第2部 ユスフェラの妖魔
復讐鬼
山間の町にしてはにぎやかだ、とデュバルは思った。
半歳近くを旅の途上に暮らし、故郷の街バスラスの光景も記憶にうすくなった。
ただひとつの例外──闘技場のすり鉢の底に血まみれで伏し、ぬけるような青空と地をゆるがす歓声をあげてこぶしをふりあげる無数の観客、そして──冷徹な、氷のような目でたおれ伏す自分の姿を無表情に見おろす、十四になったばかりの黒髪の剣士の姿だけは、いまだに鮮明に脳裏に焼きついてはなれない。
首をゆっくりと左右にふって記憶を消し飛ばし、手綱を握りしめていたこぶしから力をぬく。
ひづめの音がゆったりとした速度でリズミカルに、高らかにツビシの町にひびきわたる。
いななく獣の汗にぬれた首筋をなだめるようにたたきながらデュバルはゆっくりと、四囲をながめわたした。三人の部下が背後からついてくる。
問題の賭場はすぐにわかった。
町を牛耳っているという老タグリなる名の有力者は賭博を奨励していた。故郷の街バスラスと同様に、賭博はこの町では公然とおこなわれる陽気で血生臭い娯楽であるらしい。
騎上からふわりとおりて、いななく獣を店先の木杭につなぎ、デュバルは酒場をもかねた賭場の入口に剣呑な視線をむける。
“闇の炎”らしき人物がここで騒擾をひきおこしたのは、三日ほど前のことときいた。
いまここで出会うことはまずないだろう。
だが、あと三日の距離にまで追いついたのだ。
心に決めた女と半歳ぶりに再開するかのごとく、胸がおどるのをデュバルは感じた。
追いつづけた。
狂おしく求め、狂気のようにその足跡を追いつづけてきたのだ。
夜ごとおとずれる悪夢に背中をつかれながら。
悪夢はくりかえしデュバルを苦しめた。
見えぬ切っ先に胸を裂かれ、かろうじてよける顔面に銀光がかけぬける夢だ。
命だけはとりとめたが、戦士としてのぞみうる最高の位──最強剣士の称号は、一瞬にして剥奪されたのだ。
そしてもうひとつ。
裂かれた傷は縦一文字に顔面に残り、デュバルの左眼から光をうばった。
“闇の炎”と通称される、たかだか十四の奴隷戦士の手によって。
復讐の機会を待ったが、やとい主のバラルカがそれを許さなかった。
デュバルを打ち破って闘技会の頂点に立った奴隷戦士は、おなじバラルカの所有になるからだ。
デュバルはバラルカの私有軍隊の長だった。
類をみない剣の才能を見せる少年を相手にすることをなかなか許されない立場だった。
闘技会で不敗の帝王の異名を不動のものにしていなかったら、観客が世紀の一戦を見せろと“闇の炎”の快進撃がくりかえされるたびに声を大にしていくこともなかったかもしれない。
危険すぎる、そう渋るやとい主を強引に説得しつづけ、一度だけ、という条件をつけられようやく対峙し──
そして敗れたのだ。
敗ける、などとはかけらも考えていなかっただけに、衝撃は大きかった。
だが、自分は勝機をつかみきれなかっただけなのだと思っていた。
遊びすぎたのだと。
事実、油断さえしていなければ避けられた一撃も、打ちこめた攻撃もいくつかある、と思っていた。
屈辱の事実を知らされたのは、闘技会で受けた傷も癒え復讐の念をたぎらせて再戦を申し入れ、バラルカに一蹴された直後のこと。
“闇の炎”はデュバルの、剣士としての命脈を奪ってはならぬ、とバラルカに厳命を受けていた、というのである。
つまりデュバルは──手加減をした相手に敗れた、ということになる。
屈辱は憎悪と化して激しく剣士を煩悶させた。
晴らす手段はなかった。
バラルカをうらぎる以外には。
二年近くものあいだ、血を吐くような激烈な修業をくりかえしながら、いつそうしようか、と考えていた。
あと一ヶ月、“闇の炎”の失踪がおそければ裏切りは実行されていただろう。
血を吐くほどの憎悪の炎をたぎらせながら狂気のように剣技をみがきつづけ、屈辱を晴らすだけの腕が自分についた、と思えた時になって──“闇の炎”は、バラルカのくびきから脱するために姿を消したのであった。
怒り狂ったバラルカの厳命を受け、三人の部下をつれてデュバルは脱走奴隷のあとを追った。
生かしてつれ帰れ、という条件を与えられたが、守るつもりはまるでなかった。
口にしたことはないが、デュバルの態度から部下の三人もそのことを悟っているだろう。だが、デュバルをいさめる度胸はこの三人にはない。
追いつづけた。
半歳。
ついに、手のとどきそうなところまでたどりつけたのだ。
歓喜にか、それとも憎悪にか、当のデュバルにさえよくわからなかった。
どうあれ、賭場の扉をひらく手がふるえていた。
長を追って、三人の剣士も扉をくぐる。
入りがいいとはいえない。
たくさんあるテーブルのうち、客がすわっているのはふたつだけ。
夕刻、賭場の開帳まではまだかなり間があるとなると、べつに異常なことでもない。
デュバルはゆっくりと店内を睥睨し──無気力な雰囲気に打ち沈むテーブルのひとつに視線をとめた。
片腕の大男が、すすり泣きながら酒の杯を水のようないきおいで飲み干しているところだった。
イーレンはもう起きあがることもできなくなっちまったんだ──そんなようなたわ言を延々とくりかえしていた。
野太い声でぶざまに泣きわめきながら、つぎつぎと運ばれる酒を片端から飲み干していく。
こわい、こわいってうめきながら寝てるだけなんだ、あいつはもう、おれにくちづけさえしてくれねえんだ、ぬけがらだ、人間じゃねえ、あの小僧は疫病神だ。
泣きながらわめくように口にしていた。
小僧、という言葉にデュバルはぴくりと反応する。
無言で寸時、たたずんだままするどい凝視を巨漢に投げかけた。
が、果てしなくくりかえされる繰り言をひととおりききおえた、と思われた時点で、ゆっくりと歩き出した。
巨漢が泣きながらひとり座すテーブルの正面に立つ。
「おい」
と声をかけた。
びくりと巨体が派手にふるえた。
おびえた小動物のような目で、おずおずと視線をあげる。
眼前にたたずむ、髭面の片目の男の異様な眼光を目にして、ぶざまに巨漢はひいと声をあげてのけぞった。
ぶるぶると見るも無惨にふるえはじめる。
デュバルの背後で三人が、軽蔑したように鼻をならし顔を見あわせた。
復讐鬼は、表情ひとつかえぬままラガスをながめおろし、ふたたび口をひらいた。
「その小僧はいまどこにいる?」
がた、がたがたと、派手な音を立てさせながらラガスは椅子ごとあとずさった。その椅子がふいに、ぎいと抗議のような音を立てて超過重量をささえきれずに砕けて落ちた。
巨大な尻がバリ、と音を立てて床に落下し、木板をきしませる。
「知、知、知らねえ、おれは何にも、知らねえ」
ぶざまにどもりながらラガスは尻でいざる。もっとも、体重が災いしてか、あまり効果的な後退とはいえなかった。
デュバルは仏頂面のままつかつかと歩をふみだし、いとも簡単にラガスを追いつめるとその上衣のえりをつかんで──ぐいと引きあげた。
そして、その場につどうだれもが──デュバルの連れである三人の部下までもが──ぼうぜんと目をむいた。
子どもをつるしあげるように軽々と──巨漢のからだが宙にうきあがったからだった。
支点は、デュバルの片腕のみ。
人間技とは思えない。
巨漢は悲鳴をあげることさえ忘れて、ぼうぜんとデュバルの顔をながめおろした。
成人男子三人分は軽くあるラガスの巨体を片手でさしあげていながら、デュバルの腕にはふるえひとつ走ってはいない。
「もういちどきくぞ」
デュバルは憎悪をたぎらせた視線をねめあげた。
「その小僧は、いまどこにいる?」
「知、知らねえ、ほんとうだ。うそじゃねえ」
ラガスは目をむきながら、からだをもがかせることもできずにぶらんとぶらさげられた姿勢のまま、しめられた喉もとからむりやりに声をしぼりだした。
「なんでもいい。知っていることを話せ」
根気よくデュバルはくりかえした。
巨漢は知らねえ、なにも知らねえ、と数度くりかえした後、「だけど」と口にした。
「ヤツら、妖怪退治にいくと、いっていた」
「妖怪退治?」デュバルは不審に顔をゆがめる。「なんのことだ?」
「ユスフェラの山だ、青い洞窟の、ヴァラヒダの魔物どもだ、あいつら、狂ってる、いくらなんだってあの妖魔どもにかなうわけがねえ。は、は、離してくれ。頼む」
弱々しくからだをゆする巨漢を、デュバルはなおも不審そうにながいあいだ無言のままにらみあげていたが、やがて、ぐい、と後方に腕をひいた。
ラガスの巨体が、ぶうんと半弧を描いて停止し──ふたたび、逆方向に半弧を描いた。
そのまま、デュバルの手から解放されて──風船のように宙を舞った。
どばんと派手な音が、賭場の内外に同時にひびきわたった。
もうもうとほこりが舞い上がる。
悪夢のような光景だった。
常人の倍以上もある巨大な体躯が、賭場の端から端まで片手で投げ飛ばされ──壁をつき破って、瓦礫の山にもたれながら半身以上をだらんと外側にたれさがらせたのである。
店内に異様な雰囲気が立ちこめていた。
おそろしく濃密な静寂が、さほど広くもない内部にあふれかえる。
「だ……だんな……」
やがて、ようやくのことでわれにかえったか、まともな人間ではないと一目で知れるこわもての店主が、おびえたひきつり笑いをうかべて揉み手をしつつ、デュバルにすりよった。
「ここはひとまず席におつきになってもらえませんか? 今日はいい酒が入ってるんですよ。なんでしたら──」
ゆらりと、むけられた凝視に行き当たって、口にされかけた店主の饒舌が氷結した。
「ユスフェラの山、とやらのことを話してもらおう」炎のような口調で、デュバルは問うた。「おれの仇敵──“闇の炎”ダルガがそこにいる」