夢――
夢を見ていた。 天に挑みかかるような大樹。 名も無い忘れられた、静かな森の奥。 一面の銀世界。誰もいない、二人だけの秘密の学校。 空高く舞う鳥たちと同じ高さで、吹き抜ける風に目を細める少女。 登れない。俺には、届かない。 不安を胸に見上げるだけで、俺は彼女の傍にはいけない。 破滅の音。 軋む枝と、刹那の悲鳴。 砕ける音。 白い雪の大地に広がっていく紅いシミ。 動けない。 俺は、一歩も動けずに―― 躊躇うことなく、一瞬たりとも迷うことなく、駆け寄りたかったのに。 抱き上げてあげたかったのに。 俺はどうしても動けずに―― ただ終わりの瞬間を見詰めているしかなかった。 そして、俺は逃げ出した。 白銀のヴェールで記憶を覆い、 追い縋る多くの絆たちを振り切って―― そう、俺は逃げ出した。
GMT 20 September 1996 02:28 A.M.
1996年9月20日深夜2時28分 俺の先祖は、かつて神を冒涜するような挑戦をしたのだろうか。たとえば、ガブリエル女性説を確かめに天国へ乗り込み、彼のズボンを下ろしてその真偽をハッキリさせてきたとか。或いは、神の髪の毛はカツラであるという疑惑の真相を探るため、彼の髪を勇猛果敢にも毟り取ってきたとか……。 もしそうだとするなら、ここ最近俺が受けているこの仕打ちは、その罰であるに違いない。何しろこの数ヶ月間で、俺はもう『三度も』頭部をブン殴られて意識を失っているんだからな。 ――その三度目の昏倒から目覚めた時、最初に見えたのは随分と高い天井だった。 ヨーロッパの建物は基本的に日本建築と比べて天井が高いものだが、今俺が見上げている俺は、その前提などとは関係無しに、無条件で高く大きなものだった。高さは、四メートルくらいだろうか。それも普通のアパートのように平面状の天井ではなく、鉄筋で出来たフレームによって支えられた、窪みのある天井だ。体育館のそれに似ている。 「ここは……」 状況を確認するために、仰向けになっていた躰を起こす。殴られた痛みはあったが、幸い出血はもう止まってくれたらしい。変に血が乾燥しているせいで、顔中の皮膚が突っ張ったようになっている。 そこまで考えて、ようやく気が付いた。 「ど、どうなったんだ!?」 そうだ。俺は、頭をブン殴られて気絶して――多分、地元の少年グループに親父と一緒に連れ去られたはずだ。と言うことは、ここがその監禁場所か? 「ようやくお目覚めみたいだな、小僧」 起き上がると、不本意にも見慣れてしまった奴等の美しくない顔が並んでいる。帰宅したキイスを除く、七人。いや、俺たちが最初に倒したひったくりの二人を含めて、九人に増えている。 「じゃあ、早速ゲームをはじめようぜ。もう夜中の二時半だ。俺たちも帰って寝たいからな」 「ふざけんな、この――ッ!?」 折れていない方の右腕で殴りかかろうとした瞬間、その腕が何かに引っ張られる。ジャラリと鎖が鳴るような音と共に、動きを封じられた。 「な……?」 「オイ、祐一。あんまり派手に動くなよ。痛いだろうが」 怪訝に思って声の方を見ると、そこには親父がいる。一メートル程離れた、俺の右隣だ。その左手は手錠のようなもので拘束されている。普通のタイプの手錠ではなく、金属製の大きな筒を手首全体に嵌めるタイプの手枷だ。そこから太い鎖が伸びていて、壁に埋め込まれた金属製の輪を潜り、もう一方の手枷に続いている。 そして、そのもう一方の手枷というのが――俺の右手に嵌め込まれていた。 「な、なんだコイツは!」 力任せに引っ張ってみるが、結果は親父の左腕を引っ張ることになるだけ。それで鎖が千切れるわけでもなく、当然、俺は鎖の範囲を越えては動けない。 小屋に繋がれた犬みたいなものだ。標的に食い掛かりたいと思っても、連中の喉に牙は届かないってことか。 「だから痛いって言ってるだろうが、ドラ息子。無闇に動くな!」 左腕を引っ張られた親父が不平の声を上げる。 「その径行直情型の愚直な性格、何とかしろ。ケダモノかお前は。学習しろ、学習を」 「ケッ。親父にだけは言われたくねえよ」 ドッカリと腰を落としながら、俺は言った。 「まあ、いい。で、ボウズ。俺たちを一体どうするつもりだ? 流石に拉致監禁は洒落にならんぞ。先進国の何処にいても、そいつは重罪として裁かれる」 「ハッ、そうでもねえさ」 親父の言葉を、奴等は鼻で笑う。 「キイスさんは、この国の司法を牛耳ってる。弁護士、検事、裁判官。警察や軍にいたるまで、友人が沢山いるわけよ。だから、ここでお前等を殺したとしてもなんの痛みもねえ。しかも俺たちゃ、未成年者だしよ?……法律ってのは、大甘にできてるのさ」 「法律が裁かなくても、俺がやるぞ」 俺は連中を睨み付けて、言った。 「テメエらの親玉――キイス・マクノートンだったな。そいつも逃がさねえ。いつか纏めて、テメエらは俺が潰す」 自分の拙い英語力を総動員させて、脅しをかける。勿論、脅しだけじゃない。本気でやるつもりだ。 「ハッ! 笑わせてくれるぜ、この小僧」 だが、やつらには何の恐怖にもならなかったらしい。九人の少年たちは、其々腹を抱えて大爆笑する。 「お前、自分の立場が分かってんの? 鎖で繋がれてる犬コロに何が出来る、アァ!?」 一人が歩み寄って来ると、俺の側頭部を薙ぐ様に思いっ切り蹴り払う。 「グ、ハ……ッ!」 右方向に吹っ飛ばされた俺は、親父をクッションにして倒れ込んだ。 クソ――口の中を切ったみたいだ。錆びたような血の味が、更に広がっていく。顎の骨が少しずれたみたいだな……。 「良いか、小僧。お前等は、どの道ここで死ぬんだよ」 「なんだと」 少年の一人が、口から流れ落ちる血を拭う俺に顔を近づけて凄む。 「コイツが何か分かるか、小僧」 奴は懐から、長さ三〇cm、縦横五cm程度の長方体の筒を取り出し、俺の眼前に付きつける。 「キイスさんのシンジケートはな、こういうモノも取り扱ってるんだよ。分かるか?……これはな、コンポジション四。お前らを五〇回は殺せる爆薬よ」 「?」 何やら楽しそうに解説しているが、俺が基本的に英語を喋れないということを、コイツは失念している。ちょっと難しい単語を使われると、何が何だか分からなくなるのだ。俺は。 「――オイ、親父。こいつ、何て言ったんだ? コンポジなんたらとか」 「そこの馬鹿面が持ってる四角いのは、通称『C4』って呼ばれてる爆弾らしい」 親父が珍しく硬い表情をして、低く告げる。 「ばっ、爆……? 爆弾って、あの爆弾か!?」 「どの爆弾か知らんが、多分、その爆弾だ」親父は肩を竦めて肯定する。 「C4ってのは、よく聞くTNT爆薬より強力な、軍用のプラスティック爆弾だ。ガキが持つにはちょっとヤバ過ぎるシロモノだよ。爆速は、秒間で七〇〇〇メートルを軽く超える。こいつが持ってる一.一キロのC4だけでも、この小さな倉庫くらいなら吹っ飛ばせるだろう」 「――なっ!?」 「どうやら、大体こいつのことは分かったようだな。小僧」 ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、少年は楽しそうに言う。腐りきってるな。これから人を殺そうっていうのに、ゲーム感覚でいやがる。 「倉庫の端に木箱が見えるだろう? あそこには、この爆弾が全部で一一kg詰まってる。お前等が寝ている間に、時限式の起爆装置をしかけておいた。……オイ、持ってきてくれ」 俺と向き合っている少年が指示を出すと、その爆弾を詰めた木箱が仲間の手によって運ばれてきた。 目と鼻の先。すぐ間近だが、鎖の制約のせいで触れることが出来ないギリギリの距離。そんな絶妙なポジションに、それは設置される。距離にして約三メートルといったところか。 木箱の大きさは、小型のダンボールくらい。ミカン箱程度だと思えば良い。奴の言った通り、既に起爆装置がセットされているらしく木箱の上に設置されたデジタル時計が、カウント・ダウンを開始していた。 デジタル時計の示す、爆破までのリミットは――残り、二時間一九分。 「このデジタル表示を見れば分かる通り、時限式の起爆装置は、今から二時間チョイで爆発する。時間が来れば装置が作動して、全部で一一キロのプラ爆が一斉に爆発だ。聞いた話だと、この倉庫は勿論、周囲数百メートルは完全に消失することになるって話だぜ? お前等の死体なんぞ、骨のカケラすら残らないのさ」 その言葉に、少年たちはゲラゲラと笑い出す。俺たち親子を殺すのが楽しくて仕方がないらしい。 「そんな大層な爆発を起こせば、どう考えたって周囲の人間に怪しまれるぞ」 「ハッ。聞いてなかったのか、オッサン。キイスさんは司法に手を回せるんだよ。勿論、警察にもだ。それにな、ここいらはド田舎さ。周囲五キロには、民家すらねえ。派手に爆発しようが、誰も気付いちゃくれねぇのさ。心配には及ばねぇよ」 これも、親父に和訳してもらう。なるほどね、抜かりはないってことか……。 マクノートン家ってのは、死の商人でもやってるんだろうか。相当、大きな力を持ってるらしい。 「ゲームのルールは簡単だ。お前らは、今から二時間以内――この爆弾が爆発する前に、その手錠を外してこの倉庫から逃げ出せば良い。無事に逃げ出せれば、命は助かる。失敗すれば、爆弾と一緒にあの世逝きだ。邪魔は誰もはいらねえ。どうだ、面白いだろう?」 「この野郎……」 細工は完璧か。憎い演出してくれやがる。命懸けのゲームってことかよ。 ただし、勝率はゼロだ。どう考えたって、この鎖をブッ千切って脱出するのは不可能だ。こっちはアルセーヌ・ルパンじゃないんだからな――。 「じゃあ、精々がんばってくれや。もう夜中の三時だ。俺たちは帰って寝るからよ。夜が明けて爆発した後ここに来て、結果るは見届けてやるから安心しな。まあ、全部粉々になって見届けるもクソもねえだろうけどな? 死体の処理に手間が掛からなくて楽ってもんだぜ」 少年たちは腹を抱えて笑い合い、それぞれに捨てゼリフを残すと薄暗い倉庫から出ていった。外でバイクと車の排気音が鳴り響き、やがてそれも遠ざかっていく。それが完全に消え去った時、周囲に再び夜の静寂が戻った。 物音一つしない静かな夜の倉庫内に、鎖に繋がれた親父と俺が、たった二人取り残される。四〇〇%完全な致死量の爆弾と共に。 「――って、ヤバイよ。ヤバイぞ。ピンチだぞ! どうすんだ。このままじゃ、死んじまうぞ!?」 「爆弾だ。プラ爆だ。シーフォーだ。あいつら、俺を本気で殺す気だぞ。正気じゃねー!」 俺と親父は、取り合えずギャーギャーと錯乱してみる。 「とにかく、この手枷をなんとかして出ないと、本気で死ぬことになるぜ!?」 矢鱈滅多らに鎖を振りまわしてみるが、それはジャラジャラと耳障りな音を立てるだけでビクともしない。勿論、こんなことで切れるだなんて期待はしていなかったのだが。 「このドラ息子! 元はと言えば、お前がヘマしでかしてくれたおかげで、こんなことになったんだぞ。男だったらキッチリ責任とって、どうにかしろ!」 「うっせえ! 今はそんなこと言ってる場合じゃないだろが、馬鹿親父。どうにかしてこの鎖を解いて、逃げ出す方法を考えろよ。責任問題追求してもなんの解決にもならんだろうが、アホ。少しは建設的に考えんかい」 「なんて生意気な奴だ。アホって言う奴がアホなんだぞう!」 子供みたいな論法で親父は文句を返してくる。 いかん。この男の相手をまともにしていては、貴重な時間を浪費してしまうことになる。 「はー。儚い人生だったぜ……」 「コラ、馬鹿親父! いきなり諦めてどうするんだ、オメーは」目を瞑っていきなり眠り出す親父を揺すって強引に起こす。「助かる気あるのか、アンタは」 「だって、お前。この鉄のチェーンを見ろよ」 親父はジャラリと鎖を鳴らし、自分の左手に嵌められた手枷を見せつける。 「どう考えたって、人間業じゃこれは千切れないぞ。爆弾が手に届く範囲にあるなら、起爆装置を解除するって手もあるが、生憎と三メートルも向こうにあって指先すら届かない。どうしようもないぜ、これはよ」 ――確かにその通りだ。俺たちを拘束しているのは、普通の手錠ではなく手枷。長さ一〇cmくらいの鋼鉄製の筒で、これが手首にガッチリと嵌まっている。それが二つ一組になっていて、片方は親父の左腕。もう片方は俺の右手に食い込んでいるってわけだ。 そしてその両者は、太くて頑丈な鉄の鎖で互いに繋がれているという寸法だ。警察がよく使う手錠で、片腕ずつ仲良く繋がれている姿を想像すれば、近しいイメージは得られるだろう。 また、その鉄の鎖は、壁に埋め込んである金属製のリングに通してあって、俺たちが鎖が届く範囲からは動けないように拘束している。リングは人間の腕が辛うじて通るか通らないか位の大きさしかないので、俺か親父のどちらかが身体ごと通り抜けて脱出する事は不可能だ。 つまり、俺たち二人は鎖で小屋に繋がれた二匹の飼い犬状態。鎖を千切るか、手枷を叩き壊さない限り、この倉庫から脱することはおろか、自由に動くことすら侭ならない。 「大声で叫べば、誰か来てくれないかな?」 ダメ元で提案してみる。 「――無駄だな」親父は断言して、俺の淡い期待を粉砕する。 「連中は英語で喋ってたからお前は分からなかっただろうが、どうやらここは人里離れた辺境の地らしい。周囲五キロ四方には民家すらないんだと」 「でも、奴らの言うことだ。ハッタリかもしれないぜ?」 「いや。それはないだろう。ここは、奴らの組織がヤバイ荷物を置いておく倉庫として使っている節がある。C4プラスティック爆弾が一〇ケース――一一キロも置いてあるのが良い証拠だ。爆発物の保管庫を、人工密集地帯に作るわけがない。誰もこない田舎の片隅に作るのが常道だ。そこを考えると、奴らの言っていたことはブラフじゃないってことになる」 「……じゃあ、どの辺なんだ。ここは?」 「今が、大体二時三〇分だろ。俺たちが中華街で奴らと揉めていたのが一二時くらいだから、あれから約二時間半かけて、ここに運ばれてきた計算になる。人里離れた西のほうに進んだと仮定すると――」 親父は少し考えると続けた。 「高速に乗ってブッ飛ばせば、南ウィルトシャー群あたりまでこれるよな。もっと行って、ソールズベリィあたりかも知れん」 「それって何処よ?」 ロンドンには何度も来ているが、田舎の方となると土地鑑はほぼゼロに等しい。 日本人は良く誤解するが、ヨーロッパで華やかなのはあくまで都心部のみ。少し外れると、素朴な田園風景が広がるのが、基本だ。同じ先進国でも欧州と日本とは気質が決定的に違う。 「お前の貧弱な知識で分かりやすく説明するなら――古代遺跡のストーンヘンジは知ってるな?」 「おお。教科書にも載ってたぜ。デカイ石が並べられてる、謎の遺跡だろう?」 「ウム。多少滅茶苦茶な部分のある認識だが、まあ間違いない。そのストーンヘンジはロンドンから車で西に二時間程度行った辺りにあるんだが、まあ、その辺だと考えれば良い。とにかく、この辺りは古代遺跡が多くてな。緑の綺麗な所なんだが……遺跡があることからも推測できるように、超ド田舎だ。人も少ない」 因みにソールズベリィは、そのストーンヘンジの南一五キロ程のところにある街の名前らしい。 それはともかくとして、だ。ここで重要なのは、その辺一帯が人気の少ない田舎だという事実だ。 まあ、この倉庫がイングランド南西部にあると決まったわけではないが、助けが来てくれるという甘い期待は抱かない方が懸命だということは確かみたいだな。 「分かり易くいえば、万事休すってやつだ」 「他にも絶体絶命という表現もあるぞ、馬鹿息子よ」 ――暫しの沈黙。 そして、二人の溜息が重なった。 倉庫内をボンヤリと照らし出すのは、天井からブラ下げられた頼りない電球のみ。 都会の喧騒からは遠く離れたこの場所で、俺たちの最期を告げるカウント・ダウンは静かに、だが確実に時を刻んでいく。 残された時間は、あと――二時間七分二一秒。
GMT 20 September 1996 03:13 A.M.
1996年9月20日 深夜3時13分 四年後のある日、雪の降り積もる思い出の街で、俺は一人の少女と出会うことになる。彼女の名は、美坂香里。少女というには、多少アダティな要素が強すぎるような娘だ。 で、これは、その香里が言っていたことなのだが―― 未来や将来が予測できず、それが不確定であることを実感できる状態が『自由』。確実な未来が予測され、将来のヴィジョンが明確に描き出せる状態が『不自由』。 つまり、殺されるかもしれない。そうでないかもしれない。命の行方が、少しも予測出来ない。将来、自分がどうしてるかなんて、想像もつかない。それこそが、『自由』であり幸福の一つの形態であると言うんだな。 確かに、これはある意味で正しいだろう。少なくとも、俺は彼女の肩を持つ。何故なら今この時、俺はそのことを実感できる立場にあったからだ。 目の前には、一時間三〇分後に爆発する軍用プラスティック爆弾の山。逃げ様にも、手枷で身体を拘束され満足に動くことすらできない。人気のない辺境の小汚い倉庫の中、このままで行けば起爆装置の作動と共に死が訪れるのは確実だ。 命の行方が少しも予測できないのが自由なら、今の俺は明らかにその自由を侵害されている。 「……なんて、哲学やってる場合じゃねー!」 あと、一時間半!今から九〇分以内になんとかしないと、俺は死んじまうんだぞ! 冗談事じゃないぜ、これは。可及的速やかに、現状から脱却する術を考え出さないと人生に幕を下ろすことになる。まだ、美女の柔肌を抱いた事はおろか、チューすらしたことないのに! それに、このまま死んだら『自宅の庭、可愛い息子と麗らかな春の午後キャッチボールに興じる』という俺の壮大な夢はどうなるんだ? そうだ。その通りさ。俺の人生はこんな所で終わらせちゃいけない。ちゃんと、綿密な人生計画だって立ててるんだ。そう、例えばこんな感じで―― 01.高校入学。サッカー部に所属した俺は、そこで一人の少女と出会う(マネージャー)。――ウム。そうだ、こんな感じだ。こんな人生こそ、俺のような素敵で素直な少年には相応しい。俺はまだ中学二年生だが、やはり将来の事はシッカリと考えておかねばならないからな。 そうさ。俺はこんな所で死んじゃいけないんだ。 「そういうわけで、親父。是が非でも此処から脱出するぞ」 「どういうわけか全く分からんが、何やら無意味にやる気だな」 ちょっと親父は鼻白んだように言った。 「まあ、俺もここで死ぬ気なんぞ更々無いからな」 「OK、じゃあここで一先ず、俺たちが置かれているこの状況を整理してみよう」 そう。こういう時こそ、慌てずに事を論理的に進めるよう自らを律していかなければならない。 「まず、ここは人里離れた辺境の地である可能性が高い。だから母さんは勿論、周囲に住む人間が俺たちを救出してくれる可能性は全く期待できない」 「可能性はほぼゼロだな」親父は深く頷く。 「そして、この手枷。警察が使うような手錠じゃなくて、監獄なんかにあるタイプだ。一〇cm超の長さがある金属製の筒でできていて、これが親父と俺の腕に嵌められている。勿論、鍵があれば外すことができるが――」 「その鍵は、連中が持って帰ったんだろうな。多分」 「そして極めつけ。今、俺たちの目の前には時限式の軍用プラスティック爆弾がセットされている」 「一.一キログラムのC4が一〇セット。これだけあれば、ウィンザー城だって爆破できるだろう」 ところで、親父は妙にこの手のことに詳しいが、何故だろう。爆発物フリークなのか。それとも、ロンドンでは今『プラスティック爆弾』が大フィーバーしていて、生まれたての可愛い赤ちゃんから、シワシワの婆さんまで爆発物に精通してるとか。 「――まあ、とにかく、その時限装置は順調に稼動しているらしい。しかも、ご丁寧にタイムリミットを教えてくれる大型のデジタル表示がついていて、頼みもしないのに、俺たちが死ぬまでの時間を律儀に刻んでくれている」 「そのデジタル表示は、現在01:21となってるな。要するに、残り時間は八一分ということだ」 「それはつまり、それまでにこの手枷を何とかして、ここから脱出しないと――」 「ドカンと爆発、世界が誇る最高のチェリスト・相沢芳樹は、この世から消え去ることになるということだ」 くっ。こうして改めて状況を纏めてみると、自分が如何に絶望的な状況にいるのかを再認識できる。ほとんどどころか全く死角がない。 一時間半後の起爆装置作動と共に訪れるであろう自分の“死”が、絶対的なものであるようにさえ思えてくる。ここ数ヶ月、死ぬほどブン殴られたり、武器を持った大勢の敵に囲まれたりとピンチが多かったが、今回のこの危機はその比ではない。 「親父、なにか良いアイディアはないか?」 「いや。少なくとも、無傷でここから脱出できるような手立ては思いつかん」 流石の親父も沈痛な面持ちを隠しきれない。 「だが、状況は最悪でも考え方次第だ。何か手はある。時間だって、あと一〇秒しか残ってないわけじゃない。手足を切り落とされて身動きできないわけでも、目が見えなくて何もできないわけでもない。何とか出来るはずだ。なんとか……」 「親父。こうなったら、縋れるものには何にでも縋り付くぞ」 「縋れるもの……?」 親父は怪訝そうな表情をして、俺の顔を見る。 「何か良いアイディアでもあるのか、祐一」 「テレパシーだ。汚い夫と可愛い息子がピンチなのだ。それを母さんにテレパシーで伝える。上手くいけば、母さんが救出しに来てくれるだろう」 「はァ?」親父は、火星人でも見るような奇異の目を俺に向ける。「お前、なに言ってんの? 恐怖のあまり、頭がおかしくなったのか。まあ、元からマトモじゃなかったが」 「ええい、喧しい! とにかく、やってみろよ。愛があれば届く。通じるはずだ!」 もうこの際、俺を助けてくれるなら何でもいい。親父の言う通り、状況は最悪でも考え方次第。諦めたら可能性はゼロだが、足掻けば最後の不条理兵器『奇跡』が発動して、カツラ疑惑のある神が俺を救ってくれるかも知れない。 そして今、俺に出来ることはそれくらいしかないんだ。 「しかし、仮に夏夜子に俺のテレパシーとやらが通じたとしても、ここが何処だか分からないと、助けに来ようがないぞ。ピンチなのは分かっても、何処に助けに行けばいいか分からないんだからな」 親父は肩を竦めて言った。確かに、その指摘は正しい。もっともな意見だ。的を射ている。しかし、相手は母さんなのだ。なにが起きても不思議はない。 「そこはそれ。母さんなら『アラアラ、まあまあ』とか言って何とかしてくれるさ。あの人は、俺たちの理解を超えた不可思議な能力があるのだ。もはやアレの謎さ加減は、超能力にも匹敵するだろう。テレパシーだって受信できても不思議はない。……だって、母さんだし」 「ウム。確かに、夏夜子ならそういうことが出来ても不思議はないような気がする。お前の言う通り、テレパシーの一つや二つ、どうにかなるかも知れん。……だって、夏夜子だし」 親父にも心当たりがあるのか、複雑な表情で頷いている。 母さんには、秋子さんという妹がいるのだが――とにかく彼女たち姉妹は、揃いも揃ってとても不思議な女性たちなのだ。それぞれ子供だって産んでいるくせに、どう見ても二〇代にしか見えないほど若々しいし。いつもニコニコして、知らない間にヘヴィな問題を解決してるし。 何と言うか、浮世離れした、どこか超然的な雰囲気があるのだ。 「そうと決まれば、チャレンジしてみろよ。親父。ダメで元々。無理と決めつけて諦めるよりは、見難く足掻いて助かるのだ。そして明日の朝日を拝んで笑うのだ」 「ウム。確かに、お前の言うことにも一理ある」親父は神妙な顔つきで頷いた。「よーし。やったろうやないけ」 言うや親父は口をつぐみ、なにやら顔を真っ赤にして力みだした。みるみる額に汗の粒が浮き上がってくる。相当気合を入れているのか、呼吸も荒くなりだした。 「――なかなかやるじゃねえか。夏夜子よ」 しばらくすると、滴る汗を拭いながらなにやら母さんを称え出した。言葉の意味は良く分からんが、とにかく通じたっぽいリアクションだ。 誓って正直な話、俺はこの時、これで何とか助かるかもしれないと思っていた。 「どうだ。通じたか? 母さん、何て言ってた?」 「ウム。手応えはあった。念をビビビッと強烈に送っておいたからな。間も無く来てくれるはずだ」 根拠がないわりに自信タップリの親父は、胸を張ってそう主張する。 「フッ。俺と夏夜子の愛欲は新たな生命を生み出し、時空さえ超えるぜ」 「オオ、良く分からんが、凄いぜ親父! 二人の愛に今夜は乾杯だ。極上のシャンパンでな」 「おう。ただしお前はノン・アルコールのだぞ。愛は偉大だ!」 だが、よくよく考えてみれば、ここはロンドンから車で二時間半の地点にあると思われる倉庫。仮にテレパシーが通じ、母さんが俺たちのピンチを悟ったとしても、爆発まであと一時間超しかないのならば、今からロンドンを出発する彼女が、爆発する前に俺たちを助けられる道理はない。 しかし、本気でテレパシーもどきが通じたと信じきっている親父と、それに淡い希望を抱く俺は、そのことに気付く由もなかった。 そして、これは後に母さん本人に確認して得た証言であるが―― 親父がテレパシーを送ったその時、母さんは自宅のベッドで安らかに眠っていたそうだ。 よく覚えていないが、多分、遡れば小学校時代からになるだろう。 俺は学校が長期休業に入る度、親父と母さんに連れられて、世界を旅してきた。その中心となったのは、経済的に貧しい――貧困国とよばれる東南アジアの国々。タイ、バングラデシュ、ベトナム、フィリピン。まあ、そのあたりだな。それだけじゃなくて、中国やインドにも行ったことがある。勿論、アメリカもな。 親父はそこで、金を出して音楽を聴くなんて文化を知らない人々の元を訪ね、そしてチェロと歌を聴かせてきた。無論、対価なんて求めない。ただ自分の生み出した旋律にのって、人々がリズムを取り出す。歌い出す。それが、親父の求めていたものだった。UKでのバスキング(路上演奏)だって、その旅に繰り出すための資金稼ぎでしかない。 メジャー・デビューの話や、レコーディングの話を持ちかけられたって、彼等が見向きもしないのはそのためだ。普通のアーティストにとっては願ってもないビッグ・チャンスかもしれないが、親父と母さんにとってはそんなものには何の価値もない。彼等は大勢の人間に自分のサウンドを聞いて欲しいんじゃないからだ。ただ、自分たちの作り出す音楽で、より大きな感動を生み出したかっただけ。そんな彼等だからこそ、一銭の稼ぎにすらならない連中を相手に音楽を聞かせてきたんだ。 ある日は、捨てられたストリート・チルドレンたちに。ある時は、スラム(貧民街)に住まう、物乞いたちに。またある時は、貧困に喘ぐ時代に忘れられた農村部の人々に。見知らぬ辺境の村に乗り込んで行っては、親父はイキナリその住人たちに向かって怒鳴りつける。 音楽を金で買うなんて文化を知りもしない人たちが、親父と母さんの観客。生きることに精一杯で、CDなんて買うことすら出来ない人々が、二人の目標。 「このチェロを聴いて感動しろ」 通じるはずもない日本語で、無茶苦茶な命令をし――そして、突如として、誰も知らないそのライヴは始まる。親父のチェロと、母さんのギター。そして、それに合わせて村中に響き渡る二人の歌。最初は面白半分に集まってきていた人々だが、徐々にその人数が増えていき、やがて村人全員が総出で親父たちを取り囲む。見たこともない巨大な楽器と、それを抱える親父と母さんが珍しくて仕方がないのだ。 だが始まりはどんな形であるにせよ、やがてその旋律と波動は、聴衆たちを一つの空間に閉じ込める。その心に浸潤していく。今まで知らなかった燻りと衝撃に驚きながらも、たった一曲のメロディを人々は追いかけていく。経験したこともない感情の昂ぶりに、その頬に涙が伝う。そして、そのサウンドは世界を創造する。 ――親父と母さんは、挑戦し続けてきた。俺は、ずっとその姿を見てきた。何者にも屈さない。誰が何と言おうが関係ない。チャートでトップを取るためでもなく。CDを一〇〇万枚売るためではなく。聞く者の心に残り、そして現実に反映する強さを生み出すために。誰も知らない、その向こう側の世界を切り開くために。 本人たちには、こんなこと言ったことがないが、俺はそんな両親を尊敬している。凄いと思う。だから、「目指すものは?」「夢は?」「越えるべきものは?」と聞かれた時、俺の脳裏には真っ先に一人の男の相貌が浮かぶ。親父だ。 だが俺は、親父には遠く及ばない男だ。それどころか、親父が命懸けで追っていた夢を、潰してしまった男だ。――そう。俺は二人して倉庫に閉じ込められたあの時、親父が最初からそれを考え、覚悟を決めていたなど、知りもしなかった。知りも、しなかったんだ……。
GMT 20 September 1996 03:46 A.M.
1996年9月20日 深夜3時46分 「……一時間、切ったな」 壁に寄り掛かりダラリと腰掛けたまま、俺は低く言った。 デジタル時計が示す、起爆装置作動時刻までのタイム・リミットは、五八分。この一時間半の間、あれやこれやとジタバタ足掻いてみたが、出来ることなどそう多くはない。分かりきっていたことだが、結局その全ては徒労に終わっていた。 もう、ジョークを飛ばす余裕もない。俺も親父も、力任せに手枷を外そうと暴れまわったため、カナリの体力を消耗している。オマケに無茶をやったせいで、手首の皮膚が切れて俺も親父も腕から血を流している始末だ。 だが、そんなことは問題にもならなかった。あと一時間足らずで、時限式の起爆装置が作動し一〇キロを超えるC4が大爆発を起こす。そうなれば、倉庫もろとも俺たちはこの世から消し飛ぶだろう。そして今や、それは必定の未来に思えた。 「クソ、どうすりゃ良いんだ! どうすれば、この手枷を外せる。鎖を千切れる」 忌々しい手首の戒めを冷たい床に叩きつけて俺は吼えた。だが鈍い音を立てるだけで、手枷はビクともしない。それどころか、また手首の傷を悪化させるだけだ。 「……落ちつけ、祐一」 「落ちつけだ!? この状況でどう落ちつけって言うんだよ!?」 人の心理っていうのは、微妙なものだ。残り時間が一時間以上あった時は、まだ幾分余裕があった。ジョークを言い合う精神的余裕もあった。だがデジタル時計の六〇分単位の表示がゼロを刻み、遂に残り時間が一時間を切った瞬間、俺の中で何かが崩壊した。 もしかすると、これが『緊張の糸が切れた』という状態なのかもしれない。自分が徐々にヒステリックになっていくのが実感できるが、それを食い止めることができない。一度暴走してしまった精神は、崖を転がり落ちていく小石のように、加速度を増して止まることはないのだ。 「まあ、確かに俺も正直参ってるよ……」 親父は壁に寄り掛かったまま天井を見上げ、深く溜息を吐く。 「まさか街のガキどもが、マクノートン家のシンジケートと繋がってたとはな。確かにあれだけの組織がバックについてりゃ、人殺しだろうが何だろうが、ガキが調子にのって無茶やらかすのも頷けるってもんだ。そこは俺としても計算外だったよ」 マクノートン……。今の俺は、恐らく世界中の誰よりもその名に敏感になっているだろう。勿論、親父の口から漏れたその言葉にも、俺は反応した。 「親父、もしかしてキイス・マクノートンのこと知ってるのか?」 「ああ。知ってる。ちょっとでもこの国の裏事情を聞き齧ってる人間なら、誰でもマクノートンの名は知ってるさ。イタリア風に言えば巨大なマフィア的組織ってとこだからな。主に扱ってるのは、南米から密輸してくる麻薬。それから武器の売買だな」 「そんなに凄いのか。マクノートン一家ってのは」 どうやら、あのキイスとかいう奴の親父は、俺が想像していたよりも遥かに格上の悪党らしい。 「イングランドじゃ、多分最強のワルだろうな。ガキどもが言ってたのはウソじゃない。政府の高官から、軍、警察、司法。各方面に色々なコネを持ってるらしいからな。確かにマクノートンの首領の一人息子じゃ、この国にいる限り好き放題やれるだろう」 「どうして、一介のチェロ弾きに過ぎない親父がそんなことを知ってる」 「一介のチェロ弾きとは無礼な。チェロ弾きはとっても凄いんだぞ。恰好良いんだ。偉大なるチェロ弾きをバカにすると、ブッ飛ばすぞ!」 「はいはい。分かったから理由を言え。何で親父がそんな裏事情を知ってるんだ。そう言えばアンタ、軍用プラスティック爆弾のことも知ってたな。なんでだよ?」 「ウム。実は――」親父は自由な方の右手を顎に当て、ボンヤリと宙を見上げる。 「何年前かな。オーストリアでコンサートやった時に、えらく俺のサウンドに惚れ込んでくれた奴がいてな。友達の紹介で俺の曲を聴きに来たらしいんだが。とにかく、そいつがそういう話に詳しい商売やってたんだよ。――で、色々話してる内に結構仲良くなってな。色々と犯罪界の裏事情なんかを、酒の肴に聞かせてもらうことがあったわけだ。勿論、俺は引き換えにチェロの話しを色々聞かせてやったぞ」 「酒の肴に、犯罪界の裏事情を――か?」 まさに、『類は友を呼ぶ』。昔の人は、上手いこと言ったものだ。親父はまさにそれを体で示す男で、世界中に変な知り合いが大勢いる。 「何者だ、そいつ。名前は?」 「ローザ・ラヴロック。ICPOってところで働いてる警察官なんだと」 「ICPO? 聞いたことあるな。確かそれって、銭形のとっつぁん(ルパン)が所属してるインターポールってヤツのことじゃなかったか?」 「――おう、それそれ。日本では国際刑事警察機構なんて呼ばれてるらしいぞ。彼女は、そのICPOの『法規・調査部』に所属してる特別捜査官の一人だって話だ。要するに国際的な犯罪を専門に扱う警察官なわけだな。聞くところによると結構なエリートらしいから、そのうち局長とかになるかもしれんぞ」 世界を興行して回っている関係で、親父は各国に知り合いが多い。中には、驚く程のビッグネームなんかも含まれていることがある。 「そのローザって人、女か?」 「ウム。実際に裸にして確かめた事はないが、彼女はどう見ても女だ」 「美人か?」 「おう。美人だぞ。ま、俺の夏夜子には一歩譲るがな。機会があれば、今度紹介してやるよ。あの娘、日本語も達者だから色々話を聴いてみるといい。自分の知らない世界で生きてる人間との出会いは、良い意味で刺激になるぞ。ヨーロッパじゃ特に美術品の密輸出入が盛んだし、宗教がらみのテロリズムも多い。それに、麻薬や武器の売買の取り締まりと阻止もインターポールの仕事だ。そういうわけだからして、彼女の口からイングランド最凶のシンジケート、『マクノートン』の名前は幾度も聞いたってわけだな。因みに、俺の爆弾に関する知識も、実は彼女からの受け売りだったりする」 「イングランド最凶のシンジケートか」 じゃあ、あのキイス・マクノートンに借りを返そうと思えば、その裏社会のドンを相手にしなくちゃならないことになるな。現実的に考えて、今の俺にそれだけの力は、とてもじゃないがありはしない。いや、そんなことを考える以前に…… 両手を掲げる。ジャラリと鎖がなる。この、右の手首にガッチリと嵌め込まれた忌々しい手枷を何とかしないことには、借りを返す返さない以前にここで御陀仏だ。そしてその死は、俺の完全な敗北を意味することになるのだろう。 「冗談じゃねえ」 「ん?」親父が訝しげに俺の顔を見る。 「こんなところで死んでたまるか。俺はあの本物のドラ息子に、まだ教えてやってねえぞ。俺たちは、命を掛けたゲームをやってるんだ。負けた時は、死ぬ覚悟でやらなきゃならねえ。高みで見物してる奴らを引き摺り下ろして、そいつを骨身に染み込ませてやる」 「――そうだな。お前の言うことにも一理ある」 親父は、コクリと頷いた。この辺の考え方は、親子だけあって俺たちには共通する部分がある。要するに、俺も親父も極度の“負けず嫌い”なのだ。 「命の遣り取りには、当然それなりのリスクが付き纏う。命懸けの覚悟がいる。それを連中に教育してやらねばならん。もう、命を抵当に入れたゲームは、あいつ等の手ではじめられたわけだからな」 「ああ。それに、俺は腕と肋骨を折られたカリも、まだ返してない」 「俺には、夏夜子だっているしな。確かに、ここでは死ねない」 そう言うと、親父は何かしばらく考え込んでいる様子だった。腕を組み、ジッと薄暗い倉庫内の虚空を睨みつけたまま、微動だにしない。こういう時の親父には、近寄り難い雰囲気がある。ただ見守るしかないのだ。 会話が途切れると、夜の静寂が痛烈なほどに感じられる。ここには、本当に俺と親父しかいないのだと、弥が上にも思い知らされた。 「なあ、あの爆弾の箱を何とか手繰り寄せて、その中のC四とやらを使って、この鎖を切れないかな?」 「無茶言うな。時限式の他に、振動や光に反応する起爆装置も搭載してたらどうする? 下手に箱を動かしたり、開けたりしただけでドカンだぞ。それに第一、どうやって爆破するんだ」 「火を着ければいいんじゃないか?」 「その火はどこにある。俺はライターなんぞ持ってないぜ?」 そう言えば、俺も親父も煙草は吸わない。ライターもマッチも持っているはずがなかった。 「それに、TNTや高性能爆薬ってのは、密封していない状態で点火しても、爆発しないで濃い煙を出して燃えるだけだってローザが言ってたぞ」 「えっ、火じゃ爆発しないのか?」 では、どうやって爆破させるんだろう。ダイナマイトなんかとは勝手が違うのか? 「特殊部隊が使うプロの爆薬だからな。感度が低くて、安全性が高くないとだめなんだと。衝撃とか摩擦なんかにも強くて、ハンマーで思いきり叩いても爆発しないそうな。それでいて、水中でも使えるっていうから、毒性を除けば万能だよな」 親父は皮肉交じりに肩を竦める。 「爆発させるには、専用の発火装置がいるらしいぜ。電流流したときの熱で爆破するヤツと、雷管のついた信管を使うやつの二通りあるって言ってた」 どの道、シロウトが一朝一夕に扱える程、甘いシロモノじゃないってことか。こういう時、ハリウッド映画の主人公なら簡単に爆弾とか使ってるんだけどな――。 「ま、しょうがないから、最後の秘密兵器を出すかな」 考えが纏まったのか、親父は組んでいた腕を解くと呟いた。 「残り時間、あと四五分。脱出して、それからここを離れる時間を考えると妥当なところだろう」 「オイ、ちょっと待て。なんだ、その秘密兵器ってのは?」 「昔から言うだろう、備えあれば怪我一生」 「それを言うなら、『備えあれば憂いなし』だ。馬鹿オヤジ」 親父はそんな俺の突っ込みを完全に無視して、右の靴を脱いだ。カジュアルな、黒の革靴だ。何をするつもりかと見守っていると、それから靴敷きを取り出す。全く意味が分からない。 「何のつもりだ?」 親父の奇行の意図が掴めず、俺は小首を傾げて問う。 「俺はさ、サインとかしないけど、ローザは良い奴だから特別にサインをくれてやったんだ。実は、その時にローザにお返しのプレゼントに、色んなスパイグッズを貰ったんだよな。その一つが、こいつだ。これは、東西冷戦時代に間諜の連中が使ってたアイテムらしいぜ」 「だから一体何のことだよ?」 それに答える代わりに、親父は靴敷きの中から銀色をした小振りのナイフを取り出した。フォークとセットになっている、食事用のナイフよりも細くて短い。そのフォルムも、どちらかというと外科用のメスに近しい代物だった。だが鋭い光を放つそれは、充分に研磨されているらしく、切れ味は抜群に良さそうに見える。 「護身用ナイフだ。靴敷きの中に、斜めに刺し込む様にして収納できる」 キラリとナイフを翳して見せる。良く磨かれた銀色の刀身は、まるで鏡のようだ。 「ベルトに仕込むタイプの工具セットも貰ったんだが――あれは重いから、いつもは着けてないんだ。あれなら、この手枷の鍵も外せるかもしれないんだがなあ」 「で、でかしたぞ、親父! そいつでなら、なんとかこの鎖を壊せるかもしれない」 「ウム。こいつは、チタン製だからな。結構丈夫だ。この鎖はかなり太いが、時間を掛ければ何とかなるかもしれない……ような気がする」 絶望の闇に沈みかけていた俺たちに指し込む、一条の光。これぞまさに曙光。なんとか目処が立ってきた感じだ。俺たちはガハハと機嫌良く笑い合う。 「ようし、親父。もう時間がない。早速、やっておしまい」 「おう」
GMT 20 September 1996 04:03 A.M.
1996年9月20日 深夜4時03分 薄暗い倉庫内に火花が上がり、瞬間的に辺りを眩く照らし出した。金属と金属の激突によって生じる、一種剣戟の音にも似た響きが断続的に続き渡る。もしこの試みが成功すれば、命を抵当に入れたこのゲームに勝利することができる。淡い期待を胸に、俺はそれを瞬きするのも忘れて見入っていた。 親父は肩で荒い息をしながら、ナイフを握った右腕で額の汗を拭う。鋼鉄の鎖を相手に、渾身の力で幾度と無くナイフを叩きつけるという純粋な力作業の連続は、思ったより体力を消耗するものらしい。 「くそっ、硬いな――こいつは」 成人男性の人差し指ほどの太さがある、二本の鉄の紐で編み込まれた頑丈極まりない鎖。チタン製のナイフを以ってしても、これを叩き壊すのは容易ではない。事実、親父の度重なる挑戦を受けても、掠り傷をつけるのがやっとだ。 「先にナイフの方がやられちまうぜ」 ナイフを貸してもらい作業を交代してやりたいところだが、生憎と俺は左腕を派手に骨折していて力仕事はこなせない。無理を承知で、親父に全てを頼るしかなかった。俺の身体ってやつは、何時だってそうだ。本当に動かなきゃならない時には、全く役に立ってくれない。 「――ふぅ」 滴る汗を拭いながら、親父はデジタル表示に目を向ける。C四が収められた木箱の上で、生涯最後の瞬間までを律儀にカウント・ダウンしてくれるそれは、俺たちに残された時間が三九分であることを報せてくれていた。この数字が00:00:00を刻んだ時、俺と親父は死ぬ。 「どうする、親父……もう時間がない」 「ああ」 親父も分かっているらしい。たとえ、残り時間が四〇分ではなく四時間であったとしても、手にしたナイフで枷を断つことはできないと。現実的に考えれば、今の作業を中断し別の活路を見出すしか、俺たちに生き残りの術はない。だが、別の活路なんてどこにある――? 作業を行なっていない俺の額にさえ、脂汗が滲んでいた。冷静に状況を分析してみれば、結論は既に出ている。即ち、『俺たちは逃げられない』。どう考えても、残り四〇を切った今から、俺たちを呪縛している鋼鉄の手枷を破壊し倉庫から首尾良く脱出することは不可能だ。 「くそっ! こんなところで死ぬのかよ! どうにもならないのかよ、畜生!」 そんなことをしても状況は変わらない、そう分かっていても止められなかった。俺は手枷の嵌め込まれた右腕を、何度も倉庫の冷たい床に叩きつけた。その度にジャラジャラと耳障りな音を立てて鎖が鳴り、手枷が皮膚を激しく擦り、既に血に染まっている手首付近の傷口を広げていく。 「なんで、こんなことになったんだ。俺が何したって言うんだよ!? なんでだ!?」 ヒステリックに叫びつつガシガシと鎖を踏みつけるが、度重なるナイフの猛攻を完全に凌いできた鎖が、そんなことで根を上げるはずもない。 「厭だ……死にたく……死にたくねえよ……」 全身から、力が抜けていく。俺はこの時、もう完全に諦めていた。どう考えたところで、もう助かる術などないのだ。少なくとも、絶望の余り可能性を模索する気力すらなかった。ただ弛緩したように項垂れ、自分を襲ったこの突然の理不尽に怒り、嘆くしかない。視界が、涙で滲みはじめた。 親父は、さっきから何も言わない。恐慌状態にある俺にも全く反応を示さず、ただ放心したようにボンヤリと宙を眺めている。随分と離れたところにある鉄格子付きの窓越しに、月を眺めているらしい。 何事にも不屈。限りなく諦めの悪い男である親父も、流石に努力を放棄したのだろうか。その顔には、焦りもなかったが希望の光も見受けられなかった。 「夏夜子と、約束したんだけどな……」 誰に聞かせるでもなく、親父はポツリと言った。硬い床に座り込んだまま、壁に寄りかかり視線を宙にさ迷わせる。その相貌からは、親父が何を考えているのかを窺い知ることはできない。 「演じたい役割と、演じられる役割ってのは違うってことか。たとえ、その資格があったとしても」 気でも触れたのか。俺には、親父が何を言っているのか全く分からなかった。起爆装置作動までのタイムリミットは、あと三一分。今こうしている間にも、その瞬間は刻一刻と近付いていると言うのに、親父はまるで時が止まってしまったかのように、奇妙に静かだった。 「理不尽って言えば、理不尽な話しだが……ま、しょうがないんだろうな。きっと」 そう言って、親父はフッと自嘲的に笑った。だが次の瞬間、その相貌が突如、引き締まる。 口元には、憎らしいほどに余裕タップリの不敵な微笑。そして、揺るぎ無い意志の力を感じさせる、黒く鋭い眼。それは、いつもの親父の顔だった――。 「よし、祐一」 親父は突然俺に顔を向けると、宣言した。 「もう、この辺で良いだろう。ゲームは終わりだ」 「えっ?」 「――そろそろ、この物騒な倉庫から出るぞ」
GMT 20 September 1996 04:16 A.M.
1996年 9月20日 深夜4時16分 “そろそろ、この物騒な倉庫から出るぞ。” それは、俺の中の希望が勝手に生み出した幻聴だったのだろうか。聞き間違え出なければ、俺の耳には親父がそう言ったように聞こえた。事実、聞こえたのであって欲しい。 爆発までの残り時間は、既に三〇分を切っている。ナイフで鎖を壊そうにも、今からじゃ時間が掛かりすぎて間に合わないだろう。どう考えたところで、物理的にこの戒めを破って脱出するのは不可能に思える。だというのに、『倉庫から出るぞ』。いとも簡単に、親父はそう口走った。 「おい、親父。今――」 「よおし、祐一。とりあえず、その腕を吊ってる包帯をよこせ」 俺の言葉を遮って、親父は言った。 「は?」 「だから、包帯を貸せと言っている」 そう言いつつズイっと右腕を出して、それをヒラヒラと上下させる。 「いや、それよりも親父」 「なんだドラ息子。ぐだぐだ言っとらんで、はやく包帯よこさんかい」 「アンタさっき、この倉庫から出るとか何とか口走らなかったか?」 「言ったぞ。そのために、お前の包帯がいるんだよ。よこせ」 親父は説明するのももどかしいといった感じで、眉を顰めながら言う。何か妙案でも思いついたって言うのか? 「どういうことだ、説明しろよ。包帯なんて何に使うんだ? どうするつもりなんだ」 噛み付くように詰め寄る俺に、親父は呆れ顔で嘆息して見せる。 「あのなぁ、祐一。あのデジタル表示が見えないか? もう三〇分切ってる。今から行動して、間に合うかも微妙な時間だ。お前に説明してイチイチ了解とってる暇はないんだ。死にたくなかったら、さっさとその包帯を解いて俺に遣せ」 有無を言わせない口調に、俺は鼻白んだ。確かに親父の言うことは理に適っている。ここは議論するより、大人しく従っておく方が懸命だろう。こいつは基本的に馬鹿だが、計算はできる男だ。ここまで自信タップリに語っている以上、何らかの勝算があるのだろう。今は――それに賭けるしかない。 「分かったよ。……ホラ」 俺は不承不承頷くと、苦労しながら左腕のギプスを吊っている白い三角巾を解き、親父に手渡した。 「よーし。こいつだ。生還のためには、コイツが必要なんだ」 親父は布を受け取ると、眼前にそれを翳しニヤリと笑う。そしてそれを縒(よ)るように捻り、細い紐の様に変えていった。 「一体なんだっていうんだよ」 思わず口をついて出る俺の質問には答えず、親父は黙々と作業を続ける。次に奴が見せた奇行は、自分の左腕に嵌め込まれている手枷を、限界まで肘の方(つまり腕の上)にズラし上げることだった。そして僅かにできた手首部分のスペースに、三角巾を捻って作った細くて長い紐をグルグルと幾重にも結びつける。 「祐一、片方を引っ張れ。限界までキツク、この紐を俺の腕に食い込ませるんだ」 「――何でだよ」意図が掴めず、再び問う。 「だ〜か〜ら、説明してる暇はないって言ってるだろう! 鳥かお前は。シッカリ記憶しとけ、このアホ。バカ。ボケ。エロダコ。ゴミ。チリ。ダスト。ドラ息子」 この野郎。緊急事態だからって言いたい放題言ってくれる。ここから無事に出られたら、まずはコイツを殲滅するのが最初の仕事になりそうだ。 だが結局、ここは奴の指示に従って作業を手伝うしかない。俺は親父の腕に結び付けられた紐の片側を握ると、渾身の力で引っ張った。もう片方の端は親父が右手で握っており、俺と反対方向に思いきり引っ張っている。結果、肌を切り裂くほど深く、紐は親父の手首に食い込んだ。あまりに強力に締めつけられてる為、血の循環が止まって手首から先が白くなっている。 「よーしよし。OK、上出来だ。ウム、完璧!」 親父はそれを見て、満足そうに頷いている。もうここまで来るとサッパリ分からない。もしかすると、親父は気が狂ってしまったのではないかと、疑惑の念さえ浮上してくる。 「じゃあ、これが最後の作業だ」親父は俺に顔を向けて言う。 「――祐一、俺を殴れ」 「……はァ?」思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。 いつもなら殴れと言われれば嬉々としてそれに従うところであるが、今は場合が場合だ。やはり、あまりの緊張状態で親父は神経がやられてしまったのではないだろうか。 「ホレ、どうした。早く殴れよ。何時ものお前なら言われなくても喜んでやるだろう」 「そりゃ……まぁ、そうかも知れないが」 逡巡している俺に、親父は顔を寄せてくる。 「時間がないんだ。考えてる暇もねぇ。迷うくらいなら、取り合えず行動しろ」 そう言われて、再びデジタル表示に目をやる。刻まれた数字は、00:26:34。もう、二六分しかない――!? 「クッ、仕方ないな」 「ようやく分かったか」 親父の気が狂っちまったのだとしても、思いっきり殴ればもしかするとショック療法で治るかもしれない。取り合えず、ここは奴が言うように殴ってみるのが一番だろう。 「オッケイ。お望み通り、力一杯殴ってやるぜ。後で文句言うなよ」 「オウ。さっさと来い」 俺と親父は立ち上がった。そして少しの間合いを置いて互いに正面から向かい合う。 「いくぜぇッ!」 左腕は骨折しているから動かすのは無理。かと言って、右手も人差し指を折ってるから、パンチを繰り出すのは不可能だ。ここは右の掌底(しょうてい)で妥協するしかないだろう。つまり、グーではなく掌の硬い部分で殴るわけだ。これだと手首を痛める心配もないから、安心だしな。 「死ねィ、親父!」 殺してどうするという噂もあるが、今はそんなことを取り合っている暇はない。叫びと共に思いきり振りかぶり、そのままステップ・イン。慣性を利用して勢いを付ける。そして、腰の回転を使って更に上体を加速させ、肩から撃ち抜く様に――殴りつける! 左頬に突き刺さるようにして、掌底はヒットした。親父も上手くポイントをズラし、衝撃を最低限のものに抑えはしたが、効いているはずだ。一八〇cmの屈強な身体が、俺の一撃でグラつく。 ――それにしても、これに一体どんな意味があるというのだろう。問題はそこだ。親父を殴ることで、この絶体絶命の状況が打開されるとはとても思えない。ならば、親父は何を狙ってこんなことを提案したというのか。 その答えは次の瞬間、予想もしなかった形で示された。 「祐一。一発は一発だ。悪く思うな――よッ!」 「な……ッ!?」 驚愕に目を見開くも、その時にはもう手遅れだ。 油断していた俺のボディに、親父の渾身のボディ・ブローが埋め込まれる。キイスの仲間たちに食らったパンチとは、比較にならない鋭さと重み。戦闘訓練を長年積み重ね、身体に最適軌道を覚え込ませた者だけが放てる突き。 成長期を終えていない中学二年生、身長一五八cm、体重四六キロの俺には堪らない。一瞬にして、意識が吹っ飛んでいった。 「グ……フ、ッ……! 親、父……?」 まさか非行少年グループばかりではなく、実の父親にまで殴られた挙句、意識を奪われることになろうとは。まったく、世の中どうなってるんだか――。俺は、自分の生まれの不幸を呪った。 そして、意識が暗転し、己の深層に埋没していく中、 「お前の目には、ちょっと刺激的すぎるだろう。ガキは大人しく寝てろ」 最後に、親父がそう呟いたのが聞こえたような気がした――。
GMT 20 September 1996 04:44 A.M.
1996年9月20日深夜4時44分 ロンドン南西部 遠くから耳を劈くような爆音が轟いてくる。それは突風と熱を伴い、闇の泉に浸かりゆらゆらとその水面と共に揺れる俺を弄っていく。 凄まじい衝撃だった。自分の髪がメドューサの頭のように、其々独立した意志と生命を持つ蛇にでも変ってしまったかの如く踊るように靡いているのが分かる。そしてそれは、俺の意識を自らの内なる世界の深淵から引き上げるに、充分過ぎる役割を果たした。 ここ数ヶ月で何度目になるだろう。すっかりお馴染みとなってしまったプロセスを経て、俺は意識の手綱をようやく手繰り寄せることに成功した。ぼんやりとしていた視界が、曇りガラスをワイパーで拭うように急速に鮮明になっていく。 酷い頭痛がした。キィ――ンという耳障りな音波が、耳の奥の方で喧しく鳴り続けている。俺の身体をモニタリングできるディスプレイがあったとしたら、それはきっと真っ赤な『ERROR』表示で埋め尽くされているに違いない。身体は勿論、頭の中までがグチグチャに掻き回された様に混乱している。それはもう、嵐にでもあったような有り様だ。自分がどうなっているのか、認識することさえ難しい。 「よう、ドラ息子。ようやくお目覚めか?」 その聞き慣れた太い声は、驚くほど近くから聞こえてきた。そして、それを認識することで、俺はハッと完全覚醒する。不本意ではあるが、親父の声を聞くことで、自分が意識を失うまで『どんな状況』に陥っていたのかをようやく思い出したのだ。 俺が良くやるTVゲームでたとえるなら、バックアップデータのロード読み込みが終わって、前回途中で止めていたゲームを再開できる状態になったというところだろう。或いは、栞を挟んでいた読みかけの本を開き、これまでの粗筋を思い出した状態か。とにかく、記憶の糸と脳が繋がったわけだ。 俺はパッチリと目を開いた。そして、人間の感覚器の中で最も多くの情報量を入力できる視覚を頼り、忙しく現状認識に務めた。 緩やかに上下する視線。爆発炎上している倉庫らしき残骸。夜の闇を煌煌と照らし出す、ハリネズミのような形をした巨大な炎。濛々と空に上っていく黒煙。 「ど、どうなったんだ」 「それより、意識が戻ったんなら降ろすぞ。いつまでも男を担ぎ上げておく趣味はない」 俺の質問を無視し、親父は淡々と言った。その言葉と共に、視界がグルリと反転する。次いで、全身を襲う衝撃。今まで、馬上で揺られるような感覚を感じていたことから、親父の肩に荷物のように担がれていたことは分かっている。となると、俺はそこから放り出されたのだろう。 「いてて……。クッ、尾骨を打っちまったじゃないか」 意志とは関係なく、目尻に涙が滲んでくる。俺は打ち付けた臀部を擦りつつ、親父に抗議の声を上げた。 「荷物じゃないんだぞ。壊れ物で、しかも生物なんだ。もうちょっと丁重に扱えよな」 「そうして欲しけりゃ、運搬料金をキチンと支払っておくことだな」 「着払いするつもりだったんだよ」 ワイズクラック(へらず口)を返しながら、俺は改めて周囲を見回した。 周囲は鬱蒼と茂る背の高い木々のシルエットで覆われている。頂点までスラリと鋭く尖った三角型は、剣山のようにも見える。少し不気味なほどだ。頭上を見上げれば、長閑な田舎特有の降るような満天の星空。そして、ささやかな光源を提供してくれる、無慈悲な夜の女王――月。ここが倉庫の内部に見えるなら、俺は眼科か精神病院に行く必要がある。 「こりゃ……一体」 さっきの爆音と、数百メートル先で豪快に炎上しているのは、確かめるまでもなく俺たちが閉じ込められていた倉庫だろう。つまり、俺は親父に担がれてあそこを脱出し、見事生還を果たしたことになる。親父にも俺にも足はちゃんとついているから、幽霊なんて笑えないオチは無しだ。 「俺たち、助かったんだよな?」 これが現実であることを祈りながら、俺は腰を突いたまま親父を見上げる。 「とりあえず、そう解釈していいんじゃないか。少なくとも、あのガキどもの言うゲームには勝利できたことになるだろう」 親父は左手をポケットに突込み、右手で後頭を掻きながら興味なさそうに言った。 「でも、どうやって?」 俺は今更ながら、自分の両の手を目の前に掲げて見る。左手にはギプス、そして右手には例の手枷が付いたままだ。鎖も途中で断ち切られた形跡はなく、その反対側には親父の左腕に嵌まっていたはずの手枷がついたままそこにある。 「どんなマジックを使いやがった。どうやったって、あの状態から抜け出すことは不可能だったはずだぜ」 「そうか?」親父は俺と目を合わせず、とぼけたように言う。 「そうさ。物理的に不可能だった」 「そうでもないさ」親父は笑う。「現に、俺とお前はこうして此処に立っている。それが、何よりの証拠だろ?」 「それは……」 確かに、それはその通りだ。現象が確認されていて、観測手段や認識に誤りがないのなら、たとえそれがどんなに不条理で非現実的なことであっても、それはつまり仮説や理論、考え方の方に間違いがあったということの証明だ。いくら信じられないような出来事でも、実際に起こってしまったなら、それを否定することはできない。 「じゃあ、一体どうやって……」 そこで、俺の中途半端な笑みと言葉は凍りついた。そう。結論なんて、最初から一つしかない。そのことにようやく気付いたからだ。 いや、俺は最初からそれに気付いていたに違いない。そうだ、その通りだ。認めろよ、祐一。お前は、倉庫の中で四苦八苦していた時から、既にそのことに気が付いていた。だが、考えないようにしていた。その結論を避けようと無意識に頭の中から締め出していた。怖かったから。そんなこと、考えたくもなかったから。そして何より、自分にできるわけないと思っていたから――。 でもここまで来たならば、それを認めないわけにはいかない。親父と俺は、ここにいる。あの倉庫から脱出して、ここにいる。そして、今も俺の右腕には戒めの手枷が嵌め込まれたまま。鎖も手がつけられないまま繋がっている。その先には、親父の左手首につけられていた手枷。 結論なんて、一つしかないじゃないか……。 ドクン、と心臓が一拍やけに高鳴る。そしてそれを皮切に、早鐘のように鳴り出した。汗が背中を伝っていく。呼吸が崖を転がり落ちる石のように、加速度をつけて早まっていく。 俺は鎖を引っ張り、親父の左腕に付いていたはずの手枷を手繰り寄せた。瞬間、ベッタリと油分を含んだ何が指先に纏わりつく。月光に翳し、その正体を確かめると――それは、鮮血だった。 手枷は血に塗れていた。どこもかしこも乾ききらない深紅に染まっていた。 切れていない鎖。外れていない鍵。血塗れの手枷。左手首に、血が止まるほど堅く結びつけた包帯。気絶させられた、俺。どんなに逃げても、結論は変らない。それどころか、確認すればする程にそれを示す確証は増えていく。 「親父……ポケットに入れてる手を出せよ」 その声は自分でも滑稽なほど震えていた。 親父は何も言わない。何の感情も感じられない相貌で俺を静かに見下ろしている。 「親父、頼む。その左手をポケットから出して、俺に」 息が詰まった。喉を掻き毟りたくなるほど、苦しい。 「俺に、見せてくれ」 頼むから。後生だから。俺に、この目に、見せてくれ―― 「それは無理だ」 親父は言った。この夜に似合いの、静かで穏やかな声だった。 「このポケットには、左手なんて入ってないからな」 そう。ポケットは最初から空だった。ただ、滴り落ちる鮮血を受け止めるだけだった。分かっていたことだ。信じたくなかった、ことだ。 「腕を……切ったのか……」 親父は、何も言わない。 「あのナイフで、自分の左手を切り落としたのか?」 親父は、何も応えない。 「全部分かってて、だから、俺を気絶させて……ナイフがあるのをギリギリまで隠してて……包帯で止血して……それで、自分の腕を切断したのか?」 「――帰るぞ、祐一。血が足りねえ。いい加減、ぶっ倒れそうだ」 親父は力尽きたように座り込む俺の脇をすり抜け、ふら付く足取りで獣道を歩いていく。 「折角助かったのに、失血多量で死んだんじゃ何の意味もない」 「なんで……」 だって、それじゃあ―― 左手がなかったら。 あの左手を失ってしまったら。 もう…… 「もう、チェロ弾けねぇじゃねえか!」 その俺の叫びに、踵を返して歩き出した親父の足がピタリと止まる。 チェロにしろ、ギターにしろ、ピアノにしろ、左手がなくてはどうにもならない。右手よりむしろ、複雑で素早い熟練したフィンガリングが要求される左手のほうが、多くの楽器で重要視されるのは誰もが知っていること。まして、日本を代表するチェリストとして世界を相手にしていた親父には、レフトハンドを失うということはあらゆる意味で致命的な事実となる。 「それは、お前が心配するようなことじゃねえよ」 振り返らずに、親父は言った。 「行くぞ。もう、そんなには持たないんだよ、この身体。本当は親指だけにしとくつもりだったんだが、上手くいかなくてな。結局は手首ごと処理するハメになっちまった。おかげで計算狂って出血量が増えてるんだ。流石に俺も、そのうちブッ倒れるだろうよ。それまでにレスキューでも呼んでおかねえとな」 「なんでだよ! 言え。なんで、俺を助けた。あんた、チェロに命掛けてたんだろ。なんで俺の腕を切り落とさなかった。なんで俺を助けたりした」 喉が張り裂ける程の大声で、親父の背に怒鳴りつける。そうしなければ、俺の中の何かが崩れ落ちてしまいそうだった。自分を保てなくなりそうだった。 「そんなことされて、俺が喜ぶとでも思ったのか? ヒロイズムだか自己犠牲だか知らねぇけど。そんなもん振りかざされて、助けられるなんざ迷惑なんだよ。俺はそんなこと頼んじゃいねえぞ」 その叫びに、親父は再び歩みを止める。そして烈火の如き怒りに目を吊り上げて、俺に走り寄って来た。 「ふざけたことを抜かすな」 親父は、右手で俺の胸倉を掴み上げて怒鳴る。 「誰がお前を助けたなんて言った。――自己犠牲? 英雄願望? 自惚れるな。夏夜子ならいざ知らず、なんで俺がお前なんぞ助けなきゃならねえんだ」 空を割るほどの怒号。世界に通用するチェリストであり、同時にヴォーカリストである親父の声は、ビリビリと俺の身体を震えさせた。まるで電撃に打たれたような衝撃が襲ってくる。 「これは俺のためだ。自分自身を維持するために必要だったからだ。自己犠牲でも――ましてや祐一、手前のためなんかじゃねえ」 「自分のためだったら……」 ここで何か怒鳴り返さなければ、俺は立ち直れなくなる。背負いきれないものを背負って、その重みに耐え切れなくなる。 「自分のためだったら、俺の腕を切れよ!」 俺は親父の胸倉を掴み返して、力一杯怒鳴った。 だが、返ったのは対照的ともいえる冷ややかな薄笑みだった。 「そうやって助かって、ちょっと長く続けられたくらいが何になる? それでチェロを続けられたとしても。俺はそんなもの欲しくもねえ。俺はお前とは違う」 殺意にも似たものを感じさせるその目に、俺は全ての抵抗と言葉を失った。 「祐一。お前達、これまでの人生で一度でも何かと戦ったことがあるか」 思わず、俺は目を見開いた。一番触れられたくない何かを無理やり暴かれたような衝撃を覚えたからだ。掌にジワリと汗が滲んでくる。 「なんかあったらすぐ逃げ出す。人生ふりかえっても負い目ばかりの思い出だけ。三年前も、今も――お前は変わらねえな。いつまでも過去相手に、逃げて追っての鬼ごっこか」 くだらねえ。吐きすてるような一言とともに、親父は俺を突き放す。俺は糸の切られたマリオネットのようにドサリと腰から崩れ落ちた。親父は踵を返し、そのフラつく足取りで遠ざかって行く。 もう、その背に掛けられる言葉など何一つない。抜け殻のように呆然と坐り尽くしたまま、俺はそれを見送った。 ――お前は変わらねえな。 その言葉が、何故か耳から離れなかった。
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