スティレイシャの徴

 

 牢、ときいてシェラは鉄格子にかこまれた小室を想像した。
 現実はかなり違っていた。
 ひと一人寝ころべばそれでいっぱいな程度の狭空間を思い描いていた目には、その岩場は奇妙にひろい印象があった。
 むろん、ひろいとはいってもたかが知れている。
 子どもが五人、夢中になってかけまわるにはまるで不足なほどの空間である。
 まして、その半面近くを、泉が占めていた。
 水はすんでいたが、かすかなさざ波がたえず波紋を描いてもいた。
 地下のあたりでどこかの水流とつながっているのかもしれない。
 ともあれ、レブラスに背中をこづかれながらおしこまれた空間はそんなところだった。
 泉端によろよろとたおれこんだシェラを確認するや、肉塊のごとき妖魔は無頓着に少女に背を向けいずこかへ立ち去ってしまっている。
 室への入口に扉ひとつ立てられてはいない。
 疑問に思い、シェラは立ちあがって今きた途をたどりかえそうと試みた。
 入口に達したところで、猛烈なめまいに襲われ、よろめいた。
 後方に、おしかえされるように倒れこむ。
 ぼうぜんと、視線をあげた。
 入口の空間にはたしかに何もない。
 だが、くりかえしても結果はおなじだった。
 異様な悪寒に襲われてよろめいているうちに、無意識に洞奥へとあとずさってしまっているのだ。
 アリユスの鍛錬を思い出しつつ、印を結び、幻視をはたらかせて視線をめぐらせてみた。
 たしかに、出入口のところの空間がゆがんで、ゆらめいているように見えた。
 だがシェラの霊眼ではその程度のことしかわからなかった。
 泉に手をひたして水をすくい、呪文で圧縮してつぶてにして飛ばしてみる。
 なみの人間相手なら切り傷くらいは負わせられる威力があるはずだった。
 が、異様なことに水つぶては、問題の空間に達するやびちりと不気味な音をさせながらひらべったくつぶれ、ずるずると吸いだされるようにして八方にひろがり、そして四散し果ててしまったのだ。
 悪寒をがまんしてむりやり通ってみようかとも考えたのだが、それはやめにしたほうがよさそうだった。
 しかたがないので泉の水で喉をうるおし、横になってしばらく休憩してから、泉の水面を水鏡にして呪法をおこなった。
 奇しくもすこし前にアリユスが川辺でおこなった呪法と同様のものであった。
 水はシェラの属性である。
 したがって、水系の幻術はシェラには比較的あつかいやすかった。
 ほどもなく、広大な水面に映像がひろがる。
 見えた。
 襲撃をうけた、あの川辺であった。
 アリユスとエレアが、たたずんでいる。
 そして、急流のただなかで水を激しく蹴立てながら、二つの人影が剣を交えていた。
 ダルガと──そしてもうひとり、見覚えのない男。
 アリユスとエレアからはかなり距離をおいて、さらに二人の剣士が水中の闘いを見やっているようだった。
 形勢は、どう見てもダルガのほうが不利。
 シェラは、首もとにさげた宝石をきつく握りしめた。
 青い、水を象徴する宝石だった。
 宝飾品としての価値はさほど高くもないしろものだが、シェラの内包する力をよくひき出すことのできるものでもあった。
「ダルガ……!」
 つぶやき、シェラは握りしめた宝石に念をこめる。
 あやういところで幾度か、ダルガに打ちかかる男の顔面で水が弾けとんだ。
 半分がた無意識に、シェラは水の魔法をくりだしていたのである。
 ダルガはともかく、アリユスはそのことに気づいているようであった。
 シェラは必死の思いで、アリユスにむけて念をおくってみた。
(逃げて……!)
 と。
 どうひいき目に見ても、ダルガが殺されかかっているようにしか見えなかった。
 ダルガ自身がどう思っていようと、逃げるよりほかに何もできることはないとしか思えなかった。
 おなじ思いでいたのだろうか。ほどもなくアリユスの思念が返ってきたように感じた。
 承諾をあらわす思念だった。
 意をくんだわけでもあるまいが、ダルガもまた大剣を捨てて逃げにかかった。
(そうよ、ダルガ。逃げて……)
 祈る思いで、シェラは映像のダルガに呼びかける。
 呼応するごとく、アリユスの放った風の矢がダルガを追う剣士の胸前で弾けとんだ。
 はらはらと見守るうちに、ようようのことで三人は樹間にまぎれて闇に消えた。
 追手が二人、あとにつづいたが、距離はかなり離れているように思える。
 ひとまず息をつき、シェラは印をといて腰をおろし、岩壁に背をあずけて目をとじた。
 どれだけの時間をすごしたのかはよくわからない。
 うとうととしていたようだ。
 ハッと気がつくと、眼前に黒い影が、おおいかぶさるようにしてたたずんでいた。
 悲鳴をあげてシェラはあとずさった。
 青い燐光につつまれた薄闇のなかにうっそりとたたずんでいたのは──マラクであった。
 無言のまま、異様な眼光がつらぬくようにシェラをにらみおろしている。
 憎悪を、その眼光のなかに見たような気がした。
 そしてもうひとつ。
 ──シェラは、ぞっと背筋をふるわせながら、背中を岩壁におしつけ足を動かした。
 飢餓だ。
 妖魔マラクの双眸には、まごうかたなき飢えが、うごめいているのだった。
 うすよごれた包帯に荒くまかれた右上腕が、痛覚と屈辱の記憶に耐えかねるようにひくひくとふるえている。
 残った三本の腕のこぶしは、子どもが店先で手に入れることのできぬ菓子をでもながめやっているように、ひらいては閉じてをくりかえしていた。
 見ひらいた両の眼には、シェラが意識をとり戻したことに対する認識などかけらもうかんではいない。
 シェラを、人格をもった存在としてはとらえていないからだった。
 強烈な飢えをみたすことのできる、この上なく魅力的な食餌のたぐいとしか見ていないのである。
「あ……わたしを殺しては、まずいのではありませんか?」
 恐怖にふるえながら、シェラはいった。
 マラクはなおも、言葉など理解できぬかのように飢えにみちた視線をシェラにすえていたが、やがていかにもめんどうそうな、気怠げな口調でこたえた。
「かも、しれぬ」
 と。
 ぞっとした。
 その程度のことは想像しているらしい。
 想像していながら、たいしたことにはならぬと考えてもいるようなのだ。
 さもあろう。
 深山の洞奥ふかく巣くうおそるべき妖魔どもにとって、生け贄の用にさえたらぬ少女の存在など、さして深刻な問題ではあるまい。
 飢えに耐えかねて妖魔の一匹がむさぼってしまっても、あるいは思い起こされることすらないほどの捕虜でしかないのかもしれなかった。
 シェラは、壁づたいに後退した。
 マラクはあせるでもなく、あいかわらず惚けたように飢えでみたされた視線をゆるゆると、シェラの後退にあわせて移動させる。
 泉のすぐわきまで来て、シェラは後退する先を喪失した。
 痴呆のような表情でそんなシェラを見まもっていたマラクが、ふいに、にたあ、と異様な笑いをうかべた。
 ずしり、と、余裕たっぷりの足どりで一歩をふみだした。
「来ないでください!」
 叫んだ。
 叫びながら反射的にふところをまさぐっていた。
 奇跡を体感する。
 短剣だ。
 ふところのかくしにつねに忍ばせている護身用の短剣が、とりあげられもせずにおさめられていたのである。
 ふるえる手でとりだし、鞘からぬいた。
 研ぎたてのようにするどい光を放つ刃が、ぎらりとむき出された。
「来ないでください」
 もう一度、決然とマラクを見かえしながらくりかえす。
 腰を低くして両手で短剣をかまえ、対峙した。
 青黒い舌を、マラクは形のいい厚いくちびるの上にはわせた。
 異様な眼光を放つ双の眼には、シェラのかまえた凶器など意識したそぶりさえ見えない。
「来れば、刺します!」
 いわずもがなの脅迫を口にしたのは、マラクがいっさいのためらいなしにせまってくるだろうことを確信していたからだ。
 その確信どおり、隆々とした筋肉に全身を鎧われた官能的な肉体の女魔は、岩場をふるわせる重量感をまきちらしながら一歩、また一歩とシェラにむけて前進する。
 眼前に立った。
 シェラは目をかたくとじたまま、力まかせに短剣を突きだした。
 かたい感触がすぐに刃の前進をはばんだ。
 目をひらく。
 マラクは、避けてさえいなかった。
 碁盤目状のみごとな腹筋のあいだに、いとも無造作に短剣の刃をのみこんでいた。
 強靭な筋肉がそれ自体強力無比な鎧と化して刃の侵入さえ許さないのだ。
 くふう、と切なげなため息をつきながらマラクはめんどうくさげに突きたてられた刃をはらう。
 かん、と岩を打って短剣は泉に飲まれた。
「あっ」
 逃げようとしたところを、腕をつかまれ吊るしあげられた。
 苦鳴をあげつつ、身をひねるが何の役にもたってはいなかった。
 妖魔が、恍惚の表情に野性的な美貌をうっとりとゆがませながらシェラを見つめた。
「おまえの血はうまそうだ」
 吊るしあげたまま四臂のふたつまでを駆使してシェラのふっくらとした頬を愛撫するようになであげ、ふるえる声でそう告げた。
「はなして」
 もがきながらシェラはいったが、もとよりそんな懇願がきき入れられるはずさえない。
 左一臂がシェラの胸もとにのび、その上衣をつつつと引き裂いていった。青い宝石がころがり出、その下から白い肌があらわになっていく。
「うまそうだ……」
 妖魔はくりかえし──舌なめずりをしながらぐい、と手を後方にひいた。
 殺される、とシェラは確信した。
 きつくとじたまぶたの奥で、渦巻く混沌が荒れ狂い、死への恐怖だけがくっきりと際だった。
 それが──召還の役を果たしたのか。


 追手をさけて必死に逃げつづけていたアリユスが、ふいに目をむいた。
 暗黒のせまる山間の暮空に、黒い不吉な影が走ったように感じたからだった。


 ダルガもまたその瞬間、猛悪な追撃者の存在を完全に失念していた。
 影は、剣士の背筋を氷のように刺激した。


“青の洞”を遠望する位置で、ザナールの大海の彼方からわたってきた幻術使もまた思わず、虚空に視線を走らせていた。
 黒い貴公子の影はまぼろしのように淡く、そして圧倒的に邪悪に、幻術使の視界をよぎっていった。


 洞奥にうめくサドラ・ヴァラヒダは驚愕に死へと直結しつつある傷の痛みさえ忘れていた。
 レブラスは得体の知れぬ悪寒をおぼえてうめきをあげ、シャダーイルは異様に光る双眸をぎらりとさせて洞牢の方角にむける。


 そしてマラクは、眼前にかかげた娘の背後に、異様な存在がまぼろしのようにすべり寄ったのを感じて、悲鳴をあげていた。
 まぼろしのように実体をもたないのは、それが現界とは遠くへだたったはるかな高みに棲む存在であるからにちがいない。
 それでいて、これほどまでの圧迫感を放っているのはなぜなのか。
 影さえ視認できないままに、異様な眼光を感じてマラクはぼんのくぼからおさえきれぬ恐怖が地獄の炎さながら爆発するのを感じた。
 己があるじ、ヴァラヒダにさえ感じたことのないほどの、恐怖であった。
 絶叫した。
 絶叫しながら、むき出した両眼で目撃した。
 ついさっきみずからの爪で裂いたシェラの上衣の胸もとに、あざやかな黒のあざがうかびあがっているのを。
 否。
 それはあざではなく──紋章であった。
 鋭利な刃を組み合わせたものとも、また可憐で危険なトゲのある花とも見える、奇妙な様式美にみちた紋章。
 その紋章から、地獄が噴き出してきた。
 地獄──としか形容できなかった。
 あらゆる苦痛、あらゆる悲嘆、あらゆる絶望。
 およそ生あるものにとって最悪のあらゆるものが、その紋章から一気に噴き出してきたのだ。
 叫びながらマラクはシェラを放り出した。
 泉に、シェラの小柄な身体がしぶきをあげて投げこまれた。
 ひいい、ひいいとぶざまきわまる悲鳴をあげながらマラクは、逃げることさえできず四臂で頭部を抱えこみ、その巨体を消えてしまえとでもいいたげに縮め、うずくまった。
 水中から跳ね出ながらぼうぜんと、シェラはマラクのそんな惨状を見やり──ついで、その瞳に恐怖と、そして哀しみを走らせた。
 異形の気配はすでに、洞窟を去っていた。
 すべてはほんの一瞬のできごとにすぎなかったのだ。
 それでもシェラは、自分の身に何が起こったのかわかっていた。
 少女の生命の危機を救いにあらわれた、気まぐれな救世主の正体が何者であるかも。
 それこそがシェラの生涯につきまとう黒い影の正体なのだ。
 少女はくちびるをかみしめて、妖魔の醜態をながめやった。
 あわれみが、その瞳にうかぶ。
 が、いつまでもそうしているわけにはいかない。
 あわてて泉から身をひきだし、
「帰ります」
 頭を抱えてぶるぶるとふるえる妖魔に律儀に宣言し、入口にむけて歩をふみだした。
 結界のあったあたりで一瞬躊躇したが、意を決して一気にかけぬけた。
 先刻感じた悪寒の抵抗はまったくなくなっていた。
 救い主の力によるのであろう。
 シェラの胸に、刻印を刻みこんだ魔界の存在だ。
 地獄の公爵スティレイシャ。
 それが、その存在の名であった。





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