暗黒の顎

 打ちつけられた壁の足下に、暗黒が巨大な顎をひらいていた。
「浮遊呪文!」
 となえつつ、アリユスはすばやく印を組みかえる。
 左右につづけざまに叩きつけられたシェラとガレンヴァールにも、呪法の作用界を拡大した。
 その一瞬のみ、敵から注意がそれた。
 気がついたとき、永劫の過去よりそこに佇立していたのだ、とでもいいたげに、シャダーイルの巨体が眼前にたたずんでいた。
「第二の生がほしくはないか」
 無機質な、重い声音が、奇妙なセリフを口にした。
 巨大な手のひらを上に向け、鉤型に曲げながらつきだした。
 五指の端から、とろとろと青い異様な粘液がこぼれおちる。
「飲めば、新しい階梯がひらける」
「どうかしら」とアリユスは浮遊呪文のリズムをくずさぬよう言葉を口にのせる。「デュバルのようには、なりたくはないわね」
「われらの仲間になるには」
 こたえて巨魔は、獣の口もとにかすかな笑みのようなものを刻んだ。
 嘲笑のようにも見えた。
「妄執が必要だぞ」
 すると、反論をうしなったアリユスにかわって、ガレンヴァールが口をひらいた。
「それならば、わしなどは資格ありだな」
 にたりと笑い、か、と口を大きくあけた。
 吐き出された闇が、暗黒の球と化して回転しながらシャダーイルに襲いかかる。
 巨魔が、笑った。
 笑いながら、さしだした手を遮るようにしてあげた。
 とろとろとこぼれ落ちる青い粘液が──意志あるもののように、ぐわりと八方にひろがった。
 暗黒球をのみこんだ。
 のみこんだまま、びゅるびゅると収縮する。
 またたくまにこぶしほどの大きさにちぢまって──巨大な手のひらの上に帰還した。
「仲間になるか」
 黒い獣が笑いながら邪法師に問うた。
 ふん、と短躯の幻術使は鼻をならしてせせら笑う。
「おまえたちとて、大いなる存在の残滓をあびてかりそめの不死身を手にいれただけの卑小な妖物にすぎまい。わしはおことわりだな。“ヴァオルの紅玉”のほうがいい。──息子たちよ!」
 叫びに呼応して、闇中から渦をまいた奇怪な金属生物がわらわらと出現した。
 黒い巨体にむけて殺到し、あっというまにすきまもないほど密集した。
「どうだ、妖物!」ガレンヴァールは哄笑した。「わが息子たちは不快であろう! 肉の内から腐っていくのはそういう感覚だぞ! 生きながら臓物をかきまわされる感覚、存分に味わうがよいわ!」
 わめきながら太鼓腹を抱えて笑いつづけた。
 そのまま、すうと宙を移動してうごめく“息子たち”のかたわらに浮遊する。
 すでにアリユスの呪法圏内からは離れていた。自力で浮遊しているらしい。
「さて、それでは」と、ふいに笑いやんでじろりと幻術使を見やり、口にした。「さっきのつづきといこうか。“紅玉”を──」
 そこまでいいかけ──眼前のアリユスとシェラの顔にうかんだ、あっけにとられた表情を見て口をつぐみ、側方に横目をむける。
 丸顔にうかんだいぶかしげな表情が、あけっぴろげな驚愕にとってかわった。
「ばかげている……」
 ぼうぜんと口にした。
 硬質に渦をまいた金属製の異生物の小さなからだを、まるで貝料理かなにかのようにつまみあげて丸飲みにしたツノある獣の顔が、ガレンヴァールの驚愕の表情を見てにたりと笑った。
「悪くはない」
 うっそりと、そう口にした。
「おまえ……」
 あんぐりと口をひらきながらガレンヴァールは、ぽちゃぽちゃとした指でぼうぜんとシャダーイルを指さした。
「そんなことをして……発狂せずにいられるのはなぜだ……?」
「こたえよう」
 また一匹を巨体からひきはがして口もとに運び、ぺろりとのみこんでからシャダーイルはいった。
「レブラスは感覚の権化だが、おれにはいっさいの感覚が欠如している。不快も、恐怖も、快楽も」
 ぎろりと、青白い光を放つ黒目のない両の眼が、無機的な視線をガレンヴァールにすえた。
「教えてもらいたいものだ。不快とは、どういうものなのだ?」
 口にしながら、無造作に黒い手をのばした。
 あっけにとられていた一瞬のすきを、ガレンヴァールはとらえられた。
 我にかえったときは、肩口をその巨大な手のひらに捕縛されていた。
「お……この妖物めが!」
 叫びながら、か、と暗黒を吐きかけた。
 瞬時に、青白い液体がその黒い皮膚から沁みだし、黒球をのみこんで消滅した。
「ほかに手品はできるか?」
 黒い巨魔が、抑揚を欠いた口調できいた。
 同時に、絶叫が闇を裂いた。
 めきばきと骨の砕ける音が、その基底にはひそんでいた。
 捕縛した肩を黒い巨大な手が、いとも無造作に握りつぶしていくのである。
 口もとをおさえて顔をそむけるシェラをかばうように背後によせながら、アリユスは刃の視線を黒魔に向けた。
「シャダーイル!」
 凛と、呼びかけた。
 獣の顔が、鼻先から息を吐く。
「名を本質として呼びかけ、応答を得たことにより攻撃呪術を打ちこむか」
 ガレンヴァールの肩口をぎりぎりとしめつけたまま、淡々と口にした。
 身がまえるアリユスの美貌に、苦渋が走る。
 にい、と、妖魔は笑った。
「図星をさされてかえす言葉もない、か。よかろう。のぞみどおりこたえてやろう。わが名はシャダーイル。獣の王なり」
 嘲弄するごとく、名乗りあげながらずいと一歩をふみだし、胸をそらした。
 くちびるをかみしめて印形を組みかえたアリユスが──ふいに、硬直する。
 表情が、変化していた。
 単純な事実にふと気づいた、とでもいいたげな顔だった。
「そうよね」
 と、つぶやいた。
 いぶかしげに目をすがめる獣面を前に、にっこりと笑ってみせる。
 それがふいに、真顔に戻った。
「シャダーイル!」
 もう一度叫んだ。
 にたりと笑って、おお、と化物がこたえると──
「さようなら」
 にっこりと愛想笑いをうかべて、そういった。
 瞬間──浮遊する幻術使とその弟子の像が、無数に増幅した。
 おお、と目をむく漆黒の妖魔の周囲をうめつくし、幻像はいっせいに、さようなら、と口にする。
「待て!」
 叫びつつのばした黒い手の先で──瞬間、すべての像が消失した。
 とり残された青い闇の底に、間の抜けた沈黙がどっしりとのしかかった。
 ぐ、ぐうと、獣の黒い喉が異様な音を発してうめき上げ、同時に捕縛されたままのガレンヴァールが再度絶叫を口にのせて闇に吐き出す。
「嘲弄された」
 渦状の巨大なツノをふりたてながらシャダーイルはうめくように口にし、そしてにたりと笑った。
「逃げたわけでもあるまい。逃げてもむだだが」
 そして、邪法師を捕縛したまま、ずしりと歩をふみだした。
 奈落に口をひらいた巨大な穴にむけて無造作に足をふみだし──落下した。


 寸時をおいて、おなじ場所にアリユスとシェラの吐息がひびいた。
 す、と、青い闇のなかにおなじ姿勢で浮遊したままの二人の姿が復元する。
「消身呪術──相手がこまかいことにこだわってくれなくて、助かったわ。気配をさぐられたら、一発で見つかってたはずだから」
 感嘆の視線で自分を見るシェラに、アリユスは苦笑しながらいって、足場のある位置へと移動する。
 どうする、と視線で見かわし、シェラがもと来た方角に視線を向けた。
 やはり、ガレンヴァールよりはダルガのほうが気にかかるらしい。
 アリユスはかすかに微笑みながらうなずき、二人は立ちあがる。


 死闘の場にはダルガの姿も、デュバルの姿も見あたらなかった。
 骨格を鋭利にとぎすましたがごとき、異様な刃が無数に、おれ砕けてちらばっているばかりだ。
「どうしたのかしら」
 心配げにつぶやくシェラのかたわらで、アリユスは冷徹な視線で床上を追った。
 点々と、血の跡がつづいていた。
「これは──」
 シェラが絶句する。
 二人は顔を見あわせ、うなずきあってその血痕の追跡を開始した。
 が、いくばくも進まぬうちにその背後から──巨大な影が音もなく接近した。
 いちはやく気づいたのは、やはりアリユスだった。
 くるりとふりかえり、身がまえる。
 その美貌に、驚愕がうかぶ。
「マラク──」
 ぼうぜんとつぶやいた言葉に、赤い巨体がぎろりと白い凝視をむけた。
 マラクの巨躯は、どす黒く染まっていた。
 力にあふれた筋肉に鎧われた肉体が、どすぐろい妖魔の血にまみれていたのである。
 そして、おどろいたことに──左半身が、えぐられたようにしてなくなっていた。
 四臂のうちの二本もなくなっている。
 首わきから腿近くまで──切断面はささくれ、焼け焦げたように黒く炭化していた。
 人間であれば、とっくに死んでいるだろう惨状であった。
 ガレンヴァールの呪力の凄絶さを物語っている。
 同時に、そのガレンヴァールの攻撃をいともあっさりと防いでしまったシャダーイルの底知れなさをも想起させた。
「あの男はどこにいる」
 憎悪にみちた視線が、二人に問いかけた。
「あ……地下へ……」
 迫力に圧されて思わず、シェラがこたえる。
 アリユスが補足した。
「シャダーイルがつれていったわ。あちらにある竪穴の中よ」
「祭壇か」
 マラクの言葉に、アリユスとシェラは思わず顔を見あわせた。
 気づかぬげに赤い妖魔は、ぎりぎりと音を立てて歯がみした。
「シャダーイルめ。あれはわが獲物だ。手出しは許さぬぞ」
 炎のただよってきそうな口調で、吐き捨てた。
「あら残念ね」思わずアリユスは口にした。「ガレンヴァールの攻撃はぜんぶ、シャダーイルに敗れたわ。その上、彼、肩を砕かれて半死半生よ」
 侮蔑の意図があったわけではないが──ぎろりと、獰悪な視線がアリユスの頭上から下った。
 憎悪がそのまま、ハンマーの一撃と化して下ってきそうな凝視であった。
 殺されるか、と思ったが──ながい凝視の後ふいに、妖魔はぷいと顔をそむけて歩きだした。
 血痕のつづいている方向へと。
 ふたりは顔を見あわせ、こっそりと妖魔のあとについて歩きだした。





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