奪われた心臓
さし染める木もれ陽の角度がかなりかたむいてきた。
山にわけ入って二日目の陽が、もうすぐ暮れようとしている。
手もちの地図によれば、目的地である“青の洞”までにはあと一日程度の行程であるはずだった。
もっとも、古来よりふみこんで戻ってきた者さえほとんどいない場所の地図である。あてになるものとは考え難かった。事実、記載とはまるでちがう地形をいくつかこえてきてもいる。
ダルガを先頭にして五人は、ほとんど声をかけあうこともなく黙々と進行をつづけていた。
おり重なる潅木を山刀で切り払いながら先頭を進んでいたダルガが、ふいに額に手をやりながらふりかえる。
息をつきつつ全員を見わたし──眉をひそめた。
「エレアはどうした」
ほとんど同時に、アリユスもまた気がついていた。
「ソムラも見えないわね。おくれているのかしら。さっきまでたしかについてきていたのだけれど」
ダルガはち、と舌をならして左右を見まわし、ふう、と息をついた。
「休息にしよう。みんな、腰をおろせ」
言葉と同時にシェラが、大きくため息をつきながら手近の樹の幹に背中をあずけ、ずるずると腰をおとした。口には出さなかったものの、相当疲れていたのだろう。
微笑をうかべ、アリユスもまた腰をおろす。
山牛の背から水袋をとってシェラにわたしながら、ダルガはつぶやいた。
「川をさがさなけりゃな。近くにあるはずだ」
「水がもうないの?」
夢中になって喉のかわきをうるおしていたシェラが、心配顔で問いかけた。
ダルガは首をふりながら、まだだいじょうぶだ、と口にし、つけ加えた。
「だが、いまのうちに補充しておきたい程度には、へっている」
美貌に罪悪感をうかべたシェラを見て、ダルガは無表情のまま小さく首を左右にふった。
「水を飲みすぎるのはよくないが、あんたはさほどがぶ飲みしているわけじゃない。あのお嬢さまには……もうすこし自制してもらいたいがね」
いって、踏破してきたルートに視線をやる。
エレアの姿はおろか、ソムラの巨体もどこにも見あたらなかった。
「どこに消えたんだ」
いらだちを秘めた口調に、シェラが気づかわしげに言葉をそえた。
「そのうち戻ってくるのではありませんか?」
なぜわかる、とでもいいたげにダルガは眉間にしわをよせてシェラをちらりと見やり、無言のまま腕を組んでしばらくのあいだ待ったが、やがてしびれを切らしたか、
「見てくる」
いい終えるよりはやく、ふみだした。
あ、ダルガ、とシェラが立ちあがってあとを追おうとするのをうしろ手に制し「そこで待っていろ」とふりかえりもせずいい残すや、少年の背中はあっという間に森陰にうもれて見えなくなった。
ぼうぜんと自分を見やるシェラにアリユスは、しようがないわね、とでもいいたげに微笑んでみせる。
その微笑がふいに──消えた。
「アリユス?」
導師の変化に気づいてシェラは不思議そうに目を見はった。
こたえず、アリユスは虚空に視線をさまよわせる。
やがて、ぽつりと口にした。
「妖気が近づいてる……!」
しげみのやたらに多い場所でエレアがうろうろしてるのをダルガは見つけた。
ち、と舌をうって声をかけ、生いしげる下生えをかきわけ歩みよる。
「どこへいっていた」
いらだちを言葉にこめて口にした。
エレアはつん、と顎をあげ、
「なんでおまえにいちいち、そんなことを報告しなければならないの?」
にくにくしげにいった。
ダルガもまた、むっとしたのを隠そうともせずいい返す。
「かってな行動をとるな。命にかかわる」
「ソムラがいる。おまえなんかの世話になど、なる必要はないわ」
鼻頭にしわをよせてエレアがいう。
「ソムラもふくめてだ。べつにおまえたちの身の安全まで保証すると、あのじいさんに約束したわけじゃない。だが、ほうっとくわけにもいかないんだ」
「ほうっといていただいて、けっこう。ソルヴェニウスにも、わたくしたちはわたくしたちであの下賎の者どもとはまったく無関係だといいふくめてあるわ」
「なら最初から同行などしないでほしかったな」 ダルガは吐き捨て、エレアの反論をおさえるようにして言葉を重ねた。「で、ソムラはどこに消えたんだ」
痛烈なセリフをいいかえそうとしていたエレアが、とたんに言葉につまって目をそらせた。
「どうした? いっしょじゃなかったのか?」
きつい口調で問うダルガに、ふたたびエレアは敵意をこめて視線を戻す。
「いっしょだったわよ。さっきまでは、ちゃんとそこにいました」
「そことはどこだ」
「そこよ」
しげみの中ににょっきりと一本だけ生えている丈の高い樹を指さした。
「あのむこうで、立っていたはずよ」
「だが、いない」
ダルガはいいつつその樹に歩みより、さらに四囲をぐるりと見まわした。
「見あたらないぞ」
ちらりとエレアに視線をむけ、ソムラ、と大きく名を呼んだ。
ダルガ、とこたえが返った。
ソムラからではなかった。
たったいまダルガがおりてきたしげみの踏みわけ跡を追って、アリユスとシェラが下ってきたのであった。
「どうした?」
眉をよせるダルガに、アリユスが説明する。
「妖気を感じたの。近いわ。この下のほう」
いぶかしげだったダルガの面貌が、きびしくひきしまる。
わかった、とうなずきダルガは先頭に立っておりはじめた。
すぐにアリユスとシェラがあとを追い、エレアもしばし逡巡したものの、心細さには勝てなかったか最後につづく。
「山牛は?」
肩ごしにきくダルガに、シェラがこたえる。
「つないできました」
「上出来だ。こっちだな?」
アリユスの指示をうけ進む。
ほどもなく、川原に出た。
待望の水場をとらえて、だが四人の表情は暗かった。
緑にうめつくされた山稜の川辺に、毒々しいいろどりが点々とちりばめられていた。
天上からほうり出されたようにごろんところがる大岩の上に、巨体は横たわっている。
死んでいることが一目でわかった。
頚が、異様な角度におれ曲がっていたのだ。
「ソムラ……!」
悲鳴とともにエレアはうめき、よろよろと崩おれた。
あわててシェラが抱きとめ、手近の草むらの上に横たえた。
きびしい表情のままダルガは大岩に歩みより、だらんと力なくたれたソムラの無骨な手をとって脈をさぐった。巨漢の衛兵の血流は、完全にとだえていた。
注意深く四囲に視線をとばし、危険な獣や妖魔のたぐいが見あたらないことを確認する。
血痕はたいして残ってはいなかった。
頚をへし折られたのが死因か、と推定しつつ大岩によじのぼり──
惨状に、思わず顔をそむけた。
「ダルガ、どうしたの?」
アリユスの問いに、ダルガは目をとじたまま首を左右にふってみせた。
「心臓がない」
口にした。
意味がわからず、アリユスはシェラと顔を見あわせる。
ダルガはかたく目をとじて呼吸をととのえ、あらためて死体に視線を戻した。
巨大な血管が、はじけたようにたれ下がっていた。
ひきちぎられたのだろう。
左胸の皮膚をついて胸骨をこじ破り、心臓をわしづかみにして力まかせにひきちぎったのだ。
そうとしか思えない異様な穴が、ソムラの左胸にはうがたれていたのだ。
そんな状況を説明しながらダルガは、奇妙なことに気づいた。
心臓をむりやりひきずりだしたにしては、周囲を染める血の量があまりにも少なすぎるのだ。
いやな想像をした。
その想像をふりはらい、水の補給もかねて山牛をここまでおろすことに決めた。
だれかが一人戻ってその役をうけおうことも検討したが、できるだけひとつに固まっていたほうがよいだろうとの判断で、エレアが醒めるのを待って四人いっしょにもとの場所に戻った。
山牛は背負っていた荷物を四散させて地に伏していた。
ソムラの死体と同様、あたりにはあまり血は飛び散っていなかった。
そして心臓がやはり消えていた。
先に進むか、川辺で今夜の宿をはるかで、意見がふたつにわかれた。が、アリユスの見立てで妖魔はとりあえずは去ったらしいということで、殺害現場よりはかなりはなれた上流の砂利場に天幕をはることとなった。
陽がしずむころには火がおこされ、ダルガのとらえてきた山鳥がくべられた。
携帯食料はまだかなり余裕があったが、何者かによって山牛が二頭とも屠られてしまった以上、負っていく荷の量をへらす意味でもこの近くに目印をやって食糧のいくばくかを残していくことに決め、早めに床についた。
天幕も、いままで大小三つのそれを山牛に運ばせていたが、明日からはひとつにへらすことになった。文句をいうのは、エレアひとりだけだった。
エレア、シェラとアリユス、ダルガ、とそれぞれの天幕にわかれて眠りについたが、夜半前にダルガは目をさました。
二日分の疲れがたまっているはずだが、目がさえてしまいどうしてもふたたび眠ることができない。
気分をかえるため夜の底へとはい出し、川原の小岩の上に腰をおろして真黒い山稜をながめわたした。
雲がかかっているのか、月も星の輝きもなかった。
のしかかるような黒い稜線に切りとられて深い闇が重くわだかまっていたが、せせらぎのほかにもさまざまな音が山にみちているのを、ダルガはきくともなしに耳にした。
すると、もうひとつの天幕からひとがはい出す気配があった。
エレアだった。
完全な闇中であることを慮って、ダルガはおのれの所在を知らせるためにわざと音を立てて砂利をふみしめた。
「だれ?」
問いに、
「おれだ」
こたえると、安堵の息がきこえた。
闇の中でダルガはひそかに苦笑する。
自分のいる場所をさけるかと予想したが、意外なことにエレアはダルガのとなりに腰をおろした。
「眠れないのか?」
しかたがないので、そう問うた。
「ええ」
こたえてエレアは、かすかに身をふるわせた。
昼間見たソムラの死は、たしかに悪夢にあらわれるにはふさわしいしろものだった。
そうか、とこたえてダルガはだまりこむ。
エレアもまた、なにを話しかけるでもなくだまりこんだまま、腰をおろしていた。
「寒くはないか?」
しばらくして、ふたたびダルガはきいた。
しばしの間をおいてエレアは「すこし」とこたえた。
ダルガは待っていろ、といいおいて自分の天幕から上掛けをとってきて、エレアにわたした。
ありがとう、と少女が口にするのへダルガはぎょっとして目をむいた。
表情が伝わっていたら、これでまた一悶着おきたかもしれない。
さいわいなことに、闇が緩衝役を果たしていた。
「どこから来たの?」
やがてふいに、エレアがそうきいた。
しばしとまどいの沈黙をおいて、ダルガはこたえる。
「東だ。バスラスという街からきた」
ふうん、とエレアはうなずいた。
「きいたことはないけど……フェリクスのほう?」
「もうすこし、こちらよりだな。国境にごく近いが、フェリクスではない」
ふうん、とエレアはもう一度いう。
「大きな街?」
「そうだな」
「両親は、どうしているの?」
ダルガはこたえず、だまりこんだままだった。
エレアもまた返答を強制しようとはしなかった。興味がなかったのかもしれない。
「父様は、どうなってしまったのかなあ」
やがてぽつりと、そういった。
ダルガはこたえなかった。
「やさしい父様のままなのかなあ」
「そうは見えなかった」
躊躇した上で、ダルガはこたえた。
沈黙が返る。
「気の毒だがあれはもう……人間じゃない」
ダルガは重ねていった。
むきになった反論が返るかと身がまえたが、沈んだ声音でエレアはいった。
「でも、わたくしにはまだ、やさしい父様だわ」
なぜ、とダルガがきくと、エレアはふふ、と小さく笑った。
「夜、訪ねてきて、わたくしにいってくれたのよ。おまえを愛しているって。わたしのもとへおいでって。仲良く、静かに暮らそうって。やさしく笑ってたわ」
ダルガはしばらくのあいだ言葉を選んでだまりこんでいたが、やがていった。
「わなじゃないのか?」
こたえはなかった。
あやめもわかたぬ闇のなか、エレアがどんな顔をしているのかダルガにはまるでわからなかった。
ながい沈黙が夜にふりそそいだ。
「なぜ旅をしているの?」
やがてエレアが、ふたたび口をひらいた。
ダルガは口ごもり、やがていった。
「剣をさがしているんだ」
「剣を?」
エレアが問いかえすのへ「ああ」とダルガは短くこたえ、つけ加える。
「おれの、運命をな」
どういう意味かを問おうとして──エレアは小さく悲鳴をあげた。
ダルガの手が、肩にかかったからだった。
「なにを──」
するの下賎の者が、といいかける口を、手のひらがふさいだ。
くぐもった悲鳴をあげてあばれるエレアの耳もとに口をよせてダルガは、静かにしろ、と息だけでするどくいった。
「何かが来る」
そう告げられて、エレアもぴたりと抵抗をやめた。
ダルガが闇に気をこらす。
何も見えなかった。
だが、やがて──きこえた。
異様な、獣のような息づかいが。