奥殿
大きくひらかれたガレンヴァールの口内から──うずまく闇が、吐き出された。
ごう、と音を立てて襲いかかる闇からすばやくマラクが身を避ける。
闇は壮絶な振動をまき起こしながら広間の岩壁にたたきつけられ──
えぐりとった。
青い微光にみたされた洞窟の内部に、火球が溶かしたような巨大な半球状のえぐれが、真っ黒にうがたれた。
なめらかな表面はガラスのように光をくろぐろと反射している。
マラクのみならず、ダルガもシェラも目をむいた。
異様な力であった。
ほほ、と、その力を発揮した人物が笑った。
「すばやいな、化物」
いって──ふたたび、闇を吐いた。
ご、と宙をえぐるようにうずまく闇が妖魔と──その射線上に偶然位置していたシェラにむかって、牙をむいた。
妖魔は身軽く飛びのき──
ダルガは、体当たりのいきおいでシェラに飛びつき、そのまま少女を抱いてころがった。
暗黒の穴がまたひとつ、壁にうがたれた。
「ガレンヴァール!」
非難の口調で、ダルガは叫んだ。
こたえは──哄笑であった。
か、か、か、か、と喉をならしながらガレンヴァールは、腹をそらして笑った。
「運というものがある」笑いながらガレンヴァールは、傲然といい放った。「おまえさんがた、それを試すいい機会だよ」
いって、か、か、か、か、と笑い──みたび、闇を吐いた。
マラクはころがりながらそれを避け──怒りのうなりをあげながら、ガレンヴァールの短躯に突進した。
小柄な丸いからだが、弾き飛ばされた──と見えた瞬間。
まるで──糸につりあげられるように、ガレンヴァールの短躯が、すうと宙にうきあがった。
すうう、と音もなく大空間のなかばまで浮遊した。
そして、太鼓のような腹をそらして笑いながら、空中からうそぶいた。
「このわしを甘く見るのは勝手だよ、諸君。グラクラドでも最大の幻術使と崇められ、尊敬と畏怖とを一身にあつめた“闇のガレンヴァール”の名も、このイシュールでは知られてはいないしねえ。甘く見るのは自由さ。しかしその代償は──消滅だ」
いって哄笑し──そして、目をむきながら、か、と闇を吐いた。
ころがり避ける三者の中心に、黒い穴がごりごりときざまれ──岩の床に、ふいに亀裂がはしった。
「お?」
予想外の現象に空中で、ガレンヴァールは目をむいた。
うがたれた黒穴を中心に、床はみるみる陥没し──崩れ出した。
底がぬけたのである。
これは意外、といかにもおかしげにガレンヴァールが口にした。
そのけたたましい笑い声が、頭上はるかに遠ざかっていくのをダルガとシェラはきいた。
のみこまれた無数の瓦礫とともに、二人は抱きあったまま落下する。
轟音が四囲をつつみ、三半規管が撹拌されて意識が混濁した。
どれだけの時がたったのかはさだかではない。
ふと気がつくと、静寂が周囲にあった。
おそるおそる目を見ひらく。
瓦礫の山にのまれて地に横たわる自分たちを想像したが、ダルガもシェラも、抱きあった姿勢のままだった。
青い光の中にもうもうとほこりが立ちのぼっている。
その光景が──まるでガラス一枚へだてたむこう側のように見えていた。
ある意味で、それはまさしく言葉どおりであった。
すなわち──目に見えない壁のようなものが、ダルガとシェラの周囲に球状に配されて、衝撃と落下する岩塊からふたりを救っていたのである。
ガレンヴァールのしわざか? と思わず頭上を見あげたが、浮遊する太った幻術使の姿はどこにも見あたらない。
ダルガとシェラは抱きあったまま顔を見あわせ、とまどいもあらわに周囲に視線を走らせた。
瓦礫とほこりのむこうにうっすらと、青い燐光がひろがる。
頭上の、マラクとガレンヴァールの異様な決戦のおこなわれた大広間ほどのひろさの空間であるようだった。
か、か、か、か、と、ガレンヴァールの哄笑が遠くからひびいてきた。
視線をこらすが、見あたらない。
ときおり何かが崩れるような底ひびく音がきこえてくるところを見ると、どうやらマラクとの異様な戦闘はまだつづいているらしい。
ダルガは、立ちあがった。
瞬間に、見えない壁がはじけたようだった。
立ちこめるほこりがどっと吹きかかり、ふたりは咳こんだ。
たがいの背中をさすりつつ、涙でかすむ視線をあげた。
その視界に、ひとつの人影が映る。
「だれ?」
シェラは叫び、ダルガは剣の柄に手をあてた。
「それはないわ、ダルガ」笑いをふくんだ、心地いいひびきの声音がいった。「感動の再会じゃない? 刃の洗礼よりも、熱い涙の抱擁のほうが、わたしの好みなんだけど」
笑いながらゆたかな胸の下で手を組んで歩みよってきたのは──むろん、アリユスである。
シェラがそれぞれの身にどのようなできごとが起こったのかを簡潔に話しおえると、アリユスは無言のままうなずいた。それから、胸の宝石をとおしてシェラの居場所をさぐりつつ前進して洞をさぐりあて、さらに進むうちに異様な殺気の交錯する戦場を感知してダルガとシェラの危地にいきあたったのだと口にした。
そしてアリユスは、ガレンヴァールとマラクの決戦場をめざそうとするダルガを制し、まるでべつの方向を指さしてみせる。
「あちらの方角に、強い妖気を感じるのよ。マラクはガレンヴァールとやらにまかせておいていいと思う。それよりも、さらわれたエレアをさがすほうが重要だわ。経緯からして、彼女はサドラ・ヴァラヒダとともにいると考えるのが自然じゃなくて?」
アリユスの言葉にダルガもシェラも一も二もなく同意し、三人はアリユスの先導する方向に洞窟をたどりはじめた。
さほども進む必要はなかった。
奥殿はしばらくおりたところにあった。
裂けた亀裂の底の小さな広間は、マラクにかつがれてシェラが一度おとずれたことのある場所であった。
そのときにはシャダーイル、そしてレブラスもその場につどうていたが、いまはその二匹の姿はなかった。
そして、壁にめりこむようにしてその後頭部と下半身とを亀裂の奥に隠したユスフェラ最大の魔──ヴァラヒダは、暗黒の荒い息を間断なく吐きつづけながら、おのれの肉体に炎の刻印をきざんだ三人を、憎悪にみちた目でにらみつけた。
「きたか。ようやくきたか、下賎の者ども」
娘とおなじセリフを吐いた。
ダルガは抜刀し、腰をおとした。
「エレアをどこにやった」
問いに、妖魔はにたりと笑った。
吐き出される暗黒の吐息のすきまから、ぞろりと十数枚の舌がのぞいて唇をなめあげる。
「奥の間だ」
こたえ、意味ありげに笑って見せた。
「奥の間?」
「祭壇だよ」
さらなる質問をダルガが口にするよりはやく、妖魔はぞろりとその身を前進させた。
後頭部と下半身をのみこんだ亀裂から、隠されていた部分が出現する。
頭蓋が弾けてはみ出したかのような、巨大な脳髄様のものがぶよぶよとその後頭部から生え出ていた。
重力に耐えかねるように、その脳髄様の器官は、だらりと背中側にたれさがっている。
そしてその下半身は──
ぞろぞろと、がにまたの、やけにひょろ長い左足がまずふみだした。
昆虫の脚のような角度に生え出ているが、形だけは人間のそれだった。
つづいて、右足が亀裂の向こうの闇から。
そして、巨大な──蜂のようにぷっくりと膨れあがった、生白い異様な腹が、その二本の足にささえられて出現した。
否。
足は、二本ではなかった。
まさしく虫そのもののように、合計六本の足が腹の左右から生え出て、ぞわぞわとあらわれた。
虫のごとく配置されていながら、その形状は異様なひょろ長さをのぞけば人間そのままだ。
その六本の足がぞろぞろと交互に、規則的に地をふみしめながらはい出してくる。
異様な光景であった。
シェラは目をおおって顔をそむけ、アリユスはおぞましげに顔をゆがめて目を見ひらく。
ぐえ、とダルガはうめいた。
くくくく、と妖魔は笑った。
裂けて焼け焦げた上腹に手をやり、歯をむきだして顎をそらした。
「わが肉体に傷をつけた人間は、いままでひとりとしていなかった。おまえたちはただものではない。たいしたものだ」
傲慢に顎をそらしたまま、あざけりの口調でいった。
「おかげで、わが命の灯は、いましもとぎれようとしている」
「めでたいことだわ」
アリユスが顔をしかめて口にする。
妖魔は、にたりと笑った。そして、
「そのとおりだ」
といった。
眉をひそめる三人の前で、裂けるような笑みをうかべながらサドラ・ヴァラヒダはつづけた。
「おかげで、わが魂の生への希求は凝縮し、あらたなる生への準備は期せずしてととのったのだ。われはさらなる力を得て増大し、いまだその姿をあらわそうとはせぬ“ヴァオルの紅玉”のゆくえを、今度こそまちがいなく特定することができるようになるだろう。感謝するぞ」
意味がわからず顔を見あわせる三人に、ヴァラヒダはさらに宣言した。
「だが、それでわが怨みの炎が癒えるわけではない」
くわ、と口をひらいた。
吐き出された十数枚の舌がげく、と音をたてて黒い息を爆風のように吹きつける。
アリユスがいちはやく印をむすんだ。
間にあわなかった。
風が黒い爆風をおし戻したとき、先頭に立っていたダルガは、すでに妖魔の洗礼を全身にあびたあとだった。
苦鳴とともに、ダルガの身体がどさりと崩れおちた。
手にした剣が、かららんと音をたてて床にころがる。
蒼白の妖魔の顔が、哄笑を発した。
身をよじらせて笑いながら妖魔は、狂った機関車が蒸気を吐き出すようにたてつづけに、黒煙を四方にむけて噴き出した。
「竜巻」
アリユスが、印の形をすばやく組みかえる。風が渦をまき、黒雲を撹拌した。
煙は強烈な気流にまきこまれて凝縮され──弾丸と化して、妖魔の王に向け打ちだされた。
おのれの吐き出した毒の煙をあびて──妖魔は笑った。
黒い霧にまかれながら笑い、だだんと地を蹴った。
六本の脚に打ちだされた巨大な蒼白の肉弾が、ふりそそぐように頭上からアリユスとシェラを強襲する。
ころがって、左右にわかれた。
「サドラ・ヴァラヒダ!」
するどいアリユスの呼びかけに、妖魔王は、
「下賎の者が!」
とこたえた。
アリユスは叫んだ。
「サドラ・ヴァラヒダ! イア・イア・トゥオラの名にかけて“風の槍”をうけよ!」
ひょお、と風が鳴った。
同時に、青い闇の底で白い閃光が矢と化して凝縮し、妖魔王を襲った。
「こざかしい!」
叫びながら、かあ、とヴァラヒダは吼えた。
たゆたっていた黒煙が収束して妖魔の肉体をつつみ、光の槍をうけて火花をちらす。
ばばばばとスパークが四散して──“風の槍”が散った。
アリユスが目をむく。
「こざかしい。こざかしいぞ、幻術使めが!」
哄笑しながら、ずずずんと妖魔王は前進した。
その背後から──
よろめきながら、ダルガが立ちあがった。
見てとって、アリユスはさらにたてつづけに、風の槍を放つ。
閃光が黒雲に散らされる背後で、ひろいあげた剣をダルガはぐい、と真一文字にかまえあげ――
「──おお!」
気合い一閃──銀の弧が、肥大した脳髄のごときヴァラヒダの後頭部を、ぶちゃりと裂いた。
がぼ、と、妖魔が苦鳴を形にして吐いた。
黒い血がげろげろと吐き出された。
同時に生白い異様な器官が、汚物のように裂けた後頭部からどろどろと流れ落ちてきた。
くはあ、と毒息を吐きつつ憎悪にみちた視線がダルガをふりかえる。
ダルガは唇を真一文字に結んで妖魔をにらみかえし、低い声でいった。
「おれには、これだけだ」
いって、かまえた剣を背後にふるい、横に弧を描かせ打ちこんだ。
痩せ枯れた胴に閃光が、半月を描いてえぐりこむ。
化物の上半身が、裂けた巨大な脳髄ごとぐじゃりと音を立てて地におちた。
がふう、とヴァラヒダはどすぐろい粘液を噴き出しながら床に顔を打ちつける。
だが、視線が死んではいなかった。
ダルガをにらみつけながら、手を立てて上半身をおこす。
びちびちと後頭部の裂け目から臓物があふれ出るのもかまわず、口もとから粘液を吐き出した。
びじゃぐじゃと鳴るあいまから、言葉らしき音がもれ出ている。
怨念にみちた言葉を口にしているらしい。
そして妖魔はにたりと笑い、ご、と黒い息を吐いた。
ダルガがころがって身をそらすと同時に、化物の背後から風の矢が打ちつけられた。
裂けた後頭部から閃光が侵入し──魔人の頭蓋が、どす黒い肉塊と化してはじけ飛んだ。
音を立ててはじけ飛んだ魔人の脳が、びちゃびちゃと奥殿の壁にふりかかる。
腕を出して三人はそれを避け、顔をあげた。
蒼白の上半身はいまだあがきながらずるずると手だけではいまわり、下半身のほうは規則性を喪失した六本の脚がてんでばらばらにでろでろとうごめきながら、こわれた機械のような不気味ででたらめな動きを展開していた。
が、どうやら退治はできたらしい、と、ダルガとシェラはほっと息をついた。
が──アリユスが警戒の視線を宙にとばしているのを見て、ふたりは眉をよせた。
「どうした──」
アリユス、とダルガは声をかけようとして、女幻術使が指さす方向に視線を向ける。
うっすらとした、黒いもやのようなものが、宙をただよっていた。
わけもわからず眉根をよせるダルガの前で、アリユスはすばやく印を結びかけたが──呪力が打ちだされるよりはやく、黒いもやは逃げるように壁に刻まれた亀裂の内部に吸いこまれていった。
ダルガもシェラもそれを、化物が盛大に吐き出していた黒煙の名残かと気にもとめていなかったが──
「まさかあれは──」
シェラの問いに、アリユスは無言でうなずいた。