刃と刃
とつぜん、足をとられて剣士は転倒した。
苦鳴とともに灼熱の痛覚が喉からまろび出る。
立ちあがろうとして、腰に痛みを感じた。
ふりかえる。
樹間からこぼれる月光に目をこらしてみると、自分の足をとったのが門状にむすんだ草であることに気がついた。
怒りがわきあがる。
単純な罠だ。実に単純だ。
だが、きわめて効果的でもあった。
足どめには至らずとも、多少の時間はこれでかせげるだろう。
怒りにつづいて義憤が、胸を燃えたたせる。
長、デュバルが人生を賭けて追う“闇の炎”ダルガという男はどのような男であろうかとながいあいだ想像しつづけてきた。
年端はいかなくても、剣の天分は脅威的なものがあるのだろうとおぼろげに認識していた。
その認識を核にして想像していた人物像と現実のダルガとは、まるでちがっていた。
拍子抜けだった。
剣の腕がどれほどのものかは、正直いってデュバルとの短い、ぶざまな対峙を見ただけでは判断がつかなかった。
だが、いずれどれほどの使い手であろうと、あのぶざまな闘いぶりとそのあとに見せた卑怯未練ぶりからすればろくでもない人物にちがいない。
その人物が施すにふさわしい、卑怯で卑小な罠である、と思った。
毒づきながら剣士は立ちあがり、追跡を再開しようとした。
ふと違和感におそわれて、闇に目をこらす。
月光におぼろにうかぶ樹間の道には、むすんだ草の罠があちこちにほどこされていた。
なぜ、この地点にこれほど執拗に罠をしかけてあるのか。
疑惑に解答が出る寸前──
背後から、腕がまわされた。
一瞬にして首がしまる。
もがきながら、視線をやろうとした。
余裕はなかった。
つぼをおさえられた。
意識が急速に遠のく。
それまでだった。
ほどもなく、あっけなく落ちた。
ぐったりとなった剣士の身体を樹幹にもたせかけて──ダルガは剣士の腰から長剣をとりあげた。
さしたる装飾もほどこされてはいない、ごくふつうの長剣だ。
刃の手入れはされている。月光にすかして見たかぎりでは、人を切った際に付着する油のたぐいもあまり見あたらなかった。
タイ・イッドのような凶悪な使い手ではなさそうだ。
罠にかかりっぱなしで、警戒心を一向にわきたたせなかった呑気さにもそれはあらわれている。
いずれにせよ、殺しておくほどのことはなさそうだった。
ダルガは剣のふりぐあいをたしかめるように三、四度、上段にふりかぶって空を切ったが、それをすませると腰の革帯に剣をおしこんでふたたび山上をめざした。
先行するアリユスとエレアに、ほどもなく追いついた。
「滝の音がするわ」
息を切らせながらもアリユスが、追いついたダルガに気づいてふりむきふりむきそう告げた。
ダルガは「わかった」とこたえて、先頭に立った。
エレアはもうふらふらになっている。いましも倒れこんでしまいそうだ。
しばらく先導したが、無理と見て休息を宣言した。
三人は腰をおろす。
後方に意識をとばしつつダルガは、アリユスの言葉どおり滝の音が上方からひびいているのをおぼろに耳にした。
当てにならぬとはいえ、地図には滝がたしかに記されていた。
その滝を擁する崖をどこかからのぼれば“青の洞”はもう目と鼻の先であるはずだ。
が、目的地に意識を飛ばしたことで、むりやりに意識の片隅に追いやっていたシェラのことが無性に気になりだした。
占術なりで動向をさぐってもらおうとアリユスをふりかえり──眉根をよせる。
女幻術使は、虚空をにらみすえていた。
刺すような視線だ。
方角は──追手の迫りつつある後方でも、滝の音がひびいてくる上方でもなかった。
上は上だが、めざす方角とは微妙にずれている。
ダルガは腰をうかして強奪したばかりの剣の柄に手をかけ、問うた。
「どうした、アリユス」
身じろぎひとつせずアリユスは、視線を上方にすえたまま、鋭い声音でこたえた。
「なにかが……なにかがあるわ……」
つつ、とすべるように移動しながらダルガはアリユスのかたわらに身をよせ、ひざをついて幻術使の凝視する方角に視線を向ける。
闇があるだけだ。
「……なにがある?」
問いに緊張感が欠けなかったのは、アリユスの超絶感覚に信頼をよせていたからだ。
こたえるかわりに、アリユスはダルガの眼前に両の手のひらを交錯させた。
親指を底辺にして、三角形の窓をつくり、のぞかせる。
奇妙な、ゆらめくフィルターのようなものが、その内部にたゆたっていた。
森の像の奥深く──はるか頭上に、赤みのかった奇妙な輝きのようなものがおぼろげにゆらめいているのが、ダルガにも見えた。
「なんだ?」
ささやき声で問う。
アリユスは視線をはずさないまま、首を左右にふった。
「わからないわ。でも、かなり遠い。弱いけれど……深いわ……わたしに……同調している……?」
何かに憑依されたかのように、アリユスの口にする言葉が断片的に、あいまいに変わった。
問いかえそうとして、幻術使の美貌が催眠状態におちいるようにもうろうと変わりつつあるのに気づいて、ダルガは言葉をのみこんだ。
アリユスは目を細めて虚空を見つめ、見えぬ存在と無言の会話でもかわしているのか、ぶつぶつと口中でなにごとかをつぶやきはじめる。
が、やがて一言だけ、はっきりと口にした。
「ヴァオル……」
と。
ダルガは目をむき、身をのりだした。
直後、アリユスはハッと気づいたように目を見ひらく。
あらためて問いかけようとダルガが口をひらきかけたとき──
「ダルガ」
背後からエレアが、疲れたような声音で呼びかけた。
舌打ちしたいのをこらえながらふりかえる。
「どうした?」
問いに、エレアは樹幹に背を深くあずけたまま、下方を指さした。
「追いついてきたみたいよ」
ぎょっとして目をむく。
耳をすませると、たしかに下生えと枯れ葉をふみしだく音がかすかに、はるか下方からとどけられた。
ち、とダルガは舌をならし、
「いくぞ!」
宣言して、走りはじめた。
ふりかえり、眉をひそめて立ちどまる。
立ちあがったアリユスの背後で、エレアは樹に背もたれたまま自堕落にダルガを見あげているだけだった。
「いくぞ、お嬢さま! それとも、おいていってほしいのか?」
気怠げに見上げていたエレアの視線に、剣呑な光がまたたいた。
反抗的に両の脚をわざとらしく投げだしてみせる。
「わたくしに口をきくときは、もうすこし気を使うべきなのよ、この愚か者」
なに? と目をむき、ダルガは改めてからだごとふりかえった。
「何様のつもりだ」
責める口調をおさえきれなかった。
対して、エレアのほうも憤然とかえした。
「おまえこそ何様のつもり? わたくしに命令できる立場だとでも思ってるの? だいたい、あの連中はおまえを追ってきたのではなくて? だったら、わたくしがおまえの愚かな過去の行いにつきあっていっしょに逃亡する必要などどこにもないはずよ」
ちがう? と、エレアはつんと顎をそびやかして問うた。
ダルガは怒りにこぶしを握りしめてエレアを見かえした。
いいかえす言葉を考えたが、灼熱の感情がすべてをおし流した。
「かってにしろ」
吐き捨て、くるりと背をむけた。
アリユスは無言で両者を見くらべていたが、ダルガが憤然とした足どりで登坂を再開しはじめると、ためらいなくそのあとを追った。
エレアはそっぽをむいたまま、腰をあげようとさえしない。
しばらくのあいだ、ダルガもアリユスも黙りこんだまま、のぼりつづけた。
エレアをはるか背後におきざりにしてしまってから、ダルガはふりかえった。
心得顔ですぐにアリユスも立ちどまり、樹の幹に背をもたせかけて腕を組む。
どうする? とでもいいたげなアリユスに見つめられ、ダルガはばつが悪そうにうつむいた。
そのまま舌をうち、
「ひきずってでも、つれてくる」
いって、アリユスとは顔をあわせないようにしておりはじめた。
わかったわ、と微笑みながらアリユスはうなずき、つけ加えた。
「わたしは先にいっているわ」
ダルガはふりかえり、しばしアリユスの美貌をぼうぜんと見つめた。
が、ここでもアリユスに対する信頼が心配を凌駕した。
「わかった。気をつけて」
いって、微笑むアリユスにうなずき返し背を向ける。
アリユスに対するからこそ抱き得る信頼感だったかもしれない。これがべつの相手だったら、たとえ占爺パランであったとしても一人で先行させるなど承諾できなかっただろう。
ともあれ、背にして走り出してからはアリユスのことはダルガの脳内からはひとまず消え去った。
転倒にのみ気をくばりながら小走りにかけおりたせいか、すぐにエレアをおきざりにした場所が下方に望見された。
おりきるよりはるかにはやく、少女が追手の三人にとりかこまれているのに気がついた。
中のひとりが、少女の両手首を捕縛して宙につるしあげている。
ダルガがわなにかけて剣をうばった剣士であった。
小柄なからだが宙でじたばたともがいていたが、もとより剣士の膂力にあらがうすべはない。
ダルガは、かっと怒りがわきあがるのを覚えた。
前後も考えず地を蹴り、全速力でかけ下った。
急接近するダルガに気づいて身がまえたのは、デュバルひとりだけだった。
残りふたりは、気づいたときには怒涛のごとくかけ下ってきた銀閃のふたふりで胴を切り裂かれていた。
絶命はしなかったが、戦意を喪失させるには充分な一撃であった。
ひとりは大仰に叫びながら倒れこむいきおいで後退し、もうひとりも少女を放りだして逃走にかかった。
きゃあ、と悲鳴をあげて地にころがるエレアを助け起こし、ダルガはデュバルをねめあげた。
髭面が満面に喜色をうかべ、にらみかえす。
「逃がさんぞ」
べろりと、ぶあついくちびるをなめあげながらつぶやくようにいった。
「さがってろ」
抑揚をおさえた声音で背後にかばったエレアに告げた。
告げながら、剣をかまえた。
ぬき身だ。
抜刀による一閃をふるうには、鞘と刀身のなじみ具合がまるでたりなかった。
最初からぬいたまま、対峙するしかなかった。
ぬき打ちが本領のダルガにとって、あからさまに不利であった。
もっとも、マラクの大剣にくらべれば扱いやすさに雲泥の差があるのも事実だ。
どこまで対抗できるかはわからない。
だが、もう逃げない、とダルガは決めた。
腰をすえ、剣をかまえて、真正面からデュバルをにらみやる。
デュバルもまた、ゆったりと鞘から長剣をぬいた。
正面にかまえ、距離を保ったままゆっくりと左にむけて移動しはじめた。
下方に位置するおのれの足場を、移動することによりダルガと対等の位置にまでもちこもうとしているらしかった。
斜面上の対峙だ。
下方のほうが比較すると有利だった。
下にむけてふるう剣技はまず、ない。
あったとしても邪法である。正面から対峙するにふるう技ではない。
したがって、そのままの位置関係であれば、斜面の下方に位置するデュバルのほうがあきらかに有利だった。
その有利さを、デュバルはわざと捨てにかかっているのである。
いずれ打ちあいになれば上下のとりあいになるだろう。
だが、初撃の足場関係は大きい。
それをあえて、対等に近い条件にもちこもうというつもりらしかった。
ダルガは──待たなかった。
おお、と気合いもろとも、打ちかかった。
上段から思いきりよく打ちおろす。
がぎりと、刃が鳴った。
にやりと、ダルガは笑った。
鍔競り合いなら、上方に位置するダルガのほうがだんぜん有利だった。
フェイントだった。
刃が打ちあったのはほんの一瞬──すぐにデュバルの長剣はおろす力をいなすようにぬけてダルガの凶刃を流し、間隙をついて反撃に転じていた。
おそるべき踏みこみのはやさで、デュバルの身体が前進した。
氷のような突きが、ダルガの胸もとめがけて急迫する。
わきへよけた。
が、ダルガは完全にバランスを崩した。
斜面へへたりこむダルガに、ここぞとばかりに必殺の一撃が飛びこんだ。
ころがる。
間一髪で、白刃の強襲をかわした。
が、体勢は完全に崩されていた。
さらに打ちこまれる一撃がダルガの腹を襲う。
ころがりつづけた。
背中が、どんと衝撃とともに何かに打ちつけられた。
樹幹だった。
動きが、一瞬停止した。
デュバルは隙を逃さなかった。
弾丸のごとく、長剣の切っ先が打ちだされる。
く、とうめきながらダルガは、軌道だけを見さだめた。
避けることはできない。
剣でうけるにも余裕はない。
残る手はひとつだけ。
左腕を、さし出した。
がぶ、と異様な感覚が二の腕にのめりこんだ。
はじける痛覚が脳裏を焼きつくす。
苦痛にわめきながら腕をねじった。
肉にくいこんだデュバルの剣刃が、ねじった腕の動きにとられて後方にひっぱられた。
剣を離せば、デュバルの勝利は確定したかもしれない。
剣士の本能が、奪われようとする愛刀に執着した。
デュバルは上体を泳がせた。
ほんのわずかだった。
ほんのわずかだが、致命的だ。
ひらいたデュバルの上体に、気のぬけたような斬撃が下方からくいこんだ。
無理な体勢から、からだをひねるようにして打ちあげられた、ダルガの一撃であった。
通常であれば、避けて攻勢に転じるだけの余裕をデュバルに与えていただろう、きわめてぶざまな攻撃だ。
が、それが、わき腹にくいこんだ。
やわらかな肉を裂いた。
痛覚よりは恐怖の感覚が勝っていた。
デュバルは剣を離して後退する。
切られたわき腹をおさえながら、大げさな足どりでそのままダルガとの距離を大きくとった。
痛覚は、傷が微妙なものであることをデュバルに告げた。
内臓にまで刃が達したかどうか、というところだ。
内臓をやられたのであれば、命にかかわる。
旅の途上に身につけてきた衣服だ。雑菌の宝庫である。傷はたいしたことはなくても、化膿する。
高熱を発して動けなくなれば、深山という条件とあわせて助かる見こみはほとんどなくなる。
あせりが、はじめてデュバルの身裡にうかんだ。
追う一方だった立場が、とつぜんガルグ・ア・ルインの駆る“時間”という名の猟犬に追われる立場へと一転したのだ。
奥歯をかみしめた。
痛みよりは屈辱に炎を燃えたたせ、ダルガをにらみつける。
顔をしかめて、腕にくいこんだ長剣をひきぬき、ダルガはゆっくりと立ちあがった。
両手に剣をもち、デュバルの顔を見つめる。
「おれたちを追うな」やがてダルガは静かに、そういった。「目的を遂げたら、戻ってくる。おまえもそのあいだに町へおりて傷を癒してくるがいい。お互いにからだが自由になったら、あらためて勝敗をつけよう。逃げも隠れもしない」
いって、がらりとデュバルの眼前に長剣をほうり投げた。
かみしめた唇の端から血をしたたらせながらデュバルは、眼前に投げだされた己が長剣を凝然と見やった。
ダルガを見やり──瞳から力をおさえて視線をそらし、腰をおって長剣をひろいあげた。
ひとふりして鞘に当て──
「おおおお!」
咆哮とともに、打ちかかった。