャダーイルの巨体が、起きあがりかけたマラクの肉体を水中におし戻し、両者はもつれあったまま青い水の底になだれこむ。
 巨大な質量におし戻されて荒れ騒ぐ水面が、岸まで重い波をはねあげた。
 その水をわって、肉体と肉体が真正面からぶつかりあった。
 肩を腕を、全身をぶつけあい、そのたびに重い水がどろどろとのたうった。
 打ちかかり、たおれこみ、おり重なって水の底に沈み、腕をとり、脚をからめ、吼え猛り、なぐりあった。
 気づくのに時間がかかったとしても無理はなかっただろう。
「マラク!」
 肩関節を逆にとって背中側からおさえつけた形をとったシャダーイルが、ふと周囲を見まわして驚愕の声音で赤い妖魔の名を呼んだ。
 苦鳴をあげつつ、黒魔の声のただならぬひびきをききとり、マラクも薄目をあけて四囲に視線を走らせ──
 違和感を、驚愕に変える。
 二匹の妖魔はそうして、熱狂し没入しはてていたはずの互いとの闘争をも忘れはてて左右にわかれ──ぼうぜんと周囲に視線をめぐらせた。
「水が──」
 惚けた口調でつぶやくマラクの言葉を受け、シャダーイルも驚愕を全身にたたえたまま、無言でうなずいた。
 地の底の祭壇をかこんで満々とたたえられていたはずの青い湖が──潮がひくようにしてその水位を、みるみる下げていく。
 重い“ヴァオルの血”をたたえた湖がいま、枯れようとしているのであった。





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