第1部 発端
アリユスとシェラ
扉をひらいたとたん、酔いしれた笑声と熱気とが店内からおしよせた。
ふたりはしばしその場にたたずんだ。
男たちの発散する熱気を、アリユスはひそかに楽しむ。シェラのほうは、ただただぼうぜんとするばかり。
さほどひろくもない酒場の中は、凶暴なまでの生気にあふれかえっていた。
十ほど配されたテーブルのうち、人がついているのはおよそ半数ほどだ。が、無人のそれのうちのほとんどにも、酒やら杯やらが乱雑に立ちならんでいる。
そこにすわるべき人間がどこにいるのかというと──どうやら店奥中央の人だかりが、それであるらしい。
威勢のいいかけ声や笑い声、野次などが飛びかったと思いきや、ふいにそれがしんと静まりかえる。
つぎの瞬間、ため息と歓声、そして罵声と笑声とが交錯し、金貨のかきあつめられる黄金色のひびきがその底を移動する。
賭場が開帳されているのだ。
シェラは入口で立ちすくんだまま、思わず背後をふりかえった。ながい髪を背中でたばねた、どこか幼さの残る人のよさそうな顔立ちの少女だ。
その視線をうけ、アリユスは静かに微笑む。
「場所をかえる?」
背丈はシェラよりすこしだけ小柄。ただし、年齢、経験、その他多くの点においてアリユスはシェラよりまさっていた。
だが決めるのはいつでも、シェラだ。
少女はふたたび店内に視線をもどし──二度、三度、賭博場の危険な活気と連れの女性とのあいだを往復させたあと、意を決したようにひとつ、大きくうなずく。
「いきましょう。こういうところのほうが、よい剣士のかたが見つかると思います」
いって、自分でひとつ、こくんとうなずいてみせ、騒然とした店の中に歩をふみだした。
笑いながらアリユスがあとにつづく。
あいたテーブルにおちつき、ものめずらしく思っているのを隠そうともせず、あけっぴろげに賭場に視線を走らせるシェラの横顔を、アリユスは好もしく笑いながらながめやる。
「なんにします?」
いかにもあばずれた外見をした給仕がやる気のない声をかけてきたのは、二人が店内に足をふみいれてからたっぷり五分以上もたってからのことだ。
ハッとしたように賭場から視線を戻したシェラを制してアリユスが、地元でももっともありふれた地酒の名と肴とを口にする。
かしこまりました、と気のない口調で二人に背をむける給仕のうしろ姿に、まあ、あのかたずいぶんお疲れになっているのねと、シェラはごくすなおな感想を口にした。アリユスは笑みをむけただけ。
そして二人はゆっくりと、品さだめをするように店内を見まわす。
シェラは危険な活気の充満した賭博場のあたりを中心に。
が、アリユスのほうは陣取った席のほぼ背面にあたる卓に腰をおろした二人づれに目をとめ、熱心に観察をはじめた。
老人と、おそらくは十代もなかばあたりの、剣士とおぼしき少年の二人づれ。
陽気な口調でなにやらむだ話をしきりに話しかける老人は、テーブルひとつをへだてた位置からはさだかにはわからないものの、奇妙な特徴をもっていた。
目である。
左右の色がちがうように見える。左の目はふつうの、黒か褐色の瞳だが──右目のほうはかなり色素がうすいようだ。よく見えないのだが、もしかするとほとんど白目の部分と色に変わりはないようにも思える。
でも──と、アリユスは考えた。一種独特の雰囲気を、あの老人は発散している。
小さく呪文を口にして、アリユスは幻視をはたらかせた。
老人の、枯れ枝のような四肢とひどい猫背の小柄な体躯が瞬間、かげろうのようにゆらめいた。
ゆらめきながらその像が、鏡にうつしたかのようにいくつもの幻にわかれて、まわりはじめる。
力のつよい幻術使か占い師を幻視で視ると、こういうふうに見える。
アリユスはひそかに感嘆のため息をついた。陽気に笑うめっかち禿頭のその老人は、自分などは足もとにもおよばぬほどの神秘的な力の持ち主であることはまちがいなかった。
が、アリユスの興味はすぐにもうひとりの、少年のほうに移動していた。
黒い髪を無造作にざん切りにしている。
整った冷たい印象の顔には、あまり表情らしきものはうかがえない。
老人の話を真剣にきく気もどうやらなさそうだ。杯をかたむけながらやたらと話しかける老人のことなど、無視しているにひとしい。
さらに──幻視をはたらかせるまでもなく、少年の四囲にぬき身の刃のような酷薄な雰囲気がただよっていることを、アリユスは看破していた。
腰に長剣。
静かに食事を口に運んではいるが、背後から見ても隙はなさそうだった。
かなりの使い手、とアリユスはふんだ。
年齢的にはともかく、条件にぴったりといってよさそうだ。
が──ひとつだけ気になることがあった。
少年の背中。
そこに──炎のような幻像が、ゆらめいているような気がするのだ。
アリユスは幻視をはたらかせようと目をほそめた。
が、その気をそぐように、
「アリユス、あの人などは、どう?」
そういってシェラが、賭場の一角を指さした。
集中しかけていた気が一瞬に散じ、アリユスはため息をころしつつシェラの指の先に視線をとばす。
むれた男たちの背中の向こう、中心にほど近い位置に、巨大で無骨な男が立っている。
「からだは大きいわね」
気のなさそうなアリユスの感想に、シェラは意外そうな顔。
「それだけじゃないわ。顔つきもいいし、腰に剣だってさげてるわ」
アリユスは、おちついた雰囲気のある美しい顔にあいまいな微笑をうかべ、肩をすくめてみせるだけ。
「じゃ、あっちの人は? ほら、むこう側でこぶしをにぎって、やたらとふりまわしてる人。なかなか目立った雰囲気があると思うのだけれど」
「シェラ」なだめる──というよりは、どこかたしなめる口調で、アリユスはいった。「まだよくわかってない? 雰囲気を視る、というのは見せかけにまどわされるということとはちがうのよ」
「……わたしは、見せかけにまどわされているの?」
がっかりしたようにシェラがいうのへ、
「そうとまではいわないけれど。でも、あなたの選んだ二人はどちらも、それほどでもないわ。並以上ではあるけれどね」
「並以上ではだめ?」
目をまるくしていうのへ、アリユスは無言でじっと見かえすだけだ。
すねたようにシェラはいう。
「じゃ、お師匠さまはどんなひとを選んだのですか?」
アリユスは、神秘的な美貌になんの表情もうかべないまま背後を指さす。
シェラは目をむき、声をひそめた。
「おじいちゃんよ。剣士には見えないわ」
「もうひとりのほうよ」
笑いながらアリユスはいう。
シェラはますます目をまるくして、信じられないとでもいいたげに首を左右にふった。
「だって、どう見ても十五、六にしか見えないわ。──子どもです」
そんないいように、アリユスは声をたてて短く笑う。口にしたシェラ自身が、先日十五になったばかりの子どもなのだ。
「年齢は関係ないわ」
「あの子がそんなにすごい剣士?」
驚嘆を隠そうともせず、シェラは少年のうしろ姿をまじまじと見る。
アリユスは笑みを口もとにとどめたまま、首を左右にふった。
「かなりの使い手だと思うわ。でも──」
それだけじゃない、というセリフは、口にはしなかった。
「じゃ、声をかける?」
なおも信じられぬとでもいいたげに、それでもシェラがそう口にしたとき──
「やあ、おふたりさん。女づれでこんなところに、ぶっそうじゃないか」
笑いをふくんだ声が、二人のうしろからかけられた。
視線をむけると、すずしげな風貌をした優男が口もとに微笑をたたえてたたずんでいる。
背後には、さっきシェラが最初にえらんだ巨漢がいた。こちらも微笑をうかべてはいるが、さすがにすずしげとはいえない。どちらかというと、類人猿のにやにや笑いといった感じだ。
シェラはどう反応していいのかわからず、きょとんとした視線を二人の男にむけた。アリユスはあからさまに眉根をよせる。
「旅の途上かい? 見たところ、いいとこのお嬢さまだけど。供の者はいるの?」
優男はなれなれしい口調で話しながら、許可を得ようともせず椅子をひいて二人の前に腰をおろした。
「いいえ」
しかたなく、といった感じで返答するアリユスにかぶせるように、
「わたしたち、剣士をさがしているのです」
無邪気にシェラ。
「ほう?」
さも興味をひかれたふうをよそおって、男がうなずく。巨漢のほうはうっそりと突っ立っているままだ。
「どこか、この近くのひとなのかな?」
親切そうに見せかけていたが、視線に獲物をさぐるような色が走りぬけたのをアリユスは見逃さなかった。
名家の娘であれば、人質にとって身代金でもせしめようと考えているのかもしれない。強引に関係を結んで家そのものにとりいろう、とたくらんでいることも考えられる。いずれにせよ、男の視線はさりげなくではあるけれども、アリユスの肉体を品定めていた。
「近くではありませんよ。もうずいぶん長いあいだ、旅をしてきましたから」
自慢げに胸をそらしてシェラがこたえる。その胸のかすかなふくらみに、あからさまに目を光らせたのは、巨漢のほうだ。どちらにせよ、歓迎すべからざる相手であることは明白だった。
にもかかわらずシェラがこれほどまでに無防備なのは、つい先まで少年と見まがうほどに未発達なままだったからだ。事実、特別な場合をのぞいてはシェラを少年ということでおしとおしてきたし、それでなんの問題もなかった。男どもの性的な関心はほとんどアリユスがひきうけてきた形だったのだ。
それがここのところ、シェラの性徴がいよいよ目立ちはじめるにつれて、事情がかわりはじめていた。ただし本人はまだ、そのことをおぼろげにしか自覚していないのである。
「それはよくないな」
優男は、効果をあからさまに意識した微笑みをうかべ、何度も首を左右にふった。
「いままで無事にすんできたとしたら、それは運以外のなにものでもないよ。剣士をさがすことにしたのは正しいね。よかったら、ぼくらではどうかな」
おっしゃるとおりですね、と好もしそうに男をながめやるシェラに、アリユスは心中もどかしさをおぼえつつ首を左右にふった。
「残念だけど、もう目星はつけてあるの。申し訳ないけれど、必要ないわ」
あたりさわりのない口調でいう。
が、男は執拗だった。
「そういわずに、ひとつぼくたちの腕のほどを見てくれないかな。自分でいうのもなんだけど、捨てたものでもないと思うよ。それとも、その目星をつけたという剣士は、それほどすごい使い手なの?」
うーん、とシェラが馬鹿正直に首をかしげて、制止するまもなく視線をとばした。
老人と少年の二人づれにむけて。
優男と巨漢とは顔を見あわせ、目をまるくする。
「あのおじいさんが?」冗談だろう、とでもいいたげな顔をして優男がきいた。「それとも、あの少年が?」
アリユスは眉をひそめてシェラの軽挙を非難したが、とりつくろいようもない、と見て肩をすくめた。
「少年のほう。たいした腕だと思うわ。わからない?」
敵意をわざとあからさまにして、挑発するようにいった。
案の定、優男はその目にこわい光を走らせた。
「へえ、そうなの」
つめたい一瞥をあらためて少年のうしろ姿に投げかける。
かぶせるように、
「そいつァ、どうかしてるぜ。あのガキのどこがそんなにすごいってんだ。あ?」
巨漢のほうが、はじめて口をひらいた。吠えるような声だ。きこえよがしに口にしたのか、あるいはもともと気づかいなどとは無縁の性格なのか、アリユスには判断がつかなかった。
いかにもまずい状況だ。が──好機でもあった。