邪法師哄笑
下降をつづけながらアリユスは、水が重くなりつつあるのを感じていた。
奇妙な形容だが、ほかに表現のしようがない。
たとえばたゆたいや波紋が、徐々にその速度を重くしていくような印象をうけたのだ。
青く淡くかがやく壁際をつたっておちる流水が、奇妙に、糸をひくようにそのねばりをほんのすこしずつ、増していくように思えるのである。
まといつく巨大な粘塊に向かって下降していくような印象が、つきまとって離れなかった。
ヴァオル、と心中で呼びかけてみた。
呼びかけながら、懐中のかくしにしまった、紅の珠に手をのばした。
どくん、と、鼓動をうったような気がした。
「あなたの肉体の破片が──」
思わずつぶやいた。
先をいくダルガとシェラがふりかえる。
けげんそうに見つめるそのさらに先から──
呼び声を耳ざとくききつけたのかもしれない。
幽鬼のごとき眼光が、まっすぐにアリユスをさしつらぬいていた。
幻術使はあわてて懐中から手をぬいた。
見られてはいない。
だがアリユスは、その術使が見かけとは比較にならぬほど危険な存在であることを知っていた。
シェラの話から、彼が何を求めているのかもわかっていた。
「ガレンヴァール」
呼びかける、というよりは思わずつぶやいてしまったように、アリユスは口にした。
ダルガとシェラが、眉間によせたしわをいっそう深くして向き直り──
小太りの短躯がたたずむのを見て、ぎくりと歩みをとめた。
ダルガは思わず剣をぬいて身がまえた。
錯覚だったのかもしれない、と、剣をかまえた瞬間にそう思った。
敵意と憎悪にみちた眼光を、ザナールの彼方からきた太った術使がうかべていたような気がしたのだが──ガレンヴァールはあの底知れない好々爺然とした笑みをその丸顔にたたえているだけだった。
「やあ、おまえさんがた。どうやら無事にきりぬけたようだね」
「無事にきりぬけたもくそもあるか」憤然とダルガはいった。「あんたはおれたちがいるのもかまわず、おそろしい攻撃をしかけてきたんだぞ」
忘れたのか、といった。
いやいや忘れるもんか、と丸顔の幻術使は軽く笑う。
「なに、あれくらいのことで死んでしまうような者では、このユスフェラの山の胎内深くまでわけいることはできなかったろうさ。わしにはそれがわかっていたから、おまえさんがたの存在を気にすることなくあのおそろしいヴァラヒダの魔の一匹に攻撃をしかけることができたということさね。事実、おまえさんがたは元気じゃないか」
にこにこと笑いながら、ぽちゃぽちゃした指でダルガとシェラとを指さす。
け、と口にしながらもダルガは剣を革帯にもどした。警戒は解かなかったが、敵だという確信もあいかわらずもてなかった。
「マラクはどうした」
一見無傷にしか見えない幻術使の全身をじろじろとながめわたす。
「逃げられたよ」ガレンヴァールは悔しげな顔をして首を左右にふった。「もっとも、あのまま闘いつづけていればわしが勝っていたとも、いえないんだがね」
「謙遜だな。どう考えても、あの化物相手に一方的におしまくっていたとしか見えなかった」
うさんくさげにいうダルガに、ガレンヴァールはいやいやいやと手のひらをひらひらとふる。
「まあ、わしの“声”で切りとった空間にあやつめの肉体の半分をでもとりこめれば、たしかにわしの勝ちとみてまちがいはないんだがね。それでもあれは、あの巨体に似合わずすばやいし、逆にあの膂力に抱えこまれでもしたらこのわしのひ弱な肉体など一瞬にして抱きつぶされてしまうこと、確実だったからねえ。死の抱擁さ」
術使は太鼓腹を抱えて大笑した。
あきれ顔ながらも、ダルガはとりあえずきくことがなくなり、一歩退いた。
かわって前に出たのは──アリユスだった。
「はじめまして、ガレンヴァール。話はふたりからきいているわ」
「ほうほう。これはご丁寧にどうも。おまえさんは、このふたりのお連れさんかね?」
「ええ。アリユスといいます。どうぞよろしく」
笑いながらアリユスは手をさしだした。
だが──目だけは笑っていなかった。
ガレンヴァールと同様に。
異国の幻術使もさしだされた手を気安げに握りかえしながら、目をまるくしてわざとらしい驚愕の表情をつくってみせる。
「おお、もしかして“風のアリユス”と呼ばれる術使さまかい? これはおどろいた。イシュールでも一、二をあらそう有名なおんかたじゃないか。これはこれは、お会いできて光栄至極」
ぶんぶんと握った手を上下にふりまわす。
されるがままにしながら、アリユスは視線から警戒を解こうとはしなかった。
「あなたこそ、斯界ではずいぶんと名の売れたおかたでしょう?」刺すような視線を、正面からガレンヴァールの丸顔にすえた。「不死の探求者。暗黒をふりまく者。“闇の邪法師”ガレンヴァール。イシュールにいらしたのが半世紀ほど前──しかも、ユスフェラの山にこもられたのがずいぶんむかしの話、ということになると、現実に下界でご活躍なさった期間はごく短いはずなのに、ご高名はフェリクスの向こう側までとどろいているようにきいていますわ。噂半分だとしても──恐怖を禁じ得ませんわね」
光る目をすえたまま、にっこりと笑う。
一瞬──まるまるとした愛嬌たっぷりの顔に、凶猛な表情がうかんで消えた。
「さて、あまりよろしくない噂ばかりをお耳にされたようで」短躯の幻術使は、もとどおりの笑顔を満面にうかべて快活にいった。「これも人徳のなさと、恐縮するばかりですな、風のアリユスどの。ところで」
と、ふいに真顔で口にした。
微笑みながら見かえすアリユスの全身をまじまじと見やり、
「おまえさまは、この山でなにか特別なものを手に入れられましたかな?」
きいた。
アリユスはけげんそうな顔をして問いかえす。
「特別なもの? それはたとえば、どのような?」
「たとえばも何も」ガレンヴァールは、この男にしてはめずらしく何かにいらついてでもいるかのように、そのたぷたぷとした短躯を神経質にゆすりはじめる。「“ヴァオルの紅玉”です」
ずばりといった。
「その名はシェラからききました」とアリユスはそしらぬていでこたえる。「なんでも、この山のどこかに秘められた、ひき裂かれた地神の肉の一部であるとか。でも、わたしはそれがどういった形状をしているのかも知りませんし」
「それはわしにしても同様ですがな、アリユスどの。しかし“紅玉”というからには、そのような色をして玉の形をしたものであるのでしょう。どうです? おぼえはございませんかな?」
いって笑いながら──ぎろりと、異様な眼光をその目にたたえさせてアリユスをにらみつけた。
妄執に病みつかれた幽鬼の視線だった。
思わずシェラは両手を口もとによせ、ダルガは剣の柄に手をあてた。
が、その眼光をむけられたアリユス自身は平然としたまま、すずしい顔をして逆に問いかえした。
「法師さま。そのようなものをあなたはいったいどうなさるおつもりですの?」
すると──ザナールの彼方からきた幻術使は、ぎ、と歯をむき出しにした。
アリユスにかみつきそうな表情だった。
「アリユスどのには、関係ございますまい」
獣のように歯をむいたまま、ガレンヴァールはこたえた。
アリユスはひかなかった。
「そうとも思えませんわね、ガレンヴァール──闇の邪法師」つ、と、一歩身を退かせながら、ことさらに高慢な口調で呼びかけた。「きくところによると、法師さまは仕える神をもたぬ真実の探求者である、とか。そしてその目的は──永遠の闇に世界をつつみこむこと」
ほほう、と、ガレンヴァールは大げさにのけぞってみせた。
にい、と裂けるような笑みをうかべる。
その笑みの奥底から──黒い闇がのぞいていた。
「それはつまり、どういうことですかな?」
問うた。
アリユスは笑いながらこたえる。
「この世界を統べるものから──バレースをうばうこと。すなわち──暗黒神をも凌駕してひとり、世界を手中にすること。と──そのようにおうかがいしたのですが?」
くくく、くく、と、短躯の幻術使は喉をならして笑った。
「世界などわたしはいりませんよ」
そういった。
「わたしが欲しいのはただ、真実。誤解が横行しておるようだ。わたしは神になどなりたいと思っているわけでもないし、このような世界など欲しいとも思わない。ただ真実を知りたい、それだけです」
「真実を知ること」とりあわず、アリユスはいいつのる。「すなわち神になること──ではありません?」
「哲学問答などどうでもよいことではございませんかな、アリユスどの」いらいらとした口調で、ガレンヴァールはアリユスをさえぎった。「それよりも、こたえをまだいただいていないような気がするのですがな。“ヴァオルの紅玉”を、あなたはごらんにはなりませんでしたか? ん?」
ずい、とつめよった。
アリユスはさらに一歩を退きながら、幽鬼のごとき表情で前進してくる奇怪な幻術使に、にっこりと微笑んで見せた。
「見ましたとも」
ほほう、と、ガレンヴァールは妄執にみちた目をまるくした。
からかうように笑いながら、アリユスはさらに言葉を重ねた。
「それも、ここに」
いって──ふところに入れた手をさしだした。
白い手のひらの上に、紅の珠。
瞬間──
“闇の幻術使”が奇声を発した。
歓声とも、悲鳴ともつかぬ声であった。
わめきながら、やけに短い腕をさし出した。
舞いのような動作で優雅に、アリユスはさし出された手から身をひいた。
短躯が宙をつかんであたふたと泳ぐ。
いきおいあまって壁によりかかり、ふりむいた。
憎悪が、そして妄執が、その顔貌いっぱいにひろがっていた。
「それをわたせ」
「おことわりしますわ」
笑いながらアリユスがこたえる。
ガレンヴァールは怒気を満面にうかべ、歯をむき出した。
「では、おまえはわしの敵だね」
いって、大口をあけた。
「あぶない!」
ダルガとシェラが異口同音に叫ぶよりはやく──
ガレンヴァールの口腔内から、闇が吐き出された。
ごう、と異様な音とともに壁の一部がアリユスごと暗黒にのまれた。
「アリユス!」
シェラが悲鳴を発し、ダルガも目をむきつつ剣をぬいた。
半球状にえぐられた壁の内部には、アリユスの痕跡もなかった。
──そして“紅玉”も。
「おのれ」
歯をむき出してふりかえるガレンヴァールの眼前に──
美貌が、微笑んだ。
無数に。
「“紅玉”はここですわ」
微笑みながら宙にうかんだ、いくつものアリユスの幻像。
それが、からかうようなしぐさで無数の珠をさしだしてみせた。
おのれ、とうめきながら、ぎちぎちと歯をかみしめる音がきこえてきそうな顔でガレンヴァールはいった。
「めくらましか!」
わめき、ごうと闇を吐いた。
吐きかけられて幻は瞬時ゆらめき、ふたたび無数にうかびあがる。
微笑みながら、無数に珠をさしだしていた。
アリユスは無事と見てダルガは剣を革帯にもどし、シェラとともに闇黒の襲撃から身を避けることに専念した。
が、ガレンヴァールはやみくもに攻撃をくりかえすのをやめ、瞑目した。
「そこだ!」
ふいに、くわ、と眼を見ひらき、指さした。
待っていたように、洞内からわらわらと“息子たち”が出現し、三人からは死角になっていた曲がり角のむこう側に殺到した。
避けるように、アリユスが身軽い動作であらわれた。
追って螺旋状の銀色の小妖物がちょこまかとあらわれたが、アリユスの身にふれる寸前、見えない壁にはじかれるようにしてころころと地にころがる。
「さすがは“闇のガレンヴァール”」不敵に笑いながらアリユスはいった。「なかなかすなおには、だまされてくれないのね」
にたりと笑って太った幻術使もこたえる。
「アリユスどのもまた、風評以上に剣呑なおかたのようですなあ」妄執を顔面にはりつけたまま、笑いながら腕を組んでみせた。「さて、おたがいにとりあえずは手詰まりのようだが?」
「ためしてみましょうか?」
口にして、アリユスは真顔にもどり──印をむすんだ。
笑いながら、ガレンヴァールも身がまえる。
だが、アリユスが呪文を口にしはじめるよりはやく──
かたわらの壁が、爆発した。
瞬間アリユスは、すばやく珠をふところに隠す。
ぎくりとふりかえったガレンヴァールは、短い足をよちよちと駆使して距離をとり、身がまえた。
もうもうと立ちこめるほこりのむこう側から、地獄の亡者がうめき上げるような、不気味な声音があがっていた。
苦鳴とも、呪詛の詠唱ともとれる異様な声だ。
「これはなんだ?」
身がまえたまま、ガレンヴァールがだれにともなく問いかける。
むろん、アリユスをはじめ、だれひとりとしてこたえることのできる者はいなかった。
そして──
もうもうと吹き上がるほこりのむこうから、黒い巨影がうかびあがりはじめた。
圧倒的な量感。
吹きつける熱風のごとき猛悪な存在感。
むっとした野獣の臭いが、ただよってきた。
のそりと、その巨大な影が歩をふみだす。
全員が、反射的にあとずさっていた。
その中へ、まるで従者がむかえる城へ凱旋する王のような足どりで、巨影はさらに一歩をふみだした。
異様な光沢を放つ黒い皮膚。
馬科の獣のながい顔。
青白い光を放つ光彩のない双の眼。
そして、頭頂の両わきに、螺旋状に渦をまいた異様に太い巨大なツノ。
「シャダーイル……」
ぼうぜんと目を見ひらいたまま、魅入られた口調でアリユスがつぶやいた。
蒼白の眼光が礼をとる臣下に対するように、鷹揚にうなずいてみせた。
ぶあつい胸の上で腕を組み、一同を睥睨する。
シャダーイル。
ヴァラヒダの、第三の魔。