契約
避けた皮膚のあいだから、臓器がはみ出していた。
血以外の異様な色の汁がしたたっている。
意識がもうろうとしているせいか、痛みはそれほどでもなかったが、もうながく生きられるとはとうてい思えなかった。
デュバルの脳裏に、にぶい後悔の念がひろがる。
にぶいが、狂おしい後悔だ。
敗北であった。
紙一重の敗北だ。
まともな条件の対峙でもなかった。
闘技場で立ちあえば、まちがいなく勝てる自信があった。
にもかかわらず、左腕とひきかえに胴を縦に裂かれて、死にかけている。
斬られたとき、傷を癒すことを考えて敵に背を向けてしまった。
意味がなかった。
さしちがえてでも、とどまるべきだった。
このままでは力つきてほどもなく意識を失い、そのままうつろに死んでいくしかないだろう。
苦悩の終着点がこれでは、死んでも死にきれなかった。
鈍痛に責めたてられながら、腹の底で煮える炎がはげしく逆まくのを感じていた。
歯をくいしばり、うめきつづける。
痛みにうめいているのではない。
後悔と憎悪、そしてはげしい呪詛をうめきにのせて飛ばしているのだった。
剣技であれば負けない。
絶対の自信があるだけに、投げつけられた運命にまるで納得がいかなかった。
灼熱の怒りを思念にのせて放ちつづけた。
悪魔とでも取引するつもりだった。
――のぞみどおりのものが眼前にたたずんでいるのに気づいたのは、どれだけの時間がたってからだったのか。
異様な光沢を放つ、黒い巨体が瀕死のデュバルをながめおろしていた。
黒瞳のない青白い光を放つふたつの眼が、まるで無機物のようにデュバルをつめたく見おろしている。
ながい、馬科の獣のような顔をしていた。
螺旋状にきつく渦をまく異様な形のツノを、その頭部の両わきにそなえている。
金属のような光沢を放つ巨体には不吉な力がみなぎっていた。
そのうちわのような巨大な手につかまれれば、人間の頭蓋骨など風船のようにはじけ飛んでしまうだろう。
異様な存在を前にしてデュバルは、死の淵から恐怖と同時に賛嘆を感じてもいた。
桁がちがう、とおぼろに考えた。
そのとき、声ならぬ声が頭蓋の内側で、ふいに呼びかけてきたのに気づいた。
──生きたいか。
無骨な野太いひびきのある声だった。
それでいて、奇妙に無機的で冷徹でもあった。
生きたい、と、デュバルは意識の底で狂おしく反応した。
生きて、今度こそダルガを両断する!
憎悪の叫びに呼応して笑い声が、まぼろしのように頭蓋内部に反響した。
──おまえの肉をつなぎあわせてやろう。
哄笑しながら“声”はいった。
──やがてそれは生きながら腐りおち、おまえの腹の内部で痛覚と不快そのものとなっておまえを苦しめることとなろう。それでもよいなら、かりそめの、第二の命をおまえに与えてやる。
そしてふたたび、問うた。
──生きたいか。
と。
こたえなど最初からわかっているぞ、とでもいいたげな口調であった。
無骨なひびきの底に嘲弄が秘められている気もした。
生きたい。
それでもデュバルは、ためらわずこたえた。
笑いはかえらず、彫像のような奇怪な造形の化物は、深くうなずいてその巨大な手のひらを、切り裂かれたデュバルの腹部にのばした。
青い燐光を放つ粘液質の液体が、化物の手のひらから刻まれたデュバルの傷口へと、とろとろと流しこまれていく。
ユスフェラの山に秘められた奇怪な魔力が、憎悪を媒介にしてデュバルの肉体を根底から変容させはじめた。
銀の月が、舞い散る無数のしぶきをきらきらと色彩っていた。
剣士たちは息を切らせながら崩れおちる水流を背にしてすわりこんだ。
ダルガに斬られた傷はたいしたことはなかったが、少女を尋問しはじめた矢先に攻撃してきたダルガの形相は、尋常ではなかった。
鬼神か、と背筋をふるわされていた。
川原でデュバルと対峙したときの腑抜けぶりとは、雲泥の差があった。
まさに、凶悪なる高名そのままの人物像だった。
バラルカの私設軍隊に入る前にも、いくつかの傭兵団を点々としてきたが、あれほどの迫力を見せつけられたのは初めてだった。
二人とも剣の腕にはデュバルやタイ・イッドにはおとらぬ程度の自負をもっていた。
が、気迫という一点において遠くおよばない、ということを知らされた。
十五、六の少年が鬼神となったことに驚愕し、無我夢中でここまでかけ通してきたのである。
そして腰をおとしてふりかえり、息をととのえる。
そうして、ながい時間をかけておちついてくると、自分たちのみっともなさに思いあたった。
顔を見あわせ、苦笑しあう。
怯懦から逃げたのではない、という理由を互いにあげつらいはじめ、客観的にはたわ言としか思えぬようなあれこれにいちいち深くうなずきあってみずからを納得させた。
デュバルひとりいればどうにでもなる、われわれがあの場にいる必要はなかったのだ、というのがそのひとりよがりな論理の骨子であった。
いまごろはあの小僧もデュバルどのの剣にかかり、なますに切り刻まれているだろう、とも口にしあった。
それでも、このまま逃げてしまうわけにもいかないことはさすがに二人とも自覚していた。
気のすすまぬていで腰をあげ──気配に気づいて一人がふりかえった。
剣をもっているほうの一人であった。
眼前に、異様な小人がたたずんでいるのを見て、ひっと喉をならした。
ほとんど反射的に、剣で切りつけた。
子どもほどの大きさの、赤黒いこぶを無造作にもりあげたかのような造作の異様な人影は──切り裂かれて、まるで快感でも感じているように異様なしぐさで身もだえはじめた。
「な、なんだそれは」
ダルガに剣をうばわれたほうの一人が、声をふるわせながら問うた。
むろん、もう一人にこたえられるはずもない。
ぼうぜんとしながら首を何度も左右にふり、
「い、いこう」
うながしながら踵をかえしかけた。
ぎょっと目をむいた。
眼前に、たったいま切りつけたのと同じ種類の魔怪が、むくむくとのびあがるのを発見したのだ。
地に伏していたらしい。
岩のたぐいであろうと思っていたそれが、肉塊と化して立ちあがったのである。
大きさは、先の肉塊よりも小さいほどだった。
が、今度のそれには、顔がついていた。
腐臭のような異様な臭気が、ただよっていた。
切れこみを入れたかのような、その奇怪な口から吐き出されたものらしい。
造作の崩れた、異様な顔であった。
その顔が、口をひらいた。
「痛い」
と、それはそういった。
「叩きつけられ、ばらばらになった」
うめくようにごぼごぼとした異様な声音でいいながら、よたよたとした足どりで二人に近づきはじめた。
悲鳴をあげながら、一人が切りつけた。
痛い、とそれはくりかえした。
うれしそうなにたにた笑いをその醜貌の、満面にうかべながら。
身をもがかせつつ、いささかのためらいも見せずにさらにつめよる。
よく見ると、周囲からおなじような姿をした大小無数の肉塊が、それぞれ戯画のような手足をぎくしゃくと駆使して不気味な足どりで接近しつつあった。
「肉がたりぬ」
それが、そういった。
「おまえたち、おれとひとつになれ」
不気味なセリフを口にした。
剣士たちはいやいやをしながら、あらがおうとした。
剣をふるい、あるいは手で近づく魔怪をふり払いながら逃亡しようとこころみた。
絶望的なこころみであった。
剣に断ち切られた肉塊はほんの瞬時、快感にあえぐかのようにその全身をぶるるとふるわせ動きをとめるだけで、すぐに新たな手足をむくむくと生やして立ちあがり、よちよちと異様な足どりでふたたび歩みよってくるのである。
そして、手で払いのけようとした小妖魔は──
「ひ、ひい!」
と、ダルガに剣をうばわれた剣士がぶざまきわまる悲鳴をあげた。
どうした、とふりむくもう一人に、悲鳴をあげながら払いのけた手をかざしてみせた。
肉塊が、こびりついていた。
ひとの頭ほどもある手足のついた肉塊が、じゅくじゅくと異臭を放つ粘液を分泌しながらこびりついているのである。
必死になって手をふりまわし、地面にたたきつけて引きはがそうとしたが──できなかった。
たたきつけるたびに肉塊はひくひくとうごめいたが、まるで腕の肉に融合でもしてしまったかのように、一向にはがすことはできなかったのである。
悪寒をこらえてもう一方の手をかけ、ひきはがそうとしたが──肉塊がふたつに分離して無事だったほうの手のひらにも付着しただけだった。
パニックにおちいりながらあがいているうちに、もうひとりにもぺたりと、べつの妖魔がこびりついた。
そして、異様な触感が二人の剣士の嫌悪を逆なでた。
接触した部位からぞわぞわと、無数の虫が皮膚をくい破って侵入してくるかのような感触がつたわってきたのである。
悲鳴が盛大にあげられた。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
一人の剣士の頬に接触した落書きのような顔が、そう口にした。
「ひとつになろう。気持ちがいいぞ」
化物の顔がぐふう、と、笑い声らしき異様な音を発した。
「おまえたちとおれはひとつになる」
絶叫に同調するように、泥を煮しめるような不気味な声が頭蓋に反響する。
「苦痛も快楽も、倍になる。気持ちがいいぞ」
全身に魔怪がたかった。
視界さえふさがれ、悲鳴はおしよせる肉塊にふさがれて苦しげにくぐもった。
接触した部位から、ぞろぞろと何か異様なものがもりあがってくる。
肉だった。
赤黒い粘液をしたたらせた腐肉のようなものが、ぞわぞわと増殖して、二人の剣士をつつみはじめているのだった。
すでに声さえも出なくなっていた。
小山のようにもりあがったふたつの肉山が、もぞもぞとうごめきながらよりそいはじめた。
よりそって、融合していく。
どうどうと落下する瀑布を背にして、妖魔レブラスは以前にも倍する巨体を復元しはじめた。