ダルガ
「おいおいラガス、もうちょっと声を小さくしろよ。それじゃきこえてしまうだろう」
言葉の内容とはうらはらに、優男の声音にはあきらかにおもしろがっているひびきがある。
打てばひびくように、ラガスと呼ばれた巨漢もふん、と鼻をならし、
「きこえたからどうだってんだ、イーレン。おれはちょっともかまやしねえぜ」
侮蔑をのせていい放った。
きこえているのだろうが、少年はふりむかなかった。
禿頭めっかちの老人だけが、きょとんとした視線を向けてくる。
が──アリユスは舌をまいていた。老人は、いかにも害のなさそうな顔つきをよそおってはいたが、かすかに口の端が笑っていた。
状況を、ひそかに楽しんでいるらしい。
少年が反応しないのを怯懦とふんで、いよいよ巨漢はかさにかかって攻めたてた。
「あ? そうだろ、小僧。なんとかいっちゃあどうだい。その腰にぶらさげた剣は飾りものだろ? どこの戦場でひろってきたんだ? 死武者のたたりがこわくはねえのか?」
吠えるようにいいたてながら、のしのしと歩みよって肩に手をのばした。
空をつかんだ。
なにが起こったのか理解できず、巨漢はぽかんと目を見ひらいた。
動いた、とは巨漢のみならず優男もシェラも──そしてアリユスにも見えなかった。
が、少年はたしかに移動していた。
巨漢と、対峙する形で。
両手はだらりとさげ、足も心もちひらいた無造作なかっこうだ。が、見るものが見れば、いつ、どんな攻撃に対してさえ瞬時に反応できるみごとな姿勢だとわかる。
喧噪がしずまりかえった。
はりつめたものが酒場内を蹂躙する。
その緊張をそぐように──
「さてさて、剣士どの」
とぼけたような陽気な、しわがれた声が静寂をついてあがった。
老人だった。
いちはやく避難する体勢か、いつのまにかテーブルからはややはなれた位置に立っている。
ひどい猫背だ。
からだ全体がひん曲がって、ゆがんでいるような印象である。
アルビノの片目と禿頭、そしてその口もとにうかんだうろんな笑いとあいまって、奇怪な雰囲気を発散する老人であった。
「いったいわしらになんのいいがかりですかな。おとなしゅう食事をしていただけのつもりじゃったが」
人のよさそうな笑顔をうかべてみせてはいたが、いかんせん老人のもっている雰囲気と、その魁偉な容貌とがその効果を半減させていた。
むしろ、巨漢をからかうようなひびきさえある。
わざとかもしれない、とアリユスは心中考えた。
対して少年のほうは──まったく無言のまま、刃のような視線を巨漢と、そして周囲の状況にすばやく走らせる。
「おいおい、ラガス。かんべんしてあげろよ。こちらのお嬢さんがいったことは、たぶん冗談だったのさ」
とりなすように優男が声をかけてみせたが、むろん本気ではない。
「そうはいくか、イーレン。おれたちゃ、この小僧より低く見られたんだぜ。だまってられるかい。ええ?」
わめき放ち、少年の胸ぐらに手をのばした。
またもや、空をつかまされた。
半歩とさがってはいまい。
ほとんど姿勢さえかえぬまま、少年は冷徹な視線を眼前の巨漢に投げあげる。
「小僧!」
癇癪をおこして巨漢が、こぶしを握りしめた。
ぶん、と空気が重くうなる。
よけた少年の片頬を、風圧がかすめすぎた。
うたれれば壁まではじきとばされただろう。
頭蓋さえ砕けそうな膂力だ。
「よけるな!」
無理な注文をわめきつつ、巨漢は少年につかみかかった。
むろん要請が素直にうけいれられるはずもなく、身軽く強襲をかわされて巨漢はいきおいのままテーブルにつっこんだ。
酒と料理が宙に舞い、めっかちの老人が「ああ」と芝居がかったしぐさで額に手をあて天をあおいだ。
「わしらの今宵の糧が、かくも無惨に」
「茶化すな、占爺(せんや)パラン」
そのとき初めて、少年が口をひらいた。
占爺パラン、と少年に呼ばれためっかちの老人は、大仰に全身で嘆きを表現しつつ、
「そうはいうがな、ダルガよ。わしらは決して裕福ではない」
声高に、まるで四囲のひとびとに自慢してきかせでもするようにいう。
ち、と少年は舌をならして老人から視線をそらし──向きなおった。
優男、イーレンに。
「あんたの連れ、どうにかしてくれないか」
おちつきはらった声音で口にした。
一瞬イーレンは目をむいたが、すぐにおもしろそうに腕を組んで首をかしげる。
「そうしたいのは山々なんだけどね」ばかにするような口調。「逆上したラガスをどうにかするなんて、ぼくにはちょっとできかねるんだ」
残念でした、と肩をすくめた。
対して少年は──
「後悔するな」
つぶやくように、口にした。
目をむくイーレンの前で──
なめられたと感じたのだろう、凶猛に吠えたけりながらラガスの巨体がのびあがった。
立ちはだかる巨獣のようであった。
腕のひとなぎで、少年の華奢で繊細そうなからだなど割れ果実のようにはじけとぶだろう。
凄惨な場面を、酒場内につどうだれもが想像した。
──二人をのぞいて。
占爺パランはにやにや笑いをその口もとにうかべ──アリユスは期待に目を輝かせて少年の動向を追った。
鉈のような一撃が、少年にむけてふりおろされた。
いきおいのまま、血しぶきとともに黒い影が宙に舞った。
だれもが、少年のからだがはねとばされたのだと思っていた。
まちがいだった。
歯をむき出して殺戮の歓喜に酔った巨漢ラガスの笑顔が──きょとんとしたおどろきの表情をうかべる。
眼前に、腰をおとした姿勢で巨体をにらみあげる少年の姿を目にして。
まちがいなく、自分の腕でふきとばしたはずだった。
ではなぜ、少年はまったく無傷で、もとの位置とほとんどかわらぬそこにいるのか。
──剣の柄に手をあてて。
ぼうぜんとした面もちでラガスは、少年をはねとばしたはずの己の腕を見ようとして──さらに困惑。
肩から先が、動かなかったからだ。
肩口に視線をやり──
腕がなくなっていることに、初めて気がついた。
何が起こったのか、まるで理解できなかった。
はじけたように赤い肉から、盛大にふきだす血流が落下している。
切り口には白い骨の断面さえのぞいていた。
切り落とされたのだ。
肩口から──目にもとまらぬ少年の居合い斬りに、腕を切り落とされたのだ。
ようやくそのことに思いいたり、宙を舞った黒い影の落下方向にぼうぜんとした視線を向けた。
こぶしを握りしめたままの腕が、無造作にころがっていた。
「警告はした」
つ、と静かな動作であとずさりながら、冷徹な口調で少年がいった。
のろのろと巨漢は視線を少年に戻し、あんぐりと口をひらいた。
こまったようにイーレンに目をやり──絶叫しながら、腰をおって崩おれた。
わめきながら、岩があばれまわるような壮烈さでせまい酒場内をころげまわった。
「ラガス、ラガス、おちつけ、あばれるな」
追ってなだめにかかるイーレンのいうことさえろくさまきこうとせず、だだっ子のような調子で巨体をゆるがしながら泣き叫んだ。
放っておくよりしかたがないと見さだめて、イーレンは少年に向き直り──
人のよさそうな笑いをすっかりひそめた無表情で、ながいあいだ、少年を見つめた。
剣の柄から手をはなして少年も、無言のまま優男をにらみつける。
が、やがて──
「ぼくはイーレンという名だ」静かな口調で、優男がいった。「きみは?」
少年はなおも、警戒心をむきだしにした表情でイーレンを見つめていたが、やがてこたえた。
「ダルガ」
と。
イーレンは無表情のままうなずいてみせ、
「いずれあらためて、あいさつさせてもらう」
抑揚をおさえた口調でいって少年に背をむけ、うめきながら巨体をおしもむラガスを叱咤するようにうながして酒場をあとにした。
「やれやれ、とんだ災難じゃったわい」
なにごともなかったように帰り支度をはじめた少年のかたわらにすりよりながら、占爺パランがおもしろい見世物じゃった、とでもいいたげな口調で楽しそうに愚痴をこぼした。
こたえてダルガは端正な顔を無表情に鎧ったまま、淡々と口にした。
「出よう。今夜は験が悪い」
「やれ、夜はこれからだというに、まったくおまえさんは堅物でこまるわい。まあ、十六の子どもにいうても詮ないことではあろうがの」
ぶつぶつと愚痴をならべたてる占爺をおきざりにして、ダルガはさっさと歩きだし──
「こんばんは」
陽光のような微笑を満々と口もとにたたえつつ、ゆたかな胸の前で腕を組んで進路をさえぎる美貌の女に、立ちどまっていぶかしげな視線をむけた。
「つきあってくれないかしら。このまま帰すわけにはいかないわ。なにしろあなたたちをまきこんだ騒乱の原因をつくったのは、ほかならぬこのわたしたちなんだから」
アリユスの背後でシェラは、美貌の導師が本気でこの少年に声をかけようとしているのをあらためて知って、意外感を懸命におしかくそうと努力する。
少年は、鋭利な瞳をアリユスに向けていたが、やがて低くおさえた口調でいった。
「責任を感じているのなら、台無しにされたおれたちの夕餉と破壊された酒場の備品代、もってもらおうか。それですべてチャラ、だ」
目をとじて手をあげ、どいてくれ、としぐさをする。
アリユスは逆に、邪気のない微笑をうかべつつ、つ、とダルガに身をよせた。
「もちろんそのつもりよ。それに台無しにしてしまったあなたたちの晩酌のつづきも、してもらわなければ」
ほほ、と背後で歓声をあげる占爺パランに、ダルガはちらりと苦々しげに視線を投げる。
まるで頓着せず、パランは身をのりだしてしわがれた手でアリユスの手をとり、派手に上下にふりまわした。
「それはそれは。美女ふたりにお相伴いただけるとは、まったくこちらから金を払ってお願いしたいくらいですわ。もちろん、わしもこの子もお申し出をこころよくうけますとも。さあ、夜はながい。まずはどちらにまいりますかの」
一気にまくしたて、自分よりも背の高い美女の背中に気やすく手をまわしてさっさと歩きだした。
あっけにとらていたダルガが、やや声を荒げて「おい、占爺」と呼びとめる。
「冗談じゃない。おれはおまえの晩酌につきあう気はないぞ。それに今夜の宿だってまだ決まってはいない。忘れたのか? 能天気にもほどがある」
冷徹の仮面の底から、少年らしいあせりといきどおりがほの見えた。
そんなダルガの姿を好もしげに見やりながら、アリユスは肩に手をまわす老人からさりげなくするりとぬけ出た。
「それだったら、わたしたちの泊まっている宿にくるといいわ。女ふたりで安心して泊まれるところだから環境も設備も接客も万全だし、もちろん今夜のおわびに料金ももたせてもらう。それに──」
思わず抗議しかけたダルガの鼻先に、制するようにして白い、ながい指をついともちあげ、つけ加えた。
「たのみたいこともあるのよ。きいたかもしれないけれど、わたしたちは剣士をさがしているの」
「もちろん、このダルガはよろこんでおふたりのお役にたたせていただきますとも」と調子よくいったのは、むろん占爺パランだ。「なに、見てのとおり無愛想だがまだまだ子どものこととて、先の連中のようにおふたりに対してよからぬ邪念を抱くようなこともなし、腕は立つ上、無口でよけいなことはなにもいわない、と、これはもう理想の護衛じゃの」
くすりと笑いながらアリユスはちらりと占爺にうなずいてみせ、どう? とでも問いたげにダルガに顔をかたむける。
なにかいいかけてダルガはのみこみ、仏頂面のまま腕を組んだ。
「おれに何をさせたい」
言葉に、アリユスは微笑みながらうなずく。
「それはこれからゆっくり説明させていただくわ。でも手短にいうと──妖怪退治」
言葉にぼうぜんと、あけっぱなしの驚愕をうかべるダルガの顔を見てアリユスは声を立てて短く笑い、くるりと背をむけた。
あわててあとにつづこうとするシェラと、ダルガの視線とが、一瞬間だけ交錯する。
どちらの視線も、連れの態度とことのなりゆきに追随しきれず、困惑をあらわにしているばかりだった。