ヴァラヒダの魔

 

 三階に位置する、町と山々を一望のもとに見わたせるひろい窓のひらいた一室へと四人は通された。
 テーブルには酒壷と杯、それにごく簡単な酒肴とがならべられている。
 先刻の庭園でと同様に、上座には老タグリが枯れ木然と腰をおろしており、部屋の入口に彫像のように衛兵がたたずんでいるのもおなじだった。
 灯火は極力おとされ、腰をおろしたまま夜景がよくながめられるように配慮されている。
「ほかにご質問はございますか?」
 あいもかわらず能面のような顔をして、あらためて問う美青年に、席につくやいなやダルガが口をひらく。
「ユスフェラの山、といったか?」
「さようでございます」
「なにがいる?」
 単刀直入に、そうきいた。
 ソルヴェニウスは寸時、言葉をつまらせたようだった。
 が、すぐに淡々とした口調でいった。
「ヴァラヒダの魔物、と土地の者は呼びならわしております。凶悪な、妖魔です」
 話によると、その魔物の正体はさだかではないらしい。
 いつのころからか谷に隣接した山奥深くの“青の洞(ほら)”と呼ばれる場所にそれらは住みつき、通りがかる者を惨殺するようになったのだという。帰還する者はごくまれな上にそのほとんどが先の剣士トーラのように気がふれているため、具体的に何がおこなわれているのかは噂、伝説のたぐいでしか知られてはいない。
 その伝説によると──魔物はぜんぶで三匹。深山の地の底深く封じこめられた、ある強大な魔族の主を守護するためにそこにいるのだという。
 名は、レブラス、マラク、そしてシャダーイル。
 外見や、どのような特徴をもっているのかなどはさまざまな説があって一致しない。
 それでも、その中から共通するきわだった特徴をあげるなら、妖魔は三体とも成人男子の倍ほどの体長を有しており、一匹は角のある獣の姿で、また一匹は女の姿をとることがあるのだという。
 膂力は強く、一撃で人間などひきつぶしてしまうほどのものらしい。
「そいつらが守護している“魔族の主”ってのは?」
 ダルガが問う。
「それがヴァラヒダと呼ばれるものです。もっとも、実在しているのかどうかは、やはりわかりませんが」
「まともな状態で帰還した者はひとりもいない?」
「はい。ただ……」
 とその時、ソルヴェニウスがはじめて、迷うようにいいよどんだ。
 ダルガは目を細め、パランはほ、とおもしろそうに喉をならした。
「……ただ?」
 アリユスが優雅に姿勢をかえながら、にこやかに問いかける。
 なおもこたえず、ソルヴェニウスはかたわらの老人に視線をむけた。
 小刻みにこくこくと、老人は人形のようにうなずいてみせた。
「魔物の出没する場所ではありませんが、山にながいこと、こもっている者はいます」
「ほう」
 パランが感心したように声をあげる。
「名をガレンヴァール、といいまして──」
 ソルヴェニウスがそこまでいいかけたときだった。
「おじいさま!」
 刺すような声音が、薄闇をついてとどけられた。
 巨漢の衛兵二人に守護された入口から、小柄な人影が子犬のようないきおいで飛びこんできた。
 ながい、淡い色の髪を塔のように結いあげた、気の強そうな顔だちの少女であった。
 年齢は十五、六。ダルガやシェラと同年代とみえた。
 瀟洒なドレスに身をつつみ、髪、額、首、腕、指、そして足首とほぼあらゆる場所に宝玉の入った飾りものをしゃらしゃらさせている。
 そして、これも宝石のように淡い輝きの瞳ですばやく室内を一瞥してダルガたちの姿を目にとめるや、叫んだのである。
「下賎の者!」
 と。
 痩身の美青年が、少女からは顔をそむけつつ苦りきったように眉根をよせる。
 と、そのとき──
「エレア……」
 痰のからんだ声音が、初めて四人に判別できる言葉を発した。
「おじいさま!」こたえるように少女が叫び、つかつかと老タグリのもとへと歩をすすめた。「どういうおつもりですの? このような下賎のやからを、屋敷に入れるなど。わたくしは父様のなさることにおそれなど抱いてはおりませぬ。召そうとおっしゃるのであれば、わたくしはよろこんで父様のもとに召されます。おやめください、父様に──」
 じろりと、四人の招待客に視線をむけた。
 憎悪の炎が、めらめらとゆらめいていた。
「このような、無頼の者どもをけしかけるなど!」
 吐き捨てるようにいった。
 エレア、と老タグリはまたしても血がまじっていそうな声音で少女の名を呼び、ふるふると力なく手をさしのべた。
 と――その手を、ソルヴェニウスが制するようにそっと握って椅子の手におろさせた。
「おじいさま!」
 なおもかけよろうとする少女──老タグリの孫、エレアに、ソルヴェニウスは優雅なしぐさで手をあげた。
「おまちください、エレアさま」
 静かだが、決然とした口調だった。
 とたん──小さなこぶしを握りしめて今にも祖父にくってかかりそうだった少女が、ぴたりとその動きをとめた。
 美貌の青年の顔を、しげしげと見つめる。
 ひそめられた眉の下の目には、おのれの行動をおしとどめられたことに対する非難以外に、もうひとつべつのものがうかんでいた。
 思慕である。
 どうやらこの豪族の娘は、当主の執事であるこの青年に恋心を抱いているようであった。
 青年自身もそのことは自覚しているのであろう。
 冷たい瞳で深々と少女を刺しつらぬくように見つめながら、つづけた。
「おかけください」
 呼応するように、ふみこんでいた衛兵の一人が、エレアのもよりの椅子をうしろにひいた。
 対して少女は、息をのみ、結んだこぶしをひらいてはもどかしげに胸前でからませあい、上体をのりだしてうったえるように口にした。
「だって、ソルヴェニウス、父様は──」
「サドラさまはすでにお亡くなりになりました」
 冷然と、美青年はエレアの言葉をさえぎった。
 首からさげた紫の宝石を、握りしめるようにして手にしている。
「夜ごとエレアさまをたずねくるのは、サドラさまではありません。あれは……」
「ソルヴェニウス!」
 悲鳴のように、エレアは叫んだ。
 非難と否定であるよりは──哀願と、そして甘やかな慰撫を求める媚びのようなひびきだった。
「あれは汚れた妖物にほかなりません」
 断ち切るようにソルヴェニウスは、淡々といい放った。
 ぼうぜんとエレアは、青年の美貌を凝視した。
 ふいに――その瞳からどっと涙があふれ落ちた。
 両手に顔を伏せて泣きじゃくりながらエレアは、引かれた椅子に崩れるように腰をおろした。
 エレア……と、老タグリがみたび、少女の名前を口にした。
 こたえるように、ぴたりと泣き声をとぎらせて少女は祖父をきっと見やり──
 さっと視線を移動させ、真一文字にくちびるをひきむすんだまま、なおいっそうの憎悪をつのらせてダルガたち一行をひとにらみした。
「エレアさま」
 とがめるようにソルヴェニウスが口にするのへ、つんと顎をそらして顔をそむける。
 そのまま、傲然と胸をそびやかした姿勢で豪族の娘は、すすり泣きに身を小刻みにふるわせた。
 そんな少女の姿をしばらく見やり、やがて執事は無表情のまま招待客らに向き直った。
「ユスフェラの山にこもっている者の話でしたね」淡々と話を再開する。「名をガレンヴァール、というそうです。素性はまったく明らかではないのですが、話ではザナールの海のむこうからわたってきた幻術使だということです。なにをしているのかはわかりませんが、もうずいぶんとながいあいだ、あの山にこもって妖魔の目を避けながら暮らしているようなのです」
「その男、見た者はいるのか?」
 とダルガ。
「山に入る前と、その後もいくたびか。まるまると太った格幅のいい、にこやかな老人だということです。ただ……噂では、このガレンヴァールなる老人もヴァラヒダの魔におとらず剣呑な人物ではないか、といわれております」
「目的は、まるでわからないのか? そのガレンヴァールの目的は」
 きいたのは、アリユスだった。
 瞬時、ちらりと意味ありげな視線が、ソルヴェニウスと老タグリとのあいだでかわされた。
 が、返答はほとんど遅滞なくかえったきた。
「皆目わかりません。あるいは妖魔の眷属ではないか、と申す者もいるようですが……」
 ふん、と鼻をならしてダルガは顎に手をあてる。
「ほかに、ございますか?」
 いんぎんな問いかけに、ダルガはじろりと横目で見やり、
「ある」
 とこたえた。
 目顔での問いかけに、酒壷から杯に火酒をみたしてぐいとあおり、口もとをぬぐってから、
「サドラのことだ」
 口にした。
 きっ、とエレアがダルガをにらむ。
 同時にびくりと、老タグリが枯れ木のようなからだをふるわせた。
 かたかたと口わななかせ、背もたれから起きあがる。
「タグリさま」
 気づかわしげにソルヴェニウスがそっと手をとるのへ、激しいしぐさで老人は耳をよせさせ、興奮したようすで何ごとかを告げた。
「わかりました。わかりました、タグリさま」
 なだめるように青年は老人の背中を羽毛のようにたたきおちつかせる。
 老主人がふたたび背もたれに深々と倒れこむのを待ってから、ようやくのことでソルヴェニウスは四人に向き直った。
「ご質問を。ですが、可能でしたらその前に、わが主の依頼を引き受けてくださるか否かだけでも、おこたえいただければ助かるのですが」
 アリユスとシェラがダルガに目をやる。
 とりわけシェラは、すがるような視線だった。よほど老人の様子にあわれみの念を抱いているのだろう。
 ダルガはひょいと肩をすくめ、うなずいた。
 憎悪にみちた目でエレアがにらみつけるのには、あえて気づかないふりをした。
 その様子を横目に見ながら、シェラがダルガにうなずきかえし、
「わかりました」
 代表してこたえた。
 ほう、と安堵がソルヴェニウスと、そしてわきにひかえる二人の衛兵からまでも流れてきた。
 ちらりとエレアに視線を走らせる。
 下唇をかみしめ、小刻みにからだをふるわせながら刺すような視線でダルガとシェラをにらみつけていたが、当主の孫は何も口にしようとはしなかった。
「感謝の念にたえません」
 執事が、深々と頭をさげた。
「それはいいから、サドラのことだ」ダルガがいった。「昨夜、このふたりからきいた話じゃ、サドラ自身が妖怪となってこの館をおとずれたそうだな。いったいどういうことだか、説明できるか?」
「その質問が、若君の身になにが起こったのか、という意味であれば──こたえは否、です。この屋敷にどういった怪異が起こり、それにサドラさまが……サドラさまであったものが、どのように関わってきたのか、という点であれば、ご説明できますが」
「そのことなら、だいたいはきいている。となると──たとえば、ヤツはなんのためにそこのお嬢さんを所望しているのか、だが」
 癇のつよそうな顔が、ダルガを見かえす。
 ソルヴェニウスの制止を警戒してか、あえて口はひらかなかったが、刺すような視線に変わりはない。
 その視線を平然とうけながら、ダルガは執事をうながした。
「生け贄にさしだせ、と──妖魔の要求はそれだけです。なんのためであるのかは、私どもにもわかりません」
 こたえに、ダルガの口調がじれったげになった。
「その妖怪がサドラだとなぜわかったんだ? 似たような顔をしていたのか? そもそもそのサドラとヴァラヒダの魔物どもとやらは、なにか関係が──」
 いいかけた言葉は、眼前にひろげられた手のひらにさえぎられた。
 しわがれ、ひからびた手のひら──占爺パランであった。
 ぎくりと、ソルヴェニウスが目をむいた。
 首からさげた宝石を、握りしめる。気分がたかぶったときの癖なのか。
 ダルガはむっとしながら眉をよせて占爺を見やり──入口近くの壁を凝然と見すえる老導師の姿に気づいて、ハッと口をつぐんだ。
「占爺……」
 いぶかしく呼びかけかけたシェラにパランは「シッ」とするどく制止をかけ──
 ゆっくりとした動作で、椅子から立ちあがった。
 そして──まぶたをとじる。
 見える片目だけ。
 シェラとソルヴェニウスがいぶかしげに目をすがめて、占爺の様子をうかがった。
 アリユスは興味深げに身をのりだす。ダルガは──どうやら、なにが起こっているのか心得ているらしい。緊張した面もちで、老導師の挙動を注視した。
 見えるはずの左目をとじ、光を宿さぬ白子の隻眼を壁の一角にすえ、パランは慎重な足どりで二、三歩ふみだした。
 現実の像を映さぬアルビノの片目が、その代償に神威の異世を見透すとでもいうのか──
 混濁した凝視をひとしきり壁の一角にすえたまま、パランはアリユスに呼びかけた。
「おまえさん、幻術使というからには、炸裂する妖力をさえぎる“壁”のたぐいをはりめぐらせることはできるかの?」
 アリユスはゆったりと立ちあがりながら、ええ、できるわ、と簡潔にこたえた。
「よかろう」パランは凝視を解かぬまま小さくうなずき、やせ枯れた指で壁の一部を指さした。「そこから来る。ふせいでくれ」
 いっさい問いかえさずアリユスは「わかったわ」と短くこたえて胸前で指をからませ、占爺のさす位置をにらみすえながら口中で呪文を唱えはじめた。
 清澄な気が、眼前に収束するのを占爺は感得した。
 同時に──これは部屋に集うだれもが、目撃していた。
 壁が──ぐねりと、ゆがんだのだ。
 泥土のようにゆがんだ壁がねろねろと粘液質に渦をまき──
 はじけ飛んだ。
 破裂したように、褐色の、汚物めいた泡沫が占爺めがけてほとばしる。
 それがパランの眼前の空間で、見えぬ壁にさえぎられるように弾きかえされた。
 飛び散る汚物が、実体を喪失して虚空に消える。
「いまのは──」
 ぼうぜんとシェラがいうのを、さえぎるように──
「つぎが本番じゃ!」
 占爺が、叫んだ。
 同時に、はじけたように粘液質に口をひらいた壁のなかから、ぬう、と──異様なものが出現した。
 褐色の泥でできた人のようであった。
 その、泥人形が目をむきながらくちびるをすぼめ、ふう、と息を吐いた。
 異様な粘液様のものが漏斗状に吹き出された。
「はじき──」
 呪文をとぎらせたアリユスが、焦慮にまみれた声でいいかけた。
 同時に──
 見えぬ壁が、破られた。
「おう!」
 うめきを残して占爺のやせ枯れたからだが、褐色の液体に打たれ、吹き飛ばされた。
「占爺!」
 叫びつつ、軌道上にすばやくダルガが移動した。
 パランの歪躯を受けとめ、いきおいにおされて五、六歩ほどもあとずさった。
「不覚!」
 叫びつつ、占爺にかわってアリユスが出現した化物の正面に立ち、胸でむすんだ印の形をすばやくかえた。
 短く、するどい呪文をはしらせた。
 見えない風が、褐色の妖魔に吹きつけたようだった。
 圧力におされて妖魔の顔がどろりとゆがみ、いやいやをするように手をつきだした。
「野郎!」
 占爺をかたわらに横たわらせたダルガが、叫びながら抜剣した。
 呼気を吐きながら、アリユスもまた見えぬ衝撃を妖魔に叩きこむ。
 壁からめり出した妖物は、衝撃をうけるたびに顔をゆがませ、うめきあげた。
 どちらが優勢かは、見るだに明らかだった。
 では──妖魔の顔が苦痛にではなく、歓喜にゆがんでいるように見えるのは、目の錯覚なのか。
 アリユスの美貌にも、手ごたえを感じられぬのか、奇妙な疑問と不審がうかんでいた。
 それを見てとったか──
「アリユス、どけ。斬る!」
 叫びざま、ダルガが電光のいきおいでふみこんでいた。
 制止するいとまもなく、剣士は一気に結界をぬけて妖魔の眼前に飛びだし――
 銀の軌跡が弧を描く。
 額から胸わきまで、妖魔のみにくい肉体に縦線がはしりぬけた。
 ぶわ、と青ぐろい異様な色の血がしぶき、妖魔の顔がゆがんだ。
 苦痛に。
 あるいは──歓喜に。
 子どもの落書きのような顔だった。
「痛い」
 裂けたような口から、泥沼で毒臭まじりの気泡がはじけたような声音が噴き出した。
「痛い」
 くりかえした。
 くちびるの端を、笑いの形にゆがめながら。
 どすぐろい血管のうきあがった異様な形のこぶを、てきとうにもりあげこねあわせたような醜貌だ。
 半身を壁からめり出した形だが、それだけでも背丈は通常の人間より巨大そうだった。
 異様に非対称な、子どもが地面に殴り書きしたような肉体。
「レブラス……だな?」
 ソルヴェニウスが胸もとの紫の宝石を握りしめながら、ぼうぜんとつぶやいた。
 そのソルヴェニウスに、妖魔はじろりと視線をむけた。
 肉の表面に刃で裂いてつくったような双の眸が、うれしげにゆがんだような気がした。
 レブラス。
 ヴァラヒダを守る三魔人の一。
 





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