魔窟のシェラ

 

 曙光がさし染めるころ、剣士と幻術使とはぼうぜんと魔物の消えたユスフェラの威容に視線を投げかけていた。
 放心して、小岩に腰をおろしたまま一言も発することはできなかった。
 妖魔が去ったのを確認してからエレアが、隠れていた天幕から姿をあらわしたのだが、それに気づいた様子さえ見せなかった。
 が、さし染める陽光に正気づかされたか、ため息をつきながらアリユスが立ち上がった。
「怪我はない?」
 ぼうぜんとする二人をただただながめやるしかなかったエレアに、疲れた声音でそう問いかけた。
 エレアが無言で首を左右にふると、そう、とかすかに笑ってから、ダルガのもとへと歩みよった。
 正面にしゃがみこむと、惚けた子どものような表情をしているダルガの右手をとって微笑んだ。
「ひどい傷だわ」
 いぶかしげに見かえすダルガから視線をはずして刻まれた無数の咬み傷を見、右手をその傷にかぶせるようにかざしながら、呪文を口中でとなえはじめる。
 肉の奥深くから、にぶくうめきあげていた鈍痛が、潮がひくように消えていった。
 傷口がふさがるほどの目ざましさはなかったものの、にじんでしたたっていた血流がにわかにとまりはじめる。
 ついでアリユスは、マラクの強打をくらった胸部へとその白い繊手を移動させた。
 やはりほどもなく、痛みがひきはじめる。
 治癒者としても、アリユスはどうやら一流であるらしい。
 ものの数分とたたぬうちに、ダルガは軽くからだを動かすくらいならまるで支障のないほどに回復していた。
「ありがとう、アリユス」
 ぼうぜんとそう告げ、四肢を繰ってみた。
 アリユスは微笑んでうなずき、ため息をついて腰をおろした。
 頬づえをつき、目をとじる。
 ダルガはひととおり自分の肉体の動き具合をたしかめてから、アリユスとシェラが使用していた天幕の前に歩みよった。
 無造作に放置されたままの、マラクの大剣をひろいあげる。
 巨大だった。
 巨躯のマラクが手にしていたときはちょうどよいほどの大きさにしか見えなかったが、ふつうの長剣の倍近くも長さがあった。
 湾曲した刃は見るからになまくらだが、厚みと重量はもはや剣のものではあり得なかった。
 重さを膂力であつかい、力まかせに目標物を叩きつぶすための剣だ。
 スピードとタイミングで鋭利に相手を斬り裂く、ダルガのような使い手に向く剣ではない。
 それでもダルガは、確かめるようにかざしたりかかげたりした後、身軽な動作で縦横無尽にその大剣をあやつりはじめた。
 ときおり、どうもしっくりこない、とでもいいたげに首をかしげたり左右にふったりするが、自在にあやつるさまはまるで十年来の使い手にさえ見える。
 やがて、ぶん、と音を立てて空を切ってから、ダルガは大剣の柄を逆手に持ちかえ、革帯の内側にたばさんだ。
「いこう。アリユス」
 つかつかと幻術使のもとに歩みより、無表情のまま告げた。
 アリユスはぼうぜんと少年の回復力のはやさを見上げていたが、やがてフッと、静かに微笑した。
 立ちあがろうとはせず、上衣の胸もとにかがやく首飾りに手をのばす。
 手のひらの上に白い石がかざされた。
 それを祈るようにして眼前にかかげ、アリユスは目をとじて念を集中した。
 石がわずかに、青みのかった光を発したように見えた。
 それはすぐに消え、目をひらいたアリユスが口にした。
「とりあえずは、シェラは無事のようだわ。生命にかかわるような危険がせまっているわけでもなさそうね。すぐに追う必要はないと思う。それより、わたしの回復呪文でもあなたの傷や疲労を完全にとり去ったというわけではないし、わたし自身も一歩も動けないほど疲労しているの。せめて半日、休息をとらせてもらえないかしら」
 どう? と視線で問いかける。
 ダルガはとまどい、妖魔の消えた山中とアリユスの顔とを見くらべ、
「しかし……」
 口にした。
 にこりと笑ってアリユスが立ちあがり、ふいにダルガのくちびるに人さし指を当てた。
 とまどって顔を赤らめながら小さく身をひくダルガに好もしげに笑い声をあげ、アリユスはいった。
「わたしを信じなさい。パランの半分くらいでいいから」
 パランの名をきいてダルガはうろたえつつ眉をよせ、唇をとがらせた。
「パランの半分じゃ、ペテン師を信用したほうがましだな」
 仏頂面でいい捨て、苦笑をかわすとダルガは、首を左右にふりながら天幕に向かいかけて立ちどまり、思案のすえ、幕下ではなく屋外をえらんだか、川原の草地のほうへと移動してごろりと横になった。
 アリユスも笑いながら少年の行動を見とどけ、惨劇の展開された天幕へと歩み入って横になった。
 ひとり取り残された形となったエレアはとまどったあげく、草地に寝ころんだダルガのもとへと歩みより、やすらかな寝息を立てているのを見出してあきれたようにつぶやいた。
「どういう神経をしているのかしら」


 アリユスが一同に召集をかけたのは、陽がかたむきはじめた刻限であった。
 昨夜の曇天とはかわって、ティグル・ファンドラの燃える宝玉がななめから地上を照らし出している。
 午後の陽光を避けるように木陰に場所をとってアリユスは、山牛に背負わせてきた荷の中から、鉢のごく浅い水盆のようなものをとりだした。
 急流をなす川の水をくんで地上に設置すると、とり囲むようにしてすわりこんだダルガとエレアの前で水面に両手をかざしてみせた。
 目をとじ、声を出さずに口中でなにごとかをとなえはじめる。
 澄明な水面はながいあいださざ波ひとつ立てるでもなく、静まりかえったままだった。
 単調で成果の見えない時間がしばらくついやされた後、
「これがどうにかなるとでもいうの?」
 あきれ顔でエレアが、しびれを切らせた。
 ダルガは、せめるように少女を一瞥する。
 アリユスはリズムをとぎらせることなく、瞑目したまま呪文をとなえつづけた。
 なおしばらくの間があった。
 ついにエレアが、茶番にはつきあいきれないとばかり鼻息をあらくして立ちあがりかけた、まさにそのとき──
 水面に波紋がひろがった。
 エレアの行動を阻止しようと腰をうかせたダルガが、目をむきながら動作を中断する。
 エレアもまた、いぶかしげに眉をよせて視線を水盤に戻した。
 そして――向けられた二対の視線が、ひとしなみに丸く見ひらかれた。
 ゆらゆらとゆれる水の底のほうから、映像がうかびあがってきたのである。
 波紋にまぎれてさだかではないものの、何かが歩いている姿を後方からとらえた像のようだった。
 躍動する筋肉に鎧われた、赤い肌の巨体。
 マラクであった。
 肩口にシェラをかつぎあげたまま悠々とした足どりで山中をすすむ妖魔マラクの姿が、そこに映し出されているのである。
 ダルガもエレアも、人形のようなぎこちない動作でへたりと腰をおとし、魅入られたように水面に視線を釘づけた。
 のしのしと歩く妖魔のはるか頭上に、何か奇妙な青い燐光がおぼろにうかびあがっていた。
 山腹である。
 マラクがめざしているのは、どうやらそこであるようだ。
 ヴァラヒダの魔物どもが巣くう“青の洞”であろう。
 マラクは無言のまま燐光めざして昇り、やがて洞の開口部を前に立ちどまった。
 巨大な洞窟だった。
 まるで、山の内臓に向けてひらかれた、巨大な口だ。
 マラクは、ひとしきり洞窟の入口をながめあげた後、おもむろに内部に歩み入った。
 陽光が背後に去り、青い淡い光が四囲をかざる。
 濃密な青の燐光が何に由来するのかはさだかではない。
 いずれにせよ光は視界をさだかにする役目は果たさず、窟内の陰影をいっそうきわだたせているばかりだった。
 迷路のように多岐にわかれた道を迷いもせずに踏み入り、マラクはシェラをかつぎあげたまま洞奥深くをめざす。
 やがて、目的地にたどりついたようだった。
 水盤の映像では判別しがたかったが──そこには三つの影がたたずんでいるように見えた。
 左側の、赤黒い瘤のようなものが全身にもりあがった、奇怪な肉のかたまりのごとき巨影には見覚えがあった。レブラスと名乗る、あの妖魔である。
 右側にも、レブラスやマラクの巨体にまけぬほどの巨躯をうっそりと佇立させる影があった。
 陰影にまぎれてさだかではないが、その頭部には異様な角のようなものが左右に渦をまいている。
 そしてその全身の表面には、異様な光沢が青い光をうけてまがまがしく黒光りしていた。
 不気味な圧力のようなものがその身体から発散されているのが、水面の映像を透してさえはっきりと伝わってきた。
 ダルガはわれ知らず、背筋をふるわせた。
 それが第三の魔、シャダーイルであろう。
 そして──
 そして、左右にそれらの巨魔に守られるようにはさまれて、洞窟の奥殿に鎮座する影は──
「父様」
 エレアが、水盤にくってかかるように身を乗り出しながら小さく叫んだ。
 青白い容貌が、苦痛の表情を満面にうかべながら帰ってきた妖魔をながめおろす。
 後頭部と下半身とが、壁にとけこんででもいるかのように、おぼろに薄れていた。
 病床にのたうつ者のごとく、胸部にうがたれた穴状の傷をおさえ、しきりに頭を前後左右にふりまわす。
 ひらいた口もとから十数枚の舌がおどるように吐き出され、同時に、黒い煙のような異様な息がしゅうしゅうと青い闇のなかに噴き上がった。
 苦鳴をあげているのであった。
 双眸だけが、狂おしいほどの生気と狂気をみなぎらせて、ぎらぎらとかがやいていた。
 サドラ・ヴァラヒダ。
 深山の魔をたばねるもの。


「とらえてきた、ヴァラヒダ。ご所望の生け贄を」
 どさりと、少女の華奢なからだを無造作に岩窟内にほうり出しながらマラクは、得意げに告げた。
 異様なうめき声をあげて苦しげに頭をふりまわしながらながめおろす、ユスフェラの不吉な支配者の凝視をうけて、ひそかに感じた恐怖をおしころすように、にたりと笑ってみせる。
 だれも、笑い返さなかった。
 レブラスは落書きのような造形の肉の面に不思議そうな表情をうかべて、投げだされた少女をしげしげと見やるばかり。
 シャダーイルはといえば、青い闇にまぎれてうっそりとたたずんだまま、いかなる情動もその面にうかべてはいない。
 そしてヴァラヒダは──苦痛に間断なくうめきながら、非難の視線を、マラクに投げかけているのだった。
 マラクは混乱して、目をむいておのが主の顔を見かえした。
 何が気に入らないのか、問おうとした。
 逸するように、う、うん、と、少女がうめきながら薄目をひらいた。
 茫洋とした表情で半身を起こしながら洞内をながめやる。
 道中、幾度かめざめかけたのだがそのたびにマラクの当て身をくらって昏倒させられた。
 拉致されてから意識をはっきりさせるのは、これがはじめてだった。
「……ここは……?」
 もうろうとしつつ四囲をながめわたしながらつぶやき──マラクと、そしていならぶ三体の妖魔に気づいて、ゆっくりと、目を丸くした。
「“青の洞”?」
「そのとおりだ」
 と、ヴァラヒダがうめきのあいまに底響く声音で口にした。
 ふしゅう、と、黒い息を吐き上げた。
 シェラはなおもぼうぜんと四囲を見やり──ふいに、姿勢を正して妖魔の首魁と正対した。
「わたしをどうするつもりです?」
 うめきながら、困惑したような表情をヴァラヒダはうかべた。
 ぎろりと視線をマラクに移動させる。
「わが命、ながくはもたぬ。しかし贄は、わが娘でなければならぬ」
 しぼり出す口調で、そう告げた。
 意味がわからず眉間にしわをよせる妖魔に、ヴァラヒダはさらに言葉を重ねた。
「これは、わが娘ではない」
「そんな……」
 ぼうぜんとマラクは目をむいてシェラを見やる。
「歳格好もおっしゃるとおりだ。ほかに娘は──」
「いたはずだ。いずれにせよ、この娘はちがう」
 憮然とした口調でヴァラヒダがいった。
 なおも信じられぬていで、ヴァラヒダとシェラとをマラクは見くらべた。
 ぐつぐつと、異様な音がふいにおこった。
 見ると、レブラスが腐肉のような体をふるわせている。
 笑っているらしい。
 汚物を溶かして煮立てたような異様な笑い声だった。
 シャダーイルは無言のまま。
 ヴァラヒダは憮然としたまま、苦痛にうめきあげながらマラクを凝視していた。
「なんということだ……」
 ぼうぜんと、マラクがつぶやいた。
「馬鹿者めが」こたえるように、ヴァラヒダが口にした。「これは老タグリがやとった幻術使のひとりだ。この愚か者めが! 役たたずめが!」
 叱責をうけてマラクがにわかにうろたえる。
 ついで、その表情が屈辱に朱く染まった。
「知恵足らずの妖怪めが!」
 追いうちをかけるように、ヴァラヒダは吐き捨てた。
 そしてかたわらのレブラスをふりかえる。
「この小娘めを洞牢にとじこめておけ」
 ぐつぐつと笑いながら肉塊は大仰にうなずいてみせ、来い、と声をかけながら、あとずさろうとするシェラの肩にむりやり手をかけ先導する。
 そのあいだにヴァラヒダは、ふたたび視線をマラクにすえ直した。
「おまえは罰をうけねばならぬ。愚かさの代償にな。こちらに来い」
 告げた。
 うめき声をあげてよわよわしくからだをゆすりながら、力なく手招きをする。
 おそるべき妖魔どもをたばねる深山の魔王とは、とても思えぬありさまであった。
 にもかかわらず──怒りと屈辱に染まっていたマラクの顔貌からふいに、みるみる血の気が失せはじめた。
「おお、ヴァラヒダ……」
 うろたえながら、懇願するようにひざまずいた。
「どうか、それだけは──」
「ならぬ。前へ」
 妖魔の首魁は無情にいい捨て、くりかえした。


「シェラがつれ去られるぞ」水盤をのぞきこみながらダルガがつぶやいた。「洞牢……?」
「シェラを追うわ」
 呪文のあいまをぬうようにアリユスはいいつつ、印を組みかえた。
 ゆらり、と水面がゆらめいた。
 いくつもの映像が交錯する。
 それがふたたびひとつの像に結び直されようとした、まさにそのとき──
「いたぞ!」
 樹木にかこまれた上方から、ふいに叫び声が下った。
 ぎくりと三人が視線をむける。
 山中で下生えががさがさとゆれていた。
 かきわけて、ひょいと顔があらわれる。
 ふたつあった。
「隊長に知らせろ、ここはおれがうけもつ」
 ひびく声音が、やけにはっきりときこえてきた。どうやら、一行を追ってきた何者かであるらしい。
 人影はすぐに二手にわかれ、そのうちのひとつが、三人が水盤をかこむ川原におりてきた。
「何者だ?」
 つぶやきながらダルガは、不審そうにアリユスとエレアを交互に見やった。
 二人とも、判然としない顔で首を左右にふる。
 川原までおりてきた。
 革鎧に身をつつんだ。剣士であった。
「……おれの客らしい」
 いいつつダルガは大剣の柄を握り、革帯からぬいた。
 呼応するように、男がいった。
「“闇の炎”!」





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