電子メールの着信を告げるランプが点灯した。美坂香里は幾度かマウスを操作し、そのメールを受信。ディスプレイ上に表示させる。送信者を確認してみると、アドレスは『生徒会』になっていた。 彼女の学校は、冬になると大豪雪に見回れることが度々あり、それによる学校の対応を報せるために、生徒会が電子メールを使って連絡をしてくることが多い。電話は対象となる1軒1軒に掛けなくてはならないが、メールは1通書けばそれをコピーして大量にばら撒ける利点があるからだ。 それとは別に、香里は学校のサーバーに学級委員長としてのアカウントを持っている。ここには一般生徒より早く、学校側の決定や生徒会の連絡事項が伝わってくるのだ。彼女は、そのアカウントにメールが送られてくると、自動的にそれをコピーして、自宅にも同様のメールを転送するように設定していた。つまり今目にしているメールは、そのルートで流れついたものなのである。 「栞がまた文句を言うわね……」 メールをざっと一読すると、香里は『学園ライフ大好き少女』である妹の反応を思い、そっと溜め息を吐いた。 生徒会通信の内容は、学校が来週から夏休みに入るというものであった。今日は7月14日、木曜日だ。休みに入るには時期的にまだ早過ぎる。――だが、これは決して驚くべき決定ではない。香里はこの処置を、随分と前から既に予測していた。勿論、それには理由がある。 先月の中旬から、香里の通学する学校を中心に始まった連続殺人(前作「垂直落下式妹」)。その被害者は合計で5人に及び、そしてその全員が去年か今年の生徒会役員であった。マスコミはこの事件を『生徒会連続猟奇殺人事件』と名付けてセンセーショナルに報じ、世間は近年稀に見る残虐な事件に身を震わせたものである。 学校は、犯人が捕まっておらず、しかも自校から被害者が続出したとあって、先月(6月)20日から無期限の休校という処置をとっていた。つまり、事件が落ちつくまで学校が休みになったわけだ。 それから約3週間。今日届いた生徒会会報のメールによると、学校はこのまま夏休みという扱いになるらしい。休校期間は、予定としては8月31日まで。 しかし、まだ連続殺人犯が逮捕されておらず危険性が消失したわけではないので、このまま犯人が逮捕されなければ、9月になっても学校が再開されない可能性は高いとのことである。その場合、姉妹高校の中庭にプレハブを立てて、そこを臨時の校舎とする計画が実行されるかもしれないという。 香里が知る限り、夏休みは8月15〜20日あたりまでというのが常識だ。少なくとも9月が始まる1週間前までには、2学期が開始されるのがこれまでの常であった。それが31日まで延期された挙句、9月になっても実際に学校がはじまるかどうかすら分からない。これは一大事である。特に香里と同じ受験生にとっては大問題なのではなかろうか。 そんなことを考えていると、机の上の携帯電話から控えめな着信音が鳴り出した。液晶を見ると、そこには意外にも『倉田佐祐理』の名が表示されている。香里が懇意にしている、1学年上の先輩だ。電話嫌いの香里ではあるが、日頃から散々世話になっている彼女からのコールとなれば、無下に扱うわけにもいかない。 「はい、美坂です」 携帯電話は応対に出る人間が極度に限定されているわけだから、いちいち名乗らなくても良いのでは?――などと不毛なことを考えながら、香里は通話ボタンを押して携帯を耳に押しつける。 「あ、香里さんですか〜。倉田佐祐理です」 「ご無沙汰してます、先輩」 「あ、そう言えば暫くお会いしてませんでしたね〜」 嬉しそうに佐祐理は言う。彼女の場合、いつでも嬉しそうに楽しそうに話すので、これについて深く考える必要はないだろう。 「ええ。先輩とお話するのは18日ぶりです」香里は、とりあえずそう応えた。 「それで、先輩。今日は何か」 また猟奇殺人でも起こりましたか? と訊いてしまいそうになり、香里は慌てて己を律した。 「ええ。実は今、天野さんから連絡が入りまして。なんと本物の北川さんが現れたというんですよー。驚きですね。父が県警本部長さんと懇意にしているので、ちょっとその伝手で確認してみたんですが、天野さんの情報は真実でした。本物の北川さんは現在警察に保護されているようです」 「え、ちょっと待ってください?」 香里は一瞬だが混乱した。北川――北川潤と言えば、春の『シリウスの瞳』に関わる事件で正体が発覚して行方不明になっていた工作員の名だ。彼は9人もの人間を射殺して、香里の目の前から姿を消した。二度と耳にすることはないと思っていた人物である。 「本物の北川君というのは、つまりどういう意味ですか?」 「……えーとですね。その前に、美坂さん。今、ネットに接続できますか?」 「え、ええ。それはできますけど」 香里は高速データ通信の常時接続ができる環境下にいる。要するに24時間、香里のパソコンはインターネット接続されているわけだ。 「実は、警察からその北川さんの写真を何枚かお借りしてきたんですよー」 さすがはお嬢様である。一般人からは想像もできないことをサラリとやってのけるものだ。 「で、その写真をスキャニングしてデジタル・データにしておいたんです。それを今からそちらにお送りしようと思うのですが、大丈夫ですか?」 「はい。それは構いません」 「5枚で5メガほどあるんですが <ICQ> [*10]にしますか。それとも、メールに添付して送りましょうか」 「メールで結構です」 「あはは〜。分かりました。では、早速送りますね」 その言葉が終わった一瞬後、メールの着信を知らせるランプと音声が同時に反応した。凄まじい速度である。そう言えば、佐祐理はマンションの地下に自前のサーバを持っていた。秒間で数百メガの大容量回線があれば、写真のデータ程度なら一瞬でやりとりできることになる。 「しかし、天野さんはどこからその情報を入手してきたんでしょうか。彼女、警察にコネでも?」 香里の環境では、これをダウンロードするにはやはり数分はかかる。その待ち時間を利用して、香里は情報を整理しておくことにした。 「それは佐祐理もお伺いしたんですが、例の如く『その手の質問には応えかねます』と仰ってましたよ。相変わらず、ソースは謎というわけですね」 天野美汐という少女は、人物そのものがあからさまに怪しい、香里の1学年下の後輩である。香里は彼女に会って初めて、自分と同等かそれ以上に頭の良い人間の、生きた実例を知った。それだけ彼女は切れるし、頭の回転も計算も恐ろしく速い。底知れない少女だ。 しかも、どうも『謎の情報ネットワーク』を持っている節がある。……怪しい。 彼女は一体どこからどうやって聞き付けてきたのか、出所を疑いたくなるような情報を、これまでもAMSに度々リークしては皆を驚かせてきた。……やはり、怪しい。 その上、実家は何やら古い歴史を持つ神社で、彼女自身も幼少の頃より何らかの訓練を積んできているという話だ。……どう考えても、怪しい。 よくよく考えて見れば、彼女ほど怪しい人間もそうそういないだろう。一体、彼女は何者なのだろうか。ある意味、香里にとっては北川潤や生徒会会館より深い謎を持った人物であった。 「あ、ダウンロード終わりました」 残り時間を示すタイムゲージが完了を示し、受信トレイに添付ファイル付のメールが表示される。香里はそれをクリックして開くと、早速画像ファイルを拝んでみることにした。 「無事に届きましたか?」 「ええ。ちゃんと開けます」 予告通り、届いたメールに添付されたフォルダには、合計5枚の写真が収録されていた。モニターに表示されたのは、どれも人懐っこい笑みを浮かべた少年の顔写真だ。私服を着ているもの、学生服をきているもの。アングルもバラバラで、サンプルとしては非常に優れた内容になっている。 「これは……私の知っている北川潤とは全くの別人ですね」 香里は5枚の写真に1通り目を通すと、呟くように言った。写真の少年は、明るく陽気な感じの普通の高校生に見えた。特徴の1つとして挙げられるであろう栗色に近い髪色は、染めたものではなく天然の茶髪なのだろう。祐一と比較すると、ちょっとだけハンサムだろうか。しかし、いずれにしても、香里には全く見覚えのない他人である。 「やはりそうですか。佐祐理は先の件で行方不明になった偽の北川さんを知らないのですが」 「いえ。まったくの別人です。私たちが北川潤と呼んでいた少年は、もっとこう……なんと言うんでしょうか、凛とした雰囲気がありました。クラスメイトと談笑しているときにも、どこか鋭さのようなものがあって」 そう。香里の知っている北川は、こんなに笑顔の似合う少年ではなかった。目立たない普通の男子生徒であったが、どんな時でも一歩引いて構えたような、冷めた感じがあったのを覚えている。祐一と漫才を演じている時にだって、どことなく品格のようなものを残していたものだ。 「この写真の少年は栗色の髪をしていますが、私の知っている北川潤は完璧な黒髪でした。それにもう少し浅黒い肌をしていましたし。身長は5cmほど高かったのではないでしょうか。切れ長の双眸は、もっと鋭い感じがありましたし、こんな人懐っこい満面の笑みを浮かべるようなタイプではなかったです」 唯一の共通点は、祐一が『妖怪アンテナ』と呼んでからかっていた癖毛が似ていることくらいか。頭の天辺、旋毛のあたりからピンと数本の髪が触覚のように立っている。ここだけは、二人の間に共通していた。恐らく、偽の北川がオリジナルを真似たものだろう。 「とにかく、私が知っている黒髪の北川潤とは全くの別人ですね。この写真の少年は」 「そうですか」 その返答を予測していたのだろう。受話器の向こうの佐祐理に別段驚きのようなものはない。 「ですが、警察が確認しています。その写真の方こそが本物の北川潤さんなんです」 「この人が?」 「ええ。彼が掛かっていた歯医者さんから得た歯型の記録からも、それが証明されたそうです。間違いありません。彼がオリジナル。正真証明の北川潤さんなんだそうです」 「じゃあ、やはり黒髪の――私たちが北川潤と認識していた人物は」 「偽物だったわけですね。北川さんではない別の誰かです」 分かっていたとは言え、結構ショックだった。香里にとって、あの北川潤は同級生でありクラスメートであった。そして男子生徒の中でも比較的仲の良かった、数少ない知人である。 「それで、そのオリジナルの北川潤は一体今まで何処で何をしていたんですか? なんで今頃現れたんです?」 「それがですね、彼はフランスにいたそうです」 「フランス……?」香里は不覚にも素っ頓狂な声を上げてしまった。「しかし、行方が分からなくなった時点で、パスポートやビザ申請の記録なんかは真っ先に調べられるはずでしょう? 警察は何をやっていたんですか?」 そうである。北川潤という少年が、9人の人間を射殺して忽然と姿を消した。警察は、その行方を全力で追及していたはずである。たとえ海外に渡っていたとても、それは直ぐに調べ上げられてしまうはずだ。 「――それが、偽造パスポートで渡っていたようなんですよー」 「それ、犯罪じゃないですか」 「いえ、北川さん本人はその事実を知らなかったようなんです。天野さんは、それも北川(偽)に騙された結果なのではないかと仰っていました」 「どういうことです?」 「その写真の北川さんは、引っ越して来た時に、高校の教務課から『フランス短期留学』の話を持ちかけられたと証言しているそうです。なんでも姉妹校として提携しているフランスの高校と、ちょうど交換留学を行うことになったとかで、その留学生候補の一人として北川さんが選ばれた、とかなんとか。冷静に聞けば滅茶苦茶な話ですけど。兎に角それらしい理由をつけて、ほとんど無料で留学に行けるという美味しい話が来たらしいんですよー」 「ウチの学校の教務課が?……それは、確認が取れたんですか?」 「いえ。警察の話では、学校側はそんな事実はないと全てを否定しているようです」 「――でしょうね」香里は溜息混じりに呟いた。 「北川さんが言うに、手続きやパスポートの管理などは、教務課が全部やってくれたそうです。彼はただ、荷物を纏めてフランスに行っただけだとか。とにかく、彼はただ上手く騙されてフランスに送り込まれていただけのようですね」 「で、オリジナルがフランス留学している間、偽物が堂々と『北川潤』を名乗って、私たちの学校に潜り込み、暗躍を続けていたわけですね?」 「はい。大筋はそんなところだと思います」 「細工はしっかりしてるんですか? 海外留学をでっち上げるとなると、相当な大仕事になるような気がするんですが……その辺りから、裏に誰がいたか手繰れないものでしょうか?」 偽の北川の後ろに誰が控えていたのか。要するに黒幕は誰なのか。この問題の焦点となるのは、北川の正体や素性云々よりも寧ろそこだ。 「警察も期待していたようですが、ダメみたいですね。相手はこういった工作を何とも思わない、かなりの犯罪集団みたいです。大袈裟な偽装を行なったというのに、なんの痕跡も証拠も残していなかったようで。警察もこの件に関しては完全にお手上げといった感じみたいですよ。もっとも、これは噂なので未確認情報ということになりますけど」 「――そうですか」 まだ不透明な部分は残っているが、必要な情報は大体入手したと思って良いだろう。もし9月になって学校が再開された時、そのオリジナルの北川に会う機会があれば、彼に直接話を聞いてみてもいい。 「まあ、私としては例の偽物が私たちに危害を加えようとさえしなければ、別に問題はないんですけどね。殺し屋だか工作員だか知りませんけど、積極的に関わろうとは思ってませんし」 「確かに、そうですね〜」 本当にそう思っているのか疑わしく思えるほど、佐祐理はあっけらかんと言った。 「佐祐理も、事件とかそういうのは前回のことでもう懲り懲りです。暫くは平和に穏やかに過ごしたいものです」 「大学の方も、もう直ぐ夏休みですしね」 「あ、そうですね。夏休みがありましたーっ」 佐祐理が受話器越しに歓喜の声を上げる。大学はもう直ぐ前期の講義日程を終了し、試験に突入だ。それが終われば、長期夏季休業に突入である。 「――そうそう。それで思い出しましたが、美坂さんは夏休みに何か予定はありますか?」 「いえ。まだ特には」 今年の夏休みは1ヶ月半もある。相当スケールの大きな企みも実現できそうな予感はあった。 が、香里は今年高校3年生。受験の年である。同級生たちも、夏休みだからといって遊んではいられないだろう。 「実はですね、佐祐理と舞はU.K.の別荘で夏を過ごす予定なんですよ〜。祐一さんもお誘いして、できればご両親にもお会いしたいと思ってるんです。よろしければ、美坂さんも栞さんと一緒にいかがですか?」 「いえ、いかがと言われましても……」 さすがはスーパーお嬢様である。ヨーロッパの別荘で優雅なバカンスとは、なんとも豪勢な話だ。 「今の時期は一番観光客で込み合う時期ですし、それにイギリスとなると旅費も簡単に捻出できるものでもないですし」 絵に描いたような生っ粋のお嬢様相手に、こういった所帯地味た話をしていると、なんだか自分が惨めに思えてくるのは気のせいだろうか。 「あ、それなら大丈夫ですよ〜」 受話器越しでも、満面の笑みを浮かべているのが想像できる口調だった。 「チケットなら佐祐理が用意していますし、往復の旅費くらいなら佐祐理がプレゼントします。それに向こうの別荘に滞在すれば、宿泊費なんかは無料ですから。スーツケースに積め込んだ荷物さえ用意していただければ、あとは全部佐祐理にお任せです」 「それは魅力的なお話ですが」 それに、佐祐理が相手となれば北川のように騙されるということもあり得ない。霧の都の豪邸で高校生活最後の夏を、優雅に豪奢に過ごす――実に心惹かれるヴィジョンだ。 「宜しいのですか? しかも栞まで」 U.K.行きとなると、往復の航空券は正規料金で50万。格安でもその半分か30万はかかる。自分と栞の分を考えれば、それだけで最低6〜70万円の金が飛ぶことになる。しかも向こうに夏休み期間中滞在するとなると、100万200万では利かないだろう。 「……あの、もしかして名雪なんかも誘われました?」 「あははーっ。実はそうなんですよー。今のところ、祐一さんと名雪さん、あゆさん、天野さん、それから名雪さんのお母様が一緒に行くことになってます。勿論、護衛の方々も5人ほど一緒に来ていただきますから、治安が悪くても安心ですよー」 快活なお嬢様の声に、香里は軽い眩暈を覚えた。全員の面倒を見るとなれば、佐祐理の出費は1軒屋が土地ごと買える規模に達する。 まあ、だがしかし、その程度の金額なら1夜にして稼ぎ出すのもまた倉田佐祐理なのだ。そう考えれば、彼女には毛ほどの痛みもないのであろう。我ながら、とんでもない人物と知り合ってしまったものである。香里は苦笑した。 「先輩、本当にいいんですか?」 「勿論ですよーっ。だって、佐祐理と香里さんは仲良しのお友達じゃないですか。一緒に、祐一さんのご両親――ワイズロマンサーに会いにいきましょう!」
Heathrow Airport Terminal 4 London U.K.
GMT Fri,21 July 2000 13:58 P.M. 7月21日午後01時58分 ロンドン ヒースロー空港第4ターミナル 到着フロア は〜るばる はっこだて 「はるばる来たぜ、函館――!」 俺は両手を高く天に突き上げて、ガラス越しに見える蒼穹に咆哮した。 成田発、ブリティッシュ・エアウェイズの直行便に慌ただしく乗り込み、静かな空の旅を続けること約半日。雲の切れ間から翼越しに豊かな田園風景が見えはじめたら、それは旅の終わりの合図だ。ジャンボ・ジェットは速度を落とし、底部から展開した車輪を軋ませながら10点満点の着地を成功させる。 そう。ここは北の大地。霧の都。ランド・オブ・ホープ・アンド・グローリィ。マザー・オブ・ザ・フリー。世界で唯一(他にデンマークとかもあるけど)、女王が国家を治める大国。その首都。その名も―― 「ロンドンよ、ここは。正確には中心部から西に24キロほどズレてるけどね。私たちは、その函館付近から遥々海を渡って来たんでしょう? 今立ってるのは、その函館から見て地球の裏側よ。……相沢君、さっそく時差ボケ?」 俺の傍らを歩く少女――と表現するには些かアダルティな女性――が、呆れ顔で突っ込んでくる。 美坂香里。その声音と言葉の内容通り、ちょっと冷たい感じのする美人だ。随分と大人びて見えるし、落ちついた雰囲気があるものの、こう見えて彼女は俺の同級生。来年の3月に18歳の誕生日を迎える、現役の女子高生である。 俺とは、まぁ、『親友』と言ってしまっていい程の親しい間柄にある、かな? それを別にしても、彼女は俺の記念すべき初チューの相手でもあるわけで(「垂直落下式妹」参照)、色々とその辺は事情が複雑なんだが――とにかく、総勢20人弱からなる今回の旅の道連れの一人であることだけは確かだ。うむ。 「それとも、なにかしら。相沢君はこのままトンボ返りして、函館に向かうの?」 「本気にするなよ、香里。冗談だ、冗談。イングリッシュ・ジョークさ。12時間もかけて、ようやくバカンスの舞台に辿り着いたんだ。夏の間、俺はこの地で、高校生活最後の夏休みを大満喫すると星に誓っちゃうぜ?」 そうなのである。ここは異国の地、ロンドン・エアポート。俺は友人知人と共に、高校生として迎える最後の夏を優雅に楽しく過ごすべく、こうして遠路遥々、地球のほぼ裏側に位置するイングランドくんだりまでやってきたのだ。貴重な青春の1ページを費やすんだ。無為にしちゃ、罪ってもんだぜ。 進路がどうした。受験勉強がどうした。異国の地での様々な経験と体験は、きっと机に噛り付いてイヤイヤこなす受験勉強などより、きっと俺たちにとって大きな財産となるに違いない。だから、俺たちは大いに遊びまくっていいのだ!……という怪しげな大義を掲げて自分を誤魔化し、とにかく今この瞬間を楽しむのが今回の旅の主な任務だ。 「ええと、それで――私たちはこれからどうしたらいいんでしょう?」 「うぐぅ。字が全部英語だから、なにがなんだかサッパリ分からないよ」 眉をハの字にして、不安そうに周囲をキョロキョロと見まわしているのは、美坂栞と月宮あゆのお子様コンビだ。 栞は、先ほどの美女、美坂香里の実妹。容姿端麗、プロポーション抜群の姉に対し、妹の方はまだまだ色気より食い気が先行する、花よりダンゴ的な可愛い女の子だ。 ショートカットのサラサラとした髪は、姉とは対照的にストレートだし、女性にしては長身の部類に入る姉とは骨格から違うようで、背丈もプロポーションも未発達といった印象は拭いきれない。 しかしこうして見ると、美坂姉妹は実に対照的。見事なコントラストを形成しているよな。 それから、その栞の隣で「うぐうぐ」と鳴いているのが、俺の幼馴染みでもある月宮あゆである。 彼女も、栞と同じ様なタイプで、ペッタンコの胸とあどけない顔つきが特徴的な少女だ。あゆと香里を並べて見ると、二人が同じ年齢であることが何かの間違いに思われるほどである。保護欲をかきたてられるような可愛らしさが彼女の魅力という説もあるが、俺はそれをたまにしか実感できない。世話の掛かる妹がいたら、きっとあゆみたいに感じになるのだろう。 「私も海外旅行は初めてなのですが――」 あゆと栞の後を静かに歩く小柄な女性が、遠慮がちに口を開く。 「基本的に、成田で辿った手順を逆に繰り返すことになります。まずは、入国審査ですね」 赤味がかった天然の茶髪に、凛とした雰囲気と知的な相貌が印象的な少女。随分と大人びて見えるが、俺より1つ下の16歳。名を、天野美汐という。 「それから、預けていた荷物を受け取って、必要なら両替などを行なうはずです」 そこで言葉を区切ると、確認するように彼女は俺に視線を向けてくる。俺はそれに頷きながら口を開いた。 「天野の言う通りだ。俺は何度も来てるんで、この空港には慣れてる。案内するよ」 俺の両親は、この国で音楽家としてそれなりの成功を収めている。それは別にしても、母は俺が生まれる前は、5年近くイングランドに住んでいたというし。 とにかく馴染みのある土地であるからして、俺は小学生のころから夏や冬の長期休暇の際は、大抵、このロンドンにやってくるといった生活を続けていた。 「……ええとだな、天井に黄色いボードが一定間隔でぶら下がってるだろう? とりあえず、あの指示に従っていけばいいんだ」 俺は皆を先導しながら、イギリスの空の玄関『ヒースロー空港』を歩く。基本的に“Arrivals”の標識に従って順路を進んでいけばいいだけの話だ。そうして歩くと、やがて広いホールのような場所に出る。 「ほら、アレが入国審査だよ。あそこのカウンターに座ってる審査員のオッサンにパスポートを見せて、入国審査を受けるんだ」 視線の先には、1段高い台上に座った審査員とカウンターが見える。指差して教えてやると、あゆと栞が「おお〜」と大袈裟に驚いて見せた。彼女たちは海外はおろか、生まれ育った町から一度も出たことがないという稀有な人種だ。見るもの全てが珍しく、新鮮なのかもしれない。 「ねえ、相沢君。イングランド――と言うかU.K.は、先進国の中でもかなり入国審査が厳しいって言うけど、あれって本当なの?」 カウンターの前に出来ている長蛇の列を眺めながら、香里が言った。7〜8月といえば、夏のバカンス真っ盛り。イングランドが最も観光客で賑わうシーズンだ。俺たちと同じ日本人も、結構うじゃうじゃといる。と言うか、成田からの直行便だからして乗客はほとんどが日本人だ。 「ああ、本当だな。俺も両親に付き合わされて色んな国に言ったことあるけど、イギリスの入国審査は結構厳しい方だよ。北欧とかアジアなんかでは、日本人の場合はほとんどフリーパスってくらいに緩いのに。そういえば、なんでなんだろう?」 「あははーっ。それは、不法労働者の存在が問題になっているからですよ」 首を捻る俺の問いに応えたのは、かの有名な倉田佐祐理嬢その人だった。 彼女は去年、高校で知り合った1学年上の先輩で、代議士・倉田圭一郎の一人娘。何時もどんな時でも、口元に穏やかな微笑を浮かべている温厚で優しい女性だ。また、1日に10万ドル稼ぎ出すスーパーお嬢様として、地元の財界では非常に有名な存在でもある。 「……倉田嬢の言う通りだ」 佐祐理さんの傍らに立つ長身の女性が、お嬢様の言葉を補足するように言った。 鷹山小次郎。日本人男性のような名前をしているが、日本語を流暢に喋ることを覗いて、彼女はどこからどうみても外国人――ブルネットの白人女性だ。 確か、内戦が続いてる『欧州の火薬庫』あたりの出身だそうで、日本人の血が4分の1だけ混じってるという話を聞いたことがある。鴉の濡れ羽のようにシットリとした黒髪と、サファイアを嵌め込んだようなブルーアイズが魅力的な人だ。俺より5cmは背が高くて、しかもエキゾチックな香りがする結構な美人。日本人とは骨格からして違う、モデルのような女性である。なにしろ、足が体の半分を占めてるからな。 だが、その美しい外見に騙されちゃいけない。彼女はああ見えて、国民総生産みたいな名前のフランス外国人部隊に所属していた、特殊部隊の元隊員だという話だ。数年前に退役したらしく、現在は佐祐理さん専属の護衛を務めている。――俺はよく知らないが、聞いた話では相当の凄腕で、業界でも一目置かれるビッグネームらしい。まあ、彼女の精密機械のような狙撃の腕に何度か窮地を救われているわけだから、これは決して過大評価というわけではないだろう。 「近年、深刻な失業を抱えているU.K.では、外国人の不法就労を目的とした入国を躍起になって阻止しようと言う動きがある。そのため、別にU.K.くんだりにまで仕事を探しに来る気などサラサラない日本人にまで、監視の目を光らせてしまうわけだ」 「あれ、なんだか鷹山さんって今日は喋り方が違うような気がするけど――?」 腰まで伸びる艶やかで豊かな黒のストレート・ヘアの少女が、妙に間延びした口調で不思議そうに言う。 水瀬名雪。俺の従妹であり、現在俺が居候させてもらっている『水瀬家』の一人娘だ。俺の知り合いの中では、川澄舞に次いでもっとも付き合いが長い旧友の一人になる。 「私の仕事は、国内での倉田嬢の身辺警護だ。今は勤務中ではない」 いつも敬語を使った丁寧な口調で喋る鷹山女史だが、あれはビジネス・モードの仕様らしい。つまり、今回の旅行に随伴してきたのはサービスであり、契約外の仕事だから立場は対等。そういうことだろうか? もしそうだとすると、今のようなワイルドな男言葉が彼女の標準的な喋り方ということになる。 「――あらあら、皆さん。ちゃんと列に並ばなくちゃダメですよ」 俺たちがワイワイとやっていると、名雪によく似た女性がおっとりとした声をかけてきた。 一見すると、20代後半くらいか。名雪のお姉さんのようにも見える彼女は――聞いて驚け、彼女の実の母親だ。勿論、産みの親。キッチリ血は繋がっている。 水瀬秋子さん。俺の叔母であり、現在居候させてもらっている、水瀬家の家主だ。もう10年以上前に夫に先立たれてからは、ずっと名雪と二人暮しをしてきたことになる。今は、あゆと俺が加わって、いきなり4人家族にまで拡大されてしまったが。 ああ、そうそう。忘れていたが、月宮あゆは天涯孤独の身。そこで秋子さんが彼女を引き取ることになったらしい。養子縁組というやつだな。これで法的には、秋子さんは二人の娘を持ったことになる。あゆに名雪、そして秋子さんは、もう正真証明の家族なのだ。オプションとして、俺も。 「列がいっぱいある……佐祐理、どこに並べばいい?」 長い黒髪を無造作に縛り上げた長身の少女が、入国審査を待つ長蛇の列を見やりながらぶっきらぼうに言った。北国の女性特有の白い肌。長くて真っ直ぐな黒髪に、切れ長の目。今時珍しい(というか、ほとんど絶滅種の)純和風美女である彼女は、川澄舞。俺の1歳年上の先輩であり、幼馴染みだ。今は大学に通っているわけだが、去年までは俺と同じ高校に通う生徒で、俺たちはそこでチョット奇妙な再会を果たした。 それから舞は、佐祐理さんの大親友でもあって、いつも行動を共にしている。そのことは、二人が寝食を共にしているルームメイト同士であることからも窺えるだろう。 「あはは〜、そうですねぇ。あっちは『UK and Europe Union』となってますから、佐祐理と舞は『All other passports』という表示がある左側の列に並べばいいと思いますよーっ」 「……佐祐理、英語分かるの?」 「日常生活に必要な程度でしたら、読み書きとおしゃべりはできますよ」 にこーっと笑って、佐祐理さんは言った。 「そう言えば、確認しておいた方が良いかもしれないな」 俺は舞と佐祐理さんの遣り取りを聞いて、そのことを思いついた。 「俺は、まあ、英語は喋れないがこの土地には慣れてる。不自由はあるだろうが、勝手が分かるから何とかなるだろう。だけど、他の人たちはほとんどが海外は初めてなんだろう? 英語が喋れて、ある程度の読み書きが出来ないと、ちょっと不便だ。皆に訊くが、この中で英語がそれなりにできるってヤツはどれくらいいる?」 「我々は、例外なく全員が元軍人や特殊部隊に所属していた人間だ。そして軍や部隊に所属する以上、主要数カ国語は自在に操れないと話にならん」 鷹山さんが連れてきた部下たちを一瞥して告げた。彼女は佐祐理さんが雇っている護衛部隊の長だ。今回は、日本ほど治安のよくない英国旅行ということで、腕利きの部下たちを6人ほど連れてきている。 「なるほど。護衛隊の人たちは全員外国人だしな――。で、他には? 秋子さんはどうですか」 なんだか、この人は喋れそうな気がする。 「はい。英語は問題ありません」 予想通り、彼女は素敵な微笑を浮かべつつ、事も無げにそう答えた。 「あたしも、日常会話程度なら問題なくこなせると思うわ」 「右に同じく。コミュニケーションに不便を感じることはないでしょう」 香里と天野は大丈夫らしい。まあ、香里は確か模試で全国トップをとったこともあるようなヤツだし、 天野に至っては、佐祐理さんのマンションでイスラエルの新聞読んでたような怪しいヤツだし。彼女たちに関しては、最初から心配はしていない。 「あゆは日本語すら侭ならないアレだから、聞くだけ無駄として――」 「うぐぅ……悔しいけど、ホントのことだから言い返せません」 ショボンと悲しげに項垂れるあゆ。まあ、こいつの場合は、世界でただ一人幻の『うぐぅ言語』を操れるから、それでよしとすべきだろうか。 「栞と名雪も、やっぱりダメか?」 「私は日本人なんですから、英語なんて喋れなくて当然なのです。寧ろ、喋れる人は日本人として間違ってます。アイスクリームに醤油をかけて食べる人と同じくらい、邪道です」 何故か栞は大威張りで主張している。いや、ひらきなおってると言うべきか。まあ言いたいことは分からないでもないが……。俺も昔はそう思ってたが、一歩日本を出てしまうと、国籍問わず英語をしゃべることができないというのは国際的に異様なことなんだよな。特に先進国においては、それが常識だ。日本人は自国での常識には敏感だが、国際感覚での常識には原始人のように疎い。 「私も英語は苦手だよ」 「だろうな。英語の授業中は、何時も寝てるしな」 「で、でもちゃんと予習復習はやってるよ」 なにやら必死で言い分けてしているが、結局英語ができないことに変わりはないのだよ、名雪君。 ――でも、まぁ、いいかな? 護衛の7人、それに秋子さん、佐祐理さん、香里、天野。総勢16人中、実に10人までが喋れるのだ。団体行動をとっていれば、問題ないだろう。それに、あゆや栞が見知らぬ街中を単独で歩き回れるほどの度胸があるとも思えないしな。 「What is the purpose of your visit?」 「うぐぅ……?」 「Ugu?」 「あゆ、sightseeingだ。sightseeingって言え」 審査員のおっちゃんの問いかけに、正面からうぐぅ言語で対抗するあゆの後から、俺は小声でアドヴァイスをくれてやる。 「う、うぐぅ……さ、さいとしーいんぐです」 「OK」 おっさんは、ダンダン! と小気味よくリズムカルにパスポートにスタンプを押しつつ、 「so, Do you have a return airplane ticket?」 「う、うぐぅ?」 「イエスだ。イエスって言っとけ」 頑なにうぐぅ言語で戦おうとするあゆに、再び小声で囁きかける。後からこうしてサポートしてやらないと、あゆは入国審査を抜けられそうにもない。 「あ、はい。えーと、い、イエ〜ス」 たどたどしくあゆが答えると、おっさんはニッコリと笑ってあゆにパスポートを返した。それを引き攣った笑みで受け取ると、あゆは逃げるようにカウンターから走り去っていく。俺はそれを見届けると、疲労と安堵の吐息を吐いた。まったく、世話のかかるやつだよ、ホント。 さて、あゆがクリアしたってことは、次は俺に順番が回ってくるわけなのだが―― あゆとは対照的に、俺はもう、この入国審査ってやつを何十回と受けた経験がある。英語そのものは理解できなくても、パターンで相手がなにを求めているのかが簡単に分かるものだ。 勿論、今回もその例外ではない。俺は審査官とお決まりの遣り取りを交わし、余裕で審査をパスすると、出口側で待つ女の子たちの輪に合流した。 「OK、俺がラストみたいだな。全員、無事に審査をパスできたみたいだ。名雪、秋子さん、あゆ、香里、栞、天野、それから佐祐理さんと舞。みんな揃ってるな?」 「うん。皆ちゃんといるよ」 名雪が全員の顔を確認してから、元気に応える。 「よし。これで晴れて、正式にイングランドに入国できたわけだ。特に審査官の英語にうぐぅ言語で大苦戦していた月宮あゆ君、おめでとう」 「うぐぅ……あのオジさん、何て言ってるのか全然わからなかったよ」 よほど心細い想いをしたのか、あゆは目尻に薄らと涙さえ浮かべている。 「ま、とにかくだ。ここからは、もう正式にイングランドの大地。言葉も文化も、思想も違う正真証明、純度100%異国の地だ。文化が違うわけだから、罷り通るルールも違う。護衛の人たちを除いてほとんど全員がこの国は初めてだろうから、色々と注意してもらわなくちゃならないことがある」 俺は荷物受け取り所のターンテーブルに皆を先導しながら、全員に語り掛けた。預けていたスーツケースがベルトコンベヤに乗って流れてくるまで、少し時間がかかる。その間を利用して、この国の予備知識を彼女たちに与えておいた方が良い。特にあゆや栞は、意識して守ってやらないと本当に心配になる。 「いいか、まず基本的なことだ。特に、女性にとっては重要なことだから覚えておいて欲しい。日本ではどうか知らないが、この国では主要交通手段の1つであり、最もチケットが安価であるのがズバリ『地下鉄』だ。これからこの国を観光する上で、頻繁にこれを利用することが考えられ得る。――で、その地下鉄なんだが……構内における、トイレの絶対数が少ない。駅にトイレがあるのが当たり前、だなんて思ってたら痛い目にあいかねないことを覚えておいてくれ」 これは、母さんの受け売りだ。女性は男性と比較して、色んな意味でトイレを利用することが多い。トイレに関することでは、男には分からない問題も発生しやすいから、女の子を連れてくるならアドヴァイスしてあげなさい、と言われていたのだ。 まあ、これに関する問題には、俺も色々と心得がある。国によって、有料だったり番人がいたりと、トイレひとつで文化の違いが現れてくるものなのだ。アジアだとほとんどの公衆トイレは有料だし、エチケットが違ったりする。たかがトイレ、されどトイレ。排泄をしない人間なんていないのだから、これは重要な問題なのである。 ……どうでもいいけど、トイレの番人ってなんかイヤな感じの響きだな。 「そんなにトイレって少ないの? ちょっと意外ね」 流石の香里も、このあたりの細かい事情は知らなかったらしい。やはり、教えておいてよかった。母さん、サンクス。 「少ないぜ。ロンドンには300くらい地下鉄の駅があるわけだが、トイレがあるのは約半分と言われている。しかも、傾向として郊外に行くほど多い。つまり、都心部には少ないわけだ。自治体が設置している公衆トイレも有料のものが多い。日本みたいに、全てが無料って考えは通用しないから、そのつもりでいた方が良い。水と安全とトイレは外国行きゃ、みんな有料だ」 ちなみに、駅にある有料トイレは入る時は、入り口に設置してある機械に20ペンス・コインを入れなくちゃならない。日本円にすると――大体、35円くらいか。買い物の時でも、小さいところだと釣銭をあまり用意していない店も多いから、U.K.では細かい金をいつも用意しておいた方がいいのだ。これは、他のヨーロッパの国々でも言える。小銭は常にポケットに。 あと、バスに乗るときもそうだな。Exact Money Only(釣銭なし)の表示出してるバスも多いからなあ。で、そういうバスに限って、運賃が99ペンスとか半端な時が多いんだよな。99までいくんなら、大人しく1ポンドにしろっつーのに。 まあ、とにかくこうして改めて考えてみると、イングランドってのは日本とは文化の面での違いが細かいところで目立つ。独特なんだな。 「えぅ〜、じゃあ、街中でおトイレに行きたくなったらどうすればいいんですか?」 栞が眉をハの字にして、不安そうに訊いてくる。その頼りなさは、どことなくリスのような小動物を連想させるものがあるが、何でだろう。 「ロンドンの中心部に限ると、そうだな……お勧めは、デパートかな。大型のデパート。ただ、暗くなるとデパート周辺は治安の面で不安があるから、日が暮れたときは大型のホテルに入るといい。そこのトイレなら、まず安心していいと思う。まあ、基本的に行けるときに行っておく。これが鉄則だ。それでも、どうしてもトイレにいけなくて、我慢できないという時は――」 「いう時は?」 「俺を呼べ。もれないように、絶妙な怪しい指遣いで優しく狂おしく押さえておいてやる」 言った瞬間、後頭部にポコっという鈍い衝撃。振りかえると、舞のチョップであることが分かった。 彼女は頬を赤く染めて、恥かしそうに一言。 「……祐一の、スケベ」
Bayswater-Little Venice
GMTFri,21 July 2000 13:33 P.M. 7月21日 13時33分 ベイズウォータ〜リトル・ヴェニス周辺 誤解している人間が多いが、日本人がよく使う『イギリス』っていう表現は、現地では通用しない。正確に、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国と呼称しなければ、表現として意味をなさないわけだ。だから、略すにしてもU.K.(連合王国)とかブリテンと表現するのが本来は正しいのである。少なくとも現地の住人たちは、そういう略称を使うのが普通だ。俺の知ってる範囲ではね。 大体、『イギリス』も『英国』もイングランドを語源とする言葉だ。だから、U.K.をイギリスと一纏めにしてしまうのは、スコットランドやウェールズ、北アイルランドの人たちにとっては、非常に不愉快なことだ。日本人だって、中国人、韓国人なんかと一纏めにされて『東の方の黄色っぽい連中』なんて呼ばれたら、ちょっとカチンとくるだろう?……それと同じことだ。 森と古城の国ウェールズの人も、スコットランドの気高きハイランダーの血を引く人たちも、みんなそれぞれの故郷が気に入っているし、その土地に生まれた人間であることに誇りを持っている。この辺、長い歴史の中、一度も民族的な摩擦を経験することのなかった、温室育ちの日本人には理解が難しい感情かもれしない。だが、世界中の色んな国を訪れる機会に恵まれた俺は、実感としてその事実を思い知った。 そんなわけだから、俺は連合王国全体のことを『U.K.』、その中で最大の人口を誇る国を『イングランド』と呼ぶようにしている。郷に入りては郷に従え。その国に入ったからには、その国の哲学や文化を尊重するべしというのが、俺が両親から受けた教育だ。そして、それは間違ってないと思う。だから俺は、あゆなんかにも、同じ様なことを教え伝えるようにしているわけだ。 国際化ってのは、英語を喋れるようになることじゃない。まぁ、それもそれなりに大切かもしれないが、肝心なのは国際的な視野を持つこと。他国の文化を知って、それに理解を示すこと。できれば、そこから何かを学びとること。つまり、それが最近ハヤリの国際化、グローバリズムの本質だと思ってる。少なくとも、俺は。 「――それで、私たちはどこに向かってるんでしょうか?」 10人乗りのワゴンの窓にベッタリと貼りつき、車窓を流れるロンドンの町並みに目を輝かせながら、栞がうっとりと言った。 初めての観光客にとって、歴史ある荘厳な建築物と新世紀のモダンな建物が混在しているロンドンは、確かに眺めているだけでも楽しめるものだ。……しかし、最後に来てからもう直ぐ四年になるが、結構変わってるみたいだな。特に、テムズ南岸周辺は。 「あははーっ、佐祐理の別荘ですよ。ロンドン北西部のハムステッドというところにあるんです。車だと、そうですねー。大体1時間くらいでしょうか。ご近所に『精神分析の父』と呼ばれるフロイト博士の博物館があったりするところなんですよーっ」 最後部の座席に、舞と並んで座る佐祐理さんがにこやかに応える。 「ハムステッドって言えば、高級住宅街で結構有名なところだよな」 確か、カール・マルクスの墓があるハイゲートとも目と鼻の場所にあるんだったと思う。実際に言ったことは2、3度しかないんだが、緑に囲まれた静かなところだった。治安の面では若干不安が残るが、別荘地としては結構理想的な場所だろう。 「それで、その別荘には全員入りきるんですか? 護衛の人を合わせると16人もいますけど」 冷たく見えて、実は結構な心配性である香里が、後方を走るもう1台のワゴンを見やりながら言う。 ヒースロー空港を出た俺たちは、佐祐理さん所有の10人乗りワゴン2台にそれぞれ乗り込んだ。メンバーは、基本的に護衛と一般人の2組に分かれている。鷹山さんを除くボディガードの6人全員が後方の1台。そして残りの俺たちが前方を走るワゴンに乗り込んだというわけだ。因みに、俺たちの車は国際A級ライセンス所持者である、鷹山さん本人が運転してくれている。 「部屋の数は、とりあえず足りると思いますよーっ。ただ、流石に全員に個室をご用意することはできません。基本的にツインということになると思いますけど、ベッドの数は足りてますので安心してください」 「そうですか。まあ、倉田先輩のことですから、そう心配はしてなかったんですけど。ツインということなら、私は栞と相部屋で構いませんので」 「あ! わ〜っ、あれなんですか、あれ」 「うぐぅ! 大きい観覧車みたいだね」 その栞と、同じく並んで外の景色を眺めていたあゆが揃って騒ぎ出した。彼女たちの視線の先を見ると、確かにテームズ河の辺に天を突くような巨大な観覧車モドキが聳え立っている。 「ああ、あれが今年完成したという、ロンドンの新名物ですね」 流石にお子様コンビとは違い、天野先生は落ちついていらっしゃる。微かに目を細めて、冷静にコメントした。 「確か、『ブリティッシュ・エアウェイズ・ロンドン・アイ』でしたか――。早くも半端ではない人気を呼んでいると聞きますが」 ミッシーの言う通り、並み居るロンドンの歴史ある遺産たちを押しのけるようにして、2000年(つまり今年)大きな話題を振り撒いているのが、テムズにそって立つ大観覧車『ロンドン・アイ』だ。 TVで建造計画のニュースを聞いた時は、まさかと思ったが(ロンドンという都市の気質を知ってるヤツなら、みんなこう思ったはずだ)……本当に作っちまったらしい。 建築規制のせいで、あまり背の高い建築物を立てられないロンドンにあって、あれは目立つ。 きっと、この都市の新たな顔になることだろう。 「――私もガイドブックでチェック済みよ」 香里は妹と並んで身を乗り出し、目を細めて巨大な観覧車を見詰める。 「ミレニアム・プロジェクトの目玉として、去年の年末に完成したロンドンの新名物『BAロンドン・アイ』。天気がよければ頂上付近からは、グリニッジやヒースロー空港あたりまで見えるというから、30〜40km四方は見渡せるのかしら? 高さ135メートル、25人乗りのカプセル32基で構成されていて、1周は約30分。観光シーズンまっさかりの今の時期じゃ、まず当日券を買うのは不可能って言うくらいの人気らしいわよ」 「あらあら、それは凄いですね」 「うん。できたら一緒に乗ってみたいね、お母さん」 水瀬親子はホタホタと平和に微笑み合う。 改めて考えてみれば、名雪と秋子さんのコンビは結構個性として強烈なものがある。流石は母娘というべきか、彼女たちが形成する一種独特な雰囲気は、そんじょそこらのプレッシャーなどではビクともしないだろう。 基本的に俺の仲間にはゴーイング・マイウェイ型のマイペース人間が多いが、名雪と秋子さんはその中でもかなり強力な部類に入る。 「――ところで祐一さん。姉さんたちとはいつごろ会えるのでしょうか」 思い出した、というような感じで、秋子さんは唐突に俺に顔を向けて問い掛けてくる。 「あ、それは私も聞きたいですー」その秋子さんに、栞がすぐに便乗した。「なにしろ、今回の旅行の目的のメインはそこですからね。祐一さんのご両親であり、ワイズロマンサーでもある人たちに会える! 私はこれを楽しみにしてたんです。あと、ロンドンのアイスクリームも」 そう、俺の両親は『ワイズ・ロマンサー』というロックバンドのメンバーだ。完全なライヴバンドで、バスキングをやってたころからそこそこの人気はあったらしい。それが去年、いきなりブレイクした。まだメジャー入りはしていないようだが、一部の熱狂的なファンを従えて、シーンに話題を振り撒いているという話だ。 まあ、それもU.K.に限定した話。日本ではまだ無名もいいところだ。……と言うより、知っている方が変な話だろう。だというのに、美坂姉妹は何故か親父たちを知っていると言う。しかも、二人とも結構ワイズロマンサーを気に入ってくれているらしい。有り難いような迷惑なような、複雑な気分だよな、実際。 「ええと、多分明後日には会えますよ。明日の夜、ハイゲートの『フォーラム』っていう結構人気のあるライヴハウスで演るらしいですから。ハイゲートなら、佐祐理さんの別荘があるハムステッドの隣町ですからね。住所を教えておけば、寄ってくれるでしょう」 「そうですか。姉さんたちと直接会うのは本当に久しぶりだわ」 イギリスと日本、直行しても13時間もかかるほどに隔てられた地で生活しているのだ。幾ら姉妹といえど、そうそう会えるチャンスはない。しかも、母さんたちはこのイングランドを拠点として本格的に活動をはじめている。こういう機会でもないと、気軽に会うこともできないからな。秋子さんはとっても嬉しそうだ。 「まあ、変に売れてきたもんで、結構忙しいって言ってましたから。あんまり、ゆっくりはしてられないみたいですけどね。それでもメシくらいは一緒できるでしょう」 「ワイズロマンサーは成長株らしいしね」 「これからドンドン有名になっていきますよ。きっと」 一行の中で唯一親父たちを知る、香里と栞が頷き合う。 「最初は、ただのバスカーだったんだがなぁ。まあ人格に多大な問題があるが、ヴォーカルとしての親父はとてつもないし。母さんも、ギター滅茶苦茶上手いからな。それが正当に評価されたってのは、身内としては嬉しいかな」 親父たちがメジャーデビューして、ファンたちにキャーキャー持て囃されるなんて、どうやったって想像すらできないけど、それでも嬉しいことは嬉しい。こうして海を隔てた日本にもファンがいてくれたとなれば尚更だ。 「祐一、バスカーってなに」舞がツンツンと脇腹を突ついてくる。「……動物さん?」 「おいおい。動物なわけないだろう。なにか? 俺の両親は、もとケダモノだったってのか?」 舞の呆れた動物好きに苦笑しながら、俺は説明してやる。 「バスカー(busker)ってのは、要するに大道芸人のことだよ。buskingする人で、busker」 そう言えば、これってイングランド独特の表現だったっけ――? 他にも、ライヴのことは『ギグ』って言うし。確かに日本とちょっと用語の使い方が違うよな。こりゃ、舞が分からないのも無理はないかもしれない。と言うより、ある意味当然だ。 「日本語で言えば、路上演奏者とか、まあ、そういう人だな。ほら、ここに来るまでにもさ、広場やら駅やらで色んな芸をやってる人たちがいただろう?」 舞はコクンと頷く。 「あれが、バスカーさ。成功を求めるハングリィな挑戦者たちの総称だ。もっとも、技量はピンキリだけどな。レヴェルの高いやつは、即世界で通用しそうなのもいるし。下手なのはとことん下手だし。ま、その混沌ぶりが面白味でもあるんだろうけど」 路上や地下鉄の通路、それから街中の広場で大道芸を披露することを、U.K.では『バスキング』と表現するのが普通だ。そして、その芸人たちは『バスカー』と呼ばれる。 ただ、一口に大道芸と言っても種類は様々だ。手品、タップダンス、パントマイムのパフォーマー、火炎松明をお手玉するジャグラー。そして、楽器を演奏するミュージシャンや歌唄い。枚挙に暇ないとはこのことだろう。 コヴェント・ガーデンやピカデリー・サーカス(共にロンドン中心部にある大広場)に行くと、こういう連中がうごめいている。勿論、彼らの目的は自己の表現と、通行人からのご祝儀なんだが――特に夜のレスター・スクエアはバスカーたちの聖地。ハイ・レベルのバスカーが集う超激戦区だ。 そして、親父たち『ワイズロマンサー』は、その夜のレスター・スクエアで育った。 「親父たちは、夜になるとレスター広場にいって、毎晩演奏していたらしいぜ。バスカーたちにとって、レスターはU.K.最高のバトルフィールドだ。聞いた話だが、ワイズロマンサーは、そこで一種の伝説的存在にまで上り詰めたらしい。レスターに集まるやつらの間で、ワイズの名を知らないやつはいないって言うからな。悔しいけど、親父と母さんは凄いよ。ゼロから初めて、成功を掴みつつある」 日本とイングランドを行き来していた親父たちが、イングランドに移り住むことになったのもそのためだ。イングランドで成功を掴みつつある彼らは、取り合えずコッチに居座って、本腰入れて世界に挑戦するつもりになったという。おかげで、俺は水瀬家に放り込まれることになったんだが――。 まあ、なんにしても『バスカーからはじめて、いつかはメジャーに』なんて夢見てる連中は星の数ほどいる。そんな中で、それを実力で現実に変えてしまう親父と母さんは――認めるしかない。 ホント、凄いよ……。そこは、尊敬すべきだと思っている。まあ、母さんは掛け値無しに偉大な人である一方、親父はアホだけどな。人として。
Hamsted GMT Fri,21 July 2000 15:21 P.M.
同日午後03時21分 ロンドン北西部 高級住宅街 ハムステッド ――ロンドンの西24km地点にあるヒースロー空港を出発、そのままロンドンに入り、西部を北上。ロンドンを中心に、ブリテン全域へクモの巣状に広がる高速道路(表記はM。モーターウェイだ)の内、『M1』と地図上で表記されるルートを真っ直ぐに走り続ければ、やがて日本ではお目に掛かれないヨーロピアン・スタイルの洒落た高級住宅街が見えてくる。それが、現在の俺たちの目的地である『ハムステッド』だ。 U.K.っていうのは、道路にしろ住所にしろ、アルファベットと数字の組み合わせで綺麗に整理されている。道路地図でいえば、Mが高速道路。Aが主要(1級)道路だな。これに0〜999までの数字を組み合わせることで、主要道路は完璧に全てが表現されるわけだ。通りにも全てに名前があって、番地、ストリート名、そして郵便番号の順に並べたものがアドレスになってるから、日本より各段に分かりやすい。 同じ名前の通りが沢山あるから、郵便番号を確認しながら現在地の確認――と、最初は面倒に思えるかもしれないが、使い方を覚えてくると便利。色んなところにストリート名と郵便番号を書いたプレートが掲げられているから、迷っても現在地がどこなのか地図と照らし合わせて確認するのが非常に容易だ。 そんなわけだから、ホテルに置いてあるオマケっぽい安物地図にでも、ほとんどのストリート名が書かれている。 「えぅ〜、綺麗なところですねえ」 「本当。日本の内向きな建築構想とは真逆ね。庭と建物が外向きに造られてる。このあたり、文化の違いを感じるわ」 聞いていると、美坂姉妹のコメントは全然質が違って面白い。感情をダイレクトに表す妹と、なにやら小難しい理屈で考える姉。外見だけでなく、感性や性格も二人には相違点が目立つ。 「そうですね。日本は、家と庭の周囲を透明度のない無骨なブロック塀で取り囲み、とにかく外界から遮断しようとします。我が家の内側を見られるのを、一種の『恥』と考えるんですね。 ところが、アメリカやオーストラリア、そして欧州、U.K.などでは、その思考は逆に働きます。[*11]外を歩く人間が見て楽しめるような、意匠を凝らした庭や建物を意識して造るんですね。――つまり、思考の方向が外向きなんです。だから、海外の住宅街は、散歩するだけで楽しめるんでしょうね」 またミッシーが、それに輪をかけて難解なことを言い出す。 ここにいる8人がある程度打ち解けてからというもの、天野と香里が二人で話込んでいる光景を、良く見かけるようになった。今まで、周囲の人間に理解して貰えなかった難しい話を、ようやく遠慮なく話し合える相手を見つけたからだろう。二人は楽しそうに、ある意味で活き活きと談笑するようになった。 まあ、良い傾向と考えて良いんだろう。特に美汐は、あまり友人を積極的に作るタイプじゃないからな。香里という良き理解者の存在は、大きいに違いない。 俺、香里、天野、それに舞、佐祐理さん、あゆ、名雪、そして栞。考えれば考えるほど、それを強く確信する。やっぱり、このパーティは最高だと。 誰が欠けても成立し得ない、それぞれに其々の能力と特徴とオモシロさがある。それが相互に働き、相乗効果を齎すわけだ。これ以上理想的で、楽しい仲間なんてこの先できっこない。 「大事にしないとな……」 「ん、祐一。なにか言った?」 迂闊にも声に出してしまった俺に、名雪が怪訝そうな顔を向けてくる。 「いや、折角キレイな場所なんだから、景観保護に努めなきゃいけないなと思ってな。名雪。ゴミを投げ捨てたりしちゃ、ダメだぞ」 「失礼だよ、祐一。私、一度もゴミを投げ捨てたことなんてないもん」 慌てて苦しく言い繕う俺に、素直(悪く言えば単純)な名雪は、アッサリと誤魔化されてくれた。こういう時、名雪のサッパリとした気持ちのいい性格はありがたい。 ――さて。ロンドン中心部は、観光シーズン真っ盛りということで非常に込み合っていたが、ここまで来ると流石にそれにも落ち着きが見られる。俺たちを乗せ軽快に走り出したワゴンは、ハムステッド・ハイ・ストリートを直進して、町を南北縦に貫通して走るヒース・ストリートを通過する。パブやマーケットで賑わっているところを見ると、恐らくこの辺りが、町の中心部となるんだろうな。 その中心部を少し通りすぎて左折すると、『セント・メアリ』という教会が見えてくる。まあ、イングランドには教会が腐るほどあるから、特質するほどのものでもないんだけど…… とにかく、佐祐理さんの別荘は、その教会が密集する地帯の近辺に立てられた、青い屋根の巨大な屋敷だった。 「あはは〜、これが佐祐理の別荘ですよーっ。皆さん、ようこそー! 佐祐理は、みなさんのお越しを心から歓迎しますよーっ」 ワゴンから降りると、佐祐理さんは皆にニコニコと笑顔を振り撒きながら元気に言った。 だが、俺たちはそれに応えることもできず、ただ呆けたようにその豪邸と庭園を眺めるしかなかった。 別荘の周囲は、腰の高さまでしかない天然の塀に囲まれている。四角く刈り込まれた緑の芝だ。それ越しに見えるのは、テニス・コートが3面は入りそうな広い庭。そして、その奥に鎮座する巨大な邸宅である。 「ブ……ブルジョワジー」と、俺。 「しかも、綺麗だわ」と、香里。 「わ、天窓だ。天窓があるよ」と、名雪。 「あらあら、立派なお屋敷ですね。倉田さん」と、秋子さん。 「――佐祐理、お腹空いた」と、舞。 ハッキリ言って、これが別荘なら日本人が住んでるアパート一室なんてウサギ小屋だな……と言った感じの、とてつもないスケールだ。周囲の高級住宅と比較しても、群を抜いてデカイ。佐祐理さんが、庶民とは住む世界の違う『スーパーお嬢様』であることを再認識させられる現実だ。 「ささ、皆さんどうぞ。自分の家だと思って、遠慮なくズズッと奥まで入っちゃってください!」 それは無理だよ、佐祐理さん。そう思ったのは、きっと俺だけではないはずだ。 庶民なら、絶対にこの屋敷を見せつけられて萎縮するものなんだよ。 ただ、何故だろう? 相手が佐祐理さんだと「コンちくしょー! 悔しいから、火ィ着けたる」とかいう腐りきった思考が働かなくなる。これも彼女の人柄と仁徳の成せる業であろうか。 これが久瀬あたりの別荘ともなれば、俺は躊躇なく破壊に取りかかるんだろうけどな。まあ、とにかく。これから1ヶ月間、この豪邸が俺たちの拠点となるわけだ。
Hamsted GMT Fri,21 July 2000 16:11 P.M.
同日 午後16時11分 ハムステッド 佐祐理の別荘 ――佐祐理さんの別荘は、『洋館』という言葉を聞いて、庶民が真っ先に連想するような、西洋風の豪邸の典型といった造りをしていた。玄関の重たいドアを開くと、そこは2階までの吹き抜けになっていて、真正面に大きな上りの階段がある。 この階段というのがまた豪華なシロモノで、赤い絨毯のようなものが敷いてある、幅の広い、まさに豪華な洋館のイメージにピッタリのものだ。城の内部と表現してもいいかもしれないな。 しかし不思議なことに、この屋敷からはあまり堅苦しい雰囲気は感じられない。洋館というと、辺境の小高い丘の上にそそり建っていて、雨の日の晩に訪れると、顔色の悪い無表情のメイドさんが出迎えてくれて、なぜかそこで連続殺人が起きる――とかいう重苦しくて暗い雰囲気を想定してしまうが、佐祐理さんの別荘は、彼女の笑顔のように明るくポップな雰囲気が漂っている。採光性に優れているせいか、暗いという雰囲気は微塵も感じられないのだ。 そんなことを考えながら屋敷に足を踏み入れた俺たちは、まず最初に、この屋敷での『部屋割り』を決めることになった。これが決まらない以上、2階の客室に向かって、荷物を落ちつけることもできない。 そんなわけで、俺たちは、取り合えず1階西側にある大きな食堂に通された。 本当なら部屋割りなんて話は、ここに来るまでの間、ワゴンの中で纏めておきたかったんだが――栞とあゆのお子様コンビが、やれ「2階建てのバスだ」やれ「お城みたいな建物だ」と終始騒いでいたため、それが侭ならなかったのだ。 「ではでは、早速各人のお部屋を決めましょーっ」 そう言って、相変わらずハイテンションな佐祐理さんは、食堂の大テーブルに別荘の間取図をバサリと豪快に広げて見せた。この人には、気疲れとか精神的疲労とかいう概念はないのだろうか。 大食堂のテーブルは、俺たちが良く知る生徒会室なんかに置いてある細長い机を、縦横3倍ずつくらいに拡大した感じの、とてつもなく大きくて豪華なものだ。勿論、護衛の人たちも含めて20人以上が楽に座れるだけのスペースがある。その上座に、佐祐理さん。そして彼女を12時として、時計回りにズラリと並んで俺たちが腰掛けることになった。 機内食で昼食は取ったが、量が少なかったのでみんな腹が減っている。部屋割りの決定は、佐祐理さんの提案で、アフタヌーン・ティを楽しみながら――ということになった。 日本人には知らない人も多いかもしれないが、イングランド人は本当によく紅茶を飲む。インドや東南アジアでも、しょっちゅう紅茶を飲む習慣を見かけるが、それに負けていない。 今も、テーブルには銀製のポットに入った紅茶とミルク、そして夏の訪れを告げるお菓子としてポピュラーな『ストロベリー・アンド・クリーム』をはじめ、スコーンやマフィン、ショート・ケーキが並べられている。他にもサンドウィッチや、火を通した簡単な料理までもが、所狭しと食卓を占領していた。 この軽めの夕食といったティ・ブレイクを、こっちでは『ハイ・ティ』と言う。 時間も大体今頃、5時6時といった夕方にとるのが一般的。 普通アフタフーン・ティといえば午後3時が目安だが、このハイ・ティは紅茶よりむしろ食べることにウェイトが置かれたものだ。小腹が空いている今の俺たちなんかにはうってつけなんだな、これが。 「ええと、1階の西側のこの大部屋――これが、この食堂ですよね」 早速、香里が進行を開始した。図面を睨みながら、状況を確認していく。 こう言うときの司会役というか、纏め役は、生徒会役員で慣らしている香里が務めることが多い。実際、美坂チームという呼称があるくらいだからな。俺たちの実質的なリーダーは彼女だ。俺も代表者として担ぎ出されることがあるが、それはどちらかといえば象徴的な役割の方が多い。 「あはは〜。そうなりますね。この屋敷はふたつの食堂があるんです。ひとつはここで、もうひとつは厨房を挟んだ隣ですね。違いは、こっちは部屋の中央に大きなテーブルがひとつあること。向こうは、4〜6人がけのテーブル席が幾つかに分散してあることです。中華などはあちらで食べるとが多いですね。人数が多いパーティなども向こうの食堂を使いますが、それ以外は専らこちらが利用されます」 「なるほど……」 図面をざっと見るに、1階には佐祐理さんの言う通りふたつの食堂がある。それにもうひとつ同じくらい大きな広間があって、そっちはバーになってるみたいだな。それから、厨房に給湯室。倉庫、それから洋室が2部屋あるようだが―― 「洋室が2部屋あるようですが、これは?」 ナイス、ミッシー。訊こうと思っていたことを、天野大先生がタイミング良く質問してくれた。 「これは、執事やメイドさんのためのお部屋ですね。本来は。でも、佐祐理はそういう方々を雇ってはいませんので、単純に客室ということになります。片方は、佐祐理と舞が使います。もうひとつは、鷹山さんに割り当てる予定です」 「うぐぅ、と言うことはボクたちは2階のお部屋に泊まるの?」 流石のあゆあゆも、消去法となると理解できるらしい。 「あはは〜、そうなりますね。2階にはユニット・バスを個々に持ったツインの客室が合計6つあります。皆さんは二人ずつの組みを作って、各部屋に入っていただくことになりますね」 なるほど、図を見るに、2階にはツインの客室が『コ』の字を、反時計回りに90度回転させたような形で並んでいることが分かる。部屋数は全部で6つ。下の部屋を合わせると、合計8つでベッドの数は合計16か。俺たちが護衛の人たちも会わせて全部で16人だから、ギリギリだな。 「ええと、私は栞と組むでしょ。それから、名雪は――秋子さんとよね。倉田先輩は、川澄先輩とだから、あと自動的に月宮さんか天野さんが1階の鷹山さんと組むことになるわね」 香里がテキパキとペアを分けていく。 「うぐぅ。じゃあ、ボクが鷹山さんと一緒になるよ。鷹山さんは強いから、一緒にいると安心だし」 「そう。それじゃ、月宮さんは鷹山さんと相部屋ということで宜しくお願いするわ」 勝手な進行ではあるが、妥当な意見であるため誰も文句は言わない。 ……って、ちょっと待てい。 「あの、香里さん? それだと、ボクはどうなっちゃうんでしょうか? なんか、先ほど自分だけ名前が挙がらなかったようなんですけど」 クイクイと自分を指差しながら、チョッピリ控えめに自己主張してみる。 「ああ、相沢君ね」香里はチラと俺を一瞥して――「纏め役の鷹山女史を除いて、護衛は女性二人に男性4人。これはもう、ペアが決まってるようなものでしょう。ええと、つまり残っているのは天野さんだけだから、相沢君は天野さんとペアになることに……って、これは拙いかしら?」 「そんな酷な展開はないでしょう」 珍しく困惑したような顔で、即座に天野が言った。 「そうよね。餓えた狼の群れの中に仔羊を放り込むようなものですもの」 「その通りです」 「おいおい。人を盛りのついたハーレムのトドみたく言わないでくれ」 香里&美汐のあんまりと言えばあんまりな言われように、俺はたまらず抗議の声を上げた。 そりゃまあ、確かに――初恋の女性が『沢渡真琴』という年上であったことからも確かであるように、俺は大人の女を感じさせる、天真爛漫よりかはクール、可愛いよりは綺麗な女性を好みとする男だ。 そして、天野はその好みにバッチリ合致する、典型的なクール&ビューティ・タイプ。何度か抱きしめたことあるけど、カラダ、凄く柔らかかったし。近付くと、何時も良い匂いがするし。……中身はオバさんくさいけど。 とにかく、だ。俺だって健康な17歳の男子。脳裏に、彼女の悩ましい裸身を一度も思い描いたことがないとは言えない。そして、その天野と同室で二人きりになるわけであるから―― 若い男女が同衾しちゃうとなれば、これは何らかの『過ち』が起こってもなんの不思議もない、ごくごくナチュラルなシチュエーションということになろう。ムフ。……なんて、邪まな考えを抱いてしまうのは、ある意味で仕方がないことだよな?」 「――そんなわけないでしょう。そのような人として不出来な妄想が、『仕方がない』の一言で許されるわけがありません」 「……え?」 なんか、ミッシーさんがコチラを白い目で苛みながら、己の身を庇うように身を捩っている。 「なんにしても、これでハッキリしましたね? 私が相沢さんとペアになることが如何に危険であるかが、これで理解していただけたと思います」 「オイ」 この展開はもしかして―― 「相沢君。あなた今、自分の欲望を声に出して語っていたわよ」 「ぐはっ、ウソ!」 ああ、なんだか香里をはじめとする、女性陣から向けられる針のような視線が、全身にチクチク痛い。ついつい己の邪まな野望に熱くなり過ぎたあまり、状況を省みずストレートに口に出してしまうとは。我ながら、俺って恐ろしい男だ。 「それで、えっと。念の為に確認しておきたいのですが、ボク、どの辺から口に出してました?」 「『カラダ、凄く柔らかかったし。近付くと、何時も良い匂いがするし』辺りから、最後に『ムフ』までよ」 香里が冷たい声音で即座に応えた。対照的に、天野は自分のことが語られているせいか、真っ赤になって俯いている。こういうところは、オバさんっぽさは微塵もなくて、素直に可愛いと思うんだが。 「じゃあじゃあ、『でも天野は胸が小さそうだから、ボリュームのある舞とか佐祐理さんとか香里とかでもいいかなぁ〜』とか思ったことは?」 「それは、たった今、この瞬間聞いたわ」 「あ、なぁんだ。よかった」 そこまではバレていなかったことを知り、俺はホッと安堵で胸を撫で下ろす。 「とにかくです! 相沢さんと相部屋なんて酷過ぎます。私の純潔に『散れ』と命じているようなものです」 そんなに嫌がられると、それはそれで、なんかショックだなあ。俺って、天野には結構好かれてると思ってたんだが、思い違いというか、勘違いだったのかもしれない。 「あはは〜、大丈夫ですよー」 頑なに俺とのペアリングを拒む美汐に、佐祐理さんは笑顔で言った。 「祐一さんは、女のコと1夜を共にすることに関しては、既に慣れっこですから。舞なんか、もう何度も祐一さんと同じベッドで一緒に寝てますし。佐祐理もご一緒させて貰ったことが何度かありますよー。ね、舞?」 「ええ〜〜っ!?」 これには、その場にいたほとんど全員の女の子たちが悲鳴にも似た叫び声を上げた。 「……って、オイオイ」 佐祐理さん。確かに舞が夜中に泣き出した時は抱きしめてやるし、一緒のベッドでも寝る。佐祐理さんも、それに混ざったことがあるのは真実だ。真実なんだが―― 「佐祐理、それはヒミツ」 「あはは〜っ、ごめんね、舞」 皆の前でバラされたのが恥ずかしかったのか、舞のテレテレチョップが佐祐理さんにポコンと炸裂する。 真っ赤になった舞の頬。羞恥心ゆえか、どことなくモジモジとしたその仕種が、見る者を更なる誤解の高みへと導いてゆく。 「えぅ〜! それはつまり……えーと、男の人と女の人が、夜同じベッドで抱き合って寝ると言うことは。いうことは?」 「うぐぅ、恥かしいよう」 「祐一と川澄先輩がそんなことになってたなんて、私もう笑えないよ」 「相沢君、納得のいく説明をしていただけるかしら?」 ああ、なんか凄い展開に陥りそうな予感がヒシヒシと。 栞、勝手に妄想を膨らませないでくれ。あゆ、何を想像してるか知らんが赤くなる必要は微塵もないぞ。名雪、俺と舞がどういうことになったと考えてるのか知らんが、笑ってくれて結構だ。それから香里。メリケン・サックなんか手に装着して、そいつで俺をどうするつもりだ? 「さぁ、相沢君。観念して、真実を正直に言うのよ」 口元に天使のような微笑を浮かべて、香里がズンズンと迫ってくる。だが、その目は少しも笑ってはいない。 「素直に白状すれば、怒ったりしないから。ね?」 ウソだ、ウソに決まってる。 俺は逃げようとするが、何故か体が言うことを聞いてくれない。ジタバタと無駄な足掻きを続けている内に、香里のシルエットが俺に覆い被さり―― 「うぎゃ〜〜〜〜っ!」 ――俺は散った。
15 Oak Hill Way NW7 Hamsted
GMT Fri,21 July 2000 17:02 P.M. 7月21日 午後5時02分 ハムステッド 佐祐理の別荘 ヒースロー空港から、ロンドンの西を掠めるように北上すること約1時間。ようやく旅行中の拠点となる、佐祐理さんの別荘に辿り着いた俺たち。本来なら、軽食を交えた午後の紅茶を嗜みつつ、まずは優雅に別荘での部屋割りを決めるはずだった。そのはずだったのだが―― 「祐一さんは、女のコと1夜を共にすることに関しては、既に慣れっこですから。舞なんか、もう何度も祐一さんと同じベッドで一緒に寝てますし。佐祐理もご一緒させて貰ったことが何度かありますよー。ね、舞?」 ――全ては、この一言から始まった。 「えぅ! それはつまり……えーと、男の人と女の人が、夜同じベッドで抱き合って寝ると言うことは……いうことは?」 「うぐぅ、恥かしいよう」 「祐一と川澄先輩がそんなことになってたなんて、私もう笑えないよ……」 「――相沢君、納得のいく説明をしていただけるかしら?」 予想通り、佐祐理さんの誤解を招きかねないコメントに勝手な妄想を膨らませていく少女たち。それだけならいいのだが、香里は右手にメリケン・サックを装備しだす始末。 もはや、冷静な話し合いが通用する雰囲気ではない。事態の収拾は何人にも不可能であろうと思われた。 だがしかし、これを何とか収めないと、俺の命が切迫した危機的状況に陥ることもまた事実。 結局、『舞と一線を越えてしまった疑惑』をなんとか晴らし、彼女たちの誤解を解くまでに、俺はその日の残存体力を全て注ぎ込むことになった。 そうしてようやく彼女たちが落ちついてくれたのは、騒動が始まってから約30分後。俺は精も根も尽き果てていた。一体、なんでこんなことになったんだろう。 「あー。もう、どうでもいい……。取り合えず、部屋割りはお前さんたちに任せるよ。本人がいたら話も纏まらないだろうから、とりあえず俺は鷹山さんの部屋に入れてもらうことにする。話が纏まって、俺のパートナーが決まったら呼びに来てくれ」 疲労困憊。俺はそう言い残すと、フラフラと食堂を立ち去った。流石に、ここまでくると女の子たちも俺を引き止めようとはしなかった。まあ、天野と同室になるにせよ、そうでないにせよ、とにかく今は静かなところで一休みしたい。 年の離れた鷹山さんなら、ちょっと休むくらいなら部屋にもいれてくれるだろう。 そう判断した俺は、一度吹き抜けになっている玄関ホールに出て、屋敷の反対側に向かった。 食堂の大テーブルに広げられていた屋敷の見取り図から見て、佐祐理さんのボディガードである鷹山小次郎女史の部屋は、1階の一番東側にあるようだった。頭の中に見取り図を描き出しながら、フラつく足取りで歩き、2階へ続く階段前を横切り屋敷の西側から反対側の東側にでる。 そこには、洋室に続くのであろうふたつのドアが並んでいた。 左側が佐祐理さんと舞が使う部屋だと言っていたから―― 俺はちょっと緊張しながら、右側のドアを叩く。返事は直ぐに返ってきた。 「――誰だ」 この素っ気無い口調は、間違いなく彼女だ。 こういう無愛想な話し方をする女性は、俺の知る限り川澄舞と鷹山女史の二人しかいない。 「相沢です」 「君か。私に何か?」 「ええ、ちょっと……」 「鍵は掛けてない。入るといい」 その返事を貰って、俺は恐る恐るノブを回し入室した。やはり、あまり親しくない――しかも年齢の離れた女性の部屋に入るというのは、それなりに緊張する。 足を踏み入れた室内は、ちょっとランクが高めのホテルの客室といった感じだった。 入って右手に大きなクローゼット、左手にユニット・バスへと続くと思われるガラス戸がある。 部屋の奥にはベッドがふたつと、大き目の木製の机がひとつ。鷹山さんは、その机に向かって何かの書類に目を通していた。 「すみません、鷹山さん。今、忙しかったですか」 「――いや」 彼女は書類から目を離すと、椅子に座ったまま俺に視線を向けてきた。 長い黒髪が、サラリと揺れる。普段は危急の際に邪魔にならないようバレリーナのようにアップにしているのだが、こうして降ろしてみると結構髪の長い人だったんだな。ちょっと、新たな発見。 「それで、相沢君。私に何か話でも?」 青い瞳が、真っ直ぐに俺を見詰めてくる。深層心理の底の底まで、全てを透かして見られてしまいそうな、深くて神秘的なブルーだ。 間違いなく、この女性の外見における最大の魅力のひとつだろう。 「あ、いえ。実は今、部屋割りを決めているんですけど……結構、これが難航してまして。決定は女性陣に任せてきたんですが、それまでここにいさせて貰えませんか? いえ、ご迷惑でなければ」 「構わない」彼女は拍子抜けするほどアッサリと言った。「どうせ誰かと相部屋になるわけだから。好きにくつろいで良いよ」 「あ、はい。どうも……」 俺は軽く頭を下げると、ボーっと突っ立ってるのも何なので、ベッドの片方に腰を落とした。 鷹山さんは既に俺に興味を無くしたようで、再び机の書類に視線を戻している。俺の位置からでは、彼女の後姿しか見えない。 「鷹山さん、仕事中ですか?」 「いや。仕事と関連があると言えばあるが、どちらかと言えば私事」 背中に語りかけてみるが、彼女は振り向くことなく応える。 「えっと、じゃあ世間話の相手とか頼んじゃうと、迷惑ですか?」 「迷惑じゃないよ」 恐々聞いてみるが、またもやアッサリと了承を得られてホッとする。 「実は前々から聞いてみたかったんですよ。鷹山さんのこと」 鷹山さんはピタリと体を硬直させると、一瞬だけ後を振りかえって俺を見た。だが、れも束の間、直ぐに元の作業に戻る。 「ボディガードとか傭兵とか。元特殊部隊の隊員とか。俺にとっては映画とか小説の中だけの存在なんで、実際はどんなものなのか、興味があるんですよね」 「そう面白いものじゃない。私は映画にも小説にも通じてないけど、少なくとも他人に話して面白い商売だと認識はしていない。地味で単調な仕事だ」 彼女は、やはり前を向いたまま淡々と応える。 「鷹山さんって、特殊部隊を辞めてフリーの傭兵をやってたんですよね」 そして、佐祐理さんに雇われてボディガードを勤めるようになったという話を聞いてる。 「……そうなるかな」 「傭兵って儲かるんですか?」 「まさか。あの商売が儲かるわけがない」彼女は、即座に鼻で笑うように言った。「傭兵を雇うとなると、誰がいる? 先進国がいまどき銃と装甲車で花火をやるわけもない。内紛とテロが蔓延している地域の人間が主だよ。ヨーロッパだと <IRA> が活動している一部の地域と火薬庫。あとは中東と東南アジアが精々。アフリカもそうかな。いずれにしても、どれも裕福とは言い難い地域か第三世界の連中だよ。そんな連中に雇われて戦争をやるわけだ。クライアントが大金を傭兵の報酬に回せるわけもない」 「確かに、そうかもしませんね」 傭兵なんていってみても、ぬるま湯に浸かりきった日本人である俺にはそれが何なのか想像もつかない。戦争なん、別世界の出来事だと思ってる人間だ。 鷹山さんが言うようなことを、考えたことなど一度もなかった。 「その日に食べるものにも在り付けず、泥に塗れながらサバイバルを続ける生活が大半だな。その辺の雑草と一緒にパン粉を舐めるような生活だ。多くの場合、弾丸に当たって死ぬことより、どうやって食料を確保するか。食い繋ぐか。これが問題になってくるような、不可思議な世界。それが、傭兵の生きる世界になるね」 「へえ」なんだか、新鮮な話だ。思わず感嘆をあげてしまう。 朧げに想像していたヴィジョンとは全く違うだけに、かえってリアリティを感じるよな。 異世界の住人から、誰も知らないこの世の秘密をコッソリ聞いてしまったような気分。コッチでは、妖精に囁かれたっていうのかな? 「古今東西、傭兵は儲かる商売ではない」女史は意外な饒舌ぶりを発揮しながら続ける。「中世などではキチンとした報酬が支払われないこともあった。――無理もないね。紛争中はどこも経済的に苦しいし、第一、自分の雇い主が負けたらどうなる? 報酬を払ってくれるべき国が無くなり、クライアントが処刑されるんだからな」 そう言えば、そうだな。戦争ってのは、陣地の取り合いなわけだ。 負ければ敵側に吸収されて国家や民族は死ぬ。まあ、それでも民族意識は死なないから戦争の火種は残るわけで。そうやって住民感情を置き去りに、幾度と無く国境線だけが塗りかえられてきたからこそ、ユーゴの内紛なんかはあんなに激しく、根の深いものになってるわけだしな。 「それに戦争には膠着状態がつきもの。その間は仕事が無い。昔の傭兵は盗賊さながら略奪行為を繰り返し、そのせいで恐れられたらしい。無論、500年前の傭兵と現代の傭兵はその在り方が全く違う。しかし保証が無いこと、稼ぎが無いことに掛けてはほとんどの面で旧態依然としていると言えると思うね」 「なるほどねえ」 厳しいね、人生ってのは。なかなかそう楽にはいかないってことか。 生きて帰れるかどうかも危うい場所に出勤して、報酬も貰えないんじゃ悲惨過ぎる。 「とは言え、ものには例外というものがある」 鷹山さんは、書類を机の上に戻し、背凭れに体重を掛けながら言った。 「私もその例外の一人と言えなくもないわけだけど」 「ほう、その例外って?」怪訝に思って、俺は訊いてみた。 鷹山さんの話は素っ気無いので会話のラリーが続き難いが、その分返答は直ぐに返ってくるし、論旨がズレることは全くない。ある意味で非常に気分が良いとも言える。 「つまり、特殊技能を持つ傭兵だね。たとえば世界で5人しか持っていない技術を持つ人間だと、それは特別な待遇を受ける。国家の機密情報に通じていたり、人間として特殊な能力が使えたり、一流のクラッカーであったりとね。そういう兵士には特殊なクライアントがつく。国や政府が裏事情で雇うわけ。結果、その報酬は莫大な額になる」 「で、鷹山さんの場合は? どれに該当するんです」 「私は特殊技能を持っている。だから部隊が作戦にそなえた訓練を行なう時、その技術教官として招かれることが多かった。単独での敵基地への潜入、危険地帯での破壊工作。内容は様々。極めて特殊な任務の時、私は雇われて隊員たちを指導し、有効な戦術を教え、手引きをしてきた」 「そりゃ凄いですね。まさに、超一流の凄腕ってわけか」 「そうなるね」 彼女は「1+1=2ですよね?』と聞かれでもしたように即答した。 鷹山小次郎の辞書に、謙遜の文字は無いらしい。いや、それは職人としての自信の表れなのかもしれないな。命の遣り取りをする戦場で謙遜は必要ないってことか。できることはできる。不可能は不可能。自分を客観的に評価できないと生きてはいけないのかもしれない。 「それで、鷹山さんはどんな特殊技能を持っているんですか? 狙撃と特殊工作にかけては世界でも五指に入るとは聞いてるんですけど」 「それだけでは流石に弱い。特別待遇を受けるにはもっと決定的な能力が要求される。たとえば、一時的にではあれ、たった一人で戦況を一転できるような」 そう言うと鷹山さんは立ち上がって、ベッドに腰掛ける俺に向き合う。 そして手に持った黒い塊を俺に投げて遣した。慌てて受け取ったそれはズシリと手に重く、もう少しで取り落としそうになる。勿論、彼女の持ち物となればこれは本物なのだろう。無骨な軍用の大型拳銃である。 「これは?」と質問しかけた時、彼女はおもむろに口を開いた。 「相沢君。君は私のクライアントに極めて近しい人物だ。ほとんど、ファミリィと言っても良い。だからと言うわけではないが、君には特別に私の能力の一端を披露しておこうと思う」 「はあ、それはありがたいですけど……」 それとこの拳銃と、一体どんな関連性があると言うんだろう。 「それで、私を撃ってみるといい」 「え?」 「その拳銃を構えて、私を撃てと言っている」 驚愕する俺を尻目に、鷹山さんはニコリともせず繰り返す。 「サプレッサ――消音装置がついているから、誰にも気付かれる恐れはない」 いや、この場合、問題はそんなところにはないだろう。 幾ら彼女が凄腕のエージェントだったといっても、人間であることには違いない。こんな大口径の拳銃を至近距離で食らっては死ぬことだってあり得るはずだ。彼女のような職業につくプロは、一撃で人を倒せるような威力の高い拳銃を好んで使うと聞いたことがある。 「ほ、本当にやるんですか。こんな大きな拳銃で撃たれると、普通死にますよ?」 「普通は死ぬが、私は死なん。だからこその特殊能力なんだよ」 「まあ、それはそうかもしれないですけど……」 何と言っても鷹山さんを説得できそうにないので、俺は拳銃を構えながらノロノロと立ち上がった。 まあ、常人ではあり得ないような修羅場と死線を潜りぬけてきた、歴戦の勇士がこう言うんだ。 きっと真正面から撃ったとしても、ヒラリとかわされるとか、撃つ瞬間に投げ飛ばされるとかそういうオチなんだろう。 「ほんじゃ、遠慮なくいきますよ?」 「鷹山さんは応えず、右人差し指を立ててクイクイと俺を招く。 さすがに手が震える。同族殺しを恐れる本能が、カタカタと無様に拳銃を震わせていた。 俺は深く息を吸い込んで全身の力を抜いた。唾を飲み込む。そして両手で銃を構え、自然と漏れる気合の声と共にユックリと引金を絞った。 その瞬間、圧搾空気が抜けるような破裂音、更に思ったよりも軽いリコイルショックが俺を襲う。そして放たれた弾丸は、音速を超える速度で鷹山さんの引き締まったボディに向かって突きたてられる、その瞬間だった。 ワイングラスを金属の棒で叩いたような、透明感のある硬い音が響き渡った。 兆弾――跳ね返された弾丸があらぬ方向へ飛んでいく。 俺は人生初めての衝撃に、思わず尻餅をついて後に倒れ込んだ。そして、恐怖のあまり硬く閉じていた瞼を、恐る恐る開けてみる。 震える手から拳銃が離れ、部屋の絨毯にゴトリと落下した。 「な――っ!?」 俺は何が起こったのか認識すら出来ず、ただ呆然と青い目の麗人を見上げるしかなかった。 鷹山小次郎は、冷ややかにそんな俺を見下ろしている。 彼女は、一歩たりとも――いや、微動だにしていなかった。 なのに、なんで…… 「今のは」俺は固唾を飲み込むと、無様に座り込んだまま言った。「今のは一体なんなんです」 弾が、跳ね返された――!? 「これが私の特殊技能」 鷹山さんは表情ひとつ変えずに告げた。 「チョコレイトハウスの連中は <PSIリフレクター> と呼んでいた。PK-MT――動体に影響を与えるサイコキネシスの一種だという話だ」 「サイコ……キネシス……」それって、オイ。「そりゃ、超能力のことじゃないですか!?」 鷹山さんは応えず、スタスタと歩き再び元のデスクに戻った。 「鷹山さん!」 「何も驚くことはない。川澄嬢はどうなる。あれもなかなか立派なPKだよ。一種のポルターガイストなのかもしれない。君はそれを知っているし、幾度も見てきているはず。少なくとも彼女たちからは、そう聞いているけど」 既に俺に興味を失ったのか、鷹山さんは振りかえることなくそう言った。 「そりゃ、まあ……そうなんですけど」 俺は絨毯に落ちたピストルを拾い、立ち上がりながら言った。 「さっきのアレは一体なんなんです? なんか一瞬ビカッと青白く光ったと思ったら、弾が跳ね返されたんですけど」 その言葉に、鷹山さんはいきなり俺を振り返った。 その青い目を険しく細めて、じっと俺を見詰める。悪事を追及するような視線にも見えた。なにか悪いことをしたような気分になるんですけど。 「光った――?」 「ハァ。見えましたよ、なんか。一瞬でしたけど巨大なシャボン玉が現れて、鷹山さんを包み込んだような」 どうでも良いけど、この人のブルーアイズで凝視されると、なんだか落ちつかない。 考えていることを、全て見透かされているような錯覚に陥るからだ。それこそ、超能力でも宿っていそうな感じがする。 「そうか。なるほどね」 そう呟いた瞬間、彼女は初めて俺に微笑を見せた。だがそれも束の間、また顔を戻して机の上の書類に向いてしまう。 「あの、鷹山さん。なんか納得されたようですが、俺には何が何だかサッパリ分からないんですけど」 「特殊な力を持つ人間は意外と多い。しかし弱すぎて自覚できなかったり、制御できない場合がほとんどだと言われている。動く物体に影響を与えるPK-MTなどは万人に潜在していると言われてもいる。微弱すぎて観測できなかったり、無視できる範囲のものでしかないため科学的な研究をやろうとする人間はほとんどいないけどね。私や川澄嬢のような人間がむしろ例外的なんだ」 「まあ、そうなんでしょうね」 確かに、舞みたいなのがウジャウジャいたらオリンピックが成立しなくなる。あいつが日本代表として出場したら、まず、陸上なんかの記録は全て塗り替えられることになるだろう。しかも他の人類には永遠に更新することが出来そうもない、驚異的な記録でだ。 何しろ予備動作なしでイキナリ10メートルはカッ跳ぶからな。あいつは。見てると気持ちいいくらいだ。 「じゃあ、鷹山さんも舞みたいに“魔”が使えたりするんですか?」 「あの具象思念体か。いや、私にはあの能力はない。と言うより、あの能力は非常に珍しいな。私がいた旧ユーゴの施設には、少なくとも彼女より優秀な思念使いはいなかった。PKとESPの中間に位置するような稀少例だね」 「そうなんですか? 凄いとは思っていたが、さすが舞だ」 まあ、舞本体は“魔”五体がかりでかかっても勝てないからなあ。そう考えると、もはやあいつは地上最強の生物なんだろう。少なくとも俺はあいつとだけは闘いたくない。世界で最も確実な自殺手段のひとつだからな。 「その代わり、私には川澄嬢にはない能力がある。それが先ほど見せたFPKの一種」 「エフ・ピー・ケイ?」 「PKで作られた位相空間のこと。日本語では精神防壁とか念動力場だとと呼ばれるらしい」 鷹山さんは一瞬だけ俺に顔を向けると、言った。 「FPKは通常、物理的な攻撃――つまりナイフや拳銃の弾丸、敵の肉弾攻撃などを防ぐアンチ・フィジィカル・フィールドと、超能力や思念波、理力などを防ぐアンチ・フォース・フィールドの二種類に分類される。この両特性を兼ね備えた絶対的な精神防壁をPSIリフレクターと呼ぶわけ」 「それってつまり――」 「私はFPKを自在に操れる。ナイフはもちろん、銃器の弾丸、細菌兵器であろうが毒ガスであろうが、全てを完全に防げる」 オイオイ。それはすでに人間じゃないだろう。 ……というツッコミは、この場合NGなんだろうか? 「相沢君。話しは変わるけど」 鷹山さんが突然立ち上がった。そしてデスクの引出しを開けて、何やら小さなアクセサリのようなものを取り出す。 「せっかくの機会だから、これを渡しておく」 そう言って彼女が差し出してきたのは、銀色の小さなチェーンで出来たネックレスだった。 受けとって眺めてみると、先端に拳銃のものと思われる弾丸がつけてある。弾丸ネックレスだ。いや、そんな言葉があるのかは知らんが。 「なんですか、これ?」 「バースディ・プレゼント。今月の二五日は君の誕生日だと聞いた。私は明後日からしばらく留守にするのでね。今のうちに渡しておく」 そう言えば、七月二五日は俺の誕生日であった。もう四日後にせまっている。自分でもスッカリ忘れていたけど。 「それはどうも、ご丁寧に。なんか感激だな。俺、鷹山さんみたいな大人の――」 胸のなかで「綺麗な」という言葉をつぎ足してから、続ける。 「女性にプレゼント貰うの初めてですよ」 「そう。喜んでもらえたようでなにより」 鷹山さんは表情を変えずに淡々と言うと、再びデスクに戻った。相変わらずクールな人だ。 「でも、これってなんですか? 見た限りネックレスみたいですけど。先っちょに飾ってあるの、これってピストルの弾でしょう」 「スミス・アンド・ウェッソンの四〇口径。私の特殊部隊時代の同僚が新兵の頃使っていたグロック22というハンドガンのカートリッジだよ」 「何か、いわくでも?」 .40S&Wか。俺は拳銃の弾にしては大きめなそれを摘み上げて、観察する。 特に変わった点もないし。普通の弾丸のように見えるが……まあ、本物のピストルの弾を持っていると言うこと自体、充分に特別なのかもしれないけどな。 「子供の命を救った。いわゆる <幸運の弾丸> らしい。特殊部隊ではそういうゲンを担ぐこともあるからね」 「子供の?」 「新人の頃、私のチームの隊員の一人が誤って子供を射殺しそうになった。その時、使っていたグロックが弾詰まりを起こして、その子は九死に一生を得たと聞いてる。それは、その時弾詰まりを起こしたマガジンに収められていた弾丸の内の一発。彼はフォーチュンブレットとして、隊員全員にその弾を配っていた」 「そんな大切なもの、俺が貰っちゃっても良いんですか?」 「だからやった。私は受け取っただけで、特に思い入れはないから」 やはりクールなコメントが返って来る。ま、グロックの弾丸つきネックレスなんてカッコイイから、俺としては歓迎だけど。 「じゃあ、いただいておきます。鷹山さん、ありがとう」 俺はさっそく、その幸運の弾丸を首からぶら下げると笑顔で言った。 Have fun on your birthday。綺麗なクィーンズイングリッシュが返った。 「でも、これって安全なんですか?」 「雷管カップやアンピル(発火金)に細工してある。暴発はしないよ」 そりゃ良かった。最悪死にかねんからな。ネックレスに殺されるなんて不名誉極まりない死に方はご免だ。ぜんぜんフォーチュンじゃない。 やはり死ぬときは友をかばって熱く果てるか、あるいは美女の胸の中で安らかに逝きたいものである。 しかし、鷹山さんから贈り物が貰えるなんて期待してなかっただけに本当に嬉しい。しかも幸運の弾丸という、いわくつきの渋いアクセサリとは。 そう言えば、彼女もミッシーや香里と同じクール&ビューティ型の女性だ。何事にも無関心で淡白で。感情の起伏が見られない孤高の存在。そんな神秘的な人がプレゼントをくれた。それは少なくとも、その瞬間、彼女は俺のことを考えていてくれたことを意味する。 冷静に考えてみれば男としてなかなか凄い事だぜ、こいつは。 ウム、このブレットは大事にしよっと。 俺は貰ったばかりのネックレスを握り締め、心に誓った。 ――だが、何気なく貰ってしまった、この幸運の弾丸。 これが後々、意外なところで意外に役に立つなんて、この時誰が考えただろう。 俺はそのことを鷹山さんに深く感謝することになるわけだが、そのことについてはまた追々語っていくことになるだろう。
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