第3部 闇の神話
地神の亡霊
激甚なデュバルの突きが、一直線にダルガを襲う。
予測していた。
ダルガは身をひねりざま獰悪な突きをかわし、ずばりとデュバルの胴に斬りこんだ。
超絶の体技が、わずかに致命傷をかわさせた。
デュバルは腹から胸を裂かれながらも身をひねり、下方にむけて追撃を逃れるようにかけ下った。
だが、即死にはいたらなくとも浅い傷ではなかった。
デュバルは後方にかけぬけながらごぼりと口中に血のかたまりがわきあがってくるのを自覚した。
唇を割って真っ赤な液体があふれ出し、びちびちと地をぬらした。
痛みよりは灼熱感が、斬られた部位を責めたてた。
あとからあとからあふれ出る血でぐぶぐぶと喉をならしながら、デュバルはよたよたとした足どりで退却した。
闇に消える剣士をあえて追撃はせず、ダルガは剣を片手に見送った。
その姿が完全に見えなくなるまで待って、くるりとエレアに向き直る。
反抗的ににらみかえすが、少女の瞳に先までの強さはなかった。
ダルガは無言のままエレアに歩みより、その眼前に左腕をさし出した。
無惨な刺し傷から、血塊がつぎつぎにあふれ出していた。
エレアは歯をくいしばり、言葉で何かをかえそうとしたが声は出なかった。
ダルガはひとしきり傷口を少女に見せつけてから、剣を革帯にたばさんだ。
そして、たおれこんだ少女にむけて右手をさしだした。
エレアはさしのべられた手を凝然と見かえしていたが、ふいにわきあがってきた激情についにこらえきれず、
「なんのつもりよ!」叫びながら、ダルガの手のひらを強く払いのけた。「わたくしがおまえに感謝するとでも思ってるの? もとはといえばおまえが──」
みなまでいわせず──払いのけられたその手で、ダルガは少女の頬に平手うちをかました。
あまりいい音はしなかった。
ダルガのような使い手にはふさわしくなく、打つ手にためらいがあったからかもしれない。
それでも、ぼうぜんとしながらおさえた手の下で少女の白い頬がみるみる赤くなっていった。
そしてふいに、エレアの瞳に涙がうかんだ。
堰をきったように、あふれ出した。
声を出して泣きはじめた。
うろたえたダルガがなだめようと肩に手をかけると、少女は泣きながらその手をさらに払いのけ、大声できくにたえない罵詈雑言をならべ立てはじめた。
なだめすかして立ちあがらせ、どうにか移動を承服させたものの、泣きながら口にされる罵倒の言葉はいつまでも絶えなかった。
青の月が山の端に隠れようとしていた。
アリユスは慎重に運んでいた歩みをとめ、視線をこらす。
小さな崖になっていた。
天の微光がふりそそぐ中、巨大な穴の底に沈んでしまったような錯覚をおぼえる。
その穴の底には、奇妙な光があった。
まぼろしの光である。
ゆらめく幻火を前にして、アリユスはひざをついた。
わき水の出る崖下の小さな空間だった。
垂直に切り立つ岩にはさまれて、小さな亀裂がはしっている。
苔の生え具合などから見るに、その亀裂はつい最近きざまれたものであるようだ。
その亀裂の奥深くに、幻火は燃え盛っているのだった。
炎、というよりは霊的な生命力のあらわれ、といったほうが正確かもしれない。
アリユスは眼前に両手のひらをかかげて、ダルガにしたのとおなじように三角の空間を介して視線を、そのまぼろしの光にむけた。
ふかく、静かで、永遠を体現しているように見えた。
派手に燃えさかっているわけではない。
むしろ逆だった。
ひっそりと、いましも消え入ってしまいそうなまでにほそぼそと燃えている。
それでいて、その炎を完全に消してしまうことはたいへん困難であろう、ともアリユスは感じた。
三角の空間のむこうで幻火はゆらめきながら、アリユスにむけてかすかに呼びかけていた。
その呼びかけがなく、これほどアリユスの精神と同調する波動を放っていなかったとしたら、アリユスもまたその存在に気づくことはなかったかもしれない。
それほどささやかな、静かな輝きだった。
ヴァオル、という言葉がもう一度脳裏にうかぶ。
フェリクスからこちら、西イシュール一帯に住む者ならだれでも知っている言葉だった。
地の神ヴァオル。かつてこのバレースを簒奪し、支配した大いなる十二神の一神である。
世界を支配し、大いなる慈悲をもって君臨してきたといわれる十二神。
それもいまは伝説の底にうもれ、ひとの世にかかわることはほとんどない。
なぜならば、狂乱せし英雄神によって、十二神の支配する黄金時代は終焉をむかえたからだ。
いまでは名をとなえてはならぬ恐るべき存在と化した十二神のひとり──英雄神ウル・ジュナス。
かつては神々の中でももっとも光輝にみちて神々しく、また力にみちた崇むべき神であった。
それがなぜ狂乱してほかの十一の神々に牙をむき、世界を暗黒の時代へと導き入れたのか──さだかな理由はだれも知らない。
無数の伝説が無数の恐怖をともなって名をとなえてはならぬ暗黒神ゼル・ジュナスの変心の理由をならべ立ててはいるものの、どれが真実とはどんな賢者にもこたえることあたわぬ大いなる難問の、最たるものであっただろう。
平穏と快楽、そして永遠が支配していた黄金世界バレースは、ジュナスの狂乱の時より暗黒の時代をむかえ、そして人間もまた生まれでることは苦難であることと同義である──そうさだめられた。
地獄は世界に顕現し、それでも狂乱の魔神が暴虐の果てに疲れはてて眠りについたことによって、世界はかろうじて破滅からまぬかれ、ひとときの猶予を与えられている。
ふたたび大いなる魔神、名をとなえてはならぬ暗黒神が目覚めるその時までは。
かつて世界をしろしめた大いなる神々は狂乱神の暴虐の嵐にまきこまれて、あるいはひき裂かれ、あるいはおしつぶされ、そしてあるいは魔神のもとにつどうた悪神魔王どもの目を逃れて世界の裏にその身を隠し──かくしてバレースは暗黒の時代をむかえる。
ヴァオルは、狂乱の魔神にひき裂かれた神であった。
バレースの大地そのものを支配しつかさどるヴァオルは、魔神の目から逃れるわけにはいかず、大地の安寧とひきかえにみずからの身をさしだしたのだという。
ただし、いかに暴虐の嵐にもまれたとはいえ、永遠なる存在たる神々のひとりである以上、ひき裂かれてばらばらになって世界中にその肉体をちらばらせようとも、ヴァオルは死ぬことさえあたわず、うもれた肉片ひとつひとつに永遠の苦悶をきざみこみつつ、いまも世界を見守っているのだという。
その、ヴァオルである。
フェリクスにたどりつく前もあともアリユスは、イシュール一帯のさまざまな場所を経めぐってきた。
世界の犠牲となって散った地神を祀るヴァオル神殿もまた、いくつも目撃してきた。
そのうちのほとんどが、飛び散ったヴァオルの肉片を神体に祀りあげている、と称してもいた。
が、神威と呼べるほどの霊力を謳い文句どおりに奥殿になりと秘めた神殿など、ただのひとつもなかった。
だがここには──だがここには、たしかに神の肉片がこの岩壁にはさまれた地中奥深くにひそんでいるのかもしれない。そう思わせる、かすかだが深く静かな神秘がたゆとうているのを、アリユスは感じていたのである。
──訪え。
呼び声は、アリユスにそう告げていた。
ゆらめくまぼろしの生命の火を、遠く幻視しながらアリユスは、心中にうかぶ言葉に同調し、小さくうなずいた。
ついた膝をあげていったん立ちあがり、今度は亀裂を前に腰をおとした。
結跏趺坐し、印形をむすんで瞑目する。
呪文はとなえない。
ただ瞑目しておのれの内に深く深く沈静し──魂の奥底に意識をすえる。
幻視の力があるものが見れば、座するアリユスの肉体からおぼろな幻像がすりぬけるようにして出現したのに気づいたことだろう。
遊魂。
幻術を学ぶ者にとって、もっとも基本的な技術のひとつである。
そして──ある意味ではもっとも危険な技術のひとつでもあった。
ひとつには、魂のはなれた肉体が完全に無防備になる危険。
そしてもうひとつは、はなれた魂が肉体への帰り道を見失ってしまう危険。
とくに、この世ならぬ存在に招かれて神境、あるいは魔境に遊ぶことには、帰路を断たれて帰れぬ危険がつねにともなうことは常識である。
それを承知の上でアリユスは、あえて行った。
浮遊し、霊的な微光を放つ世界をしばし見やる。
それからすぐに、亀裂めがけて幽体を侵入させた。
暗黒が四囲を通過した。
おぼろに燃える幻火の光ははるかに遠く、いつまでも近づかない。
瞬間は永遠に敷衍され、世界はいけどもいけどもたどりつけぬ無限の道程と化した。
神秘は、真理という結末を用意した。
あるいは誘蛾灯のようなものかもしれない。
幻術教程によれば真理に到達する道は、近づけば近づくほど微細になり、極微をこえて無にいたるまで小さくなる。
無限に近づきながら、ついに到達することはできぬ場所である、とされている。
まさにそのとおりなのかもしれない、と近づかぬ幻光がつねに変わらず虚空にうかんでいるのを見てアリユスはおぼろにそう考えた。
──ヴァオル。
と、呼びかけてみた。
言葉は反響となって暗黒にみちあふれた。
奔流と化して浮遊するアリユスの魂を撹拌し、意識をうばい去る。
気がつくと、眼前にそれは立っていた。
一本脚の褐色の肉体。
足の付け根は暗黒と融合してひろがり、扇のように無数に生え出た手が世界のあらゆる方位を指さしている。
幻火の光源たる単眼は、静かな、ふかい光を発しながらアリユスを見ていた。
ヴァオル。地の底に苦悶する神。
アリユスはぼうぜんと目を見ひらき、大いなる存在を凝視する。
畏怖も恐怖も浮かばなかった。
偉大さに欠けているからではなかった。
あまりにも広大すぎて、人間のようなちっぽけな存在にはまるでかかわりのない存在だとしか、思えなかったからだった。
「ヴァオル……」
ぼうぜんと、アリユスはつぶやいた。
おのれがつぶやいていることに、気づいてさえいなかった。
それでも、神はこたえた。
光る単眼で。
そして──アリユスのさらなる質問をおさえるように、無数に生え出た手からそのひとつだけを、さしだした。
その手のひらの上には、紅に淡く光る珠のようなものがのせられていた。
拳ほどの大きさの、ゴム塊のような感触の珠であった。。
アリユスはとまどい、神の顔を見ながら夢遊病者のように手をのばす。
のばした幽体の手のひらの上に、その薄紅の物体がぽとりと落とされた。
それを握って胸前によせ、アリユスはあらためて神を見やった。
行け──とでも告げるように、神の無数の手がひらひらとふられた。
同時に、暴風に吹かれたかのように、アリユスの幽体は一気に吹き飛ばされた。
神の威光はなつ単眼は一瞬のうちにもとのおぼろな幻火と化し──
気がつくとアリユスは、肉体に帰還をはたしていた。
結跏趺坐の姿勢のままぼうぜんと世界をながめやり、ふと気づいたように背後をふりかえる。
青の月は、まだ山の端に沈みきってはいなかった。
数分とたってはいまい。
夢を見たような気分で、アリユスは手のひらを眼前にかかげた。
軽く握っていたこぶしを、ひらいてみる。
紅の奇妙な珠がそこにあった。
“ヴァオルの紅玉”。