水辺の死闘

 

 バラルカの私有軍の総帥、デュバル。
 バスラスの競技場で剣をまじえた相手の中でも、もっともダルガを戦慄させた男のひとりであった。
 競技会のみならず、ほんものの戦場をも幾度となくかけめぐってきた歴戦の勇士である、というもっぱらの風評だった。
 強い男を下すのが、その生きがいである――とも。
 口に出したことはないが、ダルガはデュバルとの試合をしぶっていた。
 相手の地位や権勢をおそれた、という部分もむろん、ないではない。
 だがそれよりも、駆使するおそるべき剣技にいくどとなく背筋をふるわされていたのである。
 勝てないかもしれない。
 その想いが、ダルガの闘争心を萎えさせていたのだ。
 敗北すれば、奴隷戦士としての価値は消失する。
 それがたとえデュバルのような特別な相手だとしてもだ。
 事実、ダルガが競技会に出場するより以前には、無敵といわれた幾人もの奴隷戦士たちがデュバルに討たれて敗北し、いつのまにか表舞台から消えていったときいている。
 連中がその後どこにいったのかは、だれも語りたがらなかった。
 いずれよからぬ闇幻術の生体実験に供されたのだという者もいたし、決死の最前線にくりかえし送り出されて腕がもげようと脚がおれようと死ぬまで過酷な戦場をかけめぐらされたのだという者もいた。
 バスラスの街に、ことにバラルカの利益に反するような戦争がおよんだことはここ十数年なかったはずだから、後者の噂は嘘であろうとダルガは思っていた。
 だが、多少とも役に立つ剣士なら、傭兵として売買貸借されることもあるのだと知ったときには背筋をふるわせた。
 敗北しても、幾度でも挑戦できるのならかまわなかった。
 だが、ダルガには負けることは死への道を一歩ふみだすこととまったくひとしい恐怖であった。
 できればデュバルとは闘いたくない。
 このおそるべき使い手の闘いぶりを一目みたときから、ダルガの胸奥にはそんな怯懦がひそんだのだった。
 だが、おそらくいつかは、それを避けることができなくなる日がくるだろう、とわかってもいた。
 悪夢は実現する。
 デュバルが得意の強権を発動させて、やとい主のバラルカにさえうむをいわさず、ダルガを対手の位置にひきずり出すことに成功したのだ。
 しかもダルガは、バラルカから秘密裏に要請、というよりは命令をうけていた。
 デュバルの戦士としての資質、軍をひきいる長としての資質をおびやかすような真似はだんじてしてはならぬ、というおそるべき命令を。
 可能な芸当ではなかった。
 あるいは、過去にデュバルに敗れてきた奴隷戦士のなかには、この条件をみたしきれぬがゆえに地に伏した者もあるのかもしれない。
 冗談ではなかった。
 しかしダルガには、ことわる権利などもとよりない。
 あるいは、もうすこしこずるく立ちまわるだけの知恵と経験を重ねていれば、名目上は奴隷戦士であってもそれなり以上の発言権を獲得することは、ダルガほどの強さを示してきた者であれば可能ではあっただろう。
 あいにく、いかに天分に恵まれた戦士とはいっても、ダルガは十四の少年であることもまた事実であった。
 屠殺される家畜の気分で競技場に立ち、不世出の剣士と対峙する。
 歓声は悪夢のようにダルガの脳裏をゆらがせ、焼きつくした。
 闘場にひざをついてうずくまり、ぶざまにへどを吐きちらしてしまいそうな悪寒に苦しんだ。
 ひどい体調だった。最悪の気分だ。
 たとえバラルカの不興を買おうとも、いっさいの手加減などしない、とせめてそう決めて闘技の場にのぞんだつもりだった。
 とんでもない仮定だった。
 全力をもって打ちかかっても勝てる相手ではない、と、対峙した相手の眼光を見た瞬間にそう悟っていた。
 かといって、死を覚悟することもできなかった。
 現実感が根こそぎうばわれ、ダルガは人形と化してすり鉢の底に立ちつくした。
 永遠とも思える悪夢の光景をいやというほど味わわされて後、ふいに競技の開始を告げる、鞭の打たれる音が意識の外側からひびきわたる。
 獰猛な顔貌に薄笑いをうかべた大剣士が、猛牛のようないきおいと迫力で一歩ふみこんできたとき、眼前に肉薄してきた白刃に意識が白濁したのをよく覚えている。
 そのあとの動きは、すべて刻みつけられたものが反射的に出ているにすぎなかった。
 それが僥倖でもあった。
 おのれの動作や反応をまるで他人事のように見ているうちに、理想的な形態でダルガは闘いを展開していったのだ。
 おのれの剣がデュバルの胸をわり、左顔面を縦に裂いたのをまるで他人事のように見物していた。
 狂的な大歓声がダルガの脳裏からますます現実感をうばい去った。
 悪夢に魅入られたまま、闘技場をあとにした。
 さいわいデュバルの左眼から光を奪ったことに関して、バラルカからのおとがめはなかった。
 ダルガの、戦士としての地位はいよいよ不動のものと化し──そしてその事実が無意識のうちに悪夢と化して、ダルガの夜を訪うことになる。
 復讐を期してデュバルが鬼となって修練に打ちこんでいる、というおそるべき噂もダルガを苦しめる要因のひとつであった。
 増長もないではなかったが、刻みつけられた恐怖感はそれを軽く上まわっていた。
 そしてそのころからまたダルガは、おとずれる悪夢とはべつにもうひとつ、夜ごと奇妙な夢を見るようになった。
 何かを象徴する夢だった。
 くりかえしおとずれる夢魔はダルガの心裏に奇妙な焦慮と圧迫感を惹起し、同房の戦士に夢解きをすすめられる。
 そして──バラルカの意向を無視して占爺パランのもとをおとずれた。
 占爺の助言により街郊外の不思議な湖に眠る神秘的な存在に託宣をうけ──出奔を決意することとなったのである。
 だが、その理由の中には、夢告の内容によるだけではなく、デュバルの狂的な復仇の視線につきまとわれる悪夢からの逃走たる意味も、少なからず含まれていたのかもしれない。
 その悪夢が──ついに具現化して、眼前にたたずんでいるのだった。
 歓喜に、裂けるような大きな笑いをうかべながら。
 ダルガは、ぎり、と奥歯をかみしめた。
 闘技会での無意味な殺しあいにおいて、おのれの死を覚悟できる心境になれたことはなかった。
 その後、旅の途を重ねるにつれ、想いは徐々に変化していった。
 占爺パランとともに幾度となく危地をのりきり、時にはおのれを教え導いてくれる気のいい老人のためにおのれの命をさえ盾にしてもかまわない、とまで思えるようにもなっていた。
 その心境の変化が、いまのダルガには足枷になっていた。
 シェラが、ユスフェラの妖魔にさらわれたままなのだ。
 ここで朽ちるわけにはいかなかった。
 敗けられない。
 その義務感が、重圧と化した。
 眼光を見ればわかる。
 いま眼前に立ちはだかるデュバルは、二年前の闘技場で対峙したあのおそるべき剣士よりもさらに、数段階も強力で気力に満ちた戦士と化している。
 ダルガに対する復仇をはたすために、すべてを打ち捨てる覚悟さえできているのだ。
「くそ」
 ダルガは歯がみした。
 呼応するように、デュバルがにたりと笑った。
「ようやくとらえたぞ、ダルガ……!」
 憎悪が地獄の炎となってただよってきそうな声音で、デュバルはくりかえした。
「立ちあえ。おまえを斬る……!」
 静かに、宣告した。
 縦に裂けた左半眼の傷跡は無惨にひきつれ、デュバルの醜貌をいっそう凶悪にゆがめていた。
 そして残された右眼の眼光は、かつての光以上に憎悪にいろどられて赤く、めらめらと燃え盛っている。
 ぞろりと、舌を出した。
 ゆっくりとくちびるの左端から右端へと、舌なめずりをはわせていった。
 デュバルの隻眼はダルガの面上にすえられたまま、ひくりとも動かない。
「立ちあえ」
 くりかえした。
 苦渋をかみしめながら、ダルガは口をひらいた。
「わかった」
 満面にうかんだデュバルの歓喜の笑みが、つぎのダルガの言葉をきいてにわかにくもる。
「だが、もう少し待ってくれ。やり残したことがあるんだ」
 血を吐くような想いで、ダルガはその言葉を口にした。
 奴隷として売られてから数えきれぬほど、言葉でも、態度でも、暴力をふるわれてきた。
 文字どおり死にそうな目にさえ、幾度となくあわされてきた。
 それでもいつも、歯をくいしばって相手をにらみあげ、耐えつづけてきた。
 おのれの命が危ういときにさえ、懇願などしたことはなかった。
 それを口にした。
 屈辱と、異様な敗北感とがダルガの胸裏に膨張する。
 ささえは、シェラを救い出さねばならぬという義務感、ただそれだけであった。
 が、デュバルは首を左右にふった。
「逃げる気か、ダルガ。ふざけるな。それではおれの気はおさまらんぞ」眉間にしわをよせ、憤怒の形相でダルガをにらみつけた。「だめだ。立ちあえ。いまここで」
「決着はつける」もどかしげにダルガはくりかえす。「だが、いまはまだおれは死ぬわけにはいかないんだ」
 たのむ、と、握りしめた拳を打ちあわせながら叫ぶようにしていった。
 デュバルはぼうぜんと目をむき──
 つぎに、疑わしげに眉をひそめ、下からダルガをにらみあげる。
 くちびるをへの字にゆがめ、
「おどろいたな」心底おどろいたように、そういった。「おまえがそれほどの腑抜けとは思わなかった」
 反論しようとして、ダルガは唇をかみしめた。
 腰抜けといわれようと、むだ死にせぬことが肝要なのだ、とおのれにいいきかせた。
 そんなダルガの様子を見やりながら、デュバルはため息をついた。
 切なげな顔をして、両手を左右にひろげてみせる。
「がっかりだ。失望したぞ」
 つぶやき、ふっと肩から力をぬいた。
 屈辱を味わいつつもダルガもまた、緊張を解いた。
 一瞬。
 虎獣の咆哮のごとき気合いが、ダルガに向けて肉薄した。
 ぎょっとあとずさる顔面を追って、不吉な光を放つ白刃が弾丸のように眼前に突き出された。
「お──」
 うめきつつ、ダルガはあわててマラクの大剣を打ちおろし、デュバルの強襲をかろうじてうけとめた。
「きくか、そのようなたわ言!」
 叫びざま、間髪入れず二撃が襲いかかってくる。
「待て、デュバル!」
 後退しつつ叫んだが、無駄だった。
「反撃しろダルガ! 打ちあえ! そして死ね!」
 狂ったような叫びとともに、重い斬撃がたてつづけにダルガを襲撃した。
 防戦一方のまま、ふたたび水流の中に足をふみいれた。
 しぶきをあげつつ、剣士たちは激しく移動した。
 ざし、と腰をおとして両足をひらき、ダルガは後退を停止した。
「やる気になったか!」
 歓喜とともにデュバルが叫んだ。
 おう、とダルガはこたえた。
「今度は殺す」
 短くいった。
 瞬時、デュバルの顔が惚けたようにぽかんとダルガを見かえす。
 それがつぎの瞬間、屈辱にみにくくゆがんだ。
 バラルカの命によりダルガが手加減していたのだという噂を思い出したのだった。
 おお、と呼応というよりは咆哮をはしらせて、デュバルは打ちこんだ。
 銀弧が脳天をねらう。
 わきに身をかわして斬撃を流し、ダルガは大剣を横薙ぎにふるった。
 ぶん、と空気が重くふたつに割れ、その軌跡からデュバルはかろうじて後退した。
 流された大剣が反転するまでに、一瞬の間があった。
 その間を逃さず、デュバルはずばりと下から打ちあげた。
 ダルガは水を蹴る。
 しぶきとともに、少年の体が後方に跳んだ。
 おお! と吼えながらデュバルの剣尖があとを追う。
 一撃必殺。
 デュバルの剣は、技法をこえていた。
 急所を打たれれば人は苦痛を感じる。
 ゆえに、致命的な攻撃に対しては、人間の身体は反射的に反応するようになっている。
 簡単に急所を打たせたりは、させてもらえないということだ。
 したがって、対峙する敵手に致命傷を負わせるための手順として、さまざまな技巧がこらされ、磨かれてきた。
 それが剣技を生み、流派を生み、奥義を、そして達人を生みつづけてきたのである。
 が──すべての技巧はたった一点を目ざす。
 すなわち、一撃必殺。
 相手がかわすよりはやく、相手が打ちこむよりはやく、必殺の一撃をたたきこむこと。
 ダルガは、ぬき打ちによってその境地に近づいていた。
 デュバルの場合は、突きだった。
 いっさいの技巧の欠落した、まるで単純な突きだ。
 猪突猛進、という言葉がまさにふさわしかった。
 それを、さばききれない。
 デュバルの異様な体さばきが、ダルガの防御の動きをわずかに上まわっているためだった。
 闘技場で対戦したときは、デュバルの動きはいまよりもさらに直線的だった。
 並のさばき技ではかわしきれぬ鋭い剣尖ではあったが、期せずして無我の境地にたどりついていたダルガの円の動きにより、その獰猛な突きは相殺されていた。
 が、その後の二年の月日をかけてデュバルは、ダルガの動きに対応できるだけのすばやさを、身につけていた。
 あいかわらず動作は直線的だが、それを連結する体勢の立て直しが、並の速さではないのだ。
 そして奇しくも、その立て直しの動作そのものが、円の動きとなってダルガの防御に対応しているのである。
 受け、さばき、流し、かわしつづけたが――ほどもなくダルガの息があがりはじめた。
 足場も悪い。
 なによりも、手にした得物がダルガの体力をいつも以上に消耗させた。
 死ぬか、と、どすぐろい諦念が胸奥にわきだした。
 死ねない、と狂おしい想いが後頭部を圧搾する。
 両者がともに、ダルガの手足の枷となった。
 足下の水苔におおわれた小岩が、とどめとばかりにダルガの足をすくった。
 水しぶきをあげて転倒する。
 がぼ、と大量の水塊が顔面になだれこんで視界を奪った。
 もがくように、身を反転させた。
 無意味な行動だが、デュバルの攻撃をかわす役にたった。
 がば、と水をわって侵入してきた凶刃が、がちりと小岩にかみこまれながら無数の気泡を吐きあげる。
 背筋をふるわせつつ水中を二転三転、どうにか立ちあがった。
 と思ったとたん──足場の小岩がごろりところがった。
 ダルガは足をとられてたおれこんだ。
 それがまたしても僥倖だった。
 瞬間前までダルガの頭が位置した場所を、デュバルの凶悪な突きが走りぬける。
 ぶざまな闘いだった。
 いつのまにか急流をなす川のなかばまでふみこみ、立ちあがっても胸近くまで水がきている。
 いかに修練をつんだといっても、まともな剣戟にふさわしい環境ではなかった。
 それでも、立ちどまれなかった。
 動作を中断したとたんに、敵手の致命的な一撃がとびこんでくることを、ダルガもデュバルも熟知していた。
 どうどうと荒れ騒ぐ水流のただなかで、両者はぶざまにまろび、飲んだ水を吐き出しながら夢中になって剣を交えつづけた。
 切りがない。
 想いはおなじだったが、見切りをつけたのはダルガのほうがはやかった。
 鋭さをいささかも失わぬデュバルの凶猛な一撃を、大きくかわして逃げるやいなや、マラクの大剣を相手の顔面めがけて投げつけた。
 飛来する大剣を横にさばいたデュバルが、つぎの瞬間、ぼうぜんと目を見はる。
 ダルガが、背中を向けたのだ。
 急流にのって、ぬき手を切っている。
 逃げにかかったのだ。
 信じられぬ思いでデュバルはぼうぜんと、遠ざかるダルガの背中をながめやり、ついで──咆哮した。
 怒りの咆哮であった。
 二年。
 ダルガを打ち破るためだけに、剣をふるいつづけた。
 そして半歳。
 すべてを捨てて、ダルガを追いつづけた。
 そのすべてが結実すべき瞬間に、標的は唾棄すべき口先を弄し、逃げ腰で剣をうけ、あまつさえ受けるべき剣さえ投げ捨て、一目散に遁走しようとしているのだ。
「卑怯!」
 血を吐くほど喉をふるわせ、デュバルは腹の底から叫んだ。
 ダルガを追って急流に身をおどらせた。
 彼我の距離はかなり離れている。
 その距離を、執念のみでちぢめた。
 ようやく追いつこうかと思われる寸前、ダルガが立ちあがった。
 地に足がつくほど岸によっていたらしい。
 ばしゃばしゃと水を蹴立てて走り出した。
 しぶきが顔にふりかかる。
 冷静であれば、そのままぬき手を切ってすこしでも距離を詰めていただろう。
 あいにく、デュバルの頭には血がのぼりきっていた。
 追跡しようと立ちあがり、同じように水しぶきを立てて走りはじめた。
 とたん──白い閃光が、眼前で弾けとぶのを目撃した。
 輝くかたまりが風とともに打ちつけてきたような衝撃を感じて、後方に吹き飛ばされた。
 なにがなんだかわからぬまま、デュバルはどばん、と派手に水柱をあげて水中に没する。
 飲んだ水を噴きながら立ちあがり、顔面をぬぐいつつ視線をとばした。
 ダルガの姿は、あと二人の連れとともに樹間に消えつつあった。
 残った部下二人が追跡にかかってはいたが、距離はずいぶん離されている。
「卑怯者!」デュバルはたまらず叫んでいた。「おれと剣を交えるのが、それほど恐ろしいか! きさまはそれほどの腰ぬけであったのか! おれが追いつづけてきた剣士は、そのようなくだらぬ男でしかなかったのか! こたえろ! こたえろ“闇の炎”!」
 やり場のない怒りは反響もなく暗黒に吸われて消え、ずぶぬれの肉体と荒れた息だけが耳に残った。
「……許せぬ……!」
 たたずんだままデュバルは、しぼり出すようにしてつぶやいた。





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