四臂の魔物
ふっ、ふっ、ふっ、ふっ──
跫音(あしおと)をひそめて接近する獣の声がふたりの前方でふいにとぎれた。
完全な闇のなかに視線をこらしても、影さえとらえることはできない。
黒色の眸が、飢えた視線をダルガとエレアの上にすえている不気味な光景が、想像力にかきたてられてエレアの脳裏をかすめた。
ふるえながら、ダルガにしがみつく。
「はなれろ、邪魔だ」
困惑のささやきが命じたが、よけい必死になって剣士の背中にしがみついた。
「ばか、襲われたら──」
声にあからさまにいらだちがこもったとたん、がふ、とうなり声を立てて闇が襲いかかってきた。
力まかせにエレアをつきとばし、ダルガは襲撃者を手ではらった。
毛深い胴に手がふれたが、とらえきれずに闇へと逃がす。
くそ、とうめいた。
剣は天幕の中だった。
致命的な油断だった。
感触と声からして、襲ってきたのは犬科の獣らしい。暗闇の中さだかではないが、痛覚が、払った腕に牙か爪を立てられたことを告げている。
ぐふぐふぐふとおさえられた獣の声が闇中を移動し、ダルガの周囲に半弧を描いた。
そして今度は、前触れなしにいきなり飛びかかってきた。
爪のたった前脚が肩にかかり、ダルガは後方にたおれこみながら手をつきだした。
ふうっ、ふうっと生臭い息が顔に吹きかかる。
幾度か、喉らしき部位をとらえかけたが、そのたびに獣はぶるると激しく首をふるって捕縛を逃れた。
毒づきながらダルガは姿勢を入れかえる。
地面に、獣の毛深いからだをおしつけた。
腹に足をかける。
蹴りつける、というほどのいきおいにはならなかったが、獣はそれでも、ぎゃふ、と悲鳴をあげて後退した。
ざり、がり、と立てた爪が砂利を擦過する音が移動する。
ダルガはむだと知りつつ闇にむかって凝視をおくりながら、身体の方向を息づかいと気配にむけて移動させた。
ふいに、足をとられた。
大きめの小石の上に不用意に足場を求め、安定をなくしたのだ。
ぐらりとよろめき、片手をついた。
砂利がこすれて、さらに上体のバランスも失った。
く、とうめきながら身を低くする。
がぎりと、牙が顔のすぐ横で鳴った。
まったくの僥倖だった。
「くそ……!」
うめきながらやみくもに手をふりまわす。
手ごたえはなく、はふ、はふ、と唾液まじりの異臭が幾度も喉もとに近づいては遠ざかった。
いつ咬み裂かれるかわからない。
いつ、喉もと深く牙がつきたてられてもおかしくはなかった。
ふりつづける手もあちこち傷を負い、痛覚がこうるさく増加する。
ふいにその手が、何か棒状のものをつかんだ。
反射的に、握りしめていた。
がふ、と獣はうめいた。
同時に、つかんだ棒状のものが激しいいきおいで左右にふられた。
前脚か──!
とっさに思いいたり、咬撃が来る前につかんだ手に力をこめてふりあげた。
重い獣の体躯が宙へと舞い上がり、びちりと川原に叩きつけられた。
ぎゃん、と獣は吠える。
かまわずダルガはもういちど、獣のからだを大きくふりあげ、叩きつけた。
ぎゃん、ともう一度獣は吠えた。
三撃めをくらわそうとして──手首にするどい痛みをたてつづけに二度、感知して、反射的に手を離した。
ざりざりと地をならしながら獣が後退する。
低いうなり声をあげた。
今度ばかりは、不用意に襲いかかってはこなかった。
だが、ダルガ自身も満身創痍だ。
利き腕は、あちこちがずきずきと痛んで感覚がなくなりかけている。
脚にも無数に痛みが走っていたし、幾度も打ちすえたせいで腰にも鈍痛がいすわっていた。
なによりも、剣がないことが致命的だ。
肉体ひとつでは戦えないのか──狂おしくダルガは思い、奥歯をかみしめた。
くふ、くふ、と息を荒げていた獣の声が小さくなった。
いよいよ来るか、とダルガは身がまえた。
どうすればいいのか、まるで見当もつかない。
なすすべもなかった。
と、そのとき──
ぞくりと、ダルガの背中がふるえた。
恐怖だった。
何に対する恐怖かはわからない。
方角は、たしかに獣がいるほうだ。
なにがなんだかわからぬまま、ダルガは目をむいた。
瞬間、か、と、獣が短く吠えた。
息をのむ。
どこから来るのか、と全感覚を闇中に解放した。
衝撃はどこからも来なかった。
獣の荒々しいうめき声だけが、前方で激しくあがっていた。
もがいているようだ。
が、なぜもがいているのかわからない。
ぼうぜんと、視線をこらす。
暗闇の中に、何か巨大な質量をもったものがたたずんでいるように見えた。
小山のようなものが、うごめいているのだ。
なんだ? とダルガは思わず声に出した。
こたえは、獣の苦鳴となって返った。
断末魔の苦鳴だ。
同時に、ぐぎりと異様な音を耳にしたような気がした。
何か、軟骨のようなものをむりやりひねってふたつに裂いたような音。
苦鳴がふいにとぎれて、静寂がおしよせた。
その静寂の底から突き出てくるようにして、異様な音がきこえてきた。
ぴちり、ぴちり、という音だった。
何の音なのかわからなかった。
見えぬ闇に目をこらす。
なにかが、立っていた。
仁王立ちになっている。
夜空にむけて、それが腕をかかげているようだった。
かかげた腕の先に、あわれなほど小さく見える獣の体があった。
ぐったりと、力なく四肢をたれている。
死んでいるのだろう。
血がしたたっている。
落下する位置に──頭、らしきものの影があった。
おぼろなシルエットは人間のように見える。
ただし、サイズがふつうではなかった。
ダルガの倍近くある。
ラガスやソムラとおなじほどの、巨体であるようだった。
だが、その巨体から噴き上がる存在感は、ラガスやソムラとはくらべものにならなかった。
狂気といってもいい。
猛り狂った大型の野獣が放つ存在感だ。
その巨大な存在が、ぴちり、ぴちりと音を立てているのだ。
獣のからだから落下する血のしたたりと、音のあがるタイミングとが一致していた。
──血をすすっているらしい。
ヴァラヒダの魔か、とダルガは息だけでささやいた。
影が、ダルガのそのささやきをききつけた。
頭部がぐらりと動く。
ダルガのほうに。
しばし、したたる血を受けることさえ忘れたように、巨大な影はダルガを凝視した。
が、やがてふたたび顎をあげ、血をすすりはじめた。
ふ、と息をつき、くそ、と小さくうめいて、ダルガはじりじりとあとずさりはじめた。
剣なくして対抗するすべはない。
天幕に戻るまで、化物が獣の血をすするのに夢中になっていればどうにかなりそうだった。
ゆっくりと、化物に体を正対させたまま後退する。
いけそうだ、と思ったとたん──
ぽう、と闇中に灯火が灯った。
淡い、蛍火のような灯火だ。
まんなか──シェラとアリユスの天幕のある位置だった。
おぼろな光のなかに、アリユスの顔がうかびあがる。
左手をかかげていた。
そのかかげた左手の、ひとさし指を一本だけ立てていた。
その先端に、光が灯っている。
幻術の一種であろう。
淡い灯火は四囲をおぼろに映し出していた。
闇につつまれた川原のどこにもエレアの姿は見当たらない。
どうやら、ダルガと獣が格闘しているうちに、いちはやく避難したらしい。
アリユスの背後には、シェラの顔ものぞいていた。
そして──
おぼろな闇の奥底に、引き裂いた獣を頭上にかかげてそれは、異様な眼光を放つ凝視をぎろりと灯火の方向にむけた。
血をぬりたくったように赤い皮膚をしていた。
なめらかな光沢がその表面を走っている。
丈はやはりダルガの倍ほど。
均整のとれた筋肉が隆々と全身をおおいつくしていた。
はりきった腰部を布がおおい、その腰の両端に巨大な剣がひとふりずつ、ぶらさがっていた。
豊満な胸は隠されてさえいない。
喉もとから、珠がつらなる首飾りをさげている。
額にも、金属製の環が飾られていた。
ゆたかな黒髪を結いあげ──その双眸は狂ったようにぎらぎらとした光を放つ。
美貌といえた。
凶猛な、狂気を秘めた噴き出すような美貌だ。
血まみれの赤いくちびるが、裂けた。
にい、と笑った。
そして──ずしりと、歩をふみだした。
うごめく腕の上で、生物のように筋肉がもりあがる。
四本の腕の上で。
四臂の妖魔。
ヴァラヒダの魔の一匹は女の姿をとることもある、と、ソルヴェニウスはたしかにいっていた。
女であることはまちがいない。すくなくとも、そのゆたかにふるえる胸やみごとなほどはりきった腰、脂ののりきった上脚部など、まさに女体のひとつの理想像を顕現したかのような姿だ。
その狂おしいほどの美貌もまた、神像のごとく見る者を恍惚とさせるだろう。
だがそれは──女である以上に、妖魔であった。
噴き出す火山のような妖気は、気の弱い者であればそれをあびただけでショック死してしまうかもしれない。
もりあがる筋肉を誇示する四本の腕よりもむしろ、その眼光と口もとにうかんだ獰悪な笑みのほうが異様であった。
「……ヴァラヒダの魔のひとりね?」
ぼうぜんと目を見はったまま、アリユスが口にした。
化物は犬獣の屍骸を頭上にかかげたまま、血まみれの満面に笑みをたたえた。
「マラクという」
地をふるわすような圧力をこめて、化物はこたえた。
こたえて、は、は、は、は、は、は、と笑った。
血まみれの笑い声だった。
巨体を狂おしくふるわせて、マラクは全身で哄笑した。
山が崩れてきそうな音声(おんじょう)だ。
身をおり、からだを打ちふるわせて笑いながらマラクは、手にした獣の胸に四本の腕のうちのひとつを、ごぼりとさしこんだ。
無造作にそれをひきぬく。
どぼどぼと血があふれ、獣のからだがマラクの捕縛の中でひくひくとふるえた。
ひきずりだされた器官は、マラクの手のひらの中では哀れなほど小さかった。
あふれ出す血を下顎でうけてマラクはごくりごくりと喉をふるわせながらのみほした。
そして、小さな心臓を丸飲みにした。
ぐびり、と妖魔の野太い喉首が膨張し、収縮した。
そしてふたたび、にたりと笑った。
「おまえたち、老タグリの家の者か」
問うた。
ぎろりと、アリユスとシェラを見すえる。
シェラはぼうぜんと妖魔を見かえし、アリユスは目をほそめて凝視をかえす。
受けてマラクは、にたにたと笑いながらずしゃりと川原に犬の死体を投げ捨てた。
そして、歩をふみだした。
全身の筋肉が躍動する。
異様な迫力があった。
地響きを立てながら、ゆっくりと、大股に一歩一歩近づいてくる。
アリユスは指先に灯火を立てたまま、胸前で手を組んだ。
印をむすぶ。
闇底で、アリユスのからだが淡く燐光を放ちはじめた。
気合いもろとも、印をむすんだ手を鋭くつきだす。
白い風が鋭利な矢と化して、妖魔を強襲した。
同時に、かあ、と妖魔が吼えた。
光る風が、マラクの眼前でスパークと化して飛び散った。
く、とうめき、アリユスは下唇をかみしめる。
は、は、は、は、と妖魔が声を立てて笑った。
笑いながら、ずしり、ずしりと地響きを立てて前進する
アリユスはたてつづけに風矢を放ったが、攻撃はことごとくマラクの巨体の前で弾けて消えた。
十歩ほどの距離をおいて、マラクは立ちどまった。
ぎろりと目をむき、アリユスとシェラを交互に凝視する。
その視線が、シェラの顔上で静止した。
じろじろと見つめ、にたあ、と笑った。
「おまえだな」
いって、四本の腕のうちの一本をぐいとのばした。
シェラはあとずさり、アリユスは絶望的な表情で印をむすぶ。
そのとき──
「待て、化物」
マラクの背後で、低くおさえた声が呼びかけた。
ダルガだった。
妖魔はいぶかしげな顔でふりかえる。
剣の柄を手にした少年が、深く腰をおとした姿勢でそこにいた。
視線は、挑発するようにマラクの腰布に連結された二本の大剣にそそがれている。
「ぬけ」
じろりと、妖魔の美貌をねめあげて、ダルガはいった。
眉をよせたマラクの凄絶な美貌が、一瞬後には破顔した。
殺戮の予感に酔う陰惨きわまる笑顔であった。
ずしりと地を鳴らしてダルガと正対し、柄に手をやって無造作に剣をぬいた。
「ひき裂いてやる」
笑いながら妖魔は吼えるように宣言し、ぶん、と風をうならせ剣をふりおろした。
ずど、と重い音とともに、後退したダルガの眼前で石が砕けて飛んだ。
マラクの大剣にするどさはかけらもなかった。
ただただその重量が、なによりも脅威だった。
は、は、は、は、と妖魔は吼えるように笑った。
笑いながら、飛びすさるダルガを追ってやみくもに剣をふりまわした。
石が、岩が、川水がつぎつぎに砕けては飛び散った。
ダルガには剣をぬくいとまもないように見えた。
単純なだけにすさまじい連撃を、横にうしろに飛んで逃げるだけでせいいっぱいのようであった。
「ダルガ!」
アリユスの背後で、シェラが悲鳴をあげる。
援護しようと、アリユスも解きかけた印を結び直した。
そのとき──展開がおとずれた。
風車のように弧を描く大剣の強襲にむけて、ふいにダルガが真正面から突進したのだ。
あ、と、女たちが声をあげた時にはもう、ダルガはふりおろされる斬撃をくぐりぬけて頭から地面につっこんでいた。
ころがりながらマラクのながい脚の下をくぐりぬける。
回転のいきおいをかりてマラクの背中に正対する形で身がまえた。
異常な敏捷さで、マラクもずわりとダルガに向き直った。
が、ダルガのぬき打ちのほうが、わずかにはやかった。
「うお!」
銀弧を避けてマラクがすばやく後退する。
ずばりと、その脇腹方向からたくましい胸へと朱線が走りぬけた。
血しぶきが噴出する。
「おお!」
苦痛よりは驚愕に、マラクは目をむいた。
隙を、ダルガは逃さない。
鋭くふみこみ、頭上から唐竹割りに打ちおろす。
驚愕がほんの一瞬、マラクから判断力を奪った。
避けるか、うけるか、逡巡した。
それがマラクに災いした。
横に避けざま大剣をあげた。
がき、と金属的な抵抗が一瞬、大剣を握った手に伝わった。
ふいに、その抵抗が、ぴいん、という音とともに虚空に舞い飛んだ。
直後、右上の一臂に衝撃が走りぬけた。
「が」
と、妖魔が苦鳴をあげた。
うけた大剣はダルガの斬撃によってその刃を両断され──いきおいのまま降ろされた一撃がマラクの太い腕を裂いたのだった。
おれた剣をにぎった腕がぶらんとたれさがり、青黒い液体──血であろう──が、どぼどぼと大量にあふれ出て足下の砂利を真っ青に埋めはじめた。
驚愕しつつ、マラクは後退する。
ダルガはふり切った姿勢からいちはやくかまえ直すや、さらに踏みこんだ。
ぐば、と横薙ぎに刃が払われる。
かろうじて、腹の皮一枚でマラクは避けた。
ダルガの前進はとまらない。
ざざざ、と水しぶきを立ててマラクは川に踏み入った。
水しぶきがダルガの視界を瞬時うばった。
その隙をついて妖魔は左手で残ったもうひとふりの大剣をぬいた。
「おお!」
吼えながら、打ちかかった。
がぎりと、まっこうからダルガはうけた。
異様な膂力がのしかかった。
ダルガの耳もとで、みしり、と長剣の身が不吉な音を立てた。
先の一撃で、ダルガの剣にもまたダメージが刻まれていたのだ。
まずい、と思い、ダルガは気力を集中した。
眼前ににらみおろす凄絶な美貌をにらみかえし、おおお、と吼えた。
吼えながら全身でマラクの巨体をおし返し──一瞬の余裕を強引につくりだして、ふいにすかした。
大剣が肩口をかすめ、ついでマラクの血のように赤い肉体が前方になだれこんだ。
もつれて倒れかかるのをかろうじて回避し、ダルガはほとんど走るようにして後退する。
剣をかまえる。
おそらくは、あとひと打ちかふた打ちで、刃はおれて砕けるだろう。
致命傷を負わせるには、手は限られていた。
ダルガは腰をおとして低くかまえ、剣先を地にはわせながらマラクを凝視した。
対するマラクは──憤怒の形相をうかべた。
人間ごときを相手に、大剣をおられあまつさえ手傷まで負わされるなど考えられぬ屈辱だった。
目をむき出し、噛みしめた歯をぎりぎりと鳴らした。
そして、吼えた。
野獣そのものの咆哮だった。
巨体が、肉弾と化して急迫した。
はじかれたような凶猛な動き。
技巧も何もない。真正面から力にまかせての、圧倒的な攻撃だ。
ダルガは待ちうけ、最小限の動きで強襲をよけた。
よけながら長剣の切っ先を、激しくゆれるマラクの左の乳房の下めがけてつきだした。
抵抗はすぐにおれて砕け、ダルガはかけぬける風を避けて身をひねった。
瞬間──思わぬ反撃が、襲いかかった。
四臂であることが、ダルガの予想をこえた攻撃を可能にしたのだ。
剣撃はかわしたものの──野太い腕そのものが鉈と化して胸板を打ってくるとは、予想だにできなかった。
もぐりこんだ腕に弾き飛ばされて、ダルガのからだが宙に舞った。
打ちつけられた。
血へどを吐く。
衝撃が全身をかけぬけた。
マラクの脅威がつづけて襲撃してくるであろうことを、血色に染められた脳内で狂おしく予想した。
うけて立て、と意識が命じた。
対して肉体は、叩きこまれた衝撃に打ちのめされてまるで動かなかった。
がぶ、と血を吐いてのたうちまわるばかりだ。
マラクは巨体をそそり立たせて、そんなダルガの様子をにらみおろした。
荒く肩を波打たせている。
が、とどめは刺さずにくるりとふりかえり、アリユスとシェラに向き直った。
「つれていく」口にした。「ヴァラヒダの許へ」
いって、ずしりと歩を踏み出した。
アリユス、とささやくシェラを背後に幻術使は、手のひらを肩口にかまえた。
そして、問うように口にした。
「マラク?」
妖魔が前進をやめていぶかしげにアリユスを見やり、
「命ごいか?」
と口にした。
アリユスがにっこりと笑った。
笑いながら、肩口にかまえた手のひらをにぎった。
「マラク! ラッ・ハーイー・アの名にかけて“空”の檻にしりぞけ!」
叫びながら、こぶしをひらいてつきだした。
にい、とマラクが笑って大剣をふるった。
油膜のようなものを表面にはしらせた巨大なシャボンが出現すると同時に、するどい斬撃が大きく弧を描いた。
パン、と弾ける音とともに“ラッ・ハーイー・アの檻”が闇空に飛び散った。
「レブラスからきいている!」
あざけるように叫び、そのまま突進を開始した。
驚愕に目を見ひらいたのは一瞬──アリユスは今度は、ひらいた手のひらを眼前にかまえ、もう一方の手で手首をにぎった。
「マラク!」
叫びかけた。
「イア・イア・トゥオラの名にかけて“風の槍”に打たれよ!」
ごう、と空気が鳴った。
閃光がアリユスの周囲に収束し──逆まく風と化してマラクを強襲する。
光る螺旋が朱に染まる妖魔の肉体を弾き飛ばした。
その一瞬前に──マラクは、手にした大剣を飛ばしていた。
巨大な剣がしゅるしゅるとうなりを立てながら宙を回転し、風を飛ばした姿勢のまま硬直するアリユスの額を柄で直撃した。
苦鳴をあげてアリユスは崩れおちる。
同時に妖魔の巨体がずしんと重く地を打った。
「アリユス!」
叫び、シェラが抱え起こす。
アリユスの美貌が苦痛にゆがんでいた。
うめき声が喉をふるわす。
意識がもうろうとしているらしい。
「アリユス……アリユス!」
呼びかけるが、反応はなかった。
かわりに──むくりと、赤い巨体が起きあがった。
ずしりと地を鳴らして立ちあがり、首を左右にふる。
そしてぎろりとシェラを見やり──裂けるような笑みをうかべた。
「おまえの守りは、悪くはなかった。ずいぶんと手間どったものだ」
いってふたたびにたりと笑い、歩を踏み出した。
「……来ないでください!」
シェラは決然と口にし、印をむすんだ。
呪文を口にし、気合いを打ちこんだ。
マラクの赤い胸の上で、淡い青の光がいくつも弾けては消えた。
は、は、は、は、と哄笑しながら、マラクは委細かまわず歩を踏み出し、逃げようとするシェラの肩をすばやくとらえて向き直らせた。
にらみかえす少女に、にい、と笑って見せ、胴をまきこむようにして抱えこんだ。
そのまま、肩口にかつぎあげる。
そして、ずしり、ずしりと地をふるわせて、歩きはじめた。
右上の一臂が半分がたちぎれてだらりとたれさがっていたが、苦痛など微塵も感じさせぬ悠揚とした歩きかただった。
倒れふす剣士と幻術使には一瞥さえくれず、肩に少女をかつぎあげたまま闇奥へと、歩み入っていく。
アリユスもダルガも、うめきながらもうろうとした視線でその光景を見やっていた。
地に手をつき、応戦しようとするが起きあがることさえできなかった。
やがて哄笑だけがながく闇に残された。