青の洞

 

 わだかまる闇の底に蒼白くうかぶ顔を見て、エレアは思わず声をあげた。
「父様!」
 歓喜を満面にうかべながらも、かけよって抱きつこうとしなかったのは、やはりおぼろにうかぶ裸体の上半身をもふくめた父の像の全体に、なにか異様なものをみとめていたからかもしれない。
 脳裏のかたすみに、横柄で無愛想な黒髪の少年や、痩身の美貌の青年の姿がうかんでいたこともその理由の一端ではあっただろう。
 だが、胸の奥底でうずくものの大部分は、眼前でしろく微笑む父のもとへと捧げられていた。
「エレア」父は静かに微笑みながら愛し子の名を、慈愛にみちた口調で口にする。「会いたかったよ。おまえを愛している。もう二度と離さない。静かに、ともに暮らそう。──永遠に」
 いって、両の手をさしのべるようにしてあげた。
「父様」
 ためらいながらも、少女は魅入られたようにたよりなげな足どりでふみだした。
 さしだされた手に、ふるえながら白い小さな手を重ねる。
 やさしい力がつつみこむように、エレアをひきよせた。
「愛している、わが娘よ」
 抱きよせられた。
 山にわけいった時より異常に痩せこけた、と思われた父の胸はやはりエレアにとってはむかしどおりに大きいままだった。
 そしてにおいが、幼いころにあまえた存在の記憶を思い起こさせた。
 安心感が、増殖する眠りのように全身をつつみこんだ。
 ああ、と、少女は恍惚の吐息をついた。
 重ねられた手が、頭と背中をゆっくりと上下になでさすった。
「おまえを愛している」
 耳もとにささやかれた言葉が、全身から力をうばって甘い感覚にしずみこませた。
 顎に、手がかかる。
 上むかされたくちびるに、くちびるが重なった。
 驚愕は官能に一気におし流された。
 もがきは強い力に抱きすくめられて脱力し、強烈な刺激にぐったりと身をゆだねた。
 無数の舌が、嵐のように口腔内を荒れ狂った。
 異常に対する恐怖より加えられる刺激に、脳内が嵐と化して荒れ狂った。
 うめき、身をよじりながら少女は奔流にのみこまれていった。
 無数の腕が、全身を愛撫する。
 巨大な存在にのみこまれたようだった。
 不快ではなかった。
 脳裏に、ちらりとべつの顔がよぎる。
 気にもならなかった。
 現実感覚は完全に失せ、官能がすべてとなった。
 嵐は、下腹部の一点から拡大して苦痛とも快楽ともつかぬまま全世界を荒れ狂い、支配した。


 夕景はまたたくまにもりあがる巨大な影にのまれて没し、深い闇が山間にふりくだった。
 そしてのしかかる暗黒の一点に、その青いおぼろな光は、音もなくうかびあがった。
「あれだな」
 ダルガが口にした。
 シェラが無言でうなずく。
“青の洞”。
 ヴァラヒダの魔が巣くう、地獄への入口である。
 意志を確認するごとく、ダルガはシェラとガレンヴァールに交互に視線を走らせた。
 シェラは真顔でもう一度うなずき、ガレンヴァールはあいもかわらぬ底知れぬ笑顔でうんうんと、何度もでっぷりした顎を上下に動かす。
 ダルガはふりかえり、迷いのない足どりでふたたびのぼりはじめた。
 やがて、洞窟を前にした。
 そそり立つ巨大な岩のあいだに、それはあった。
 鋭角の亀裂は刃で裂いてぱっくりとひらいたかのように口をあけ、内部から青い微光を放っている。
 歩みより、目をこらしてみると、光は壁から発されているようだった。
 発光するコケの一種か、と子細に観察してみるが、岩壁そのものが淡い光を放っているようにしか見えない。
 理屈をつけるのはあきらめて、洞窟内部に一歩をふみこんだ。
 青い割れ目は下方、山の深奥をめざすようにして深く、どこまでもつづいていた。
 ふりかえり、うなずきあってから、おりはじめた。
 幻術使の背後から、無数の“ガレンヴァールの息子たち”がちょこまかとした足どりでつづく。
 奇妙な兵隊をひきつれて一行は、無言のままおりつづけた。
 奇妙におれまがり、いくつもの枝道やわなのように垂直にひらいた穴、壁のあちこちに不規則にはしる亀裂をやりすごした。
 暗がりから得体のしれぬ妖物が奇声とともにおどり出てきそうにも思えたが、なんの妨害も入らなかった。
 ひんやりとした空気はやがてあきらかな冷気となって四囲をつつみ、吐く息が白く凍る。
 どれだけの時間をおりつづけたのか。
 ふいに、頭上が地下の大聖堂とでもいったおもむきでひろくなった一角に出た。
 青い燐光が雨のようにふりそそぐ。
 その大広間の中心に、ひとつの影がうっそりとたたずんでいた。
 四本の腕をそれぞれ胸の上で組んでいた。
 はみ出した乳房がもりあがっている。
 はりきった腰からのび出たしなやかな長い足が、ふみしめるようにしてひらかれていた。
 獰猛な獣を思わせる熱い美貌は満面に笑みをたたえ、まっすぐにダルガをにらみすえる。
「待っていたよ、坊や。待っていた。あたしはあんたが好きだよ」
 マラクは、歓喜を口調にのせて投げかけた。
 ダルガは立ちどまり、無言のまま腰の剣をぬいた。
 ふふふ、ふふ、と、妖魔はいかにもうれしげに声を立てて笑った。
「遊ぼうか」
 いった。
 いって──弾丸と化した。
 四臂が、愛おしいものを抱きしめるようにしてのびた。
 身をしずめてすばやくかわし、ダルガは剣を走らせた。
 銀閃が、マラクの横わき腹から背中へとかけぬける。
 皮一枚。
 すばやくふりむき、妖魔はつけられた傷に指をあてる。いとおしげに口もとによせて、舌をはわせた。
 とろりとした青黒い液体をなめあげ、たまらない笑みを満面にうかべる。
 ダルガは、二撃めを打ちこもうと、腰を落とした。
 機先を制するように、
「わたしにもためさせてもらうぞ、ダルガ」
 丸顔の幻術使が妖魔の背後で、にこやかに笑ったまま宣言した。
 うるさげにふりかえるマラクに──
 銀の鉄柱を縦の螺旋状にうずまかせたような異影が、わらわらとたかりはじめた。
「お──」
 マラクはとまどったような声をあげ──
 その声がふいに、おぞましげな悲鳴とかわった。
 鈍色の異生物が、あっという間にマラクの巨体をおおいつくした。
 苦しげな悲鳴があげられ──
 竜巻のようないきおいで、つぎつぎに“息子たち”ははね飛ばされた。
 がん、ごん、とにぶい音を立てながらあちこちの岩壁にはね飛ばされて小妖物は地に落ちる。
 狂気のように四本の腕をふりまわしながら死にものぐるいで異生物をはね飛ばしたマラクは、憎悪とおびえをひとしく視線にのせて、周囲をとりかこんだ不気味な妖物をながめやった。
 ぎ、と、音を立てて歯をかみしめ、咆哮した。
 咆哮しながら、こぶしを握りしめて手近の小妖物の頭上からたたきおろした。
 ぐしゃりと、音がきこえそうだった。
 異生物はいびつな形にねじれてひしゃげ、尻にあたる部分からどろどろとした、不気味な粘土状のまだらの物体をひり出してたおれこんだ。
 戯画のような四肢をひくひくと痙攣させたまま、立ちあがらない。
 そんな様子を確認しようともせずマラクは、絶叫しながらやみくもに四臂をふりまわし、つぎつぎに“息子たち”をたたきつぶした。
「これはいかん」ガレンヴァールの笑顔が、一瞬にして情けなげな泣き顔にかわった。「いかん。これはいかん。まるで圧倒的ではないか。いかん、戻れ、逃げろ、息子たちよ。この化物が相手では、発狂させるひまもないではないか。逃げろ。逃げろ、息子たちよ」
 命令一下“ガレンヴァールの息子たち”は従順に、潮がひくようにちょこまかと退避した。
 狂乱したマラクは、逃げる異生物を追いまわしてたたきつぶしつづけたが、その姿があっというまに視野から消えると、激しく肩を上下させ歯を獰猛にむき出したまま、四囲をながめわたした。
「おぞましい」
 口にした。
 そして、むき出しにした両の眼を、ぎろりとガレンヴァールにすえた。
「おぞましい生き物だ。あれはまともな生物ではない。この世に出るべきではない異端の生き物だ。あれを生み出した邪法師は、おまえだな」
 く、く、く、く、と、ガレンヴァールは愛嬌のある丸顔に異様な表情をうかべて笑った。
「おまえさんのような化物に、この世の道理を説かれても説得力はまるでないな。それに、わが息子たちをそのように悪しざまにいわれたのでは、温厚なわしもさすがに腹が立つ」
 立腹したというよりは、いかにも楽しげな口調で、ザナールの彼方からきた幻術使は口にした。
 そしてそのユーモラスな短躯をずい、と前進させた。
 かなしげに眉根にしわをよせ、汚物をしたたらせながらひきつぶされた“息子たち”をながめやる。
「かたきは、討たせてもらうよ」
 いって──か、と、口をひらいた。





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