逃亡者
走る足が衝撃をとらえた。
上体がおよぎ、つんのめる。
痛撃が炎のように頬を、つづいて全身をうちのめした。
思わず手からはなれたたいまつの炎が、闇に火花を散らしながらころがる──と思いきや、ふいに、視界から消失した。
「あっ……!」
剣士トーラは思わず声をたてた。転倒した痛みもわすれて、はいずりながら身をのりだす。
はるか下方に紅蓮の花は舞い落ちていくところだった。
ぼ、と二度、三度、怒り狂うようにしてたいまつは、火の手をひろげては火花を散らし──やがて小さく、闇にのまれた。
「崖か……」
驚愕と安堵とを吐息にのせてつぶやき、剣士は湿った草むらの中に顔をうずめた。頬にあたる冷たい感触が、やけに心地いい。
たいまつだけをたよりに、闇中を走りつづけた。たしかに往路では、崖を迂回してべつのルートをえらんだ記憶がある。
足をとられて転倒したのは、僥倖以外のなにものでもなかったのだ。あと一メートル走りつづけたら、そのまま瞬時の宙への遊弋へとなだれこんでいたにちがいない。
荒い息を無理におさえ、耳をそば立てた。
四囲を虫の声音がおおう。
たちならぶ樹木のあいだから、青い月光が山稜にふりそそいでいた。ティグル・イリンのふたつめの宝玉。
荒れさわぐ鼓動を狂おしく意識しながら、剣士は上体をおこす。
走りぬけた痛覚にうめきながら、姿勢をただした。
これからどうするか。
月あかりだけをたよりに逃走を再開するには、あまりに危険な環境だ。
さいわい剣も残されている。ながい歳月を、ともに切りぬけてきた剣。
慎重に下り道をさがす。選択はそれしかない。いざとなれば、切りむすぶ。
心を決めると気が楽になった。
「よし」
低く、だが決然と口にして、立ちあがる。そのとき──
ふと気がついた。
やかましいほど四囲をうめつくしていた虫の鳴声が、みごとなまでにぴたりと停止していることに。
ぎくりと、目をむいた。
頭上を見あげる。恐怖に心臓を鷲掴まれつつ必死に逃走してきた、魔の山のくろぐろとした威容。
無数にたちならぶ樹林のあいだに、ちらちらと光──たいまつの炎らしき灯火が見えかくれた。移動している──近づいてくる!
反射的に腰の剣に手をかけ、身がまえた。
逃げるか、闘うか──
逡巡のすきをつくように、
──トーラァァァ……
──トーラァァァ……
呼び声がか細く、闇をついてとどけられた。
「イーズ?」
声の正体に思いあたって剣士はつぶやきに疑問をこめ、ついで叫んだ。
「イーズ! イーズ! 無事だったのか!」
叫びながら二、三歩ふみだし、敵中で大声でわめく愚に気づいたが、いまさらどうしようもないと思いさだめてさらに数度、闇にむけて呼ばわった。
「イーズ!」
──トーラァァァ……
たいまつの炎とともにこたえる声もまた、徐々に近づいていた。
剣士トーラは用心深くぬき身を手にし、同僚をむかえるために樹間をのぼりはじめた。
ふらふらとたよりなげに左右にゆれながら近づいてくる炎にてらされて、同僚のかなしげにゆがんだ顔が闇のなかに白くうかびあがる。
「イーズ!」
トーラは足をはやめた。
近づくにつれ、イーズの様子が徐々に見えはじめた。
よたよたとした足どりで、半身が大きく左手よりにかしいでいる。
目はうつろに見ひらかれ、半開きになった口端からはよだれがたれていた。
顔色や、むきだしになった腕が、やけに生白く見える。
にもかかわらず右肩から先が、黒い闇にのまれたままだ。
「イーズ! 右手を喰われたのか?」
トーラはおどろいて叫んだ。
まちがいだった。
──トーラァァァ……
血泡まじりの唾液を口端にはじけさせながら、イーズがよわよわしくうめきあげた。
──かつて、イーズであったものが。
力なく保持されたたいまつの炎が、闇にまぎれたイーズの右半身から上をようやくのことで、トーラの眼前にさらけだした。
異臭が、鼻をついたような気がした。
血の臭い。
そして──腐臭。
──トーラァァァ……
よわよわしくもれるイーズのうめき声とはべつに、荒い呼吸音がせわしく闇をふるわせていた。
イーズの消えた右半身の上で。
吐息とともに炎のような闇色の腐臭が、噴きあがった。
「おまえ」
熱と臭気をまきちらす息とともに、それはいった。
「おまえ」
最初、それは肉のかたまりに見えた。それ以外のなにものにも見えなかった。
理性が、それ以上の認識を拒否していたのだ。
イーズ、と友の名を口にしようとした。
「あ……う……」
痴呆のように意味をなさぬうめきが、口をついて出ただけだった。
「おまえ」
と、さらにそれはいう。
肉のかたまりが。
トーラよりも全体にひとまわりほども量感のある肉のかたまりだった。
赤黒い、血管を思わす太い筋が、その表面を縦横にはしりぬけていた。
四肢をそなえている。まるで子どもの描いた落書きのようにバランスを欠いた、ぶよぶよとした異様な四肢だ。
頭もあった。
成人男性の倍ほどの高さに。
その四肢も胴も頭をも、こぶをよせあつめたような醜悪なでこぼこがおおいつくしている。
そのこぶのひとつひとつに、脈打ちうごめく血管様の筋が走っているのだ。
「あ……イーズ……」
トーラの喉がようやくのことで、同僚の名を口にした。
「食われ……」
あとは、言葉にならなかった。
つりさげられるようにしてかたむいたイーズの半身が、ひくひくと痙攣した。
──トーラァァァ……
かなしげな表情をした顔が、トーラの名を呼んだ。
双の目は、トーラを見てはいなかった。虚空をうつろに眺めやるだけ。
食われたわけではない。
イーズの右方から先は、その下半身にいたるまですべて──不気味な肉のかたまりの腹部に、融合していたのだった。
「おまえ」
と──その肉のかたまりが口にした。
トーラは頬の端をぴくぴくとふるわせながら、視線をあげた。
肉のかたまりの頭部にあたる部分には、たしかに顔があった。
顔のようなものが。
肉に刃で切れ目をいれたような形の、細い目がふたつ。爬虫類をおもわせる凝視をトーラになげおろしている。
鼻がひとつ。口がひとつ。耳らしき突起も、頭部の左右についていた。
そのひとつひとつが──微妙に、ずれていた。
そう。
まるで子どもの落書きのように。
「おまえ」と、その落書きがいった。「おれを切れ」
腐った沼の底からわきあがる、有毒物をふくんだ気泡が、はじけるようなひびきをもった声音だった。
「は……はあ……?」
間のぬけた返答をトーラはかえした。
「おれを切れ」
背筋をさかなでるような声で、怪物は不可解なセリフをくりかえした。
あ……ああ、と、さらに痴呆じみた返事をトーラは口にし──ようよう気がついたように剣の柄に手をあてた。
あてたとたんに、恐怖がこみあげてきた。
麻痺していた感覚が一気にほとばしり、絶叫にのって闇を切り裂いた。
わめきながらトーラは、ぬき打った。
銀の軌跡が闇わだを裂き、化物の肉にずばりとめりこんだ。
青黒い粘液のような血液がしぶいた。
トーラのわめき声におおいかぶさるように、耳ざわりな悲鳴があがった。
──ふたつ。
戯画のごとき化物の口と──そしてその腹部から生え出た同僚の口とから。
血の色が噴きあがってきそうな悲鳴を吐きあげながら、イーズの半身がはげしく上下にゆれた。
──トーラァァァ……
悲鳴のあいまにせいせいと喉をならし、そしてよわよわしく名前を呼んだ。
そしてもうひとつ。
「痛い」
化物が、いった。
「痛い」
肉の裂け目のような口の端から青黒い色の粘液がとろとろと流れおちた。
その口端が、ゆがんだ。
頬のほうに。
笑っているようだった。
笑っているのだ。
「痛い」
肉を裂かれ、その苦痛に絶叫をあげた直後に、その化物は笑っているのだ。
口もとから、血のよだれをたらしながら。
「ひ」
喉をならして、トーラは剣をひいた。
粘液のはじける音、裂ける肉のまとわる感触がトーラの感覚を逆なでた。
ぎゃ、あ、あ、とイーズの首が叫びながら上下左右にのたうちまわり、同時に化物の顔にうかんだ笑みが狂おしくひきゆがんだ。
「痛い」
天上の楽音を耳にしたような、うっとりとした口調で化物は口にした。
口にしながら裂けるように笑い──こぶだらけの醜悪な、戯画のような手をぐいとあげた。
むくむくとした粘土のような指が──ぱっくりと裂けた傷口にもぐりこんだ。
トーラは大口をあけたまま、目をむいた。
もぐりこんだ両の手が、傷口をひろげるようにして左右にひらかれた。
イーズの絶叫のトーンがあがった。
「痛い痛い痛い痛い」
同時に化物の口が手人形のようにぱくぱくと動いた。
ぼとぼとと青黒い血が草むらの上に落下する。
トーラは剣を手にしたまま二歩、三歩とあとずさった。
樹木が背にあたって、後退をはばんだ。
「痛い」
なおも悲鳴をあげるイーズの頭を、血まみれの手でいとおしむようになでつけながら化物がいった。
いって、血走った両眼を、つくりものの眼球のようにぐりんと移動させて、やぶにらみにトーラのことをにらみおろした。
「もっと切れ」
血のよだれをしたたらせながら、そういった。
「痛い。もっと切れ。切るのだ」
ひくひくと口端を痙攣させながら化物はくりかえし、ぞろりとした足どりで一歩、ふみだした。
あ、あ、あ、と喉の奥をふるわせながらトーラは樹幹に背をぐいぐいとおしつけてすさり、力なく首を左右にふった。
切れ、もっと切るのだ、と、うわごとのように化物はさらに一歩、二歩とふみだした。
ひい、と叫んでトーラは剣をほうりだし、頭を抱えてうずくまった。
「もう終わりか」
地獄の釜が煮えるような化物の声が、不満げにそうつぶやいた。
抱えこんだ腕のすきまからトーラは、はるか頭上の化物の姿をおそるおそる眺めあげた。
燃えさかるたいまつの炎にゆらゆらとゆれながら、裂けたような化物の両眼がかなしげにトーラを見おろしていた。
──トーラァァァ……
──トーラァァァ……
イーズの首が、せいせいと苦しげに喉をならしながらうつろにうめいている。
それが、ずずずと、化物の腹の内部に──ゆっくりと、のみこまれはじめた。
「もう終わりか」
化物がくりかえした。
「なら、おまえもおれの中に入れ」
戦慄すべき言葉を口にした。