地底の湖
道は曲がりくねりつつ徐々に降下していた。
ほどもなく下方の暗黒から、うめき声がひびきはじめる。
デュバルのそれかと二人は想像したが、ちがっていた。
ふいに、眼前が青くひらけた。
屋外に出たのかと一瞬錯覚したほど──広大な空間だった。
円錐状に天上はすぼまり、上限は見えない。
ただ青い燐光が雪のように音もなく無限にふり下ってくるばかりだった。
そして、対岸の見えない広大な湖がそこにひろがっていた。
青い、粘液質の湖であった。
シャダーイルの手のひらからしたたっていた粘液と、おなじ種類の液体であるようだ。
その巨大な青い湖の中心に、小さな島があった。
岩でできた一本の柱が、そこにそびえていた。
長大な──樹木を思わせる岩柱であった。
その、ちょうど中間あたりに、まるまると太った小柄な短躯が捕縛されてつりさげられている。
うめき声は、そこからきこえていた。
小島の、岩柱の根もとで“ガレンヴァールの息子たち”が途方にくれたようにちょこまかとうごめきながら頭上を見あげていたが、どうすることもできないようだ。
そしてシャダーイルは島の端に、黒い小山のようにうっそりと腰をおろしていた。
静かな視線を、侵入してきたマラクと二人の人間たちに向けている。
「シャダーイル!」
わめきながらマラクは、憤然とした足どりで歩をふみだした。
ゼリーのように重くたゆたう湖のなかへ無造作にふみこみ、足をいちいちぬくようにしてもどかしげに進んだ。
「あたしの獲物を好き放題にしてくれたようだね、シャダーイル!」
残された肩をいからせて、わめく。
ツノある黒い巨魔は、無機的な青白い視線を接近するマラクにすえたまま、微動だにしない。
「おのれ、シャダーイル!」
わめきながらマラクは湖を横断し、黒魔と正対した。
ぎろりと、青白い双眸がマラクをにらみあげる。
「おれと戦うか、マラク」
淡々とした口調で、シャダーイルはそういった。
にらみおろしたままマラクは、身じろぎひとつせず憤然とした様子で口をつぐんでいた。
が、音高く舌打ちをしてぷい、とそっぽをむいた。
「おぼえていろ、シャダーイル」
どうきいても負け惜しみにしかきこえないセリフを、口にした。
腹立ちまぎれに、ちょこまかとうごめく小妖物をかたっぱしから蹴りつけはじめた。
そんなマラクからは興味を失ったように、シャダーイルは岸にたたずむふたりの女に視線を向け直した。
にたりと、獣の口の端に笑いをうかべる。
「めざす場所はひとつだな」
そういった。
かなりの距離をへだてているにもかかわらず、声ははっきりとふたりの耳にとどけられた。
「つづきをはじめるか?」
「ダルガはどこですか?」
かぶせるように、シェラがきいた。
血痕は、下降の途中でとぎれてなくなっていたのである。
亀裂はあっても人が通れるようなわき道はなかった。
ここにきているはずだった。
にもかかわらず、シャダーイルはこたえなかった。
「デュバルはどうしたの?」
かわってアリユスが問いかけたが、やはり反応はおなじだった。
知っていてこたえずにいる、ということも考えられないではないが、そういうふうにも見えなかった。
そしてそれは、奇しくもつぎの質問に対する応答で証されたのである。
「エレアはどこにいるの?」
アリユスがそう問うとシャダーイルは無言のまま、背後を指さしてみせたのである。
巨大な、石柱を。
距離があってさだかではないが、成人男子が十人ほどよってたかって囲むことができるほどの太さを、その石柱はもっているように見える。
内部に、何かがあるのかもしれない。
が、近くによって確認するためには、少なくとも二匹の妖魔を撃退する必要がありそうだった。
そうと見てとってか──ツノある妖魔はにたりと笑って口にした。
「どうした、幻術使。おまえたちは、おれたちの調伏を依頼されてこの山にきたのであろう。そんなところにつっ立っているだけでは、それはかなわぬぞ。それとも、このおれのほうからそちらにいってやろうか」
ゆらりと立ちあがった。
これだけの距離をへだてていても、立ちあがったシャダーイルには圧倒的な量感がみなぎっている。
ぞぶりと、無造作に青い水をわって湖に分け入り、ゆったりとした動作で横断をはじめた。
ふ、と、アリユスがため息をつく。
「背中を見せるわけにはいかないわね」
シェラと視線を見かわし──懐中から、小袋をとりだして口をあけた。
炭塊のごとき黒いかたまりをとりだすと、自分たちの周囲を大きな円でかこった。
レトア文字を無造作に書きなぐりはじめる。
簡易だが、魔法陣の一種である。
シャダーイルが湖をわたりきるまでに手ばやく呪言を書きおえると、アリユスはシェラを背後にして魔法陣のまんなかに陣取り、結跏趺坐して印形をむすんだ。
呪文を口にする。
背後に立つシェラがそれに唱和した。
淡い、暖色の光が描かれた線をなぞるようにして、おぼろにうかびあがった。
「マラク、マラク」
荒れ狂い“息子たち”を蹂躙しまくる赤い妖魔に、頭上からうめきのあいまに声が呼びかけた。
ガレンヴァールである。
「わしはここにいるぞ、マラク」
うめきながら、そういった。
左手を支点に、巨大な釘様の岩で石柱に打ちこまれた状態であった。
右肩を完全に砕かれ、半身をだらりとたれさがらせた姿勢である。
顔面は紙のように白くなりはて、呼吸さえもよわよわしく、いまにもとぎれそうなまでに力をうしなっていた。が、その双の目にはいまだ炎が宿っている。
「マラク、きこえぬのか、マラク」
「うるさい、この腐れ幻術使めが!」癇癪をおこして、ずだんと地面を蹴りつけながらマラクが頭上をねめあげた。「きさまは、わたしに恥をかかせたのだ!」
逃げまどう異生物を力まかせに打ち砕きながら、わめいた。
「気の毒になあ、マラク」ガレンヴァールはうめきながら口にした。「おまえさんとわしとは、単に相性が悪かっただけなのになあ。実際、あのシャダーイルよりもおまえさんと闘っているときのほうが、わしはよっぽど冷や汗のかきどおしだったのだよ、マラク。あの黒山羊のできそこないなどより、わしにはおまえさんのほうがよっぽど恐ろしいのだ」
ぎろりと、剣呑な視線をマラクは頭上にむけた。
ふたつのこぶしを握りしめ、ぎりぎりと歯をならす。
「おまえ、あたしを嘲弄するのか?」
「そんなつもりはないとも、マラク」太った邪法師はへらへらと笑う。「だが、わしはおまえさんがあのシャダーイルを打ち負かすところをぜひ見たいと、こう思っているだけなのだよ」
「うまいことをいう」歯をむき出して凶暴な笑顔をつくり、マラクはいった。「あたしとシャダーイルを争わせれば、おまえたちには助けになるからな」
「とんだ誤解だ、マラク」ふるふるとガレンヴァールは力なく首を左右にふった。「わしとあの連中とは仲間でもなんでもない。目的はまるでちがうんだ。それに、わしだってこんな状態にされてしまってはもう手も足も出ないではないか。とんだ誤解だ、マラク。ただわしは、わしをこんなひどい目にあわせたあの黒山羊のできそこないが地面にはいつくばる姿なりと、せめて見てみたいとそう思っているだけなのだよ」
ふん、と鼻をならしてマラクは顔をそむけた。
にくにくしげにシャダーイルに視線をとばし、吐き捨てるように口にする。
「あたしとて、このからだがまともであったならば、獲物を横取りされたうっぷん、晴らさせてもらう。だが、あいにくとおまえに打たれて半身をもっていかれてしもうた」ぎろりと、ガレンヴァールをにらみあげた。「もとどおり生えそろうまでには時間がかかる。それまでは、腹わた煮えるがあれと互角にわたりあえるだけの力は、あたしにはない」
「そこだよ、マラク」と異国の幻術使は小ずるそうな追従笑いを顔面にはりつけ力説する。「見たところ、おまえさんがたの不死身の秘密は、その青い水にあると見た。どうだい?」
マラクはうたがわしげな視線で幻術使を見あげたが、否定はしなかった。
「その水につかりでもすれば、回復はずいぶんはやくなるのではないか?」
「そのとおりだが、それにしてもいますぐ、というわけにはいかん」
赤い妖魔は仏頂面でこたえた。
「ならば」とガレンヴァールはいった。「まずはそうしたがよかろう。そこで、取引だ。おおっと、そんなうさんくさげな顔をしてくれるな、マラク。この期におよんでわしがまだ何か悪さをするとでも思っているのか? わしはただ、このような苦しい状態から、どんな形でもいい、一刻でもはやく解放されたいとただそれだけを思っているだけなんだ。
そこでだ、マラク。このわしをここからおろしてくれれば、わしはおまえさんに回復呪文をほどこしてあげよう。妖魔であるおまえさんにわしの呪文がどれほどの効果をおよぼすかはわからんが──うまくすれば、おまえさんの肉体をすみやかにもとどおりにすることができるかもしれん。そうではないかね、マラク? おまえさんがたの回復力のはやさときたら、これはもう夢を見るようなものすごさだからねえ」
どうだい、と媚びるようにながめやり、すぐに苦痛にか顔をしかめてうめきをあげる。
そんなガレンヴァールを、マラクはいかにも疑わしげにながめあげていたが──やがていった。
「だまされてやるよ、幻術使。おまえの言葉どおりあたしの肉体が回復するのなら、おまえごときが何をたくらんでいようとどうにでもできるしねえ。それに、その薄汚いたくらみによっておまえ自身もなんらかの形で力をよみがえらせるんなら、この半身を裂かれた屈辱を晴らす機会もあたしは得ることになる。よかろう。だまされてやるよ」
いいおえるや、赤い巨体がとん、と地を蹴った。
巨体の倍以上もある高さまでマラクは軽々と跳躍し、ガレンヴァールを岩柱に固定した石釘をいとも無造作にひきぬいて、たぷたぷと肉ののった襟首を猫のようにわしづかむ。
とん、と地におり立ち、太った小柄な短躯を小島中央にほうり出した。
おうおうとうめきながらのたうつガレンヴァールを赤い妖魔は冷徹にながめおろしていたが、やがて一息ついたと見て呼びかけた。
「それでは約束どおり、呪文をかけてもらおうか、幻術使」
うめきながらもガレンヴァールは顔をあげ、うなずいてみせた。
「ああ、よいとも、よいとも。約束は守るよ、マラク。それではまずは、その青い湖につかってもらおうか」
うさんくさげに邪法師をながめやりつつもマラクは、指示どおり青い水のなかへとその巨体をしずめた。
ガレンヴァールははいずるようにして水辺に位置をしめ、目をとじて奇怪な異言の呪文をとなえはじめる。
ほどもなく、マラクが「おお」と歓喜の声をあげた。
炭化した傷口がむずむずとし出した、と思いきや──そこからみるみる、薄紅い皮膚がもりあがりはじめたのである。
やがて数分と経たぬうちに、やや色がうすいほかは以前と寸分かわらぬたくましい半身と二臂とが、むくむくと生えそろっていた。
にい、とマラクはふたたび力にあふれた獰猛な笑みをうかべて、立ちあがった。
ぞぶりと、青い水面に重い波紋がわきあがる。
「とりあえずは礼をいうぞ、幻術使。おまえの死はシャダーイルのあとだ。せめてもの感謝のしるしに、苦しませずに殺してやる。待っていろ」
好きかってなセリフを吐いて、ぞぶぞぶと青い水をかきわけはじめた。
遠ざかるその背中をながめやりながら、ガレンヴァールは紫色に変色しかけた舌で力なく唇をぞろりとなめあげ、ひとりつぶやいた。
「さて、この賽の目はどうでるか、だが」
そしてくるりとふりかえり、そそり立つ巨大な岩の柱に視線を投げかける。
よろよろと立ちあがり、生きのびた数匹の“息子たち”を従えてその表面によりかかった。
「ここか」
つぶやき、岩面をなであげる。
「たしかに、入口があるようだが」
見つけた切れ目に指をはわせつつ、それをどうやってひらくか思案しはじめた。
「手札をあつめておかぬことには、わしが勝負の場にからむことが不可能になりかねんからな」
つぶやき、はいずりながら一帯を調べはじめた。
ほどもなく、小さな歓声とともに禁断の扉がひらきはじめた。