London United Kingdom London Iryo Center
Hendon Way London NW4 3NE U.K. GMT 21 September 1996 12:46 P.M. 翌日午後12時46分 ロンドン医療センター ――親父は、処置が良かったのか一命を取り留めた。大量出血のため、救急車が着いた頃は既に意識を失っていて、かなり危険な状態にあったそうだが、止血の処理が的確だったおかげで辛うじて助かったという。動脈どころか、手首から腕を丸ごと切り落としたんだ。助かっただけでも幸運だったんだろう。 倉庫から脱出した後、結局俺たちは近く――と言っても随分歩いたが――にあった民家に助けを求めた。そして、そこの住人に999(警察・消防・救急車を一括する緊急回線)に通報してもらい、レスキューを呼ぶことになったわけだ。 幸運なことに、そこに住んでいた婆さんが、若い頃に看護婦をやっていた人らしい。出血の酷い親父を見るや、彼女はお湯を沸かし、毛布で親父の身体を温め、止血用のゴムで適切な処置を施してくれた。 救急車が二〇分かけて来るまでの間、俺に軽食を出してくれたのも彼女だ。 この事件の一番の功労者は、彼女かもしれない。親父に関して言えば、命の恩人とも言える。 その親父は、病院に担ぎ込まれた瞬間、問答無用で緊急手術を受けた。聞いた話によると、傷口が信じられないほどズタズタに荒れていて、オペは難航を極めたらしい。医者も、どうやったらあんな切り口になるのかと首を捻っていた。 切れ味の鈍い刃物のようなもので、何十回と連続して腕を突き刺しまくり、腱や筋、骨を無理矢理に切断すればああいう傷になるかもしれないが――それは数十分間に渡り、発狂するほどの絶え間ない痛みと、激しい出血に耐えなければならないらしい。ある意味、麻酔なしでノコギリ使って切断するより辛いとか。そんな地獄の激痛に意識を保てる人間などいるわけがない、と彼は言っていた。俺もそう思う。 親父は手術後も昏々と眠り続け、夜が明けて太陽が街の一番高い位置に昇るまで、集中治療室に閉じ込められていた。勿論、意識が戻っても今日からしばらくは入院生活を送ることになる。あれだけの無茶をやらかしたんだ。誰がどう見ても、当然の報いというやつだろう。 それと同時に、何故か俺も入院を迫られることになった。医者が親父ほどの怪我はないが、一応検査をした方がいいというのだ。俺は断ったのだが、血相を変えて駆け付けてきた母さんに命令されて、渋々ではあるが病院に厄介になることになった。 「なあ、先生。俺は怪我してないんだしさ。入院することはないんじゃないの?」 「何を言ってるんですか、君は」 デスクの上に広げられているカルテに診察結果らしきものを書き込んでいたドクターは、椅子をクルッと反転させると俺を睨みつけた。 彼女は、白髪が少し混じった中年の女医さんで、名前はドクター・ヘイスティングス。勿論、日本語を流暢に話す日系人の外科医だ。ただし、生っ粋の日本人じゃないので、喋る日本語はどこか必要以上に丁寧だったりする。 俺たち家族が贔屓にしているロンドン医療センターは、欧州最大の日系総合医療施設だ。基本的に予約が要るわけだが、とにかく日本人の担当スタッフが二四時間体制で対応してくれるから、英語の話せない俺などには重宝な存在である。 問題は、ここでは一般診療が行われるだけで、手術などの専門的な治療が必要な場合には地元の医療機関に回されてしまうということ。結局、窓口でしかないわけだから、集中治療室に入らなければならない親父や、入院を迫られている俺は別の病院に移されることになるのだ。従って、今俺達が世話になっているのは、正確にはロンドン医療センターではなく、そこと提携している名も知れない(調べる暇なんてなかった)地元の結構大きな病院なのである。 「――いいですか、相沢君。君の身体は、君自身が認識している以上に全身ボロボロなのよ。せっかく完治しかけていた肋骨にも、またヒビが入ってるし。新しい切り傷も身体中にできてるし。おまけに、頭部をビール瓶で殴られたですって? 問答無用。精密検査です」 ドクターはキッパリと断言した。 「大人しく入院して、看護婦さんのお世話になりなさい。外出も禁止。外に出たら君、戻ってこないから」 有無を言わさぬ口調で、ドクターは畳掛ける。一見、品の良さそうな婦人に見えるものの、これがどうして結構な肝っ玉ドクターなのである。俺はこういうタイプが苦手だ。 「そんな。それに看護婦さんって、俺の担当はクマみたいな顔してる男の看護士じゃんよ」 「じゃあ、二〇代のナースを担当にしたら大人しく入院する?」 医者のクセに、恐ろしい取引を持ちかけてくる人だ。流石ベテラン。侮れない。 「その看護婦さん、美人で独身?」 「美人で独身よ」 「じゃあ、する。入院して、甲斐甲斐しく世話してもらう」 「そう。それでは、交渉成立ね。取り合えず、頭部と身体のレントゲン撮って、精密検査。あとは病室で一日安静にしておくこと。いいね?」 「了解」俺は海兵隊の真似をして、ピッと敬礼してみせた。 「それにしても今日の君、一体どうしたの?」 ふと真顔に戻って、ドクターは心配そうに俺の顔を覗き込んできた。 「えっ?」 何か見透かされたような気がして、身体が一瞬ビクリと震える。 「確かに言動は何時もと変わらないお調子者のそれだけど、なんとなく今日の君は少しおかしいよ。違和感と言うのかな、そういうのを感じる。どこか元気が無いような。お父上の怪我と何か関係があるのかな」 「気のせいじゃないの、ドクター?」内心の焦りを抑え、平静を装いながら言う。「昨夜は夜遅くまで色々モメごとに巻き込まれてたから寝不足なだけさ。心配ないですよ」 「そう?」 「ああ。そう」 「じゃあ、そういうことにしておこう。早速、君のお世話を担当してくれるナースを呼ぶわ」 ニッコリと微笑むと、ドクター・ヘイスティングスは看護士詰め所(ナース・ステーション)まで続くコールボタンを押した。 「ドクター・ヘイスティングスです。グリンバーグを診察室によこして頂戴」 そして待つこと数分。ノックと共に診察室に姿を現したのは、『小樽』を連想させる肥えた中年の看護婦だった。妊娠しているのではないかと思わせるほど立派な腹部は、ボタンが弾き飛びそうな程に白衣を押し上げている。熟女と言えば聞こえは言いが、熟しきって腐りきった感じは拭えない。化粧も厚いし。しかも、なんか女性って感じがしない。腕なんか、俺の二倍はありそうだ。 「――って、オイ!」 俺は思わず診察用の椅子を蹴って立ち上がった。一応、イン・ホワイトということで看護婦には間違いないんだろうが、なんだか横にワイド過ぎないか? 明らかに肥満すぎる彼女は、俺より不健康に思える。この場合、自己の体調管理ができない人間に看護任せて大丈夫なのかという、根本的な疑問が脳裏を掠めるのは果たして俺だけだろうか。 「ドクター、お呼びですか」 「ああ、グリンバーグ。お疲れ様。この子、アナタに任せるから。悪戯好きのやんちゃ坊主よ。しっかりと手厚く面倒見てあげてね。よろしく」 驚愕する俺を完全に無視して、二人は英語で打ち合わせた。いくらネイティヴじゃないとはいえ、今の彼女たちくらいのやりとりなら聞き取れるのだ。 「さ、相沢君。彼女が君の面倒を見てくれるグリンバーグよ。ベテランで腕は確かだから。たっぷり甘えなさいな。今日の君は、何だかいつもの覇気がないしな」 「なっ! 話が違うぞ、ドクター。二〇代の美人でフリーな看護婦はどうした」 罪のない笑顔で、サラリと契約違反的な内容の言葉を告げるドクターに俺は猛然と抗議した。 「あらあら、なにか誤解があったようね。私はこう言ったはずだよ、相沢君。『二〇代のナースを担当にしたら大人しく入院する?』って。でも、そのナースを『君の担当にしたら』とは一言も言ってない。 そのナースが担当するのは、もっと小さな子供の患者さんなの。君の担当は、そのグリンバーグ。まあ、ちゃんとご希望通りに男から女になったわけだし。妥協なさい。――ね?」 「ね? じゃねー! はかったな、ドクター」 「フッフッフッ。君のお父上がいけないのだよ」 「親父が?」 あいつ、ドクターに何を吹き込みやがったんだろう。 「――そう」彼女はクスクスと笑いながら頷いた。「以前、君が入院した時にね、君の父親がこうアドバイスしてくれたんです。ウチのドラ息子は美人のお姉さんに弱いから、我が侭を言い出したら、美人のナースを担当にするとか言っておけば、取り合えず大人しくなるでしょうってね?」 「あんの、バカ親父ィ」 余計なことをしやがって。退院したら復讐してやる。拳を握り締め、歯噛みして悔しがっていると―― 「はい、少年。まずはレントゲンをとるよ」 相撲取りのような看護婦は、俺の襟首を引っ掴み無理矢理にレントゲン室へと連行していくのであった。
Hendon Way London NW4 3NE U.K.
21 September 1996 22:19 P.M. 同日午後22時19分 同院 ――病院の夜は静かだ。戦場を除けば、あの世に一番近い場所なのだから、それも当然かもしれない。癒すため、治すための場所とは言え、全ての人間が快方に向かうわけではないんだ。皮肉な話だが、でもそれが現実。人は傷付くし、死にもする。それに抗うことはできるが、逃れることは誰にも出来ない。 病院には、入院患者なら誰でも認める欠点が、大きくみっつある。ひとつ、退屈。ふたつ、メシが少ない上に味気ない。そしてみっつ目が、消灯時間が早すぎることだ。 この消灯時間が早いというのは、万国共通らしい。ロンドン医療センターに紹介されたこの病院でも、御多分に漏れず消灯は二二時三〇分と早い。今時、小学生でもこんな時間に眠るやつなんざいやしないのに。 「なあ、看護婦さん」 「やだねぇ、グリンバーグって呼んでおくれよう!」 ケラケラと景気の良い笑い声と共に、ズバシッと背中を叩かれる。凄まじいパワーだ。きっと、背中には巨大な紅葉がクッキリと出来上がっているに違いない。 「ゲホゲホッ」 思わず咳き込む。目尻に涙が滲んでくるのを感じながら、恨めし気に看護婦のオバちゃんを睨み上げるが、本人は全く俺の視線に気付いてもいない。こういう得な性格をしていたら、俺も悩まずに済むだろうか。 「あ、あのさ。消灯時間は過ぎちまったけど、親父の様子見てきても良いかな?」 「オヤ、ジ?」 「ああ、父親のこと。ファザー、もしくはパパ。分かるか、オバちゃん」 彼女は生っ粋のイングランド人で、日本語は後から習得したらしい。そのため、常用的な言葉でないと意味を解さないこともしばしばだ。 「Oh、父親。――ダメダメ。それはダメ」 グリンバーグは、贅肉に覆われてほとんど判別できない首をパタパタと左右した。 「消灯時間だし、面会時間もずっと前に終わってる」 「いや、そこを何とか頼みたいんだよ。親父、もう集中治療室も出たし意識も戻ったらしいからさ。 一言、その、挨拶しときたいしさ」 確かに、あの倉庫に俺たちを閉じ込めたのはキイス・マクノートンの一味だ。そして俺と親父の腕に手枷を嵌め、身動きを封じた状態で時限爆弾を置いていったのも奴ら。だが、そもそも奴らに捕らえられることになったのは、俺に力が無かったせいだ。弱いくせに――無力なくせに、自分の力量も把握せず出過ぎた真似をした結果がこれだ。だから、たとえ間接的にせよ、親父の左手を奪ってしまったのは俺だという解釈が成り立つ。こればかりは、幾ら言訳しても駄目だ。母さんにも「自分を責めるな」と、親父本人にも「お前には関係ない」と言われたけど。そんなの何の慰めにもならない。 現に今、俺は自責の念に苛まれている。あれが自分のせいだと、自ら認めている。どんな言葉で自分を正当化してみても、これから逃れることは出来ない。だから俺には……どうしても一つだけ、やらなくちゃならないことがある。 「――じゃあ、大人しくしてるんだよ。また明日、念のために検査するから」 「はいはい」 「二時間置きに見回りが来るんだから、起き出して夜遊びに行ってもバレるんだからね」 「はいはい」 だが勿論のこと、俺は看護婦に念を押されたくらいで大人しく寝るような良い子じゃなかった。グリンバーグだかハンバーグだかしらないが、ワイドな看護婦がその巨体を揺らして部屋を出ていくと、俺はしばらく時間を空けてからコッソリと廊下へ出た。 一度見舞いに来てくれた母さんの話によると、親父は既に意識を取り戻して一般病棟に移ったらしい。だとすれば、面会のチャンスはある。この際、母さんが一緒でも構うまい。俺は謝らなきゃならない。親父に一言謝らなくちゃならないんだ。 たとえ、直接的な責任はないとしても、親父が左腕を失わざるを得ない窮地に追い込まれた責任の一端を、俺は担うべきなのだから。 消灯された薄暗い廊下を、俺は非常灯の明かりだけを頼りにさ迷い歩く。勿論、なるべく気配を殺して、巡回の看護士にも細心の注意を払いながら行かなければならない。彼等に見つかったら、強制的に病室に送還されるであろう事は明白だ。よほどのことがない限り、消灯時間後は自分の病室から出ることは基本的に禁止されているからだ。 まるでゴースト・タウンにでも迷い込んだような不気味さを感じながら、俺は一路、親父が入室しているであろう病室を目指す。あいつは我が侭な性格をしている挙句、協調性というものに欠けているから、きっと個室に泊まっているに違いない。そうアタリをつけた俺は、個室が並ぶ廊下をしらみ潰しに探すことにした。 数ある病室の中から、親父の入った部屋を見つけ出すのは困難を極めるだろうと考えていたのだが、その予測に反して、幸いにも目的の部屋は簡単に見つかった。案の定、親父の病室は小さいが個室だった。ドアプレートに「相沢芳樹」と漢字で記されている。そんなに氾濫しているような名前じゃない。しかもここはイギリスだ。恐らく間違いない。 ――しかし、なんて言えばいいんだろう。俺は改めて苦悩した。 一体、どんな顔をすればいいんだろうか。果たして親父はどんな反応を示すだろうか。様々な不安と想いが脳裏を過ぎり、急に動悸が激しくなっていく。 目的の部屋はとっくに見つかっているというのに、俺はそのドアを前にして、ただ佇んでいるしかなかった。ノブに手をやるまでに、恐ろしいくらいの勇気と度胸を要求される。 三〇年以上、まさに命懸けで追ってきた男の――その全てを奪ってしまった俺。その俺を、夢破れた男はどんな顔で、どんな姿で、どう迎え入れるのだろう。想像もつかない。 だが、ドアの前で立ち竦んでいたところで何が変わることもないのも確かだ。俺は深呼吸し腹を括ると、意を決してドアに手を伸ばした。指先が、銀色に鈍く光る冷たいノブに触れる。その、瞬間だった。壁一枚隔てた向こう側から、話し声が聞こえてきた。母さんと、親父の声だ。 「悪……配掛けて」 「心……いで。貴方と祐……事に帰ってく、だけで充分よ」 どうやら、母さんはまだ親父の病室にいて、二人は何かを話しているらしい。ドア越しで、しかも夜分と言うことで彼らも声を潜めているから、断片的にしか聞こえてこない。俺は音声をもっとクリアに拾おうと、耳を張りつけるようにドアに近付いた。 「何があったのか、聞かないのか?」 「聞くべきことがあれば、貴方は自分から話してくれるはずでしょう」 「……ああ。その通りだな」 親父はしばらく間を取ると、再び喋り出した。今度は、完全にその声を聞き取れる。 「すまん、この手だ。もう、俺はチェロを持てない」 「――そうね」 二人は感情の起伏を感じさせない淡々とした口調で、言葉を交し合う。 「こうなることが分かっていて、俺は腕を切った。つまり、お前との約束を反故にすることになると知りながら、裏切りに走ったことになる」 「……そう」 「すまん。お前に約束したのに、守れなくなっちまった」親父の声のトーンが落ちる。 「大事な、約束だったのに」 ――約束? 親父と母さんとの間に、そんなに大切な約束があったと言うのだろうか。 二人の会話の内容から察するに、それは親父のチェロに関するものだったと考えることもできる。俺はしばらく自分の記憶を探ってみた。二人の間で交わされた約束。もしかすると、俺もどこかで耳にしたことがあるかもしれない。 いや。実際、俺は耳にしていた。それに該当するような情報を記憶の中から見つけ出すのは、俺にとって容易な作業だった。そう。それは、親父と母さんの馴れ初めの話だ。 詳しくは聞いていないが、親父は母さんにプロポーズする時、「いつか世界の誰も知らない音の世界を、自分のチェロで生み出す。そして、それを一番最初に母さんに捧げる」と、そう誓約したという。そして、母さんはそれを受けた。二人は出会ったその日――ギターとチェロで旋律を互いに交換し合い、そして結ばれたという。 「俺はガキの頃から、ずっとチェロを弾いてきた。誰も知らない音を作り出すことだけを目標に生きてきた。それは今も変わらない」 親父はポツポツと呟くように語る。 「だが、俺はもうチェロを弾けなくなっちまった」 「ええ。貴方がどれだけ自分の夢にかけていたか、私は知っているわ」 「俺は、かつて誰も辿り着けなかった領域に上り詰めることができるって信じてた。俺ならできる。俺にしかできない。俺にはその実力があるし、それだけの強い意思があるって。それにかける想いの強さだけなら、誰にも負けねえって。そう、確信していた」 ――それは、確かに誰もが認める事実だった。親父は取り憑かれた様にチェロに没頭し、そしてその名声は国内でも高まっていった。子供の頃から、天才チェリストとして将来を嘱望されていたと聞く。人格面ではともかく、ことチェロを弾くことにかけては技術もハートも、親父に敵うやつなんていやしなかった。 「だけど、もうダメだ。腕が無いんじゃ、もう無理だ。チェロで望んでいた音を出すことはできない」 「そうね」 再び沈黙。喉を掻き毟りたくなるような、沈黙。 忌まわしい自分の鼓動が、やけに大きく聞こえる。息苦しい。上手く呼吸ができない。俺にとって、今の彼等の沈黙は、耐え難い痛みを伴う拷問にも等しかった。 「――すまない、夏夜子」 感情の篭らないその声と共に、衣擦れの音がした。親父がシーツを握り締めたのか、それとも母さんに対して頭を垂れたのか、俺には判別がつかない。 「俺は……チェリスト相沢芳樹は、終わった」 その言葉の衝撃は、物理的な破壊力すら伴っているように錯覚された。頭部を鈍器で打たれたような、痛烈な一撃。思わず意識を手放してしまいそうな程のショックに、俺の視界は暗転する。 これが、絶望なのだろうか。これが、絶望というものなのか。 「私は学が無いから、難しいことは何も分からない。何も知らない」 唐突に母さんの囁くような声が、聞こえてきた。 それを切っ掛けに、ハッと我に返る。世界が色を取り戻した。 「でも、私は一つだけ、自分にとって一番大切な真実の法則を知っている。ねえ、忘れないで……」 そして彼女は、まるで自然の摂理を語るような口調で言った。 「愛してるわ」 親父が、声にならない声で驚愕しているのが分かった。 相沢夏夜子は確かに賢者ではない。大学には進学しなかったと言うし、自身が言うように学も無いのだろう。だけど、彼女の素朴な何気ない一言は、だからこそ賢者の一言よりも重みを持つことがある。 相手への影響力だとか、その言葉の効力だとか、心理的な意味合いだとか、そんなことは一切お構いなしに掛けられる、計算の無い心からの一言。母さんの言葉は、心にとても正直だ。 「終わっただなんて言葉、あなたらしくないわ。あなたに相応しくない。夫須美(ふすみ)夏夜子は、誰よりも強くて真っ直ぐなあなたに惹かれて、相沢夏夜子になったわ。私をがっかりさせないで。――あなたは、まだ何も終わってなどいない」 母さんの声は、とても優しかった。俺の脳裏に、生まれて初めて、慈愛という言葉を浮かべさせる力を有していた。そして相沢夏夜子は続ける。 「確かにチェロは、あなたの自慢の決め球だったかもしれれない。あなたは不運にも、今回の件でそれを失ってしまった。でも、それだけのこと。カーブが駄目ならシュートを、フォークを、スライダーを。投げられる球種は他に幾らでもあるはずよ。何も終わってなどいない。何よりあなたは、誰にも負けない強力な決め球を、その精神に宿している。それは、とても真っ直ぐで、純粋で、力強い。あなたにとって、最高の武器だわ」 親父は静かにその言葉に耳を傾けているようだった。きっとそんな親父に、母さんはとても柔らかな微笑で語りかけているのだろう。 「Bite on the bullet。今、あなたが創っている新曲のタイトル。それが全てじゃないかしら。立ち向かうこと。困難に負けず挑み続けること。ここの困難を克服したあなただからこそ、この歌に心が篭るんじゃないかしら。そしてそんなあなたが歌うからこそ、この歌には意味が出てくるんじゃないかしら」 「バイト・オン・ザ・ブレット、か」 「そうよ、Bite on the bullet。私のパートの歌詞を忘れた?『可能性という名の自由は、きっと武器になる』――あなたにはまだ、その可能性があるはずよ。大丈夫、まだ頑張れる。私はあなたをずっと見てきたわ。だから、知っているの。負けたと諦めるまで、あなたに敗北はあり得ない。何故なら、あなたは相沢芳樹。私が伴侶に選んだ、地上ただ一人の人間です」 「……ああ」 しばらくの沈黙の後、親父は言った。その口調に、もはや憂いはない。憎たらしいほど自信たっぷりの、いつもの親父の声だった。 「そうだ。その通りさ、夏夜子」 相貌を黙視できずとも、それは容易に予想できた。今、相沢芳樹は笑っているはずだ。自分の死を目前にしてさえ消えることがなかった、不敵な微笑だ。 「チェリストとしての可能性は途絶えた。だが、俺が途絶えたわけじゃない。この世には命懸けで追う価値があるものなんざ、何処にだって転がってる。チェロの音だけが、サウンドじゃないさ。チェロでなきゃ、俺を表現できないわけでもない」 「ええ、その通りよ」力強く、母さんは言った。 「腕が一本しかなくても奏でられる楽器はある。いや、一本もなくたって、ステップ一つでもサウンドは生み出せるからな。首が吹っ飛んだって、腕も足もブッ千切れたって、心臓が鳴ってればそれがビートだ。考えてみれば、なんでもありだな」 「そうよ。それに、あなたにはまだ声がある。自分の肉体から生み出せるサウンド、歌だってあるのよ。――私は常々思っていたわ。チェリストとしてだけでなく、あなたはヴォーカリストとしてもこの世で最高のヒトなんだって」 「だからまだ……」 二人の声が、重なる。 「俺は、なにも終わってなどいない」 「貴方は、なにも終わってなどいない」 まざまざと、思い知る。見せ付けられる。 これが。 これが、強さというものかと。 あまりに遠い。あまりに高い。眼前に聳え立つ、頂を覗うことすら適わない余りの高み。その頂点にある強者達を前にして、高峰に怖気付き、歩み登ろうとさえしない男に一体何ができようか。 視界が涙で滲む。俺はただ、嗚咽を必死に堪えながら、その場に崩れ落ちることしかできなかった。
25 September 1996 08:22 A.M.
Kanagawa JAPAN 1996年9月25日 水曜日 日本 相沢家玄関 ドアを開けると、途端にむっとする熱気が肌に纏わりついてきた。 嫌気が差す程の快晴。まだ午前だというのに、その日差しは肌を差すように鋭く強い。<あと何日もすれば一〇月に入るのだが、それでも日本ではまだ厳しい残暑が続いていた。 「母さん、ギター持って帰ってきた?」 玄関まで見送りに来てくれている母さんを振り返り、問う。 「いえ。置いてきたわ。あの人のこともあるから、直ぐに帰るつもりだし」 「――それ、正解だよな」俺は肩を竦めて見せた。「湿気はギターを悪くするから」 相沢夏夜子レベルのギタリストともなれば、ちょっとした湿度差による楽器の変調ですら音に大きく影響してくる。場合によっては、素人レベルでもそれは顕著で、特に海を越えて外国製のギターを日本に持ち込むと途端に音が鳴らなく(悪く)なることも良くある。 だから几帳面な母さんは、B型シリカゲルのギターペットやドライフォルテといった調節剤で湿度を五〇%前後に常に保つようにし、保管には細心の注意を払っている。ギターはデリケートなのだ。 いや、ギターだけではなく弦楽器は湿気や乾燥に悪影響を受け易い。材質が木材だからだ。木材が温度や湿度の変化によって伸び縮みすることは、一般的にも良く知られている通り。 そう言えば親父も、四季によって気候の変化が激しい日本でのチェロの保管には気を使っていたものだ。 気温自体は海を隔てたブリテン島とも然程変わらないように思えるが、何と言っても日本は湿度が段違いに高過ぎる。湿り気を帯びた何とも不快な空気がようやく日本に帰ってきたのだという実感を俺に齎していた。 「ほんじゃ、行って来るよ。母さん」 「いってらっしゃい」 振り返って挨拶する俺に、母さんは穏やかな微笑を返してくれる。こうした日常的なやり取りが、なんだか新鮮に思えた。 いや、いつもなら不快に思えるはずの湿度も、履き慣れた学校指定の革靴も、こざっぱりとした真っ白い夏服も、全てが無性に懐かしい。 「車に気を付けてね」 「ああ、分かってる。あ、学校にはなんて言ってある?」 玄関から一歩踏み出しかけて、俺はそのことに気が付いた。 「大丈夫。ちゃんと事情は説明しておいたわ。担任の先生にも了解を得ておいたから」 「そっか。じゃ、安心だな」 九月の二一日から、三日間に渡る入院期間を終え無事に退院を果たすと、俺は母さんを伴って直ぐに日本に帰国した。間抜けな話にも、俺はその事実を失念していたが――相沢祐一は、日本人であり中学生なのである。 決して、イングランドで集団リンチを受けて入院したり、軍用プラスティック爆弾でこの世から消え去ったり、ビール瓶で頭をぶん殴られて再入院したりすることは本分に当たらない。 しかし、日付を考えれば分かるように、学校の夏休みは終わって久しい。 既に日本では二学期が始まり、当然ながら授業も始まって一ヶ月も経っている。休みあけには、実力テストなども行われていたはずだから、俺はそれら全てから置き去りにされたことになるのだ。 中間テストがいつ行われるのかは知らないが、考えなくても状況は絶望的なはずである。 「はぁ……卒業できるのか、俺は」 懐かしい通学路の景色を楽しみながらも、俺はぼやいた。 だが、以前の相沢祐一なら頭を抱えて悩みこんだであろうこの危機的状況にあっても、何故か今、俺は精神的な余裕を維持していられる。 イングランドでのあの経験に比べれば―― 生きるか死ぬかを問われたあの試練に比較すれば、学校のテストで思い悩める日常すら俺には楽しいイヴェントの一つに見える。 そういう意味で、俺は変わった。相沢祐一は、この一ヶ月で怖いくらいに変わった。それが、実感できる。上手く表現できないが、そう、視野が開けたような気がしていた。今まで頑なに目を閉ざして、意識的に遠ざけていた何かから逃れられない状況に追い込まれ、それを直視せざるを得ない現実。 俺が北の地で体験したのは、恐らくそんな現実だったのだろう。 命の危険に晒されるという経験は、やはりその人物の視野を広め、価値観を変える。 例えば自分が癌に冒されたと想像してみれば良い。多大な苦痛を伴う入院生活と、ヒタヒタと迫り来る現実的な『死』の恐怖。日常が突如崩壊し、今まで当たり前にできていたことが出来なくなる。当然の常識が決して常識ではないことを悟る。 そうしてもし大病を克服できた時、人はその経験から多くのことを学んでいるはずだ。 命に対する考え方も激変するだろうし、他の人間とっては何でも無い平凡で当たり前の事実にも感動できるに違いない。 そして、自分を大切に生きる事ができるだろう。死に至る病を克服したという経験は、誇りと自信にも繋がるに違いない。恐怖は人を破壊もするし、進化を促しもする。 「――ねえ、祐一」 先日、日本へと渡る旅客機の中で、隣り合わせて座った母さんか言っていた言葉を思い出す。 「成長を実感できる瞬間って、どんなときだと思う?」 俺はそんなことを考える気力も余力もなかった。だから、力なく首を左右してそれに応えた。 「私はね、恐怖が恐怖でなくなった瞬間だと思うの[*3]」 彼女は言った。人間は常に何かを怖れ、恐怖する生き物だと。 克服しても途絶えることなく新種が生まれてくる病のように、それは尽きることはない。 「でも、何かを克服しようとすることは無意味ではないと、私は信じてるわ。 だって、進化とか成長ってそういうことでしょう? いままで怖くてどうしようもなかったものに、正面から対峙できるようになった時。 私は、そんな時に一番、生きていることを実感できるから」 変化と成長は同義ではない。だが、変化がなければ成長があり得ないのは紛れも無い事実だ。 頑なに視界を閉ざし、逃避によって目の前の恐怖を回避するだけが全てではなかった。 対照的に、恐怖と対峙して意志の力でそれを捻じ伏せる人間も存在する。 俺はそんな男を実際、この目で見てきたのだ……。 この世には凄い奴がいる。 俺なんかじゃ、及びもつかない高みに彼等はいる。 相沢祐一という人間と、彼等との間には決して埋めることの出来ない何かがあるのだろうか。 彼等は、選ばれた者だからこそあれほどまでに強いのか。 それとも、俺も彼等のようになれるのか。足掻き続ければ、いつの日か彼等と対等に肩を並べることができるのか。 懐かしい通学路で、果てしない蒼穹を仰ぐ。 空は高く、日差しに容赦はなくて。それらは俺が辿り着くべき場所が遥かにあることを象徴しているようにも思えた。 炎と爆光を背に浴び、自らの輪郭を紅く彩る人影。熱気にあぶられ生命を持つかのように暴れ狂う黒髪。高く聳えるように立つ、左手のない男の姿。 あの夜に見た光景を脳裏に思い描き、独り呟く。 「強く、なりたい――」
19 November 1996
C.Kawasaki Kanagawa JAPAN 1996年11月23日木曜日 神奈川県川崎市 相沢家 今日は、皆大好き勤労感謝の日。それにどんな由来や意味合いがあろうと、祝日は大歓迎だ。 そんなわけで、本日一一月二三日は勤勉な日本人の働き過ぎを労う祝日として、堂々と学校を休むことができる素晴らしい一日である。 まあ、それにしたところで、イングランドの休みの多さには敵わないけど。 あそこは、各学期の半ば頃に中間休みなる短期休暇があり、生徒達は一週間ほど纏まった休みを得ることができるのだ。羨ましい限りである。 あれで水質とメシの味が良ければ永住を真面目に検討しても良い。失業率が高くてあちこちにホームレスがいるのはちょっと何だけどな。 基本的に、相沢祐一の休日は怠惰でグータラの一言に尽きる。 特に、寒かったり熱かったり、雨が降っていたりすると外に出るのは億劫だ。TVをつけてカウチポテト[*4]でも洒落込んだ方が良い。 あと一ヶ月学校に行けば、本格的な冬休みが訪れるから遊びまくるならその時で充分だし。 だが、最近の中学生と来た日には真面目過ぎていけない。 なんと、俺たちはまだ中学二年生であるにも関わらず、みんな塾でお勉強などなさる予定らしい。信じられない話だ。今日は勤労感謝の日だというのに塾で勉強。土日も勉強。クリスマスも冬休みも勉強。塾とやらは魔境だ。 なんでも高校受験に備えるには、二年の冬休みからでも遅すぎるとかなんとか。<偏差値が五〇にも届かない俺にとっては、ちょっと理解に苦しむ思考である。 学生の本分は勉強。だが、『人生にとって最も大切な学習は遊びの中でこそ培われる』という俺のありがたい格言を彼等は知らないに違いない。 ガキの頃、思いきり腕白に遊びまくって、悪戯の限りを尽くす。そして大人達に叱られる。そんなプロセスの中で、どこまでが他人に迷惑を掛けても許される範囲であるかを学べる。 子供が殴り合いの喧嘩をするのも然り。暴力が相手にどれだけの痛みを与えるか、食らえばどれだけ痛いか、どこまでやるとやり過ぎになるか。それを学習できるじゃないか。 俺のクラスメイトのやつらの大半は、そういうことを知らずに勉強ばっかりしてるから、マニュアル通りの人生しか送れなくなるんだ。 「本を読んでも、泳げるようにはならない」って言うぜ? ……とまあ、こんな愚痴っぽいこと考えているのは、電話して「バスケでもやらないか」と誘った友達たちが、塾を理由に断ってきたからだ。 一〇人に呼びかけたが、OKを出したのは三人。これじゃ3on3もできやしない。こういう時、家族がいないと雑談もできないから暇だ。 母さんは、親父の面倒を看るために一週間くらいで直ぐにイングランドに戻ったし。年末には帰ってくるらしいが、それまではまた、しばらく独り暮しの生活である。 ちょっぴり母さんの手料理の味が懐かしい。まだ一四歳だってのに独身のサラリーマンみたいな生活を強いられるのは中々侘しいものだ。 「はぁ〜。なんか、面白いことないかな」 ソファにだらしなく座りながら、リモコンでTVのチャンネルをザッピングしていく。 時刻はイングランドでいうティータイム。三時だ。 興味を惹く番組は一つもありはしない。誰が離れただのくっついただのを無意味に騒ぎ立てるワイドショウや、古臭くて退屈なドラマばかりだ。 「あ、そうだ。ゲームだ。ゲームしよ。脳天陥没セガタサーン[*5]があった」 中学生の男子と言えば、TVゲームに夢中になるのが日本での掟だ。俺も日本男児。ここは伝統の和を大切にしなければならぬ。UKにいってたころは全然ゲームなんかしてなかったから久しぶりだ。結構楽しめるかもしれない。 そう思って、ソファを立った時だった。 来客を告げるチャイムが、リビングに木霊する。 「はいよ」 機嫌が悪い時は無視だが、今日は退屈にしているので素直にインターフォンを取った。 宅配便ですという、無駄に元気の良い声が返ってきた。 「ああ、はいはい。今行きますんで」 受話器をフックに戻すと、小走りに玄関へ向かう。 しかし、宅配便なんて珍しい。向こうの両親が不要品なんかを送ったり、こっちから日本の調味料を送ってやったりすることはあるが、そういう遣り取りがある時は事前に電話で予告を入れるのが約束事になっている。誰が何を送ってきたんだろう? ドア窓越しに相手を確認すると、俺は必要な分だけ扉を開いた。海外で生活すると、結構個人レベルでの防犯思想が高まる。向こうは日本ほど治安は良くないからな。来客をいきなりドア全開で開ける人間は、心理的に突け込む隙が多いという経験則が犯罪者にはあったりもするし。 「こんにちは。相沢祐一さんはこちらで宜しいですか?」 緑色の制服とキャップを被った宅配便の兄ちゃんは、キビキビした動作で俺に伝票を見せてくる。住所と宛名を確認すると、俺は頷いて見せた。 「あ、印鑑の方が良かったんだっけ?」 この数ヶ月の癖でサインが習慣付いている俺は、押印といういまいち意味が分からない日本の文化を思い出してハッとした。 「いえ、サインで結構ですよ」 笑顔と共に渡されたペンを受け取り、受取証にサインをする。 「どうも、お疲れ様」 「ありがとうございました」緑色の青年は、威勢良く駆け去っていった。 働く社会人であるにも関わらず、塾通いの中学生より彼は元気だ。見習わねば。 問題の荷物は、広辞苑くらいの大きさの奇妙な小包だった。エアキャップ――は商品名だったか。とにかく、例のプチプチ潰せるビニル製緩衝材に包まれているらしく、もこもこしていて柔らかい。 包装紙は白で、その一面に伝票と『取り扱い注意』の紅いシールが張りつけられている。重量は一キロを割るだろう。そんなに重くない。 肝心の差出し人の欄を見てみると、それがUKにいる両親からの荷物であることが分かった。 「やっぱり母さんたちじゃねえか。なんだろう?」 首を傾げながらリヴィングに戻り、ソファに腰を落とす。早速包装紙を破り中身をあらためることにした。 果たして、ビリビリに破かれた包装紙[*6]の中から出てきたのは、何の変哲も無いVHSのヴィデオテープだった。ラベルが張られた形跡も無く、何が収められているかを予測できる情報は一切無い。内容を説明するような手紙の添付も見当たらなかった。 「何かは知らんが、これ送りつけようって言い出したの絶対親父だな」 この理不尽なまでの不親切さは、親父以外にはあり得ないだろう。 差出し人の欄には両親の名前が両方とも並んで入るが、主犯はヤツに違いない。 「はっ、もしや年頃の息子を想って、外国のエッチなヴィデオを送ってくれたのでは……!?」 が、その可能性は一秒で否定された。ヤツに、そんな息子想いの思考が働くはずがあろうものか。 「奴め、一体なにを送りつけてきやがった」 一抹の不安を感じながらも、三二インチのワイドTV下に備え付けてあるヴィデオデッキにテープを挿入する。それからキッチンに向かい、冷蔵庫からクリアな後味がお気に入りの一〇〇%アップル・ジュースを取り出すと、グラスに注ぎリヴィングに戻る。 再びソファに腰を落とすと、それを見計らっていたかのようにプラズマ・ディスプレイに映像が写し出された。 恐らく、それがこのヴィデオ・プログラムのタイトルなのだろう。真っ黒なバックグラウンドの画面中央に、巨大なフォントが踊っている。 <Y'SROMANCER DEBUT!> [*7] 「イース……いや、ワイズ、ロマンサーか。デビュー?」 わけが分からなかった。 勿論、イースだかワイズだかもそうだが、何を目的としてこのヴィデオを送ってきたのか。包装紙を解く前より謎が深まったような気がしてならない。 と、その俺の疑問に答えるように画面に変化が起こった。 タイトルのテロップが霞がかって消えていくようにフェードアウトし、変わってホームヴィデオで撮影したような画像の荒い映像が画面一杯に映し出されたのである。 一目見て、それが素人によるライヴ映像だということが分かった。 見慣れた広めのライヴハウス。一階の一般客席には既に観客が溢れ返り、通路にまで立見の人々がごった返している。二階のテーブル席もどうやら椅子は全て埋まっているらしく、まだギグ(ライヴ)自体は始まっていないというのに凄まじい喧騒が支配している。 酸欠で失神してしまいそうな熱気が、画面越しに伝わり、汗が滲んできそうだ。 ロックのライヴでしか見られない、密度の濃い独自の空気がそこには既に形成されていた。 観客が取り囲むステージには前列の中央にマイクスタンドが、ステージ向かってその右に炎を彷彿とさせるデザインの紅いギターが立てかけてある。後列には巨大なドラムセットが鎮座しており、そのボディの一つに <Y'SROMANCER> の文字が大きくプリントしてあった。 その更に後ろ、ステージの壁には天井から吊り下げられている電工掲示板が一つ。 そのデジタル表示にもやはり <Y'SROMANCER FIRST GIG> の巨大なフォントが踊っている。 それはイングランドでもかなり有名なライヴハウスの一つ <アストリア> のステージだった。Charing Cross通りにあるこの大きなホールは、ロックやパンクで名の知れたバンドが演奏することも多いところだ。親父と母さんもたまにここでギグをやっていた。 さっき映像にも映っていたけど、二階にはテーブル席もあって雰囲気は悪くない。 週末にはクラブの顔も持っているらしく、色んな客層を呼び込めるのも特徴だろう。金曜日の二三時過ぎから始まるロックシーンはハードロック・ファンに大人気だと聞く。 「Y'SROMANCERか。……ロックかパンクだよな、この雰囲気からいくと」 横断幕やらあちこちに謳われている宣伝文句を見るに、どうやらこの夜、アストリアで新たなバンドがデビューを果たすらしい。いきなりこんなところでライヴができて、しかもファーストライヴだというのにこれだけの客を集め熱狂させられるとなると、余程前評判が高い連中で結成されたグループなのだろう。 やがて、会場に低いブザーが鳴り響き、ギグ開演を観客に知らせる。 普通ならここでバンドのメンバーたちの登場を静かに待つものだが、この観客達は逆にボルテージを上げて騒ぎ出した。その光景を映し出すカメラもその煽りを受けているのか微かに振動する。 そして一際凄まじい喚声が上がった。Y'SROMANCERとやらのメンバーがステージにその姿を現したのだ。観客は早くも総立ちになり、割れるような大歓声を以ってそれを迎え入れる。 だが、俺はそれどころではなかった。 喚声に怖気づくことも無く、堂々とした風格さえ漂わせる足取りでステージに現れた人物に見覚えがあったからだ。現れたのは全部で四人の男女。 最初に現れた屈強な体格をした男はウェールズ辺りの人間だろう。[*8]肩の辺りまでブロンドを無造作に伸ばしている。年齢は不明。壮年であろうことだけしか分からない。 彼は真っ直ぐにドラムセットに腰を落とした。その丸太のような腕からは、力強いリズムが生み出されることだろう。 続いて現れたのは、長いプラチナブロンドを靡かせた小柄な若い女性。まだ一〇代かもしれない。[*9]露出の高い、ロックらしいコスチュームを纏っている。ドラムの男と同じ材質のデニム製の衣装だ。 特にそのパンツはジーンズの足の部分を乱暴に破り捨てたようなデザインになっていて、彼女のスラリとした脚線美を惜しげも無く晒していた。彼女はどうやらベース担当らしい。 続いて現れたのは、東洋人と思わしき女性だった。 青味がかった長い黒髪を三つ編みにしている。彼女がその姿を現した瞬間、観客は悲鳴のような凄まじい叫びを上げた。前に現れた二人のメンバーの比ではない。 一見した限り、恐らく二〇代半ばか後半。東洋人にしてはあまりに肌が白く、エキゾチックな雰囲気を持っている。イングランド最速にして最強の一人として知られる女流ギタリストだ。 「……って言うか、母さん!?」 驚くべきことに、それは間違い無く俺の母親、相沢夏夜子の姿だった。 彼女はいつもと変わらない穏やかな微笑を称え、炎を模った深紅のギターを流れるように纏う。 その一連の動作は、もはやギターが身体の一部であるかのように錯覚させるほど自然で優雅だった。何気ない動きのひとつひとつが、彼女の格の違い――相沢夏夜子が一級のギタリストであることを物語っている。 そして、最後の一人がステージにその姿を現した。 挨拶代わりに、小さなハーモニカを軽やかに吹きながら悠々と歩いてくる。他のメンバーと同じデニム生地のズボンに、白いTシャツ。そしてジャケットを羽織っていた。 ギタリストと同じ東洋人だ。目を閉じているため瞳の色は分からないが、アジア人特有の真っ黒な髪をしている。年齢はどれくらいだろう。エネルギッシュで若々しいが、三〇を超えているであろうことは何とか想像できる。 観客は、涙と共に絶叫していた。両手を突き上げて叫びを上げる男や、泣きながら祈るようにその姿を見詰める女性もいた。 観客は皆、その男の身に起こった不幸な事件を伝え聞いていた。それ故、音楽家としての生命線を絶たれたに等しい彼が二度とステージに上がることはないと絶望していたのである。 ――だが、彼は再び現れた。今度は、ヴォーカリストとして。 手にしていたグラスが床に転がり、絨毯に中身をぶちまけたことにすら気付かず、俺はその光景を呆然と見詰めていた。 分かってはいたが、それは信じられない光景だった。 古い道に行き止まったから、新しい道を選ぶ。それだけのことなのかもしれないが、それをたったこれだけの期間で実現させるには、一体如何ほどの精神力が必要なのだろう。 俺には想像すら出来ない世界だ。 ――手が止まる。 ハーモニカの旋律が喚声に消え、閉ざされていた男の眼が開かれた。客席にハーモニカを投げ捨てると同時に、彼は左手で力強くマイクを握る。 「待たせたな、俺がワイズロマンサーだ」 俺が求めていたものが、そこにはあった。何物にも揺るがない確固とした意志の力。 俺は今、それを目撃しているのだ。 「腕がブッ千切れちまって、ちょっとパワーアップしちまったけど気にするな。今度は歌とY'sで暴れてやるから覚悟しろ」 自ら切り落とした左手はもうこの世に存在しない。 だが今、失われたはずのその左腕には黒い義手が光っていた。生身の腕に代わり、相沢芳樹の新たなる左手となったそれは、“Yの座”に立つ者の象徴。 俺は後にその左腕の名を知ることになる。 ―― <ロマンサー> と。
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