出発
「炎を、使ったか」
老タグリの館の、客間のベッドに仰臥する占爺パランが、弱々しく口にした。
枕辺に腰をおろしたアリユスが無言でうなずく。
ふふ、と占爺は力なく笑い、いった。
「洞察じゃの」
「でも、わけがわからないわ」静かな口調で、アリユスは正直に困惑を口にした。「ダルガ──暗黒の龍。名前からして属性は空。わたしの見立てでも、そうとしか見えないわ。でも──炎の力が、彼の内には宿っている。──なぜ?」
老人は身じろぎひとつせぬまま目をとじ、沈黙した。
こたえるつもりがないのか、それとも眠ってしまったのか。
アリユスがそう疑いはじめた時にようやく、つぶやくように口をひらいた。
「あれは、内に神を秘めておる」
アリユスは目をむいた。
──シェラのことを想起していた。
払暁。
紅の空を背に、ダルガは剣を手に直立していた。
水が流れるような動作で、ゆっくりとふるう。
弧を描かせ、地をはわせ、十字を切り、左右に薙ぐ。
つ、と利き腕の右肩によせて佇立させ、そのまま凍りついた。
数刻、姿勢を保持したまま、陽光をあびていた。
ふいに──たん、と地を蹴り、緩から急へ、剣をふるう動作を移動させた。
銀の刃が陽光をうけて複雑な軌跡を描いて舞い踊る。
優雅に。
獰猛に。
熟練した踊り手のように。
獣のように。
白い朝の大気にみたされはじめた世界を、縦横無尽に切りきざんだ。
そして──動から静へ。
断ち切るようにして唐突に剣舞を中断し、鞘におさめた凶器の柄から手をはなして向き直る。
たたずんだまま無言で修練をながめやっていたシェラが、動作の唐突な中断におどろきの目を見ひらき、ついでうろたえたように強ばった笑みをうかべた。
「すごい技ですね」
ダルガのほうに歩をふみだしながら口にする。正直な感想だった。
それだけに、ダルガの顔にほんの一瞬うかんで消えた表情が理解できなかった。
苦痛のように見えたのだ。
が、そのことを問いただすまもなく、ダルガのほうが口をひらいた。
「わかるのか」
解答などどうでもいい、とでもいいたげな口ぶりの質問だった。
もちろんシェラは律儀にこたえる。
「少しだけですけれど。わたしも、ほんの少しですけれど剣技を習ったことがあるんです」
ほう、と気のなさそうな返事をかえし──しばし考えてから、おもむろに剣の柄をシェラにさしだした。
「見せてくれないか?」
とまどい、シェラはダルガの表情を見つめる。
酔狂ではなさそうだった。
「いいですよ」シェラはうなずきながら剣をとり、「でも、わたしの剣技なんか見ても、おもしろいことはないと思うけれど」
「そういうつもりじゃない」淡々とダルガは否定した。「同行するからには、使えるならどの程度の手なのか見ておきたいんだ。おれがどの程度あんたやアリユスを守る必要があるのかないのか、な」
いって、自嘲するようにつけ加える。
「もっとも、おれの剣技が通用する相手かどうかは──昨夜のできごとからしてきわめて疑問だが」
「そんなことは──」
ありません、と、つづけかけて言葉をのみこんだ。
ダルガの視線にいきあたったからだ。
何を考えているのかはわからなかったが、真摯な視線であることはシェラにも理解できた。
ユスフェラの山の妖魔に対して自分がどれだけ対抗できるかに、疑問を抱いているのだろうか。
シェラは小さく首を左右にふった。
「あなたがいっしょにきてくれるというだけで、わたしたちはずいぶん安心できるのよ」
ダルガは無表情にうなずくだけだった。
シェラはため息をつき、剣をかまえた。
「なにをすればいいんです?」
「おれに打ちこんでみてくれ」
返答に目をむき、抗議しかけて──ため息をつきながらシェラは、あきらめてうなずいた。
ダルガもうなずきかえし、十歩ほどの距離をおいてかまえるシェラと対峙する。
「殺すつもりで来てくれ」平然と、ぶっそうなセリフを口にした。「よけるから安心していい。もういい、というまで好きなだけ頼む」
「怪我をしないようにしてくださいね」
眉をよせて心の底から心配するシェラに、ダルガは初めて微苦笑をうかべた。
「おれに手傷を負わせるほどの腕がきみにあるなら、護衛の剣士は必要ではないな」
意外にやさしげな口調でいった。
シェラも思わず微笑みかえした。
そんなシェラにダルガは、無造作に腕をくんでたたずみ、うなずいた。
来い、という意味だ。
シェラはあらためて剣をかまえ直し、うん、と自分に向けてうなずいてから──地を蹴った。
銀の刃が直線を描いてダルガの喉に吸いこまれた。
残像に。
「悪くない」すぐかたわらで、ダルガが無表情にいった。「どんどん来い」
つう、と身をひく。
ひきずりこまれるように、シェラは剣を横薙ぎにはらった。
刃はまたも空を裂き、
「さそいに乗るな」
背後から声とともに、とん、と軽く肩をたたかれた。
思わず小さく悲鳴をあげながら飛びすさり、つっかけた。
ひょいとよけられた。
「焦りは隙を生むぞ」
シェラはくちびるをひき結び、距離をおいて剣をかまえ直した。
充分に気をためる。
ダルガは微動だにせず、あいかわらず腕を組んだまま。
視線をすえ、呼吸をととのえた。
そして、気合いもろとも打ちこんだ。
よけられた。
計算のうちだった。
すぐに体勢をかえて剣の軌道を修正し、ダルガの足をねらった。
つい、とよけられるのを、そのまま下からの突きに変えて突き上げた。
刃はダルガの頬をかすめて過ぎた。
ぎりぎりで見切られていた。
余裕の技だ。格がちがいすぎる、とシェラは思った。
ぽん、と肩をたたかれ、剣をにぎる手に少年の手が重ねられた。
見かけの印象より、大きな手だった。
「充分だ」
いって、魔法のようにシェラの手から剣をぬきとっていた。
「あ……どうだったんでしょうか?」
なおもぼうぜんとしながら、シェラはそうきいた。
「悪くない」
ダルガはくりかえした。
そして、さらに何かをいいかけて、やめた。
「なに?」
シェラはダルガのそんな態度を目ざとく見てとって、身をよせるように一歩をふみだしながら問いつめた。
こまったような顔をしてダルガは同じ距離だけ後退し、目をそらしながらいった。
「実戦をつめば、使える技になるだろう──そう思っただけだ。だが実戦など──つまずにすめばそれに勝ることはない」
シェラは不満そうに眉をひそめたが、何も口にしなかった。
「もどろう」
ダルガはいい、一夜をすごした老タグリの館に向き直った。
歩きだしかけ、動作を中断する。
門のところに、人影がたたずんでいるのを見つけたからだった。
「どうしたの?」
問うシェラに、ダルガは短くこたえた。
「エレアだ」
館へとひらかれた巨大な門の外側に、刺すような視線をダルガにすえて少女はたたずんでいた。
腕を組み、顎をさげて、下からにらみあげるようにしている。
ダルガはゆっくりと近づいていきながら、そんな少女の視線を真正面から受けた。
そのまま無言で少女のわきをすりぬけようとして──
「いっしょにいくわ」
氷のような言葉を肩ごしに受け、立ちどまる。
なにか言葉をかけようとしてエレアの前に立ちどまったシェラが、ハッとした。
そんなシェラなど目に入らぬように、しなやかだが意外に厚い少年の背に向けエレアは言葉を重ねた。
「わたくしも、ユスフェラの山へいく」
「下賎の者と行動をともにするのか」
抑揚を欠いた口調で、ふりかえらぬままダルガは冷たくいい放った。
「やむを得ないわ」
唾棄するような口調で、エレアは応じた。
ダルガはフン、と鼻をならす。
「護る義理はないぞ」
「おまえに守ってもらおうなどと、こちらでも毛頭考えてはいない」いきどおりにあざけりを加えてエレアはいった。「ソムラが護衛につく」
巨漢の二人の衛兵のうちの一人の名を口にした。
はらはらと見守るシェラを尻目にダルガは、それはよかった、といい捨ててふたたび、歩き出そうとした。
「待ちなさい!」
歯切れのいい命令が、その足をとどめさせた。
眉にしわをよせながら、ダルガはふりかえる。
迎えうつ瞳に宿る炎は、まちがなく憎悪の色をしていた。
「父様を、殺させはしない」
ダルガをにらみつけたまま、エレアは決然といい放った。
「あれを討ち滅ぼすのが、依頼の内容だ」
無表情のまま、ダルガはいった。
「それはおじいさまの意向よ。わたくしはちがう」
「背中に気をつけろ、と……そういう意味か?」
炎の憎悪が宿った凝視を真正面から受けとめ、ダルガは淡々と口にする。
シェラは話に入りこむタイミングを完全に逸して、組んだ手をもみしぼりながらおろおろと見守るだけだ。
二人はそのまましばらくのあいだ、にらみあった。
視線を外したのは、ダルガが先だった。
──こめた圧力を、一層きわだたせて。
エレアと、そしてシェラの背後に、その視線は向けられた。
対手の奇妙な態度に不審をおぼえ、エレアはダルガの視線を追った。
シェラもふりかえる。
町へとつづく下り丘陵の小道のむこうに、人影を見つけた。
ふたつ。
巨大な質感を内包したほうの人影は、その巨躯にもかかわらずどこか打ち沈んでしぼんだような印象があった。
その前方を、ふみしめるような足どりで進む長身の影。
「あのかたたちは──」
シェラが、小さく声をあげた。
「意趣返しか」
つぶやき、ふりかえるエレアの視線にうかんだ疑問にはこたえず、ダルガはシェラのわきをぬけて再度、門の外へと歩をふみだした。
小道の中途で、十数歩ほどの距離をおいて両者は立ちどまった。
静かに、にらみあう。
「存分に剣をふるえる場所で打ち合おうと、あの場ではひきさがったのがまずかった」口もとにかすかに笑みをたたえながらイーレンがいった。「まさか町の有力者のもとに逃げこむなどとは、考えてもいなかったからな。さがすのに手間をかけさせられたよ」
あざけるようにいって、ダルガの顔色をうかがう。
変化はない、と見て眉根をよせた。
「嘲弄されて、怒らないのかい?」
「事実ではないからな」淡々とダルガはいった。「それに、弱者に何をいわれようと腹を立てるいわれはない」
無表情のまま、さらりといってのけた。
優男の面貌に険がうかんだ。
憎々しげに、ゆがめてみせる。
「そうか。きみは大人物なんだな。そこへいくとこのぼくは人間ができていない」ふ、と鼻をならす。「恨みを忘れることができないんだ」
両の脚をひらき、半身をダルガにむけた。
剣の柄に手をかける。
「ラガスをしこむのに、どれだけの歳月がかかったと思う?」
表情ひとつかえず、ダルガはこたえた。
「ずいぶんかかっただろうな。ものおぼえが悪そうだ」
イーレンの背後で巨漢が、くやしげに顔をゆがめた。
だが、闘志はまったくぬけ落ちたままだ。
ダルガにはかなわない、と完全におびえきっているのである。
おどおどとした表情で、助けを求めるようにイーレンの顔にちらり、ちらりと視線をおくる。
そんなラガスの様子を横目に、イーレンはこれ見よがしにおおげさなため息をついた。
「見てのとおり」いまいましげにイーレンは唾を吐く。「いまでは、ただのでくのぼうだ」
「だから?」
傲然と問うダルガに、イーレンは、
「気を晴らさせてもらう」
短くいうや──
長身を利して、一気にダルガの眼前へと白刃を突き入れた。
深く身を沈めてかわしつつ、ダルガは後退する。
「どうした!」イーレンが叫んだ。一変して声を荒げていた。「剣をぬけ!」
対してダルガはさらに二、三歩あとずさる。
「おれの剣技はどの程度のものかと、疑問を持ちはじめたところなんだ」
淡々とした口調でそういった。
意味がのみこめず目をむくイーレンに──ダルガはぎろりと剣呑な凝視をくれた。
「いまぬけば、手加減する気にはなれそうもない。ひけ」
イーレンはぼうぜんと両の目を見ひらき──つぎの瞬間には、おさえきれぬ怒りに歯をかみしめた。
「ぬかせ!」
わめきざま突っこんだ。
つづけざまに突きがダルガの喉もとをねらう。
手練の突きであった。
使っている剣は細身の軽いもので、斬撃にこそむかないしろものだが、そのぶん動きはすばやく、するどくなる。
さばききれなくなったか、ダルガが剣をぬいて対手の剣先を払った。
つ、と後退し、イーレンは口もとを笑みの形にゆがませた。
「ようやく、おのれの愚かさに気づいたか」
こたえてダルガは、こういった。
「愚かなのはおまえだ」
「なに!」
「生半可に腕があるばかりに、軽くあしらうわけにはいかなくなった」ぬき身を両手に、腰を落とした。「ひく気はないんだな?」
感情のこもらぬ口調できいた。
「たわごとを!」
叫びざま、イーレンは突き入れた。
針のように尖った剣先が、ダルガの喉をつらぬいた。
残像を。
歓喜が驚愕にかわった。
同時に、衝撃をうけた。
重い鉄のかたまりが、その重さといきおいとで、肉を裂く衝撃だった。
がひゃ、と、ぶざまで意味のない声が自分の喉から走り出るのを耳にした。
血色に染まった声だった。
胸がふるえ、血塊がせりあがった。
びしゃ、と吐いていた。
目をむき、イーレンは何が起こったのかを確認しようとした。
刺すようなダルガの視線が、眼前にあった。
氷のようだった。
「腕試しにもならない」
氷結した視線が、そういった。
「あ……」
と、声に出した。
声とともにふたたび、血塊がごぼ、と喉をならした。
血を吐きながら、地面が眼前にせりあがってくるのをぼうぜんと凝視した。
たおれているのだった。
どさり、と地に伏した長身は、胸から腹にかけて切り裂かれていた。
「イーレン……!」
恐怖の叫びをあげて、巨漢ラガスがたたらをふんだ。
イーレンを助けおこしにいこうとして、圧力を冷気のように発散するダルガにおそれをなしたのであった。
ち、とダルガは舌をならして剣を鞘におさめた。
ため息をつきつつ、背をむけた。
注意力が散漫になっていた。
気持ちが疲れていたのだろう。
「う……うわあああっ!」
野太いぶんだけみっともなさの際だつ悲鳴にうんざりして少年はふりかえりかけた。
殺気を感じなかったために、反応が遅れた。
巨漢のやみくもにふりおろした細剣の切っ先が、ダルガの背中を切り裂いた。
深くはない。皮一枚ほどだ。
が、油断にはちがいなかった。
とっさに地面に身を投げだしざま剣をぬき、二転して身がまえた。
ひい、とぶざまに喉をならしてラガスは恐怖の目をむき、及び腰でたおれ伏すイーレンに近づき、ぐったりした長身を背に負った。
恐怖に見ひらいた目をダルガにすえたまま、がくがくとひざを笑わせながら後退した。
一度は身がまえたものの、あまりのぶざまさに対応する気をなくして憮然とした表情でダルガはそれを見送った。
「油断した」
吐き捨てるようにひとりごち、剣を鞘におさめて館にむかった。
「ダルガ!」
叫びながらシェラが近づき、腕と背に手を当てた。
「血が出てるわ、ダルガ! 手当をしなくては!」
「たいした傷じゃない」
不機嫌そうにいい捨て、すたすたと進む少年にまとわりつくようにしながらシェラは懸命にいいつのる。
「だめよ。化膿したら死んでしまうことだってあるのよ。はやく館に入って手当を」
「ほうっとくつもりはない」
いってダルガは立ちどまり、じろりとシェラを一瞥してから──がば、と上衣をぬぎ放った。
きゃ、と小さく悲鳴をあげるシェラに乱暴な動作で背中を見せる。
うっすらと血の筋が一直線に走りぬけている。
言葉どおり、たいした傷ではなさそうだった。
なによりその背中には、それよりもさらにひどかったであろう無惨な傷跡が、無数に刻みこまれていたのである。
シェラは息をのんで、意外に肉厚なダルガの背中に見入った。
「納得したか? たいした傷じゃない」
背中ごしにいって、ダルガは荒々しい動作でふたたび歩きはじめた。
あわててシェラもあとを追う。
傷口に手当をするまで、離れないつもりだった。
「蛮人」
すれちがいざま、エレアが憎々しく口にした言葉はきき流した。
弁護するほどダルガのことをわかってはいないことに、シェラはもどかしさを感じた。
「パランを頼みます」
旅装をととのえて山稜にたたずみながら、見送りにきたソルヴェニウスと護衛にアリユスは告げた。
執事は無表情にうなずいてみせ、エレアに視線をむける。
少女は切なげな視線を青年にかえした。
こたえるでもなく見つめていたが、やがてソルヴェニウスはソムラ──エレアの護衛役として選ばれた巨漢の剣士に「エレアさまを頼む」と短く告げた。
毛深い背中に荷物を満載した山牛と呼ばれる獣が三匹、出発の時を従順に待っていた。
「それでは、いきましょう」
シェラが一行に宣言し、五人は山牛をつれて歩き出した。
「あんたの占いよりひとり多いんじゃないか?」
歩きながらきくダルガにアリユスは微笑んでみせた。
そして、いった。
「わたしの占いだけなら、はずれたといっていいかもしれないけれど」
じっと、ダルガの目の奥底を見透すように見つめた。
「占爺パランも、同じ結果を出したのよ。山へいくのは四人。幻術使とその見習い、剣士、そして……」
ちらりと先をいくエレアの背中を見やり、言葉をのみこんだ。
暗い目をしていた。
口にされなかった言葉は――生け贄。