逃亡と追跡
どこをどうかけめぐったのかはさだかではない。
無我夢中で出口をさがした。
ひどく迂遠な道をあちこちさまよった気がしたが、案外すんなりと脱出することができたのかもしれない。
ふいに洞窟からぬけ、外界にまろび出ていた。
岩壁にこびりついた青い燐光になれた目に、上空にうかぶティグル・イリンの青と銀の冴えざえとした光輝は、奇妙にまぶしく感じられた。
月光をあびながらシェラはしばし、逃走路を検討する。
すぐに、下にくだるしかないだろうと決めた。
音を立てぬよう用心してかかるべきか思案し、それよりも一刻もはやくこの場をはなれることだと結論して走り出した。
下生えをかきわけ、道なき道をくだりつづける。
幾度となく根や草や石に足をとられて転倒した。
ずいぶんとくだったように思えて、樹間から天に視線をやった。
赤みのかった半月が東の方角にあらわれている。
息をつきつつ斜面に沿って腰をおろし、草に背をたたきつけるようにして寝ころがった。
樹間からさし染める月光を、全身でまだらにうけながら目をとじる。
荒れていた息がようやくのことで整ってきたとき、シェラは四囲を虫の音がみたしていることに初めて気がついた。
一帯から、生の季節が去ろうとしているのだった。
胸に手をやり、青い宝石を握りしめた。
うかんでいたあざ──紋章は、いまも黒々とその胸の中央に刻まれているはずだった。
シェラーハ──と、閉じたまぶたの裏で、忘れていた顔が呼びかけた。
「イアド兄さま……」
力なくつぶやきながら、シェラは腕で目をおおいつくした。
涙がにじんだ。
シェラーハ、おまえに守り神を与えてやろう。
まぶたの裏、遠い記憶のなかで、一の兄がやさしく微笑みながらそう告げた。
その瞳にひそむ邪悪な歓喜に、記憶のなかのおさないシェラは、恐怖に身をふるわせる。
「兄さま……やめて……こわい……」
昔日のまま、たどたどしい口調でシェラは泣きながら口にした。
だいじょうぶだ、と記憶のなかの兄がいう。
狂気の笑いを満面にうかべて。
「どうしてこんなことをするの……」
涙を流しながら、力なくつぶやいた。
そうしてながいあいだシェラは、斜面にたおれこんだまま、低いおえつで肩をふるわせていた。
そして――ふと気づくと、四囲をうめつくしていたはずの虫の鳴声が、すっかりなりをひそめていた。
森が、しんと静まりかえっている。
異様な静けさだった。
おえつに肩をふるわせながらシェラは涙をぬぐい、周囲をながめわたした。
月あかりにてらされておぼろにうかぶ闇のなかに、どんな異変の兆候も見出すことはできなかった。
シェラは首を左右にふり目頭をぬぐい、立ちあがった。
上方をふりかえる。
気配を感じたような気がしたのだ。
目をこらした。
何も見えない。
だが──音がきこえた。
ざざ、ざざ、と、何かが下生えをふみこえて移動している音だった。
夜行性の獣であるのかもしれない。
だが、シェラにはそうは思えなかった。
くちびるをかみしめつつ、首からさげた宝石を握りしめた。
ほかに武器になりそうなものは何もなかった。
降りはじめる。
背後の音はとぎれながらも、次第に近づいてくる。
息が荒れる。
鼓動がはやくなる。
疲労のせいか、不安と恐怖のせいか。
ふいに、眼前に暗黒が広がった。
ぎくりとして、ふりかえりかけた。
おそかった。
足場がふいにとぎれて、シェラの全身が大きく宙におよいだ。
驚愕と焦慮に脳内を焼かれながら、シェラは反射的に手をのばした。
草をつかむ。
ぶちぶちといともたやすく、ちぎれるだけだった。
悲鳴をあげて宙に手をふる。
崖の端に、かろうじて手がかかった。
落下がとまる。
からころと小石が斜面をころがり、宙に投げだされる音がした。
水音はしばらくしてから、はるか下方からひびいてきた。
耳をすますと、どうどうと流れ下る滝の音がかすかにきこえる。
いずれにせよ、相当な高さだろう。
ちらりと下方を見やってすくみあがり、目をとじた。
はいあがろうと、足場をさがす。
足は宙を蹴るばかりだった。
ようやく見つけた足場に力をこめると、ずるりと下方にずり落ちた。
がらがらと音がして、見つけた足場はいとも簡単に崩落した。
「たすけて……」
シェラはよわよわしく口にした。
直後、がっ、と、手首をつかまれた。
ひ、と小さく喉を鳴らす。
赤黒い異様な顔が、シェラをながめおろしていた。
落書きのような造作の崩れた、不気味な顔だった。
ぶよぶよとしたおぞましい感触が、つかまれた手首から伝わってくる。
悪寒が、背筋をかけぬけた。
離して、と、もがこうとして、かろうじてそれだけは思いとどまった。
この状態で離されては、崖底めがけてまっさかさまは必至だった。
おぞましさをこらえ、目をとじる。
ある意味で、追手がレブラスであることは僥倖であるのかもしれなかった。
マラクは、ヴァラヒダの意向を無視してシェラをその毒牙にかけようとしていた。
シャダーイルはいまだに得体がまったく知れない。
レブラスなら、ほかの二匹の妖魔にくらべると、そのおぞましさもひとしおだが、すくなくともヴァラヒダの命令にはしたがっていた。
洞牢にシェラを連行する際にも、食欲その他のいっさいの関心をシェラに対して示すそぶりさえ見せなかった。
つれ戻されるだろうが、とりあえずこの場で墜死することや化物に喰われて果てることだけはさけられそうだった。
力強く、シェラのからだが子どものようにひきあげられた。
が──いつまで経っても足に地がつかない。
いぶかしく思って、シェラは目をひらいた。
レブラスの巨体に吊るしあげられて、地面ははるか下方だった。
肉塊をこねあわせたような異臭を放つ妖魔の顔が、じっとりとした視線を吊るしあげたシェラの顔にあわせていた。
洞牢で、マラクがうかべていたものと同じ種類のものを、シェラはその視線に感じた。
飢餓である。
「おまえ」
と、腐汁がごぼごぼと泡立つような異様な声音が口にした。
「おまえ、剣をもっているか」
背筋を悪寒がはしりぬける。
老タグリの屋敷で、ダルガにむかって切れ、と要求していた妖魔のおぞましい姿が思い出された。
痛い痛い痛いとわめきながらこの肉塊の化物は、歓喜と恍惚をその醜貌にうかべていた。
シェラはよわよわしく首を左右にふった。
レブラスの顔に失望がうかぶ。
「では、おまえのその歯で噛め」
すぐに化物はそういった。
理解できず、シェラは目をむいた。
「おれの肉を噛め」
もう一度、妖魔はくりかえした。
おぞましさに、シェラは喉の奥で悲鳴をもらす。
必死になって首を左右にふりつづけた。
「噛めんのか」
心外だとでもいいたげな大仰な口調でレブラスはいった。
ひどい失望が、その人間離れした容貌にありありとうかんでいた。
シェラは涙をにじませながら、
「いや……」
と口にした。
「噛めんのか」
もう一度化物は口にし、異様な腐臭をともなった落胆の吐息をついた。
そしていった。
「なら、おまえもおれの中に入れ」
ぎょっとして、シェラは目をむいた。
意味がわからず化物の顔を凝視する。
化物はくりかえした。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
いいながら、泥のかたまりのような異様にむくむくとした手を、己が胸にかけた。
そしていきなり──自分で自分の胸の肉を、ばりばりと引き裂きはじめた。
シェラが悲鳴をあげた。
悲鳴をあげながら激しくもがきまわった。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
肉塊の化物がうれしそうな口調でくりかえしながら、みずから刻みこんだ傷口をがばがばと左右にくじり広げはじめる。
息がとぎれるまでシェラは叫び、とぎれた息を肺いっぱい補充してさらに叫んだ。
「ひとつになろう。気持ちがいいぞ」
化物の顔がずずずとせまった。
ぺたりと、頬が頬におしつけられる。
ぞわぞわと、異様な感触がそこから伝えられた。
無数の芋虫がぶよぶよとうごめいているような感触だった。
シェラはさらに悲鳴をあげた。
身をもがかせた。
何の効力もなかった。
ぐふう、と、笑い声らしき異様な声音が、接触した部分からシェラの頭蓋を反響させた。
「おまえとおれはひとつになる」
感きわまったように恍惚とした口調で、レブラスはいった。
「苦痛も快楽も、倍になる。気持ちがいいぞ」
シェラは叫んだ。
恐怖に叫びつづけた。
全身を抱きしめられた。
接触した部位から、ぞろぞろと何か異様なものが盛り上がってくる。
肉だった。
赤黒い粘液をしたたらせた腐肉のようなものが、ぞわぞわと増殖してシェラのからだをのみこもうとしているのだった。
喉が裂けるほど絶叫しながら狂おしく身もだえたが、化物の膂力の前にはまったく無力だった。
絶望が脳内を沸騰させた。
恐怖と悪寒だけが全身をかけめぐる。
これがわたしの死なのか、と思った。
それとも──死ではなく、永遠の苦痛のはじまりなのか、と。
が──
ふいに、シェラはどさりと投げ出された。
あまりにも突然の解放に事態を理解できず、シェラはぼうぜんと周囲を見まわした。
何かがいた。
何か、異様なものが。
ティグル・イリンの宝玉の光に照らされ、何か無数の、小さな、動物のようなものがシェラと、そしてレブラスをとりかこんでいるのだった。
闇にまぎれて声ひとつ立てずに囲むそれらの影に、シェラは視線をこらした。
鈍色の光沢が月光に映えていた。
無数に。
樹間にわきだしたかのように、その異様なものはひっそりと闇の底にたたずんでいる。
金属の太い棒を螺旋状に渦まかせたような奇怪な胴体。
その胴体から、まるで戯画か何かのように生え出ている、子どものそれのように華奢でつくりものめいた四肢。
それが直立する姿は、まさに玩具のようであった。
見たこともないようなしろものであった。
その異様な異生物が、無数にシェラたちをとりかこんでいるのである。
恐怖にすくみあがりながらシェラは、レブラスの醜貌に視線を戻した。
驚愕した。
妖魔は──へたりと、腰をついていた。
全身をぶるぶるとふるわせながら、いやいやをするように首を左右にふっている。
「来るな」
泥を煮たような異様な声音にも、あきらかにおびえがあふれ返っていた。
尻で、異生物を避けるようにふらふらと、あちこちにいざろうとしている。
どちらの方向にも、異生物はいた。
──ただ一方向をのぞいては。
妖魔はいやいやをしながらその一方向にむけてずず、ずず、といざり退き──
異生物よりは落ちるほうがましだ、とでもいわんばかりにまるでためらいなく、闇にしずむ崖下めがけて、一直線に飛びこんだ。
巨大な肉塊がゆっくりと落下していった。
悲鳴ひとつあげなかった。
シェラはその一部始終を、ぼうぜんとした面もちでながめやった。
あのおそるべきヴァラヒダの魔を、これほどまでに恐怖させるもの。
シェラは、闇に消えたレブラスから視線を離して異生物へとむけた。
身長はシェラの腰ほどしかない。
四肢もよわよわしく、それほどの力を秘めているようには見えなかった。
数は脅威にちがいないが、レブラスのような巨魔がおそれるほどでもない。
得体の知れない金属光沢を放つ螺旋状の胴体はたしかに異様だったが、見ているだけではそれにどんな力があるのかないのか、さだかではなかった。
「あの……」とまどい、不安と恐怖に心臓をわしづかみにされながら、シェラは口にした。「どちらさまでしょうか……?」
わけのわからない間の抜けた質問にも、異生物は惚けたように立ちつくしたまま、返事をするどころか身じろぎひとつしなかった。
とまどい、どうすればいいのか判じかねてシェラはもう一度「あの……」と、異生物のひとつに呼びかけようとした。
そのとき──
闇の奥から笑い声がひびいてきた。
ころころとやわらかいものがころがるように心地よいひびきの、男声の笑い声だ。
どう反応すべきかますますわからなくなって、シェラは両手を胸の前で組みながら笑い声のする方角に視線をむけた。
がさがさと枯れ葉の集積をふみしめながら、丸々とした小柄な人影が樹間からあらわれた。
闇に判然とはしないが、初老の人物であるようだった。
好々爺然とした柔和な笑顔を満面にうかべて、ちょこちょことした足どりで近づいてくる。
足が極端に短かった。
樽のような短躯に異様なほど短い手足がちょこちょこと動くさまは、周囲をとりかこむ異様な生物と同様、どこか奇妙な、玩具めいた違和感をかもしだしていた。
「おもしろい。まったくおもしろい」と、その男が快活に笑いながら言葉を発した。「まったくおもしろいお嬢ちゃんがいるものだ。生きていることは楽しいよ。おまえさま“青の洞”から逃げてきたのだね?」
笑いながら、その奇妙な丸い老人はそう問うた。
とまどいながらうなずくシェラに、そうかそうかと何度もうなずきかえす。
「それでは、そこで何を見て、何を知ったのかをくわしく話してもらえないかい?」
「いいですよ……」
とまどいながらも、シェラはうなずく。
そうか、と、肉づきのいい丸顔の人物はにこやかに笑いながらいった。
「よかったよかった。この山にふみこむやからは、よほどひねくれた者ぞろいなのか、すなおに問いにこたえてくれる者がなかなかなかったからな。ありがたいよ、お嬢ちゃん。忠実で有能な、わが息子たちをあんたのような可憐な娘にたからせるような真似は、したくはないからなあ」
にこやかに笑いながら口にする老人のセリフに、どことなく不気味なものを感じてシェラは、ひそかに背筋をふるわせた。
そしてふいに、その奇妙な人物の正体に思いあたって目を見ひらいた。
「あなたは……ガレンヴァール、と呼ばれるかたですか?」
丸顔の男は笑いながら何度もうなずいた。
「そのとおりさ。わしがそのガレンヴァールと呼ばれるおかただよ、お嬢ちゃん。“ヴァオルの紅玉”をさがしてここにいるんだ。さて、では話してもらおうかね、お嬢ちゃん。見たかね?“紅玉”を。洞の中で」
いいえ、とシェラは首を左右にふってみせた。
“ヴァオルの紅玉”。
きき覚えはまったくない。はじめて耳にする言葉である。
それに類するものをあの洞窟のなかで見た記憶もまったくなかった。
「紅い宝玉は、見た覚えはありません」
シェラは正直にそういって、悪いけれど、と肩をすくめながらつけ加えた。
そんな少女の様子を見てガレンヴァールはふたたび快活に笑った。
異国の幻術使が気を悪くしていないと見て、シェラもほっと息をつきながら、逆に問いかけてみた。
「その“ヴァオルの紅玉”というのは、いったい何なのですか?」
問いに、ガレンヴァールの笑いがふいに消えた。
刺すような視線をシェラにむける。
ぎくりとしてシェラは思わず声をつまらせた。
やはり尋常の人ではないのだろうかという不安が、にわかにわきあがる。
眼光の異様さは、ある意味ではマラクやレブラスなどよりよほど剣呑なものを秘めているようにも見えた。
背筋をふるわせる。
そんな少女の様子をガレンヴァールは無表情にながめやるばかりだった。
が──ふいに、もとどおり破顔した。
そしていった。
「“紅玉”かい。伝説の玉さ」
「伝説の玉?」
おうむがえしにきくシェラにガレンヴァールは笑いながらうなずく。
「そのとおり。それを手にした者は不死になるのさ」