▼圧縮版ダウンロード

London United Kingdom
4years ago , AD 1996
4年前 1996年 イングランド 首都ロンドン

 拳が腹に捻り込まれた。内蔵が器官を逆流して口から飛び出るような衝撃。胃液と鮮血を吐きながら、俺は地に崩れ落ちていく。だが奴はそれさえ許さずに、自由落下を続ける俺の顎を掬い上げる様に爪先で蹴り上げた。
 ――もう声も出ない。俺はそのままの恰好のまま、後頭部から大の字に倒れ込む。生涯初めてとなる敗北。もう半分意識は吹っ飛んでいた。ただ、自分が負けたということ。そして、敗者としてこの仕打ちを延々と受けなれけばならないこと。それだけは薄れゆく意識の中で、絶望と共にハッキリと悟っていた。
 既に抗う気力も、手段も、理由もない。完全に抵抗することを止めた俺の体に、ヤツは薄笑いを浮かべながら蹴りを叩き込む。背中、鳩尾、頭部。時に踏みつけ、時に撃ち抜く様に蹴り上げる。その青い瞳は弱者たる俺を嘲り、吐き掛けれれる唾は俺に刻みつける敗者としての烙印だった。
 頭上から、罵声が浴びせかけられる。異国の言葉ではあるが、たとえ意味を正確に解することはできなくても、その意図することは明確に伝わってくる。
「立てよ」「もう終わりか」「雑魚野郎」「この日本人が」
 プライドの高い奴らが、黄色人種であり敗北者である俺に掛けてくる言葉など、そうありはしない。
 不意に、どこからか微かな嗚咽が聞こえてきた。何故だろう、それに共鳴するかのように頬が熱い。奴らの罵声が遠のき、耳元で矢鱈にその泣き声が響き渡る。誰だ。誰が泣いてるんだ……?
 サンドバックのように激しく殴打され、その度にくぐもった呻き声を洩らしながら、俺は嗚咽の主を探す。誰が、何故泣いているのかと。そして、血に混じって地面にポタポタと絶え間なく落ちていく涙の雫を見つけて、俺は泣いているのが自分であることに気付いた。
 奴もそれに気付いたらしい。腹を抱えて笑い出す。喧嘩に負けて、散々に殴られて、泥と血と吐瀉物に塗れのた打ち回って。挙句、惨めに涙を流す生意気な日本人が、奴にとっては滑稽で堪らないのだろう。微動だにできない俺の頬を厚い靴底で踏みにじりながら、ゲラゲラと笑っては何かを叫んでいた。

……何故、こんなことになったのだろう。切っ掛けは、他愛もないものだった。強請りのカモになりそうな日本人の俺と、数人の地元の少年グループ。抵抗されると思っていなかったのか、拳で対抗をはじめた俺に奴らは過剰に反応した。
 日本人の中学生と同年代の外国人では体格が違う。それは俺にとって致命的なハンデだった。しかも相手は四人。最初は何とか善戦していたものの、囲まれてしまうと、もうどうにもならなかった。
 特にリーダー格の男の強さは半端じゃなかった。明らかに喧嘩なれしている上に、一八〇cmに及ぼうかという長身。一〇cm近い身長と、同比率で劣るウェイト。なにより、ヤツは人を殴ることに熟練していた。たとえ一対一でも敵わなかったに違いない。そして俺は当然の帰結として、地面に這いつくばることになった。
 泣きながら、必死に頭を抱え込む。堪えようとも、嗚咽は止まらなかった。敗北の屈辱ゆえの涙じゃない。殴打される痛みの涙じゃない。ただ、それは恐怖の涙だった。
 抗う術もなく、助けもなく、抵抗することも出来ない俺は、ただ路地裏に投げ捨てられた空き缶のように、ヤツらが飽きるまで殴り、蹴られるしかない。
 惨めだった……。
 死の恐怖が脳裏をちらつく。これから自分はどうなってしまうのか。このまま、蹴られつづけて死んでしまうのだろうか。
 横腹に叩き込まれた爪先が、俺の肋骨を打ち砕く。音はなかったが、骨の折れるゴキリという感覚が体内で感じられた。獣の咆哮のような悲鳴を上げて、俺は吐血する。血と泥と吐瀉物に塗れて、俺は芋虫のように無様に地をのたうち回る。
 やめろ、助けてくれ……
 最初の強気は消えうせ、俺は卑屈に無言の叫びを上げ続けていた。
 もう逆らわない。だから、もう……
 だが、そんな心の悲鳴がヤツらに届くはずもなく、殴打は終わることなく続けられる。
 俺はただ、泣きながらその嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。



Hendon Way London NW4 3NE U.K.
4years ago...July 1996
4年前――1996年7月
ユナイテッド・キングダム 王都ロンドン

 閉じられていた目蓋をゆっくりと開く。
 じんわりと滲むようにクリアになっていく視界。
 肉眼が、採取出来得る全ての情報量を正常に入力するまでに、幾許かの時間を要した。だが、取り合えず機能に異常や障害はないらしい。視覚と聴覚に引き続いて意識が覚醒し、思考が手元に戻ってくる。

「ここは……」
 口に出した瞬間、老人のように皺枯れた我が声音と、焼付くような胸の痛みに驚愕する。
 変だ。このガラガラに乾いた声。それに、息をする度に胸部に走るこの激痛は何だ。横たわっているらしい自分の体を起こそうとしても、ピクリとも動いてくれない。まるで、知らない間に死体になって、何かの間違いで意識だけ骸に取り残されてしまったような感覚。
 おかしい。一体、俺に何が起こった――?
 だが、その疑問も僅かに首を左左することで、即座に氷解した。四方を取り囲む白い壁と、脈打つように震える心電図。そして、周囲に漂うこの独特の雰囲気と香り。やんちゃが過ぎる俺にとって、比較的慣れ親しんだ空間。
 ――そこは、外科病棟の個室だった。

「おお、ドラ息子。目が醒めたか」
 突如、天井が消え、代わりに見知った男の暑苦しい相貌が視界に飛び込んでくる。
 目覚め一番、よりにもよってオッサンの顔か。こういう場合、普通は白衣の天使がニッコリと微笑みかけてくれるというのが定番なのではないのか。あんまりだ。なんと言うか――汚ねえ。美しくない。
「汚ねえって言うな! 汚ねえって」
 男は、ちょっと傷付いたらしい。ブワっと涙をその両の眼から溢れさせ、号泣しつつ抗議する。むさ苦しい挙句、喧しいことこの上ない。拷問か、これは。
「うるさいな、親父……」
 年齢の予測し難い、不思議な相貌のこの男。名を相沢芳樹【よしき】。不本意ながらも、俺の実の父親である。――まったくもって、実に不本意だが。

「病院なんだろ、ここ。ちょっとは静かにするとか言う思考、働かないのか……よ」
 喋ると、胸に鋭い痛みが走る。オマケに、呼吸がなんとも困難だ。恐らく、アバラ骨にヒビが入っているか、折れてでもいるのだろう。
「そうよ、あなた。ここは私に任せてください」
 ふと視界の外から女性の声が聞こえてきて、次の瞬間、親父は首根っこを引っ掴まれて放り投げられた。ボロ雑巾のように扱われた親父は、部屋の隅の方で「し、しどい……」とか言いながら、シクシク泣いているようだ。気配で分かる。
 そして、その親父の代わりに、柔和な雰囲気の漂う若い女性の微笑が俺の視界を支配した。
 ――ああ、やはり目覚めの瞬間は少なくともこうあるべきだ。暑苦しい親父より、何倍も気分が良い。

「気分はどう、祐一? 心配したのよ」
 そう言うと、彼女は俺の手を優しく握り締めた。そして、開いたもう一方の手で、俺の髪を優しく梳いてくれる。なんだか、不思議と心地好い。懐かしい感じがした。きっと今の俺は、喉を擽られて目を細めた猫みたいな表情をしているに違いない。
「――気分は上々だよ、母さん」
 どう考えても、その外見が母親に該当する年齢層に属していない女性に、俺は応える。それでもこの人が俺の実の母親であることに違いはない。勿論、血だって繋がっている。
「体が動かないのと、呼吸するたびに胸が軋むのは災難だけど。それより、状況を教えてくれないかな。ここが病院で俺が怪我をしてるらしいことは認識できたんだけど、それ以外のことはサッパリ分からない」

「……あなたは、大怪我をして病院に運び込まれたの。地元の少年グループに集団で乱暴されたのよ。 運び込まれた時、既に意識がなかったわ。昏睡状態のまま、まる一日ずっと眠りつづけていたの」
「ああ――」
 それで、全てを思い出す。
 そうだ。俺はこの辺りのアウトローに絡まれて、下手に抵抗したからコテンパンに伸されたんだった。
要するに、喧嘩に負けたってワケだ。何故だか、遠い昔の出来事のように思える。殴打を受けている時は、あんなにも恐怖していたのに。

「ゴメン、母さん。迷惑かけて。ずっと着いていてくれたんだろ。仕事、休ませちゃったな」
「オイ、ドラ息子! 夏夜子と俺とでは、随分と態度が違うじゃないか!?」
 ポイ捨てにされて、部屋の隅でサメザメと泣いていたはずの親父が復活して、またギャースカと騒ぎ出す。
「まったく、お前もしかしてマザコンか? 言っとくが、夏夜子は俺のだからな。やらんぞ」
「母さん、頭が痛いんだ。そこの煩いの、黙らせてくれないか」
「ええ。少し待っていて」
 母さんはニッコリ微笑むと、一端俺の視界から出ていった。そしてその一瞬後、俺の視覚的認識の外側で、ズカゴキドカバキという破滅音と「あんぎゃー」とかいう、世にも汚い断末魔が聞こえてきた。
「始末してきたわ。これでしばらくは復活できないと思うから」
 そう言って、再び母さんが戻ってくる。それと同時に、部屋の隅で「シクシク」とまた誰かが泣きはじめた。なんとも憐れを誘う泣き声だ。フッ。何だか、胸がスッとするぜ。

「それで、母さん。俺の体はどんな具合?」
「あらあら。自分の身体のことを、私に訊くの?」
 母さんはにこにこ可笑しそうに笑う。だが、直ぐに真顔に戻った。
「あまり良くないわ。全身八ヵ所の骨折。打撲は数えきれず。特に、肋骨と左腕、右手の傷が酷いそうよ。しばらく入院らしいわ。全治四ヶ月の重傷よ」
「そうか……」
 道理で、躰がピクリとも動いてくれないわけだ。八ヵ所も骨折しているなら、それも当然だよな――。
 だがフィジカルな痛みより、親父や母さんに掛けてしまった心労の方が俺を苛んでいた。そして何より、恐怖に支配されて何も出来なかった自己への激しい嫌悪。

 あの時の俺は、抵抗を放棄し、ただ小動物のように躰を丸めて、嵐が過ぎ去るのを待っていた。
 いや、問題は喧嘩に負けたことじゃない。物理的な抵抗ができなかったことじゃない。相手は複数だったし、体格の良い年上の男たちだ。勝てなくてある意味当然だ。負けたのは勿論悔しいが、だが恥じることじゃない。
 問題は、物理的な抵抗だけでなく、精神的な抵抗すら俺は諦めてしまったと言うことだ。殴られ、蹴られる痛みと恐怖に屈してしまったという事実だ。ただ怖くて、ガタガタと震えているだけの臆病者。自分から変えようとせず、ただ環境に流されるだけの卑怯者。普段の俺が一番軽蔑してきた種の人間。最も嫌いなタイプの男。俺はそれになってしまった。
 痛みに怯えて、暴力に恐怖して、結局俺は奴らに屈してしまった。自分を保てなかった。だから誰が許しても、相沢祐一は己を嫌悪する……。

「母さん、少し一人にしてくれないか。バカ親父のせいで何だか疲れた。ちょっと眠りたい」
「――ええ。そうすると良いわ」
 母さんは、じっと俺の瞳を覗き込むと、やがて微笑みながら言った。
 きっと、見透かされたんだろうな。母さんは、いつも俺の心の中なんかお見通しなんだ。目が醒めたんなら、本当は医師の診断を受けた方が良い。だけど、母さんは俺の甘えを見逃してくれた。
「しくしく……」
「あらあら、あなた。いつまでもこんなところに寝てないで、行きますよ」
 そんな声が視界の外から聞こえ、やがてズルズルと重たいものを引き摺るような音と共に、母さんの静かな足音が廊下の向こうに消えて行った。

 室内に静寂が戻る。
 俺は何とか動く左手を、砕けるほど強く握り締め――
 そして目を閉じた。

「畜生……」



London Iryo Center Hendon Way London NW4 3NE U.K.
July 1996 18:55 P.M.
同日午後06時55分 ロンドン医療センター

「――よう、ドラ息子。元気か?」
 病室にはあるまじき陽気さを以って、その夜、親父がやって来た。全身を骨折している上、ギプスやら包帯やらでガチガチに躰を固定されている俺は、首を動かすことすら難しい。傍らまで近付き、上から顔を覗き込んで貰わないと、相手の顔も確認できない。だが、このバカ親父だけは声を聞いただけで、そいつだと断定できる。
「何の用だよ、親父。俺は今、頗(すこぶ)る忙しいんだ」
「ほほう、そのザマでか?」
 ベッドの脇に近寄ってきた親父は、意地悪く言った。面を拝まないで済むのは不幸中の幸いだが、生憎と見えなくても邪悪に微笑んでいるであろうことが如実に分かってしまう。
「今、何時だ?」
 首も動かせない=ベッドサイドの時計を見遣ることもできない俺は、渋々だが親父に尋ねた。そうしなければ、現時刻さえ確認できないのだ。全く、全身不髄ってのは一時的な話しにせよ、とんでもなく不自由だ。いずれ全快して、再び動けるようになるという希望がなければ、ちょっとやっていけないかもしれない。
「今か」親父が腕時計に目をやったのが、気配で分かる。「もう直ぐ七時だな。勿論一九時の方だぞ」
「良いのか、こんなところで油売ってて。今夜も行くんだろ?」
「ん、なにが」親父はスッとぼけて言う。
 俺と親父は、容姿はともかく性格と雰囲気はソックリらしい。だとしたら、俺って人間は相手に回すと、こんなに疲れるような存在なのだろうか。考えただけで、背筋が寒くなる。悪夢だ。
「何がって、あんたバスカー[*1]だろ? ご自慢のチェロで、世界を変えるんじゃなかったのか」
「ああ。まあな」
「だったら、こんなところに居ないで早く行けよ。まずは、夜のレスター・スクエアで伝説を作る。それが、アンタの野望なんだろう?俺なんかに構うなよ」
「まあ、そう結論を急ぐな」
 そう言って、親父は腕を組み俺を見下ろす。その恰好が、視界の隅を掠めるようにして見えた。
「俺はな、祐一。ガキの頃、山田ケンイチの <セロ好きのゴルジュ> って話を知った。確か、紙芝居だったと思う。俺がガキの頃はな、紙芝居屋のオヤジってのがいて、自転車に紙芝居セットを載せて町までやってくる。そういう商売があったんだ」
 なんでもその紙芝居屋というのは駄菓子も販売しており、子供たちは彼から水あめを買ってそれを舐めながら物語に聞き入ったのだという。今では死滅したに近しい文化とその光景だった。
 親父は当時のことを思い起こしているのか、妙に遠い目をして虚空を見ている。
「でな。その <セロ好きのゴルジュ> の物語を知ってだな、俺は感動に打ち震えたわけだ。チェロで――サウンドで動物たちを癒すとはなんて凄いヤツだ。やるじゃねえかゴルジュ、ってな」
「それは <セロ弾きのゴーシュ> [*2]だ、アホ親父。手前の人生のきっかけになったモノの名前くらい、しっかり覚えろ。あと、作者に至っては覚えるのも面倒で、いま適当に捏造しただろう。宮沢賢治も知らねえのか、あんたは。だいたいあの話、サウンドで癒したとかいうもんじゃなかったぞ。チェロの振動が効いただけなんだけだ。ケダモノたちに、音楽性そのものが通じたわけじゃなかったはずだぞ」
「そんな些細な事はどうでも良かったんだよ。どうせガキのころの話だしな」
 そう言って、親父は苦笑する。
「とにかくだ、俺は思ったわけよ。こいつを超えるチェロ弾きになってみたい。ゴルジュがチェロで動物を癒し、語り合ったなら――」
「ゴーシュだ」
 拳を握り締めて熱弁しだした親父に、俺はささやかな突っ込みを入れる。
「まあ、ゴルジュでもゴーシュでもいいさ。とにかく、ヤツが動物の病を癒したなら、俺は死人さえ甦らせちまうような、この世で一番偉大なサウンドを作り出してやる。一度聞いたが最後、一生震えが止まらなくなるような衝撃をこの手で生み出してやる。……そう思ったわけだな。で、それが四歳児の俺の夢になった。そして、その日から俺は毎日チェロを弾いては歌いまくってきた」
「知ってるよ、そんなこと」
 それは親父本人の口から、そして母さんの口から、両親を知る様々な人から幾度となく聞かされてきた話だった。親父の音楽に掛ける異様なまでの情熱は、親戚連中でも有名な事実なのだ。中には、音楽みたいなチャラチャラしたものに一生を掛けるなんて狂人でしかない、そんな風にあからさまに嘲る奴らもいる。
「でもな、今、こうも考えている。自分のドラ息子の心一つ動かせない奴が、世界を動かすほどのサウンドを、果たして生み出せるもんかってな?」
 口元にこそ微笑が浮かんでいたが、そう言った親父の目は鋭かった。目を逸らせないほど、真剣なものだった。
「感動ってのは、人の心を動かすってことだ。一生忘れられないような衝撃で、そいつを変えちまうような力だ。俺のチェロがもし世界に通用するなら、今ここでお前を動かせないはずがない。変えられないわけがない」
「……何が言いたいんだよ」俺は、対抗するように親父を睨み上げた。
「お前はアホだが、俺の息子だ。迷惑極まりないが、一応、とりあえず家族だ。だから世界を動かす前に、俺はまず、お前を動かさなきゃいけない」
 そして、心の奥底を覗くように俺の目を睨みつける。
「後悔して、自己を嫌悪して。自分に自信も持てずにウダウダやってる臆病者のバカ息子を動かして、恰好良いこの俺の息子に相応しいような、ナイスな親孝行男に変えなくちゃならない。莫迦ドラ息子ひとり動かせないような男に、世界に名乗りを挙げる資格なんかないぜ。違うか?」
 俺は――何も言えなかった。
 正しかったからだ。その言葉は、俺が思い悩んでいたことを言い抜いていたからだ。親父は、何故だか知っていた。今、俺がどんな状態にあるか、知っていた。今一番問題としなくちゃならない、奥底の部分を。俺に今、一番足りないものを。バカ親父は、バカ親父の癖に、何故だか知っていた。
「お前が何故、今の状態に陥ったのかは知らん。知ろうとも思わん。肝心なのは、相沢祐一という男が死ぬほどカッコ悪いって事実だ。鏡を覗き込んでみな。自信のカケラも見当たらない、冴えない自分が見えるぜ? 大方その冴えない馬鹿は、自分で自分を臆病だの卑怯者だのと蔑まなけりゃいけないような、無様な屈し方をしちまったんだろうさ」
「チッ、うっせーな! それくらいアンタにイチイチ指摘されなくたって分かってるよ」
 今の俺には、図星を指されて、カッと頭に血を上らせて、ただ親父に怒鳴り返すことくらいしか出来なかった。そして、そのことを知りながら己を律することが出来ない自分を、また嫌悪する。どうしようもない悪循環。泥沼だ。
「……フン。馬鹿は馬鹿なりに、一応考えたみたいだな」
 親父は憎たらしく唇の端を吊り上げると、鼻で笑った。
「信念がないから、そういうことになる。お前の意志は弱いんだよ。なんでか? 簡単だ。『これだけは譲れねえ』ってもんを、お前は持っていないからだ。何かあったら、直ぐ尻尾巻いて逃げる。それがクセになっちまってるから、お前はそれをこれまでの人生の中で見つけることができなかった。チャンスは幾らでもあったにも関わらず、だ」

 ――ゆーいち

 シッポ巻いて逃げる。その親父の言葉で、何故か脳裏に聞き覚えのある少女の声が甦った。
 懐かしいような、悲しいような――俺が置き去りにしてきた、誰かの声音。だが俺は、その朧げな記憶とヴィジョンを意図的に脳裏から振り払った。
「じゃあ、アンタにはあるのかよ。その信念とやらがよ」
 他人の手によって自分の深層心理や欺瞞を解体されていくのは、焦りと共に憤りを生むものだ。今の俺は、まさにその状況に置かれていた。親父を睨みつけ、見苦しく己を取り繕おうとする。
「ないと思うか?」親父は、また不敵に笑って見せた。
「俺にないと思うか? 祐一、良く考えてみろ。脅されて、蔑まれて、俺が何かに屈する姿を想像できるか? 恐怖と不安で、俺がチェロの旋律を自ら乱したことがあったか? 俺が過去一度でも、他人からの罵倒と嘲笑からシッポ巻いて逃げ出したことがあるか?」
 ――そうだ。
 俺は知っていた。親父は絶対に諦めない。何ものにも屈さない。
 生まれた時……いや、俺が母さんの胎内にいた時から、親父はチェロを弾いていた。何故だか生まれる前に聞いたその懐かしい旋律を、俺は覚えているような気さえする。記憶にある親父は、いつも楽器を弾き、そして歌っていた。チェロだけじゃない。ギターもピアノも、ハーモニカも。いつもどんな時も、俺の記憶にある両親の姿は常にサウンドと共にあった。
「俺のこの旋律で、世界を変えたい」
 親父はいつも、子供の俺よりガキみたいなことを呟いていた。口癖のように。いつも、自分の夢を語っていた。
「俺のサウンドはよ、銀河の果てから宇宙人だって呼び寄せるぜ」
 誰に理解されることがなくても。親類に白い目で見られても、狂人だと、変人だと陰口を叩かれても。 親父は、自分が正しいと思ったことを絶対に途中で諦めるような事はしなかった。いつも絶対的な自信に満ちた、ふてぶてしい笑みを浮かべて、チェロを奏でて――そして母さんと一緒に、楽しそうに歌っていた。
 親父は、いつも俺を罠に嵌めたり、陥れたりする性根の歪みきった腐れ外道だが、だけど、これだけは認めないわけにはいかない。
 こいつには「譲れないもの」ってのが、確かに、ある。
 手前の好きなことだけやって、他人の目とか世間体なんざ気にも掛けず、おかけで周囲の人間から白い目で見られてるバカだけど。生活能力皆無で、母さんに甘えてばっかりいる、ぐーたら親父だけど。
 だけど、その揺るぎ無い意志と、自分の夢にかける情熱というならば……残念だが。不本意だが。その限りない諦めの悪さなら、親父は誰にも負けようが無い。
 親父はいつも、口に出した事は実行してきた。誰もが不可能だと言い切ることを、一人だけ諦め悪く続けてきた。そんな腐れ親父を見てきたから、俺は何となく期待せざるを得ない。この男は、母さんと一緒に、やがて伝説を作るだろう。いつか、語っていた夢を我が手に掴むだろう。そして遂には、地上最強のチェリストとして、世界の頂点に立つ日が来るだろう――と。悔しいが、俺にさえそう思わせるだけの不思議な力と強さを、こいつは持っている。本当に頭に来るけど。それだけは、認めないわけにはいかないんだ……

「フム。その面(ツラ)を見るに、俺の言いたい事は大体伝わったみたいだな」
 親父は、俺の顔を上から覗き込むとニヤリと笑う。
「幸い、お前の躰は何ヶ月かは使い物にならん。日本にも帰れないからな。ま、病院と監獄の中は考える場所としては最適だ。これを好機と思って、色々と考えてみるといい。じゃないと、正直、今のお前――カッコ悪すぎるぜ?」
 親父はこっちが身動きできないのをいいことに、ポムポムと憎らしく俺の頭を叩くと、踵を返して病室の出口へと向かう。そして、ドアを空けたところで再び言った。
「身動きできるようになったら、俺のチェロを聴きに来い。骨折の一つや二つ程度、簡単に癒えちまうぜ。少なくとも、糊でくっつけるよりかは確実さ。じゃあな、ドラ息子。レスターで待ってるぜ」
 ドアが閉まる。
 コツコツと硬い足音が、遠ざかっていく。と、部屋の外で、女性の金切り声が聞こえてきた。
「ああっ、見つけましたよ!」
「げっ、さっきの小煩い看護婦」親父の慌てふためいた声。
「小うるさいとはなんですか。うるさいのは、あなたの方です! いきなり小児病棟に乗り込んで来て、一体どういう了見ですか。あなたが突然チェロを弾いて歌い出したせいで、子供たちが騒ぎ出して鎮めるのが大変だったんですよ」
 あのバカ親父……またやらかしたらしい。本当にサウンドで病もケガも癒せると思ってるとは。本人は「チャレンジだぜ!」とか言ってるが、あれは単なる馬鹿に違いない。
「いい話じゃねえか。子供は楽しそうに踊りまわってたんだし、病室に篭もり切って葬式みたいな顔してるよりかは随分と健康的だろ。むしろ、俺はえらい。誉められることをした」
「何を子供のようなヘリクツを。とにかく、一緒に来てください」
「おう、いつでも弾いてやるぜ。でも、いまからは無理だ。レスター・スクエアで一曲やって来てからだな」
 再び遠ざかっていく親父の足音。今度は駆け足だ。
「このカラオケおやじ! 待ちなさい」
 それを追う様に、看護婦のものと思われる足音も遠ざかっていった。
 フッと、知ぬ内に笑みが零れる。親父はどこまで行っても親父だ。きっと、殺したって治らないだろうな。あのバカだけは。
 じゃあ……じゃあ、俺はどうだ?
 俺は何時も俺でいられるか?
 どこまで行っても、腐っても、死んでも、俺は俺のままでいられるか? 俺は、あんな風に『相沢祐一』を保てるんだろうか?
 親父を見て、そう考える。
「相沢、祐一……か」
 瞳を閉じて、唇でその名を唱えてみる。
 なんだか、それが酷く頼りないものに思えた。



Leicester Sq. London WC U.K.
GMT 19 September 1996 23:48 P.M.
1996年 9月 午後11時48分
王都ロンドン 中央西部 レスター・スクエア

 チェロの低い音色が、星の見えないロンドンの夜空に微かな余韻を残して消えていく。だが、その旋律が齎した熱気だけは、決して消えることはなかった。弦の透明な振動がやがて完全に停止したとしても、聴衆たちがその感性で受け取めた振動は、決して消え去ることはない。
 生まれる前から聴き続けている俺でさえ、親父のチェロと母さんのギター、そして二人の歌を聴くと、体中が熱くなってくる。叫び出したくなるような、無性に駆け出したくなるような、どうにもたまらない圧倒的な高揚感。まるでドラッグで狂わされたみたいに。
 今の俺なら、できないことなんて何一つない。そう思わせる不思議な魔力を秘めたサウンド。
 これが、一本のアコースティック・ギターとチェロから生み出されているだなんて、正直信じられない。
 俺もそれなりに作曲が出来たり、楽器を弾けたりするから尚のこと分かる。二人のパワーは、次元が違う。ことサウンドに関しては、違う世界の住人なのだ。
 聴衆たちも、俺と同じものを感じ取ったのだろう。辺りに再び夜の静寂が戻る。そして次の瞬間、静まり返っていた周囲から喝采の嵐が巻き起った。
 周囲に木霊する、怒涛のような喚声。鳴り止まないアンコール。
 国内のトップクラスが集うこのレスター・スクエアでも、これだけの喚声を湧かせる格と実力を持ったバスカーは、親父と母さんしかいない。……と言うより、かつてこんなバスカーは存在しなかったんじゃないかな。まあ、この世界の事は良く知らないんだけど。
 そんな二人は、其々の楽器を片手にゆっくりと立ち上がり、聴衆たちに微笑みかける。冷たい石畳の上に無造作に置かれた楽器ケースには、次々と投げ込まれる白い硬貨が、既に七角形の小山を作っていた。激戦区には、それだけ客が集まる。生き残りが難しいかわり、トップに上り詰めれば多くの聴衆を獲得できるわけだ。
 だがそれでも、バスカーに支払われるご祝儀(御捻り)の相場は、二〇ペンスや五〇ペンスだ。一ポンドが今のレートで大体一七〇円だから、日本円にして平均五〇円程度か。このレスター・スクエアで一〇〇人集める親父たちにしたって、あまり稼ぎがいいとは言えない。一日この広場で楽器を弾き、歌い続けても一万。良い時でも二万円前後しか稼げないわけだ。
 それに加えて親父たちは、週に二度はインディーズが集う小さなライヴハウスで演奏するが、それにしたってそんなに大きな稼ぎとはならない。
 どこの国でも同じだが、サウンドだけで生活していけるバンドってのはホンの一握りだ。まさに、パレートの法則を地で行く世界。親父と母さんは、そんな所で生きている。
 是非はともかく、俺はその事実をそれなりに偉大なものとして認識していた。

「おーし。待たせたな、祐一。今日はこれで上がりだ」
 常連客やファンと軽いコミュニケーションと握手を交わすと、親父と母さんが俺に近寄ってくる。
 退院はできたものの、俺はまだ左手をぶら下げ、右手の人差し指も骨折したままだ。そんなわけで、一般聴衆の輪に入り込むこともできず、広場に置かれているベンチで遠目に両親の活躍を見守るほかなかったのである。
「お疲れ」俺は、親父にタオルを投げてやる。「稼ぎはどうよ?」
「フッフッフ。じじゃ〜ん! なんと、紙幣だけで五〇ポンドが一枚。二〇が二枚もあったぞう!(≒一万五千円)」
 親父の手には、クイーンの肖像が刷り込まれている紙幣が三枚。
「あらあら、それは凄いわね」
 今日は二人とも、何時になく思いっきり演れたらしい。客のノリも良かったしな。母さんが常時湛えている微笑も、通常の三割増で穏やかな気がする。
「さて、今日はこれで上がりだ。早く帰って惰眠貪ろうぜ」
「そうね。明日は久しぶりに完全なオフだから、ゆっくりできるし」
 親父と母さんは並んでパーキングに向かう。こっちでの仮住まいは、ロンドンからちょっと離れているため、両親はいつも楽器を詰めるワゴン車で移動している。
 ロンドンには公営の駐車場や路上パーキングなどの駐車スペースがあちこちにあるため、演奏中はそこに停めているわけだ。
 俺たちがいつも使っているのは、近辺にある普通の駐車スペースだ。
 あらかじめ、傍らに設置されているブルーのチケット販売機にコインを投入して、時間分のチケットを買う。そいつをワゴンのフロント・ウインドウに張りつけておくわけだ。ロンドンは意外と違法駐車の取り締まりなんかが厳しいからな。
 親父は母さんからキーを受け取ると、後部のトランクを開けて、まず楽器を積み込む。
「おい、ドラ息子。お前も手伝え」
「無茶言うな、アホ親父」
 普段は俺も手伝うこの作業だが、今は『左腕』と『左人差し指』を骨折しているためパス。
 大人しく親父の作業を見守ることにする。
 しかし――なんだな。小柄な子供なら、ケースに隠せてしまうかもしれない大きなチェロ、それから母さんのエレキ・ギターとアコースティック・ギター。他にもキーボードやラジカセなど、結構親父たちの荷物は嵩張るものが多い。
 乗員が三名であるにも関わらず、ワゴン車を用意しなければならないのはこのためだ。
 と、そんなことを考えながら、オンボロワゴンをぼんやり眺めていると、地元の人間らしいスーツの男が、何か叫びながらこちらに駆け寄ってきた。勿論、彼らが操る言語はクイーン・イングリッシュと云われる純度一〇〇%の英語だ。生っ粋の日本男児である俺には、キッチリ理解できない異国語である。
 確かに、頻繁にこっちに来るだけあって、レストランやチケット販売所での簡単なやりとりならできるようになったのも事実だが、それでもまだまだ日常会話には程遠いのが俺の英語力の現状だ。
 まあ、俺はまだ中学二年。英語を習いはじめて一年強だからな。それも仕方あるまい。
 それはともかく、親父たちに駆け寄ってきたのは四〇代半ばと思われるビジネスマン風の男だった。日本人のように堅苦しいスーツで身を包み、ブロンドを短く刈り込んでいる。貧乏人でラフな人間が集まる夜のレスター・スクエアでは、些か浮いた恰好だ。
「なんだ……族のお礼参りか? 出入りか?」
「あらあら、どなたかしら」
 確かに二人ほど人気が出てくると、サインや握手を求めるファンたちが、こうしてワゴンまで押しかけてくるケースも度々出てくる。他にもプレゼントを持ってきてくれたり、仲良くなろうと積極的に話しかけてくる常連だっている。
 特に母さんは、長年この国でアコースティックの語り弾きをやってきた実績がある。『ミーンフィドラーの歌姫』なんて呼ばれて、一部に既に熱狂的なファンがついていたほどだ。
 彼女がバスカーに転向すると言った時、大勢のファンが嘆いたと言うからなぁ。そして、彼らは今でも母さんを追いかけて、このレスター・スクエアやライヴ・ハウスにやってきてくれる。五〇や二〇といった大枚をケースに投げ込んでくれるのは、いつも彼らなのだ。

 ミーンフィドラーっていうのは結構有名なライヴ・ハウスのことだ。
 そこにはアコースティックルームという小さなホールがあって、母さんはそこでちょっとした顔役だったという。
 それとは別に、毎夜のようにジャズコンサートをやってるパブがこの国には星の数ほどあって、そんなパブの小さなステージでギターを弾きながら歌うのが、昔の母さんの仕事だった。元は、ジャズ系の人だったわけだな。
 母さんは秋子さんとそっくりなだけあって、息子の俺が言うのもなんだが結構な美人だし、地元の人間からすればエキゾチックな魅力もある。それに加えて、ギタリストとしてもヴォーカルとしても彼女は一流の腕を持っているわけで。
 歌姫と呼ばれ、パブに集う常連たちのアイドルとなるのも、まあ頷ける話ではあった。
「悪いけど、今夜のギグは終わったぜ。明日はオフだから明後日また来てくれ」
「いえいえ、そうではありません」
 やってきたスーツの男を完全にファンと断定した親父は、タオルで汗を拭いながら言う。
 だが、男は両手を振ってそれを否定した。
「あなた方の曲、聴かせていただきました。実に素晴らしい」
 スーツの男は訝しげな表情を浮かべる両親に向かってにこやかに言った。流石の俺でもこの程度の英語は聞き取れる。もっともこれ以上の長文になると厳しいが。
 まあでも、このオッサンの英語は聞き取りやすい。断片的にならなんとかなるかも。

「長年、色々なバスカーから新人を発掘してきたのですが、貴方たちのようなバスカーは初めてです」
「で、おたくさんは?」
 親父はこのスーツに大して興味を持っていないらしい。
「申し遅れました。私、こういうもので」
 そう言うと、スーツのブロンドは懐から名刺らしきものを取り出して親父たちに差し出した。
「名刺とはなにやら和風だな。この国ではそういう文化は無いんじゃなかったのか?」
 それを受け取るとり胡散臭そうに親父は言うが、スーツは曖昧に微笑むだけだ。
「 <エレメントMA> さんが、私たちに何のご用でしょう?」
 母さんのその言葉に俺は驚いた。慌てて彼女の持っている名刺を背後から覗き込む。分からない単語が幾つもあったが、そこには某大手レコード会社の名が刻まれている。
「バスキングというのは登竜門にすぎません。より大きな飛躍、より大きな舞台。多くのアーティストと同じく、あなたがたもそれを求めて日夜修練に励まれているのでしょう。率直に申し上げて、貴方がたはその切符を持つに充分な資格を持つように思われるのです。その旅路のお世話を、私にお任せいただけないでしょうか」
 まあ、男が言った内容は(保障しかねるが)大体、こんな内容だったと思う。つまりウチでCDを出してみないか。メジャーデビューしてみないか、という誘いなわけだ。
 こいつは客観的に見ても、とてつもなく美味しい話。ビッグチャンスの到来だ。
 当然親父の反応は――
「いや、いい。別に登竜門だとは思ってないから」
「失礼……と申されますと」
 親父のにべもない返答に、スーツの男は一瞬呆ける。
 彼は、親父と母さんがこの話に即座に食いついてくると絶対的な確信を抱いていたのだろう。それはそうだ。メジャーデビューはストリート・ミュージシャンたちの思い描く夢であり理想だ。彼らは皆、例外なく店頭に自分のCDを並べ尽くすことを夢見て日々路上やライヴハウスで演奏を続けている。
「興味がない」親父は手をヒラヒラさせると踵を返す。「メジャーになって名前売りたいやつは他にゴマンといるよ。そいつら当たってもらえるかな」
「え、いや、しかし――」
「ごめんなさいね。私たちは、あまりそういうお話に関心がないんです」
 母さんもニッコリ笑ってそう言うと、運転席に向かった。親父の運転技術はプロ級なはずだが、ワゴンを運転するのは何故かいつも彼女の仕事だ。
「ちょっと待ってください」
 ショックで硬直していたスーツの男は、ようやく我に返って親父たちに縋り付く。
「なぜですか、絶好のチャンスですよ!? 我がレーベルからのメジャーデビューを約束されていると言うのに、それを蹴るだなんて正気の沙汰とは思えない! 収入だって、今とは比較にならない。富豪になれるチャンスなんですよ」
「はぁ……」親父は疲れたような、呆れたような溜息を吐く。そして面倒そうに口を開いた。
「あのなぁ。売れりゃあ良いってもんじゃないんだよ。大体、俺たちはビッグになりたいわけでも、金が欲しいわけでもないしな。人のサウンドを、勝手に商売道具にすんなよ、まったく。言っとくけどな、俺のチェロは、流行と共に忘れられる使い捨ての快楽じゃないんだぞ。その辺の、アイドル目指して営業スマイル研究してる奴らと一緒にするなよな。迷惑だぜ」
「しかし――!」
「じゃあな、オッサン。俺は忙しいんだ」
 親父はスーツの声を無視して、助手席のドアに手をかける。その瞬間だった。

キャ―――ッ!
 夜闇を切り裂くように、うら若き乙女(邪悪な期待を多分に含む予想)の悲鳴が周囲に木霊する。
「次から次へと。……ったく、今度はなんだ。セリエAのスカウトか?」
 親父も俺も、スーツの男も一瞬動きを止めて、叫び声が上がった方に視線を向けた。耳を澄ますと、遠くから女性が何事かを必死で訴えかけているのが分かる。断片的に飛び込んできたのは、「bug」とか「robber」「snatcher」とかなんとか……。
 ――と、親父が声のした方に向かっていきなり走り出す。
「夏夜子、俺ちょっと行ってくるわ。三〇分戻らないようだったら、先に帰っていてくれ」
「分かったわ。朝ご飯までには戻ってきてね」
 あっけにとられるスーツの男を余所に、母さんは穏やかな声音でそう応えた。
「親父、ラバーってなんだ!?」
 どうしようか逡巡したが、結局俺は親父の跡を追うことにした。
「お前は足手まといだ。戻れ、祐一!」
 確かに両手が使いものにならない俺が、何かの役に立てる確率は極めて低い。
 だが――

「やかましい。これも社会復帰の一環だ。親父こそ、俺のリハビリの邪魔するなよ」
「フン。ガキが生意気言いやがって」
「で、ロバだかラバだかってなんだよ?」
「――多分、『ひったくり』だ」
 そして、大通りに出る。ヤジウマが周囲に群がっていることからも、被害者らしき女性は直ぐに見つかった。
 親父は、そのヤジウマと若い女性に素早く駆けよって、乱暴なイングリッシュで怒鳴りかける。
「どっちに行った!?」
「あっちです。路地に逃げ込んだわ」
 女性と何人かのヤジウマたちが、『シャフツベリー・アヴェニュー』の方を指差す。つまり、北だ。
「拙いな、中華街の方かよ」親父が唇を噛む。
「親父、急ごうぜ。潜り込まれたら見つけきれない」
 レスター・スクエアの北側には、中華街がある。あの煩雑としたエリアだ。それに、この辺はロンドンの大中心部。言わば『臍』だ。この時間帯でも結構人が多い。深夜の二四時、辺りは当然暗い上に名物の霧で視界が利かない。風景に融け込まれたら、見つけ出すのは不可能と考えて良い。
「よし、行くぞ祐一」
「――おう!」
「お願い、取り戻して!」
 駆け出す俺たちの背に、被害者の女性の縋るような声が投げかけられた。



 ――俺と親父は足が速い。
 一〇〇メートルなら、親父は一〇秒台で走るし、俺は一一秒台で駆けぬけることが出来る。勿論、これは身体の状態が良好な時に出した、各々の生涯ベストタイムだけどな。
 (ちなみに、四年後に再会することになる川澄舞は、同じ距離を五秒前後でカッ飛ぶことが可能だ。あいつの場合、走るという表現はあまり適当ではない。駆ける・走るではなく、「飛ぶ」だ。蛇足だが、同じく四年後に再会することになる陸上部の名雪は、短距離でのタイムはほとんど俺と同じ。だが中距離から長距離になると、俺よりも随分と速くなる。俺は長距離を走るのが苦手なのだ)
「……見えた、あいつらだ!」
 身体一つ分先を走る親父が、ひったくり犯を視界に捉えたらしい。
 追跡を続ける内、俺たちは既に中華街に入っていたが、犯人は人気のない店の裏手を逃走している。
街灯がなくて薄暗く、その上、ゴミ袋や酒瓶のケースが所狭しと積み上げられているせいで、足場が悪く結構走りにくい。
 そんな悪路の中であるにも関わらず、奴らの全く足取りには迷いが無い。このことからも、連中が予め逃走用のルートを用意しているスリやひったくりの常習犯であることはほぼ確実だ。

 ロンドンは、ヨーロッパ内部で見るとそんなに治安の悪くない都市だが、やはり日本と比較しちゃいけない。スリやひったくりなんて日常茶飯事で起きるし、彼らは二〜三人でチームを作り、様々なコンビネーション(一人が何気なくカモに話しかけて注意を逸らしている内に、別の一人が盗む等)を使って犯罪を行なってくるから、非常に性質(タチ)が悪い。
 街中で鞄を傍らに置いてボーっと佇んでいると、気付いた時には鞄が忽然と消えていた――なんてどこにでもある話だ。こいつらも、そんな犯罪を日常的に行なっている若者グループの一員なのだろう。
 俺たちが追っているのは、二人組の青年。一人は緑のシャツにジーンズ、一人はフード付きのパーカーに黒のズボンを履いている。多分、俺より四〜五歳上。ハイスクールくらいの年頃と思われる男たちだ。
「くら〜っ、待てこのひったくり犯め!
 いや、待てと言って待つ奴はいないだろうが、それでも待て!逃げたらフクロやで!」
 何故か関西弁で相手を脅しつつ、親父はひったくり犯たちを猛追跡する。
 因みに、親父はチャキチャキの江戸っ子。U.K.を除けば、神奈川より西側に住んだ経験はない。

……まぁ、しかし何だな。
 我が父親ながら、恐ろしく足が速い。逃げ足なら、これが二割り増しになるというから、更に脅威だ。
 そんな快足オヤジに追われる側の青年たちは、若い女性からひったくった皮製の茶色いバッグを抱え、チラチラと後を振り返りながら必死の形相で走っている。
 だが、バケモノなみの肺活量と運動能力を誇る“バスカー芳樹”を降り切ることは容易でない。両者の距離は、みるみる縮まっていった。
 このままでは逃げきれないと判断したのだろう。男たちは、ある瞬間を切っ掛けに二手に分かれた。バッグを持ったジーンズはそのまま真っ直ぐに、対してパーカーの奴は、レストランの裏手から表通りに戻る路地を右に曲がっていく。
「祐一、罠かもしれん。俺はこのままバッグを持った奴を追う!」
「分かった。俺はパーカー男を追う」
 頷き合うと、俺たちも分散して追撃を続行することにした。
 親父が、そのまま風のように直進していくのを横目に、俺はパーカー少年の後を追って、路地に入る。
「ここまできて逃がすか!」
 今日は木曜日。平日だから、レストランは二三時前後には全てシャッターを下ろす。その時間以降のチャイナ・タウンは、ゴースト・タウンにその姿を変える。まあ、これはちょっと誇張し過ぎかもしれないけどな。人が少なくなるのは事実だ。
 ご多分に漏れず、既に日付が変ろうとしている今日も、辺りは結構静まり返っていた。人通りもほとんどない。まあ、表通りじゃなくて、中華街のレストラン店舗群の裏側だから当然だけど。
「ヤロウ、どこまで走るつもりだ……!?」
 腕を上手く振れないせいで、どうにもスピードに乗りきれないが、それでもパーカー男より俺の方が足は速いようだ。
 それより、問題は体力だ。ずっと入院していたせいで、俺の体力はがた落ちしている。
 それに左腕を吊り下げ、右指も骨折しているせいで握り締めることもできない。
 この状態で、どうやってひったくり犯を捕まえるか――。これも問題だ。
 パーカー男は路地を矢鱈とジグザグに走り、方向オンチの気のある俺には、既に現在地がどの辺りに位置するのか検討すらつかない。
 もし奴が、自分たちのグループのテリトリーに逃げ込んでいるのだとしたら、これは結構危険だ。
 どこに仲間が溜まっているが分かったものではないからだ。
 身体の状態からも、サッサと短期決戦で勝負を決めたほうが言い事は明白である。
「デンジャラス親父パンチ!」
「――なんだ!?」
 突如、路地の向こうから鈍い打撃音と親父の声が聞こえてきたような気がしたが。
 と、死角になっていた建物の影から、マネキンの様に吹っ飛んでくるジーンズの少年。
 俺の前を逃げるパーカー男の行く手を遮るように、ジーンズ少年は地面に不時着した。
 そしてそのままゴロゴロと裏路地の薄汚れたアスファルトを転がり、レストランの裏手に積み上げてあるビールの空き瓶ケースに豪快に突っ込む。
 ガッシャーンという破滅音と共に、ヤツは動かなくなった。

「フッ。正義は勝つ」
 そういって、変形のY字になった路地の向こうから現れたのは、紛れも無く親父だった。
 どうやら二手に分かれたヒッタクリ犯は、ここで合流する予定だったらしい。だが、結局俺も親父も振り切ることが出来ず、ここで追い詰められてしまったわけだ。
 チェックって奴だな。
 殴り飛ばされて昏倒する相方と、前方の退路を塞ぐ親父を交互に見やりながら、残されたパーカー男は動きを止めている。想定していなかった事態に、脳内の演算機構がフリーズを起こしたんだろう。
 俺にとっては絶好のチャンスだ。
 何せ、無防備な背中を曝しているわけだからな。両手の使えない状況を考えると、これを逃す手はない。
「好機到来。不意打ち息子ドロップキック!」
 俺は全力で奴との間合いを詰めると、気合一番、地を蹴って飛び上がる。
 そのまま両足を揃えて、渾身の力で奴の背中を突き刺すように蹴飛ばした。
 助走の勢いと俺の全体重、そしてインパクトの瞬間生じる打撃の威力と慣性がダイレクトにパーカー男を襲う。
「うーむ。我が息子ながら、なんと卑劣な奇襲攻撃か。アッパレ」
 親父が奇妙な感心の声を上げる。
 一方俺は、完全に不意を突かれたパーカー男が吹っ飛んでいくのを視界の端で捉えながら、どうやって着地をしようか悩んでいた。
 左腕を吊っているから、受身は右手でやるしかない。
 骨折している人差し指を慎重に保護しながら、俺は上手く着地の衝撃を殺すよう努めた。

「親父、バックは?」首尾良く着地を果たし、起き上がってズボンの裾を払いながら訊いた。
「ああ。確保した」
 そう言うと、親父はジーンズの男が抱えていた皮製の小さなバッグを掲げて見せる。ジーンズの男は身体ごとガラス瓶のケースに突っ込んで気絶しているし、パーカーの男も俺の渾身のドロップ・キックを食らってあえなくKOされちまったらしい。ひったくり犯のクセに、骨のない連中だ。背後から不意打ち食らわせた人間のセリフじゃないが……。
「で、どうする。この連中は?」
「どっちも昏倒してるみたいだからな。このまま放置して、あとは被害者の裁量に任せるさ。
 彼女が警察に突き出すつもりなら、そうさせればいいし。見逃してやるつもりなら、このまま放っておけば良い。裁く権利は、被害者にこそ帰属するわけだからな」
「うーむ。俺としては、こいつらに何らかの天罰を下してやりたいところだが――」
 明らかに常習犯と思われる少年犯罪グループ。ちょっと気に食わないのも確かだが、何かやんごとならぬ事情があって、やむなく犯罪に手を染めざるを得なかったとかいう可能性もある。
 そう、たとえば――

 病院の小児病棟。窓際のベッドから、外の風景を寂しげに眺める病弱の妹。
 その視線の先には、無邪気にサッカーをして遊ぶ元気な子供たち。
 どの顔にも弾けんばかりの笑顔が輝いているが、彼の妹は病故に病室の外から出られない。
 ああ、私もお外で遊びたいな……。
 そして、秋。落葉の季節に、妹の病状が深刻化する。ゲッソリと頬がこけ、生気の見られない妹が兄に向かって震える手を力なく伸ばす。慌てて妹に駆け寄り、その手をギュッと握り締める兄。
 その兄を、潤んだ瞳で見詰めて妹はポツリと呟く。
「……ああ、死ぬ前にひったくり犯になったお兄ちゃんが見たい」
 その一言に、兄は決心する。
 お前のその願い、僕がきっと叶える。だから、頑張るんだぞ。きっと良くなるからな!
 そのためにも、僕はイングランド最高のひったくり犯にならねば。
 ――この生涯、ひったくり道に見つけたり。
 我、悪鬼羅刹となりて……今宵、参る!

「うっ、うう……」
 そうか、そんな事情があったのか。
 そうとは知らず、いきなり背後からドロップ・キックなんぞを食らわしちまうなんて――
 思わず目頭が熱くなる。涙なしには語れない話だ。フランダースの犬より感動した。
「辛かったべ。切なかったべ」
「お前、バカか? そんなわけがあるわけないだろう」親父は疲労したような顔で溜息を吐く。「自分の妄想で何をいきなり号泣しとるか、この変態息子は」
「いやしかし、万が一ということもあるだろう」
「万が一もなにもあるか。大体なんだその妹は。今わの際に、死ぬ前にひったくり犯になったアニキが見たいなんていう妹がどこの世界にいる」
「そりゃ、広い世界のどっかには、いる……わけないよな、やっぱ」
「当たり前だ」親父は呆れ顔で断言する。
 存在したらしたでそれは凄いかもしれないが、現実的に考えて、やはり話としてはあり得ないだろう。
「しかし、だとしたら、こいつらを見逃すのは善良な一般市民として拙いんじゃないのか?」
「だから、見逃すわけじゃない。被害者の裁量に任せると言ってるんだ。ことわざでも良く言うだろう、二兎を追う者、アブハチとらず」
 意味が分からん。確かにウサギを追ってるなら、アブハチに興味は抱かないだろうが――

 まあ、しかしだ。あのドロップ・キックは、かなり良い感じで決まったからなぁ。
 会心の一撃とはあのことだ。おかげで、何だか気分がいいし。
 確かに、親父の言う通り被害者に裁きの程は任せておけばいいかもしれないな、うん。
「じゃ、話も纏まったところで帰るぞ」踵を返しながら、親父が言った。「今なら、まだ夏夜子か車で待ってくれているかもしれんしな」
「しかし、どうやって帰るんだよ?そもそも、ここは何処なんだ?
 俺はこのパーカー男を追って滅茶苦茶に走ってきたから、サッパリ分からないぞ」
 改めて周囲に視線を巡らせてみるも、やはり見覚えのある景色ではない。
 元々、土地鑑があると豪語できる程俺はこの街に慣れているわけじゃないんだ。
 ここに長年母さんでもあるまいし、夏休みや冬休みにちょくちょく遊びに来る程度の俺は、このロンドンにおいては基本的にストレンジャーなのだ。
「まあ、取り合えず表通りに出よう」
 親父は腕を組んでしばらく考え込むと、徐に言った。
「中華街に出ちまえば標識があるから、ここがどの辺りかは直ぐに分かる。
 そこから何とかレスター・スクエアまで戻れるだろう。問題はな……、ッ!?」
 親父の言葉が唐突に途切れた。かわりに、その双眸が驚愕に大きく見開かれる。
「祐一、後ろだッ!」

……え――っ?
 その叫びに反応するより速く、後頭部で何かが弾けた。
 目の前に一瞬、眩い閃光が走り――次いでその光が鮮血の深紅に反転する。
 頭に割れるような、焼けるような激痛。
 視界がグニャリと歪み、俺はその意識を手放した。



Chinatown London WC U.K.
GMT 20 September 1996 00:11 A.M.
1996年 9月20日 深夜00時11分
ロンドン中央西部 “中華街”

 ゆっくりと目蓋を開くと、例によってジワリと滲むように視界が開けていく。その後、呆れるほどのスローペースで、解釈が認識を追随し、やがて並ぶ。前回は、この段階で自分が病院のベッドに寝ていることに気付いたわけだが――今度は生憎と、そんなことを考えるより早く、頭蓋骨を叩き割られたような激痛が襲ってきた。
「う……ぁ」
 自分が意識しないところで、呻き声が漏れる。不思議な感じだ。
 声を出すつもりがないのに、自然と出てしまう。初めて体験する事態に、俺は困惑した。だが状況を正しく認識すれば、そんな悠長なことを考えている場合ではないことに気付く。
 ――気を失っていたのは、どうやら一瞬だったらしい。俺は後頭部からヌラヌラと生暖かい液体が滴り落ちてくるのを感じながら、周囲の状況を窺った。
 最初に分かったのは、自分が地面とキスするような恰好で倒れ伏していること。それから、頭部を濡らし、今も広がっている液体の正体が自分の鮮血であること。ポツポツと断続的に流れ落ち、アスファルトに赤黒い染みを作っていることでも、これは明らかだ。
「くっ……」
 これは凄い出血だ。気が付けば、地面に大きな血溜まりができている。頬に触れてみると、手がベッタリとした深紅の感覚に染まった。
 状況から推測するに、俺は後頭部をビールの空き瓶か何かで思いきりブン殴られたらしい。最後に聞いた『バリン!』という破壊音は、きっとガラスが弾ける音だろう。詩的に表現すれば、頭蓋骨とガラス瓶が奏でる戦慄のハーモニィだ。
「おい、祐一! 大丈夫か」
 と、やけに遠くから、気遣うような日本語が振ってくる。勿論、親父だ。
「あ、ああ。なん、とか」
 立ち上がろうと最大限の努力を振り絞りながら、なんとかそう応える。
「ったく、ドジ踏みやがって。お前のマヌケのせいで、スッカリ囲まれてしまったではないか」
 そう言われてはじめて気付いたが、俺たちは一〇人近い青年グループに周囲を囲まれていた。親父が殴り倒したジーンズの少年、それから俺が後ろから蹴り倒したパーカー男。この二人はまだ地に伏したままだが、彼らの仲間だろうか、同世代の体格の良い青年が物騒な鉄パイプやナイフを手に、俺と親父を包囲している。
「く、ぅ……」
 頭がクラクラする。度の強いアルコールを一気に呷《あお》ったような感じだろうか。膝に力が入らない。立ち上がろうと苦労してみるも、結局それは徒労に終わった。関節がガクガクと震えて、立ち上がるどころではないのだ。完全なダウン状態から、ようやく手と膝をついて四つん這いになるのがやっとだった。
 ――やばいな。本能的が警鐘を鳴らしている。いや、別に動物的カンに頼らずとも、自分と親父が危機的状況にあるのは容易に判断できた。俺たちを囲んでいるのは、合計八人の体格の良い青年たちだ。その口元には、ニヤニヤと獲物を追い詰めた狩人の薄笑いを浮かべている。手には拳銃こそないが、それでも殺傷能力さえ持ち合わせている武器が其々に握られていた。
 と、俺は連中の顔を一通り見回しながら、その中に見知った顔があるのを発見し愕然とした。忘れるはずもない。二ヶ月前、俺を集団で殴打し今の全身の骨折や打撲を生み出した男。屈辱的な、生涯初めての敗北の相手だ。
 一八〇cmの巨体に、後で無造作に束ねた長いブロンド。そして、俺を人間とも思わない蔑みの色を持って見下すブルーアイズ。
 忘れないぞ。こいつの顔だけは、絶対に忘れねえ……!

「んん? 手前は、たしかこの間の日本人。なんだ、あれだけ殴ってやったのに生きてたのか?」
 ヤツも俺を思い出したらしい。
「流石はムシケラだ。しぶとさだけは、一人前だな」
 そう言ってスッと目を細めると、楽しそうに笑う。情けないことに、俺の身体は二ヶ月前の恐怖を覚えているのか、意思とは無関係に震え出した。
「ハァ、ってことは何か、祐一」
 俺たちの遣り取りを聞いていたのだろう。親父が呆れたように言った。
「お前、こんな弱そうな金髪兄ちゃんに負けたの?」
 沈黙を肯定だと受け取ったのだろう。親父は更に深深と溜息を吐く。
「ハァ〜〜、信じられねー。幾ら体格で負けてるとは言え、こんな馬鹿そうなのにやられるとは」

「馬鹿言ってんじゃねぇ。オヤジ、気を付けろ。そいつはシロウトじゃない。強い、ぞ」
「俺をお前と一緒にするなよ、祐一。誰にモノを言ってるつもりだ?」
 親父は親指で自分を指し、不敵に笑った。
「――俺は、相沢芳樹だぜ?」
「フ、勝手にしろ」
「まあ、そういうことだ。来な、小ボウズども」
 親父はイングリッシュでそう告げると、自分を取り囲む八人の男たちをクイクイと挑発した。
「フン、くだらん」
 だが、リーダー格のブロンドのあいつは取り合わない。数で圧倒していることから生まれる程度の低い余裕のせいだろう。
「お前、誰を相手にしているのか知っているのか? 俺はこう見えても、マクノートン家の跡取。キイス・マクノートンだぞ」
 ――キイス。
 俺はじっと奴の顔を見上げ、その名を反芻する。
 だが、そんな俺とは対照的に、親父はヤツの名前や素性に興味はないらしい。
「なんだそりゃ?」そう言って、キイスの言葉を逆に笑い返す。「マクノートンだか幕ノ内だか知らんが、それがどうした。どこぞの田舎の没落貴族か。ケンカに名前は関係ないぞ、ボウズ。能書きはいい。さっさと片つけようぜ。掛かって来いよ」
 親父はアホだが計算のできる男だ。武器もった八人の男に囲まれた場合、いつもなら迷わず一目散にトンズラすることだろう。ヤバけりゃ逃げる。それが護身の奥義だからだ。そして親父はそれをよく知ってる。
 だが身動きできない俺という荷物を背負っている以上、今回は逃げるわけにもいかない。この八人を相手にして全員叩きのめすしか場を切り抜ける術はないのだ。そしてその目的を達成しやすいようにするには……今の親父がやっているように、相手を挑発して激昂させるのが一番だ。頭にカッカと血が上ってる奴ほど、料理しやすい敵はいない。

「この日本人が――!」
 親父の物怖じしない態度は、明らかにキイスの逆鱗に触れるものがあったらしい。その顔から薄笑いが消え、碧眼が激怒も露に吊りあがる。ここまでは計算通り。親父の思惑通りの展開だ。だが――
 怒りに任せて親父に殴りかかろうとしたキイスの肩に背後から手がかけられる。そこにはいつの間に現れたのか、見上げる様な黒スーツの大男が立っていた。
「なんてデカイ奴だ。大木だ。大樹だ。ウドだ」
 親父が驚くのも無理はない。身長は一九〇前後。見上げるような体格は、巨大な人食い熊を連想させる。スーツの上からでも分かる盛り上がった屈強な筋肉。丸太のような太い腕。不自然に膨らんだ左脇は、彼が拳銃を持っていることを示している。
「フリッツ。手前、邪魔するな!」
 キイスは大男の手を払い除けると睨みを利かせながら怒鳴りつける。どうやらフリッツと呼ばれた熊男はキイスの部下――多分、ボディガードのような存在らしい。
 これだけデカイと、流石の親父でもキツイだろう。しかも、恐らく奴は銃を持っている。たとえ勝てるにしてもこいつと闘うのは明らかに割りに合わない。逃げるのが上策だ。
 くそっ! 何でこんな危急の際に限って、体が動かないんだ。
 今の俺は、明らかに親父の足を引っ張ってる。俺という足手まといがいなければ――親父が一人であれば、簡単にこの場を切り抜けられるというのに。全て俺に力がないせいだ。

「キイスさん。ボスがお呼びです。至急戻られるようにと」
「親父が」
 キイスは舌打ちすると苦々しく呟く。どうやらコイツは、自称するように何処ぞのお坊ちゃんらしい。そしてそういう坊主は往々にして強大な権力を持つ父親には逆らう術を持たないものだ。
「分かったよ。帰りゃいいんだろ。帰れば」
「恐れ入ります」
 フリッツと呼ばれた護衛らしき大男は、表情を変えずに頭を深く下げた。
「オイ、お前ら。後は任せる」踵を返しながら、キイスは少年グループたちに言い捨てる。「方法は構わん。その小生意気な口を二度ときけないように、キッチリ始末しておけ」
「分かりました、キイスさん」
 下卑た笑みを浮かべながら、グループの雑魚たちは頷いた。こいつらみたいな連中は、ボキャブラリが貧困で助かる。俺の中学レベルの英語力でもなんとか会話の内容が掴めると言うものだ。
 ただし、今度ばかりは会話の内容を理解できない方が幸せだったみたいだけどな――。
 路地の向こう側にキイスが消えていくと、残された連中は転がっている俺と、身構えている親父を再び包囲した。
「まあ、そういうことだ。お前らみたいな小汚い東洋人は知らないだろうけどな――この国にいる限り、あの人に逆らっちゃいけないんだよ。あの人は、この辺りを牛耳ってるダルトン・マクノートンの一人息子なんだからな」
「テメエらには仲間も二人やられてるしな。キイスさんにも言われてる。死んでもらうぜ?」
「いるんだよな。こうやってツルまないと威張れない弱い奴。あと強い奴の腰について甘い汁を吸いたがるコバンザメみたいな奴」
 親父は流暢な英語で肩を竦めながら言った。
「数が揃えば有利になるのは当然。でも、お前ら自身が強くなったわけじゃないんだぜ? そこのところを、キッチリ理解して欲しいもんだよな。拳銃持って、ナイフ持って、挙句数を集めて、それで強くなったつもりか? そりゃ、勘違いだぜ。ボウズ。ダンディなオジさんが、今からそれを教育してやろう」
 安い挑発に見事に引っ掛かった三人が先陣切って親父に襲いかかる。一人は素手だが、二人は鉄パイプのような長い棒状の武器を持っている。三人とも恐らくハイ・ティーン。皆俺よりも随分と体格が良い。
 だが親父はそいつらを真っ向から相手にしても全く怯まない。それどころか薄く余裕の笑みさえ浮かべると、武器を持っている二人の方を迎え撃った。

 まず、鉄パイプを振り下ろそうと踏み込んできた男のスネの部分を押し返すように蹴りつけ、その動きを封じる。そして相手の動きを止めた瞬間、振り上げたモーションで無防備になっている相手の胸部に右手の掌打、そしてそれを引っ込めずに続けて強烈な肘撃ち、更に繋げて肩を叩き込む。
 攻撃の動作が完全に連結されていて一見すると単独のアクションに見えるが、掌、肘、肩で三発の打撃を入れている。攻撃したあと引かずに流れるようにして次の攻撃に繋げる。
 鈍い音が響き渡り、男は後部へ数メートル吹っ飛んだ。
 普通の格闘技は「ガード・回避・受け流し」その後「攻撃」と二つから三つのパターンで動作が組みたてられる。が、親父が使う怪しげな戦闘術は、「避けながら・防ぎながら撃つ」というのが基本だ。防御が攻撃と一体になっているわけである。
 この場合もそうだ。踏み込んだ足を「蹴る」のは攻撃だが、目的は相手の動きを止めること。つまり防御なのである。そして、その防御も次から始まる怒涛の連続攻撃の布石でしかない。逆に言えば、最初に布石となる一撃が入れば最後のショルダータックルまでの一連のコンボはほぼ連続して決まる。場合によっては肩の後に体当たり、掴んで投げという風に技は続くわけだが――
 とにかく相手がシロウトなら、あまりに洗練されたそのコンビネーションに自分が何をされたか認識することすら難しいだろう。達人の技はそれだけ速く鋭くそして滑らかなんだ。

 数で圧倒的有利に立っていた男たちも、親父の動きを見て相手が只者でないことを悟ったらしい。だが気付いた時にはもう遅い。動きを止めないこと、前に突き進むこと、攻撃を繋ぐことを基本思想とする親父の拳は止まる事を知らない。
 一端身体を低く沈め、それから浮上するよう勢いをつけると、そのまま肘を叩き込み鉄パイプを持った二人目を完全にKO。三人目の素手の男も一瞬で叩きのめされ、薄汚れたアスファルトに崩れ落ちる。
「……まあ、こんなもんだ」
 パンパン、と手で埃を払いながら親父は言った。
「力に飲まれたらお終いよ。器が小さい証拠だ。武器を持っていると、それを使いたくなるのが人情かも知れん。拳銃を持ったら、強くなったように錯覚してしまうのが人の性とも言えるだろう」
 この部分は、後に親父に日本語で解説してもらった言葉だ。親父は英語が流暢だが、俺は全く駄目。イングリッシュでこうペラペラと喋られてはハッキリ言ってついて行けないのだ。
「本当に強いってのは、力に飲み込まれないこと。使い方を誤らないことだ。それが出来てはじめて俺のようなダンディおじ様(英国紳士風味)を名乗れるのよ」
「アァ? なに語ってんだ、このオヤジ」
「 まあ、そうだろうとは思っていたが、親父の講釈は青年たちに何の感銘も与えることができなかったらしい。
「だろうな。馬鹿はしななきゃ治らないって言うしな」
 親父もその反応を予測していたのだろう。頭を掻きながら、諦め果てたように言う。
「まあ、いいさ。さ、諸君。掛かってきなさい。今のでお前らの実力は把握できた」
「ハッ。馬鹿か、オッサン。何で俺たちが馬鹿正直にお前の相手してやらなきゃならないんだよ」
 キイスに代わって指揮を採りはじめた、副リーダー格の男が俺に歩み寄ってくる。
「こっちには、この人質ってのがいるんだぜ。オッサン」
 そう言うと、男は俺の腹を力任せに蹴り上げた。脳震盪でも起こしているのか、未だにほとんど身動きできない俺には、それを回避することさえ出来ない。

「カ……ハ……ッ!」
 内蔵が破裂するような衝撃を受け、俺は辺りをのたうち回る。
「グゥ、ウァゥ……」
 クソ――最近、妙にサンドバックにされる機会が多すぎないか?
「一対七で、しかも武器使ってるってのに、その上人質まで取ろうってのか」
 親父は少年たちを睨みつけるが、彼らは涼しい顔でそれを受け流す。そして唇の端を吊り上げて、自分の頭をトントンと叩いて粋がる。
「馬鹿か。これも戦術だろ? アンタとは頭の出来が違うんだよ、オッサン!」
 再び腹部を貫くように蹴り上げられ、俺は躰をくの字に折った。凄まじい痛みと、激しい嗚咽感が込み上げ、胃液が逆流してくる。気が狂いそうな苦痛だった。
「貴様ら」
 流石の親父も我慢の限界を迎えたか、自ら男たちに殴りかかろうとするが――
「おっと、動くな」
 俺の首筋にピタリと突き付けられたナイフに、その動きを凍てつかせざるを得なかった。
「動くと、このガキの喉がパックリ切り裂かれちゃうぜ。俺は臆病だからなぁ。ちょっとした弾みで、手が震えちまうかもしれない。気をつけてくれよ」
「クッ……!」
 奥歯を噛み締め、視線の力で人が殺せたらという鋭さで連中を睨みつけるが、流石の親父にもそれはできない。

「親父、俺は……いい、から逃げ、ろ……」
 定まらない呼吸に苛立ちながら、なんとか搾り出すようにそう告げる。
「ガキが恰好つけてんじゃないの。ここで逃げたら、寝覚めが悪いだろうが」
 親父はそう言って、俺の言葉を突っぱねた。
「迷惑なんだよ。知ってる奴が、知ってるところで殺されるとよ。死ぬなら、俺の知らないところで死ねってんだ。後で気になるじゃねえか」
「なにゴチャゴチャと――」
 男たちが日本語で悪態を吐く親父に歩み寄っていく。
「喋ってんだ、オッサン!」
「グ……ッ!」
 抵抗できない親父のボディに、奴らの拳が埋め込まれる。
「今この場でムシケラみたいに殺してやってもいいんだけどよ。それじゃあ、俺たちの気が収まらねえ。お前らには、死ぬ恐怖をジックリ味合わせてやるよ。面白いゲームを思いついたぜ。そいつを精々楽しませてやるから、喜べや」
「ゲームだと?」
「そうだよ。だから、用意が整うまでチョット眠ってな!」
 男の一人が親父の背後に回り、その後頭部をナイフの柄の部分で痛打する。流石の親父も無防備の状態で急所に一撃食らっては堪らない。気を失い糸の切れたマリオネットの様に大地に崩れ落ちた。
「親父! オイ、親父!」
「心配すんな、小僧。お前も、ちゃんと一緒に殺してやるから――よ!」
 その言葉と共に、首筋に鈍い衝撃。抵抗する間も無く、一瞬で意識がフッ飛んで行く。
 世界が暗転するのを感じながら、この数週間で何度目になるだろう。
 ――俺は再び闇の世界に突き落とされた。




■初出(煉獄の章)

01話「敗北」2001年10月09日
02話「ゴルジュ・ザ・セリスト」2001年10月16日
03話「Mean Fiddlerの歌姫」2001年10月23日
04話「キース・マクノートン」2001年10月28日

本作は上記の初出作品を加筆修正の上、著者が編集したものです。