サドラ

 

「痛い」
 うれしげにうめきながら魔人は──裂けたおのれの傷口にぐい、と、肉瘤のもりあがった異様な両の手をさし入れた。
 ねじりこむようにさし入れ──こじあけるようにして、ぐい、と左右にひいた。
 めりめりと音がきこえてきそうだった。
 みちみちと肉がはじけ、ぼとぼとと床上にどすぐろい粘液質の血が落下した。
「痛い痛い痛い痛い」
 妖人は笑いの形にくちびるをゆがめながら血泡まじりのよだれを飛ばしてわめいた。
 みにくい全身が、わなないている。──歓喜に?
「狂ってやがる……」
 ぼうぜんと目を見ひらき、ぽつりとダルガがつぶやいた。
 そのダルガに、妖魔レブラスはじろりと凝視を投げかけた。
 身がまえる少年にむけてにたりと笑い、
「おまえ」
 と、泥を煮しめるような異様な声音で呼びかけた。
「もっとおれを切れ」
 言葉の意味をはかりきれず、ダルガはきょとんと妖人を見かえした。
 傷口を裂くのに夢中だった手を未練がましそうに離し、妖魔は壁におしつけた。
 肉塊を無造作にもりあげたような巨体が、ず、ず、ず、と壁からせりだした。
 ぼとりと、汚物のように落下した。
 背丈も幅も、軽くダルガの倍以上はありそうだ。
 異様な臭気がさすように立ちこめ、その場につどうだれもが刺激に、目じりに涙をにじませた。
 腐臭であった。
「もっとおれを切れ」
 臭気をまきちらしながら魔物は告げ、ぼとりと一歩をふみだした。
 対峙するダルガは凝然と目を見ひらいていたが──
 ふいに、つ、とその目を細めた。
「おれはひねくれ者でな」口もとに、薄笑いをうかべた。「斬れといわれりゃ、いやになる」
 鞘におさめた剣の柄からひょいと手を離し、二、三歩、後退した。
 化物の醜貌に、あからさまな失望がうかんだ。
「もう終わりか」
 不満そうに告げた。
「おれを切れ」
 口にして、ずずと足をふみだす。
 同じぶんだけ後退し、ダルガはフン、と鼻をならした。
「自殺なら自分ひとりでやれ」
 指をつきつけ、それから腕を組んでみせた。
「もう終わりか」
 化物は失望を隠そうともせずくりかえし──
「なら、おれの中に入れ」
 両手をひろげた。
 ダルガは、ぽかんと目をむき、腕組みを解く。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
 戦慄すべきセリフを口にしながら、妖物はぼとり、ぼとりと歩をふみだした。
 さがるダルガの前に──アリユスが立った。
「アリユス──」
 ダルガが気づかわしげに呼びかけるのへ、美貌の女はちらりとふりかえって微笑み、
「レブラス?」眼前の妖魔にむけて、問うように呼びかけた。「あなたがレブラスね?」
 妖魔はこたえず、しばらくのあいだ美貌の女をしげしげと眺めやるばかりだったが、やがてうなずいた。
「おれがレブラスだ。おまえはだれだ? おれとひとつになるか?」
 アリユスはこたえず、握ったこぶしを肩口にかまえた。
「レブラス! ラッ・ハーイー・アの名にかけて“空”の檻にしりぞけ!」
 叫びざま、投げつけるようにこぶしを突きだした。
 くあ、とレブラスがうめいた。
 同時に──油膜のようなものを表面にはしらせた巨大なシャボンが、妖魔の巨体をつつみこむようにして出現した。
「おお?」
 と化物は目をむき、四肢をあがかせたが、つるつるとすべるばかりで一向に破れる気配さえない。
「“ラッ・ハーイー・アの檻”」
 微笑みながらアリユスは宣言し、ゆったりとした足どりで後退した。
「これはなんだ」シャボンの内部で、レブラスがうめいた。「これはなんだ。痛くない。ぜんぜん痛くない。これはよくない。まったくよくない」
「おかしな妖魔だぜ」
 あきれた口調でダルガがつぶやいた。
 かぶせるように、
「すばらしい」ソルヴェニウスの感嘆の声があがった。「ヴァラヒダの魔のひとつを、こうも簡単に封印してしまうとは!」
「だまって」
 ちらりとふりかえって、アリユスがいった。
 きびしい顔つきをしていた。
 いぶかしげに眉をよせながら、ソルヴェニウスはつづく言葉をのみこんだ。
 ながくはとりあわず、アリユスは妖魔に向き直る。
「レブラス、問いにこたえなさい。サドラはあなたたちの仲間になったの?」
 とたん、妖魔がこたえるよりはやく、
「父様を侮辱するの?」
 エレアが立ちあがりざま叫ぶ。
「すわってて」
 あわてて、シェラがなだめにかかる。
 とりあわず、アリユスは妖魔をにらみすえたまま。
 シャボンの内部で妖魔は、裂けた双眸を見ひらいた。
「ヴァラヒダは復活した」問いかけの顔をしたまま、いった。「あらたなる精神をともなって。われらがあるじなり」
 ダルガは鼻の頭にしわをよせた。
「サドラのことを問うたんじゃないのか?」
 対してアリユスは──ふりかえりもせず、こたえた。
「そのはずよ。そして、そのこたえが──ヴァラヒダ?」
 そのとおり、と返答がかえった。
 一同の、背後から。
 ふりかえる一同の前、老タグリの腰かけるすぐうしろの空間に──
 異様なものが、出現していた。
 騒然とした沈黙が空間をうめる。
 幽霊のように、ゆらめく人影。
 後頭部に、ぼやけたような乳白色のもやがうっすらと燐光を放っていた。
 その位置からつりさげられてでもいるように、その人影はだらりと両の腕を空中にたらしたまま、室内を睥睨している。
 腰から下は、やはり乳白色のもやのようなものにつつまれて判然としない。
 口もとに、かすかな笑みをうかべていた。
 後頭部のもやと、全体がゆらめきながら透きとおっていることを除けば、レブラスのような化物と同類には見えなかった。
 年齢は四十代とおぼしき、ごくふつうの男性だ。
 その人影が──
 ゆっくりとめぐらす視線を、ぴたりととめた。
 エレアの上で。
「父様!」
 エレアが叫び、同時に──
「おお、ヴァラヒダ」
 ──レブラスが、口にした。
 きこえなかったか、エレアが亡霊にむけて遮二無二かけよろうとした。
 すばやくソルヴェニウスが、背後から少女の華奢なからだを抱えこんで制止した。
「エレアさま!」
「離して!」
 悲鳴のように叫び、激しくもがいた。
 ソルヴェニウスの予想をこえる激しさだった。
 あっというまに青年の捕縛をふりもぎ、エレアは妖霊にむけて疾走した。
 たん、とその眼前に、黒い影がおどりでた。
 ダルガ──と一同が認識するよりはやく少年は、エレアのみぞおちに当て身をくれて昏倒させた。
 くたくたと崩れ落ちる小柄な体躯を受けとめ、ぼうぜんと目をむくソルヴェニウスにすばやくわたすや、剣の柄に手をあて向き直る。
 妖霊に。
「何者だ?」
 身がまえ、にらみあげる姿勢で問うた。
 こたえるように、しゅ、う、う、と、妖霊は吐気をはしらせた。
 かぐろい闇が、その口もとから炎のようにわきあがった。
 そして、尋常と見えた顔に──裂けるような笑いがうかびあがった。
 ぞろりと、舌がくちびるをなめまわした。
 ──一枚ではない。
 裂けたような口から十枚以上の舌があらわれ、ひとを小馬鹿にするようにしてうごめいたのである。
「エレアをわたせ……」
 黒い息を煙のように立ちのぼらせながら、妖霊はいった。
「ことわる!」
 ダルガの背後でソルヴェニウスが、宝石をその手に握りしめながら決然と口にした。
 きこえぬように、妖霊はくりかえした。
「エレアをわたせ……贄にする……」
「結界はどうなっている?」
 妖霊と対峙したまま、ダルガはソルヴェニウスにきいた。
「もう、ほとんど」言葉をとぎらせてソルヴェニウスはごくりと喉をならした。「破られているようです。行をなした僧は……前回の襲撃のとき、命を落としています」
 その言葉をきいてアリユスはいぶかしげに眉をよせたが、ダルガは気づかぬまま、ち、と舌をならした。
 打ちこめば、一撃で両断できる距離だった。
 が、打ちこんで効果があるとは思えなかった。
 眼前にゆらめく妖体が実体をそなえているようには見えない、ということはさしおいても──
 この異様な鬼気を発する存在に、剣による斬撃が効果を発するとは、どうしても思えないのであった。
「くそ」
 うめきながら、無意識のうちにあとずさっていた。
 無力感にかみしめたくちびるの端から、血がしたたった。
「エレアをわたせ……」
 妖霊がつぶやくように口にして、すう、とその両手をさしだした。
 ぎ、と奥歯をかみしめ、ダルガはさらに姿勢を低くした。
 無理を承知で、打ちこむか。
 逡巡を決意にかえようとする一瞬──
 かたわらから、影がすすみ出た。
 ──アリユスか?
 妖霊からは視線をはずさぬまま、ダルガは視界のすみで影を見やって考えた。
 ちがっていた。
「おひきとりください」
 静かな声音で、妖霊にむけてそう呼びかけたのは──シェラだった。
「いずれわたしたちから、あなたのもとへ参ります。どうぞおひきとりください」
 静かな声音で、決然と、いい放った。
 妖霊は裂けるような笑みをうかべてシェラを見やり──つぎに、その視線を老タグリのもとへと、移動させた。
「父上……」
 深く、底ひびく声音が虚無を背負った老人にかけられた。
「望みのものを……私はまもなく手にする……。そのために必要なのだ……。エレアが……!」
 つ、と、その両手をさしだした。
 水を渇望する沙漠の旅人のように。
「娘を……わが愛しき娘を……この手に抱かしめよ……父上……!」
 すう、と、もやのような背後の空間もろともゆっくりと滑空しはじめた。
 く、と喉をならしてダルガは一歩をふみこみ、迎えうった。
 銀線が妖体の額から腹中まで、一文字に走りぬけた。
 ──いかなる手ごたえもなく。
「くそ、きかねえ!」
 焦慮に彩られた声で叫び、かばうようにしてシェラの前に立ちはだかった。
「道をあけよ……」むきだした目をダルガにむけて妖霊が告げる。「われは地の底の王ヴァラヒダをとりこみ……融合し……復活した……。残るは永遠をこの手に入れるのみ……。人なる脆弱な定命のものに、われをさえぎることあたわず……道をあけよ……この、サドラ・ヴァラヒダに……!」
 手をさしだした。
 実体をもたぬその手が、ふれるかふれぬかのうちに──ダルガは、己が全身から力がすうと吸い出されていくのを感じた。
 ふみとどまろうとする意志ばかりが空まわり、少年のからだは芯がぬけたようにくたくたと崩れ落ちた。
「ダルガ!」
 おどろいてシェラがささえるのに、かろうじて、逃げろ、と口にした。
 従わず、シェラは眼前の妖霊──サドラ・ヴァラヒダに、きっと視線をむける。
「退け、邪悪なるもの!」
 凛然といい放ち、印をむすんだ。
 光が小さくはじけた。
 飛んで、妖霊の顔面をたたいた。
 飛沫のように砕け散る。
 サドラ・ヴァラヒダが笑った。
 笑いながら両の手を、シェラにむけさしだした。
 ダルガを抱えこんだままくちびるをかみしめて立ちつくすシェラの背に──
「もう一度!」
 アリユスの叱咤が、飛んだ。
「もう一度! 炎の呪! わたしが援護する! ──ダルガと同調して!」
 最後の一言の意味をはかりかね、瞬時、シェラは躊躇した。
 考えない。
 そう決めて、指示どおり印を結び、気中にひそむ炎を念じて収束させた。
 結節点を、ダルガにすえる。
 渦をまく紅が白光にかわる。
 気合いを打ちこんだ。
 同時に、背後からアリユスの気合いが重なる。
 打ちだされた白光がサドラ・ヴァラヒダの胸部に吸いこまれた。
 消失する。
 だめか──
 絶望感を、シェラは感じていた。
 アリユスは後悔のほぞをかみしめた。賭が外れたのだ。
 すぐに二撃を準備する。シェラとダルガは──すでに戦力から除外していた。
 は、は、は、と笑いながら妖霊がさしだした手をシェラの額にのばした。
 瞬間──
 動作が、凍結した。
 笑いの形にゆがんだ口もとがOの字にひらき、むき出した両眼が、信じられぬように凝視する。
 シェラと──ダルガを。
 はりめぐらせた銀の細線をはじくような緊迫が室内にあふれかえり──
 一瞬ののち、絶叫がほとばしった。
 妖霊、サドラ・ヴァラヒダの喉奥から。
 十数枚の舌を吐き出すようにわななかせ、顎を狂おしくさすりかきむしりながら妖霊は、内臓を嘔吐するごとくわめきちらす。
 ほぼ同時に──あばらの浮き出たおぼろな胸部が、弾けるように八方にむかって割れ裂け、青黒い粘液を炸裂させた。
 追って、炎の幻像が燃えあがる。
 もやに固定されたまま妖霊はうつろな像を激烈にもがかせ、血の息と炎の叫喚とをたてつづけに吐き出した。
「ヴァラヒダ──おお、ヴァラヒダ──」
 泥沼がはじけるような不快な声音がぼうぜんと連呼するのを背後にきいて、アリユスはハッと我にかえった。
 どうやら、賭が成功したらしい。
 予測をはるかにこえた威力をともなって。
「ダルガ……暗黒の龍……炎……」
 つぶやき──疑問と不審はあとまわしにすべき時であることに、思いあたった。
 短く呪文を口にして印を結び、打ちだした。
 見えぬ風の幻像が、妖体の顔面で弾け飛ぶ。
 サドラ・ヴァラヒダのおぼろな妖体が、背後に吹き飛ばされた。
 胸部で噴き上がる白熱の業火が、一段とそのいきおいを増した。
 苦鳴が闇を裂いて世界を呪う。
 アリユスの属性は風。
 炎を補完する。
「いまここで……!」
 つぶやき、風の迫撃を連打した。
 ユスフェラの山の底にひそむ魔の首魁をここで討ち滅ぼすことさえできれば、事の打開は格段に容易になるはずだった。
 アリユスは全霊をこめて、攻撃を加えた。
 シェラの援護は、あえて望まなかった。修業途上の見習い幻術使であることを除外しても、少女の属性は水──全力をふりしぼればふりしぼるほど、ダルガを介して燃やした滅びの炎を鎮静させるおそれがあったからだ。
 打ちつづけた。
 打つたびに妖霊は弾けるようにあとずさり、がくがくと全身をおり曲げてうめき、わめいた。
 だが、インターバルにあげる魔の山の主の双眸からは、一向に妄執の炎が消えることはなかった。
 うめき、ねめあげる血走った眼は、さしつらぬくようにアリユスを打つ。
 胸部の炎が、ふいに燃えつきた。
(ここまでか……!)
 奥歯をかみしめつつ、アリユスは思った。
 風を放ちつづけるが、徐々に効果はなくなっていく。
 いたずらに体力を消耗するだけと思いさだめ、攻撃を中止した。
 直立し、視線で妖霊と対峙する。
 あえぎ、うめきながらサドラ・ヴァラヒダは身をくねらせ──ふしゅうと、燃え立つ熱気のような吐息を噴きあげた。
「招くぞ……」地獄の底からひびきあげるような声音で、口にした。「おまえたちを、わが神域に招くぞ……。そこで進呈しよう……わが呪詛を!」
 顔をあげ、十数枚の舌を出して哄笑した。
「永遠に絶えぬわが呪詛を、幽鬼となりはてて嘆くがいい!」
 笑いながら両手をさしあげた。
 お、お、お、と雄叫んだ。
 バン! と、背後で何かがはじける音がした。
 ふりかえったアリユスの前に、レブラスを封じこめた結界がいとも簡単に消失していく光景が展開された。
 落書きのような赤黒い巨体が地におりたち、裂けたような目と口とが笑いの形にゆがんだ。
「レブラス!」その化物にむけて、妖霊が叫んだ。「わが領域にてこの不遜の者どもを迎える。歓迎の準備だ!」
 王のように高らかに宣告し、両手をひろげた。
「訪え! 待っている!」
 叫び、嵐のように吠えた。
 咆哮を追うように、口腔内から暗黒が噴出した。
 黒雲のようにわきあがり、一瞬にして室内を闇に染めた。
 視界を奪われだれもが立ちつくし、空間を占拠する不快な哄笑ばかりをなすすべもなく耳にした。





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