螺旋の怪魔
悲鳴をあげて、トーラは地を蹴った。
はじかれたように跳躍して、逃亡に移ろうとしたトーラのからだを──だが化物ははるかにすばやい動作で、がばと抱きしめていた。
悪寒が背筋をかけぬけた。
ぺたりと冷たい、じゅくじゅくとした感触のものがトーラの頬につけられた。
化物の、頬だった。
「おれの中に入れ。ひとつになろう」
煮しめた泥のような声が、接触した頬を媒介にして頭蓋内部に共鳴した。
つきあげる恐怖と嫌悪にわめきあげた悲鳴でトーラはこたえた。
は、は、は、は、と化物は笑いだした。
おぞましい笑い声が闇の中にひろがった。
同時に、なにか得体のしれないものがぞわぞわと、化物と接触したトーラの頬にうごめいた。
のみこまれる。イーズのように。化物の肉の中に、のみこまれてしまう!
恐怖に脳内を赤く焼かれて、トーラは血をしぼりだすようにわめきつづけた。
永遠のようにはてしれない絶望を声にのせながら、必死に手足をばたばたさせた。
動作と絶叫とに夢中になりすぎて、気がつくまでに時間がかかった。
が、ふいに我にかえった。
化物の笑い声がとだえている。
頬にはりついた異様な感触も。
あえぎ、身をもがかせながらトーラは見ひらいた目で側方に視線をやった。
化物が、そのずんぐりとした血管だらけの赤黒い首をたてていた。
トーラを抱えこんだまま、警戒の視線を四囲に走らせている。
その視線を追って、トーラもおそるおそる周囲を見まわした。
たいまつの炎にゆらめく闇の中に、なにか無数の異物がひそんでいるのに、トーラも気がついた。
がさがさと草むらが鳴っている。
右も。左も。
あらゆる方角から、何かが近づいてきていた。
化物の喉が異様な音をたててふるえた。
野獣が、接近する脅威に対してたてるたぐいの威嚇音だ。
呼応するように、草むらの中を移動する何かの動きも速度を増した。
そしてふいに──先兵が姿をあらわした。
拍子ぬけする思いだった。
その全長はせいぜいが──直立した子犬ほどしかない。
研磨した剣のように鈍いかがやきをその表面は放ってはいたが、刃のように鋭利な部分はどこにもなかった。
金属でできた小動物という印象だ。
野草のぜんまいを野太くして、きつくまきつけたような外見をしている。鉄色の表面はやはり金属のようになめらかで硬そうだが、そこにはなんの危険もふくまれてはいないようにしか見えなかった。
異様さだけが際だっていた。
肉塊の化物もまた、その奇妙な闖入者をどうあつかっていいか決めかねたらしい。
惚けたような顔をしてひょいとトーラを投げだし、金属製の異様な生物にむき直る。
がさがさと下生えをならして、おなじ丈かっこうの異生物があちこちから姿をあらわした。
よく見ると、縦方向に渦をまいた奇妙な金属の身体の下部から、人のものとも蛙のものともつかぬ奇妙な形をした脚が生えでている。
腕の生えているべきあたりにも、やはり両生類めいた二肢がぶらさがっていた。
その奇妙に生白い脚を駆使して、生物は器用に二足歩行でひょこひょこと、肉塊の化物めがけて近づいてくる。
「おまえ……おまえ」
当惑したように化物が呼びかけたが、知性があるとも思えない機械じみた足どりで異生物は、ひょこひょこと肉塊めがけて近づいてくるだけだ。
化物はひょいと上体をかがめて、生物に視線をやった。
ふいにぴょん、と、もっとも間近にいた金属生物が化物の顔に飛びついた。
おう、と叫んで肉塊は反射的に生物をはたき落とした。
が、無数の生物はそんな化物の当惑や動作にはまったくかかわりなげに、つぎつぎに血管のうきでた醜悪な肉のかたまりにむけて群がりはじめた。
半分以上融合しはてたイーズの顔にも、生物はわらわらとたかっていった。
そこまで見てとり、トーラは我にかえった。
逃げるなら、いまのうちだった。
尻でいざり、樹幹から背をはなした。
化物の注意が小生物にむけられたままなのを確認しつつ、および腰でたちあがった。
足もとはさだまらないが、どうにか姿勢を維持できる。
斜面にそうようにして歩きはじめた。
「おまえ」
背後から泥のような声が呼びかけたとき、トーラはびくりと飛びあがった。
「逃げるな。おまえ」
言葉とともに、巨大な肉塊がのそりと起きあがる気配があった。
わあ、と叫びをあげてトーラは走りだした。
やみくもに駆けつづけた。
下生えや樹の幹や地面の応突に幾度も足をとられて転倒し、起きあがってはまた走る。
はるか背後に、どうやら化物のものらしい耳ざわりな絶叫を聞いたような気がした。
ふりかえらなかった。ただひたすら、走りつづける。
ふいに草むらがとぎれて砂利の上に出た。
いきおいのまま駆けつづけ、水の中にまで飛びこんでいた。
ばしばしと派手に水を蹴たてながらつんのめり、刺すような冷たい液体の中に倒れこむ。
川だった。
山中をつらぬいて下の町まで流れている川の、中流あたりにふみこんだらしい。
水を噴きながらトーラは身をもがき、腰をついてへたりこんだ。
刺すような冷気の痛みが下半身を流れ過ぎる。
それ以上動く気力もしぼりだせないまま、トーラはせわしく全身を上下させながら荒い息をついた。
どうやら化物の追撃はなさそうだ、と思いあたったのはそれからずいぶん経ってからのことだ。
なおも青白い光を冴えざえと投げかける月の面を眺めあげながらトーラは川原であえぎ、呼気がようようのことでおさまりはじめてからようやく、起きあがって水の面から逃れ出た。
かわいた丸石に腰をおろしてがっくりと肩をおとし、立てた両膝のあいだに顔をおとした。
そうして、どれだけの時が過ぎただろう。
ふと気づくと、眼前に異様なものがたたずんでいた。
喉の奥を鳴らしてトーラは腰をうかせ──それが、あの化物に無数にたかっていった異様な生物であると気づいた。
ほっと安堵しかけ──はたして警戒をといていいものかどうか思案することになった。
結果的にトーラを救うことになったとはいえ、いずれ尋常な生物であるとはどうにも思えない。
なにより──トーラは腰をうかせて立ちあがりかけた姿勢のままあたりを見まわして、思わず背筋をふるわせていた。
なにより、先刻とおなじくその異生物は無数に、トーラをとりかこんでいたのだ。
まるであの肉塊の化物に対して、そうしていたように。
どうすればいいのかわからず困惑と不安にさいなまれながらトーラは立ちつくした。
「生き延びたのはおまえさんひとりかい」
ふいに、背後からはっきりとした人語があびせかけられた。
びくりとしてトーラはふりかえり──小柄な、肉づきのいい人物が小生物にかこまれるように、ひっそりとたたずんでいるのに気がついた。
「あ──あんたは……」
安堵と不安とが同時にわきあがった。魔のひそむ山中でようやくのことでまともな人間に再会できた安堵と、魔のひそむ山中になぜまともな人間がいるのかという不審。
しかもよくよく見れば、どうやらその人物は老人といってもいいほどの歳格好をしている。
好々爺然とした表情で柔和に微笑んでいたが、それさえもが深山の妖魅である証左のように思えてくる。
「あんたは……あんたも、ヴァラヒダの魔物のひとりなのか……?」
トーラは問うた。
老人はにこにこと笑いながら首を左右にふった。
「わしは人間だよ。魔物ではない。人間だ」
力づけるように何度もうなずく。
トーラはながい息とともに、へたりと、再度岩に腰をおろした。
「たすかった……」
泣きたいような気分で、そうつぶやいた。
──まちがっていた。
「“ヴァオルの紅玉”を手にするために、ここにいるのだ」老人はつづけていった。「あんたがヴァラヒダの洞窟でなにを見たのか、話してもらおう。ひとつ残らず、な」
にこにこと笑う老人にあきれたような視線をあげ、トーラは力なく首を左右にふった。
「それは……じいさん、もうしわけないがそれはできんのだ。おれは──」
「ツビシの豪族である老タグリに、忠誠を誓っているのであろう?」知っているとでもいいたげに、いかにも気安い口調で老人はトーラの言葉をひきとった。「老タグリ以外に、ここで知り得たことどもを話すわけにはいかない──そういうわけであろう?」
にこにこと笑いながら問うた。
「あ……ああ。そのとおりだ。よく知っているな。あんたは何者だ? ヴァオルの紅玉……」
そこまで口にして、トーラはふいに小柄な、丸々と太ったその老人の正体に思いあたった。
「そのとおり」
丸顔の老人はなおも柔和に笑いながら何度も何度もうなずいた。
「知りたいことは無理にでもきき出す。見てのとおりわしは無力な老人だが──幸いなことにこれらの、忠実で有能な息子たちがいてくれる」
背筋を、恐怖がはしりぬけた。
逃走の途上で背後にきいた、化物のあげた絶叫を思い出した。
「そうとも、そうとも。わが息子たちは拷問にもたけているぞ。さ、話してもらおう。気がちがう前にすべてを口にしてしまったほうがあんたの身のためだと、あらかじめいっておく」
にこにこと笑いながら老人は、小さく手を前後にふった。
トーラをとりかこんだ異生物がいっせいに、ひょこひょこと前進を開始した。
こみあげてくるものをのみこんだ。
逃走経路をさがす。
見つけたのは、絶望だけだった。
絶叫を闇がのむ。