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第八章 「ぼくはチルドレン」


■2019年 1月下旬

 神城ユウタの白血病再発の報せは、すぐにNERVの <チルドレン> の元にも届いた。そしてドナーであるメグミ・プレンティスも、同様の情報を衛星ニュースで知った。彼らはかつてない程の衝撃を受けた。骨髄移植後の経過は、これ以上ないというほどに順調だったと聞いていた。もう彼は治ったものだと思い込んでいた。それなのに、ここに来て再発。しかも医師はもう出来ることはほとんどないと語っているという。到底信じられなかった。
 特にメグミ・プレンティスの落ち込み様は酷く、周囲の人間たちの目にも痛々しい程だったという。いつもエネルギッシュで、天真爛漫であった19歳の少女が、食事も満足に取らず自室に閉じ困ったまま1日中悲嘆に暮れる。血と命を分け合い、「弟ができた」と飛びあがって喜んでいた彼女だ。その弟とも思っていた少年がまた白血病になり、そして「もう助からない」と聞いて平静でいられるほど気丈ではなかった。
 そして、各国の <骨髄バンク> が、患者とドナーとの対面に慎重な姿勢を見せる――日本においては断固反対する――理由がここにあった。患者の移植が失敗した時、また成功したように思われても再発して亡くなった時、ドナーは壮絶なショックを受ける。まるで実の家族を失ったかのような悲しみを背負うケースが多いのである。
 だがユウタとメグミは出会い、そして幸福を分かち合った。クリスマス・パーティで心からの笑みを交わした時間は、掛け替えのない貴重なものだった。いつかは訪れるであろう別れの時を恐れて出会いを拒絶すれば、あの笑顔は永遠に生まれなかっただろう。どちらが正しいという判断は下し難い、非常に微妙な問題だ。
 だが、それでも、メグミはユウタ少年に会えたことを後悔する気などなかった。
「事故を恐れて、外を出歩かないなんてナンセンスだわ。出会いと別れも同じよ。人間、いつかは死ぬわ。私だってそう。つまり、人間にとって大好きな人との別れは避けられないこと。でも、それを恐れるあまり出会いまで否定したら、大切な人を作ることすらできない。そして、その人と思い出を作ることもできないわ。私は、そんなのイヤだから。絶対イヤだから」
 ユウタ再発のニュースを知ってから2週間後、泣きはらした赤い目で彼女はTVインタビューにそう答えている。そして、『再び骨髄提供を依頼されたとき、その患者と対面したいと思うか?』という問いに、彼女は少し考えた後、ハッキリと頷いて見せた。
「メグミ・プレンティスと、ユウタ神城の物語は、終わらせては駄目。第2、第3の私たちがこの世に誕生することを心から祈っているわ。せっかく仲良くなった人が死んでしまうと聞くのは、とても辛いこと。でもその辛さは、私が彼を好きだったことの何よりの証だわ。私は人を好きになることが好きなの。そして1人でも多くそんな人を作るために、私は生きてるんだわ」
 彼女のこの言葉は、世界中の <骨髄バンク> とその関係者たちに、様々なことに関して考える切っ掛けを与えた。
 世界で最もドナーと患者との面会の問題に積極的に取り組んでいるアメリカの <NMDP> でも、まだこれといった確立された方法は生み出されていない。今のところは移植後1年の経過を待ってから、両者が希望したときのみ面会の手続きが進められるようになっているものだが、両者の対面については、まだ手探りの段階なのだ。だが、 <日本の骨髄バンク> のように最初から諦めるような姿勢をとってはならない。手探りでも、それは前進である。
 そしてその前進の大切さを世界に訴えるために、メグミ・プレンティスはTVのインタビューに応えたのだ。


■2019年 01月28日
 第3新東京市  <T3CH>


 神城夫妻は、これまでの人生の中でも、そして恐らく今後の人生を考慮しても、最も重要で最も困難であろう選択を迫られていた。
 彼らに付きつけられた問題は大きく2つある。1つは、ユウタ少年の死が避けられないものである以上、ユウタ本人にその事実を告げなければならないこと。もう1つは、このまま治療を続けて延命を試みるか、それとも治療を諦めてできるだけ長く家族と過ごすかという選択である。
「わたしたちは、ユウタのために出来る限りのことをやってきたつもりです。優れた先生に、いつも自分たちの前に示された選択肢を明らかにしてもらい、そして熟考を重ね、最善と思われる道を辿ってきました。そして今までは、状況がどんなに苦しくなろうと、この方法が駄目ならば次はこの方法があると、治癒に関して希望を持ってやってこれたのです」
 だがここに来て医者は、どんな選択肢を取ろうと、それは遅いか早いかの違いであると、ハッキリ告げたのである。つまり、これ以上積極的な治療を続けたところで、ユウタと家族にとって避けられないものを遅らせるだけで、根本的な解決のために残された手段はないと言うのだ。
 もちろん、神城夫妻は主治医である森緒医師を心から尊敬し、信頼している。だが今回だけは、どうしても彼女の言葉を「はい、そうですか」と受け入れるわけにはいかなかった。
 神城ユウコは、イギリスにいた頃の医師団のチーフであったヴァレリィ・ラヴロック教授と連絡をとることにした。ドクター・ラヴロックは、世界の専門医たちが認めるその筋のナンバー1だ。日本の医者が駄目でも、小児ガンの研究が進んでいる欧米の医者なら、なんとかしてくれるかもしれない。ユウコはさっそく王立フリー病院にメールを送り、ラヴロック博士にセカンド・オピニオン(意見)を求めた。

「結果は、落胆せざるを得ないものでした。ヴァレリィ先生の意見は、日本の森緒先生の判断と全く同じものだったのです。彼女は言いました。現在のところ、ユウタの命の助けとなれる医師はこの世界には存在しない。ヴァレリィ・ラヴロックを血液難病に関する世界最高の専門医と言ってくれる人々もいるが、そのヴァレリィ・ラヴロックにも出来ないことの方が数多く存在するのです、と」
 化学療法、特に <ドナーリンパ球輸注> という方法ならある程度の延命は望める。しかし、この方法でさえある程度の苦痛を味わうことになるし、どれだけ効き目があるか分からない。それならば、治療を放棄して『緩和ケア』に努めた方が良いかもしれない。
 つまり、白血病の進行に従って関節に現れる痛みをモルヒネを使って抑える以外、積極的な化学療法をやめて、家で家族と残された時間を大切に過ごすのだ。
「子を持つ親にとって、これほど……こんなに残酷な選択があるでしょうか? 子供は死ぬ。だから、いつ殺すか。いつまで生かすかを決めろと言うんです。愛する我が子をですよ、どうやって死なせるか選択しろと? そんなこと、決められるわけないでしょう。誰が決められるって言うんですか」
 インタビューに答えたときの、神城ケンタの精神状態は酷く荒れていた。「死ぬ」という言葉を、これほど無遠慮に乱発したのは、少なくともはじめての経験だった。
 彼ら夫妻は、これまで意図的にその言葉を避けていた節があった。小児ガン病棟で、その言葉は一種の禁句だったのだ。だが、たとえ言葉にせずとも、実際にそれが現実問題として彼らの前に立ち塞がっている。そしてそれは、今の人類ではどう足掻いても崩すことのできない、高くて分厚い障害なのだ。
 森緒医師は、そんな神城夫妻の苦しみを誰よりも良く理解していた。
「私たちから下される死の宣告は、患者や家族に生涯で最高の痛撃を与えます。ですが、辛いのは私たち医師も同じです。健康であることが当たり前の皆さんには想像もつかないでしょうが、これらは小児ガンの専門医にとって日常的な出来事なのです。少なくとも私は、ほとんど毎週のように『子供がもうじき死ぬ』ということを、その家族に告げなければならない。そして、それと同じ回数だけ愛らしい子供たちの死亡診断書を作成しなければなりません」
 実際、森緒医師はその日も2歳の女の子がAMLで亡くなっていくのを見届けていた。その時、ドクターは女の子の両親に言った。「最後に、抱いてあげて下さい」と。そしてその子は、母親の胸の中で静かに息を引き取った。
「想像がつきますか? 小児ガンの専門医である限り、我々はこんなケースを何千と見送らねばなりません。なにも、神城ユウタ君とそのご家族が特別なのではないのです。辛い思いをしているのは彼らだけではないのです。今日もどこかで、同じように無慈悲な宣告を受け、残酷な決断を強いられている患者家族がいることは覚えておいてください。そしてこのTVをご覧の皆様は、自分の健康のありがたみを今一度確認してみて下さい」
 人間は、何かを失ってみなければそれの重要性に気付けないと言うが、それは健康というものに関しても当て嵌まりそうだ。多くの人間にとって自分の身の健康は当然のものだ。2本の足で歩き回れるのは普通のことだし、目で世界を見詰めることができるのも、言葉を喋れるのも、音楽を聴くことができるのも当たり前のことだ。
 だが、その「当たり前」という意識はただの勘違いだ。何故なら、それが当たり前でない世界が実際に存在するのだから。そして、その異世界に足を踏み入れて、人ははじめて自分の慢心と奢りに気付く。しかし、気付いた時にはもう遅い。失ったものは戻らないのだ。

 そして、森緒医師は次のようにも語った。
「なぜ、白血病を『小児』と『成人』に分類するか分かりますか? もちろん、医学的な見地での相違もあります。ですが1番の違いは、別のところにあるのです。――親は、お子さんは助かりませんと医者に言われても、大抵それを信じません。なんとか治る方法はないのか、もっと治療を続けられないのかと言い出します」
 つまり、ここが <成人の白血病> と <小児白血病の> 1番の違いだと彼女は指摘する。
 小児白血病の患者は、要するに子供だ。病気のことを良く理解できない。だから治療の方針を子供に代わって親が考える。ここが、自分自身の状況を理解し、治療方針を自ら決定できる成人とは決定的に違うポイントである。
「結局、1番大切なのは患者である子供自身の意思です。親があきらめたくないからと言って、子供に無駄な苦しみを与えるわけにはいきません。しかしそうは言っても、子供が死ぬと宣告された親は、多くの場合において冷静な判断力を失ってしまうものです。効果がないという治療に無駄だと分かっていても縋りたくなります。
 ですが、当事者の子供にしてみれば、それは味あわなくても良い苦痛でなのです。これらは医者の卵たちが、幾ら専門書や医学書を読んでも学べない部分です。だからこそ、私たち経験を積んだ小児科医が存在するのです。同じ白血病の専門医だからと言って、成人のケースしか知らない医者が、我々小児ガン専門の医者に口出しすることができないのも、その辺りの事情からなのです」
 子供の利益や意思と、子供の死を受け入れたくない両親の思惑とは、しばしば相反する。親の心子知らずというが、だからといって子供の尊厳を踏みにじり、拒絶するものを無理矢理おしつけることはできない。
 両親は強烈なジレンマに悩まされることになる。子供の権利を無視して、嫌がる彼らを押さえ付けてでも治療を強行するか。或いは自分の子供が死ぬのだということを受け入れ、治療を断念するのか。
「世界の全てが敵に回ったような気がしました。悪魔と医者と現実と医療制度が手をとりあって我々を取り囲み、私たち夫婦の手からユウタを奪い去って殺そうと企んでいる。そんな風に思えてなりませんでした」
 森緒医師によれば、家族が諦めるには何週間、何ヶ月という時間がかかるのが普通だと言う。だから彼女は、別の医者に意見を聞いたり、同様の経験をしたことがある家族に会って話を聞くことを患者家族に勧める。
 それとは別に、病院にはそれ専門のカウンセラーも存在することがある。この問題に悩む人々は、彼らに相談することも可能だ。そうすればカウンセラーは幾つもの経験を元に、患者家族に心の準備をさせる手伝いをしてくれることだろう。

 だが、神城夫妻はユウタの死を受け入れる方法や手段になど、何の興味もなかった。
「残酷なようですが、神城さんご夫妻の態度はユウタ君にとってプラスになりません。現実を頑なに拒み、見えない何かに縋りつこうとする。それは一種の逃避にもなり、結果的に子供は孤立してしまうことになります。これは小児ガンの患者を持つ家族にはよく見られるケースです」
 森緒医師をはじめとする医者たちによれば、ユウタのようなリスクが高く難しい白血病の場合、移植後1年以内に再発してしまっては再度の移植を行っても効果が現れない。技術的には神城夫妻が言うように2度目の <骨髄移植> を行うことも可能だ。だが、森緒医師はかつて何度も子供たちにその2度目の移植を敢行し、そしてそのどれもが1度目より短い期間しか寛解を得られなかったのを見てきている。
「骨髄移植をしなければならない時点で、その患者の白血病はハイリスク(高危険群)であると言えますが、一般的に最初の骨髄移植が上手く行けば、子供は何年もの間 <寛解> の状態をキープし、そして完治に至ってくれることも多く見られます。――その反面、移植後の再発は2年以内に起こるケースが圧倒的に多く、再度の治療にはこれまでの倍以上の困難を伴なうことになります」
 森緒医師は過去の自分の経験と、最先端を走る専門医だからこそ手に入る多くのデータを元に、そうキッパリと告げている。
「ユウタ君の場合、既に極めて強力な化学療法と放射線照射を集中的に受けているため、他の薬剤を与えるようになると重篤な副作用を引き起こす可能性が高まることが予測されます。これはつまり、薬が効き難いばかりでなく、身体に対する毒性が更に高まり危険だということです。再度の移植にしても、非常に危険でその割りに効果がほとんど期待できません。特に最初の移植が1年経たないうちに再発した場合、2度目の移植が成功する確率は事実上ゼロです。だから私は、子供には基本的に2度目の移植は行うべきではないと考えています」
 そして、同じようなことをロンドンのヴァレリィ・ラヴロック教授も語っていた。
「イングランドには独自の医療倫理というものがあるのです。NHS(国民健康保険制度)と医師達が、長年に渡って培ってきたやり方――と言っても良いかもしれません。子供に治療を受けさせるか否かを考える場合、私たちが1つの基準とするのが『6ヶ月間の質の高い生活』の保障です。治療を続行しても、半年以上患者の命を延ばすことができず、更に治療によって苦痛を味わうなら……我々は治療を拒否し『緩和ケア』を勧めます。つまり治療を痛み止めのモルヒネだけに制限し、お家で大好きな家族と残された時間を精一杯楽しんで貰いたいということです。最後の日々の過ごし方を選べるのならば、質の高いもの、幸せなものにすべきでしょう?」

 技術的には可能。だが、やったところで治癒は望めない。ユウタ少年にとって、得られる利益よりも危険と苦痛の方が大きい。結局、日本とイングランドの医師たちが下した結論は一致していた。
 だがそれでも、神城夫妻は諦めたくなかった。……というより、諦めることができなかった。神城夫人はインターネットで <PDQ> にアクセスし、情報を求めた。
 この <PDQ> は、アメリカ国内におけるガン治療と臨床試験の最新情報データベースだ。もちろん、白血病の治療に関する実績や研究結果などについても、世界中のデータが集まってくる。
「私は <PDQ> にユウタのカルテのコピーと、知りうる限りの情報を伝え、相談に乗ってくれる医者の紹介を受けました。その結果、アメリカの専門医の中から、再度の移植も考えられると言ってくれる積極的な方も現れました」

 ユウコは早速 <T3CH> に電話し、森緒医師にその話をした。しかしドクターは懐疑的だった。彼女に言わせれば、アメリカの医学界は金を積めばどんなことでもやる世界だった。それに小児白血病はカルテを見せれば全ての状況が理解できるというほど甘いものではない。患者と良く話し合い、彼らの精神状態や考え方に応じて治療のやり方も変わってくる。そう言った微妙でデリケートなものなのだ。だからこそ、自分のような熟練の医師が治療を行わなければならない。
 森緒医師は、 <T3CH> に直訴にやってきた夫妻を相手に言った。
「神城さん。あなた方は、ユウタ君をアメリカの医師にモルモットとして提供するつもりですか?」
 それは夫妻にとって、ガツンと鈍器で殴られたような痛撃だった。
 森緒医師にしてみれば、2度目の移植ができると言ったアメリカの医師達の弾き出す数字は、どうにも楽観的過ぎるものにしか映らなかった。アメリカの医師が出した、移植の成功確率は30〜60%。森緒医師はこれを鼻で笑った。
「基本的に小児ガンの世界では、情報は特定の場所に集中して集まります。その場所とは、つまり最先端を行く専門医の元です。私は意欲的に世界規模の学会に参加します。毎年9月下旬に開かれる <NMDP> の年次会にも必ず出席します。3月にスイスで行われる <血液とBMTに関する欧州グループ年次会> にも毎年顔を出しています。そして世界の専門医たちの最新の研究成果や意見に耳を傾け、興味深いテーマを見つければ、その医者を捕まえて納得のいくまでディスカッションします。この世界では常に新薬、新しい治療法が研究され、生まれてきているからです。そしてそれを吸収する向上心と研究意欲が我々専門医には必要だからです」
 彼女の揺るぎ無い自信は、その絶え間のない努力と経験の積み重ねから生まれていた。だから実績と根拠を伴なわない医師たちの言葉で、彼女がぐらつくことはないのだ。森緒アヤコ博士にはそれだけの専門医としての誇りがあった。

「私が治療を行うときは、自分で納得したときです。これと、これ。この資料と、この医者たちが告げた結果報告、この病院で20例行われた臨床試験による結果。これら全てを総合して、私はGOサインを出した。そう言えるときです。求めがあれば、一部の隙もなくその結論に至った根拠となる情報を提示できる。そうなった時、初めて私は実験的な治療に手を出すことでしょう。
 2度目の移植を口にするアメリカの医者は、それだけの実績と覚悟がないにも関わらず色々な治療法を手当たり次第にやるのです。その事情を知ってなお、私でなく彼らにユウタ君を任せたいと言うならば、アメリカに渡るといいでしょう。私は止めません。ですが後悔するであろう事は予言できます」
 神城夫妻は、引き下がらざるを得なかった。もちろん、長い間ユウタの面倒を見てくれた森緒医師を信頼していることもある。だが何より、彼らは「本当にそれがユウタにとって最善なのか?」「諦めきれない親の意固地ではないのか?」という疑問に頭を悩ませてきたことが大きかった。
 そして、彼らは1つの結論をだした。
「日本の医者は旧世紀の体質を未だに引きずり、あまり積極的に告知をしたがらないところがあります。あなたは死にます、あなたは癌です、と告げることを躊躇うのです。ですが私は迷いません。経験を積んだ小児科医は、子供の年齢や生活環境、家族の状態、精神成熟度などから、その子が死についてどう考えているかある程度予測できます。
 10歳以上の子供になら、医師はさり気無く死の可能性について話すことも可能です。ユウタ君は9歳。死の概念は理解するでしょうが、普通は自分が死ぬことを信じない年齢です。しかし、彼はずば抜けて頭が良く精神年齢が高い。癌と戦って来た子供は、実際の年齢よりずっと大人に近い思考をするものです。私は神城さんご夫妻に、ユウタ君本人に自分がもうじき死ぬと言うことを告白するべきだと勧めました」
 神城夫妻は、この勧めに従うことにしたのである。つまり、ユウタにこれまで隠して来た全ての事実を告げ、そして治療を続けるか否かの判断を求めようと考えたのだ。


■2月上旬
 第三新東京市 神城家


 神城夫妻は、ユウタがもし死んでしまうなら、それは眠っている時だと考えていた。ユウタは眠りにつき、そして静かに安らかな表情のまま死んでいく。そうに違いないと思っていた。これまで数々の苦痛の不安に苛まされてきたユウタになら、それくらいの我が侭は許されるはずだと信じきっていた。
「だけどそんなことを考えているくせ、僕らはユウタが眠るのが怖かった。眠ってしまったら、もう起きないのではないかという恐れを常に抱いた。僕は時々、眠っているユウタの鼻先に耳を近づけるようになりました。そうして、あの子が呼吸をしていることを確認して、安心するのです。
 ユウコは――妻は、もっと神経質になりました。ユウタが子供部屋で咳き込むのを聴いた瞬間、凄い勢いでユウタの元に駆けつける。そして何事もないか、ユウタが血を吐いてはいないかと確認しなければ気がすまないんです。なぜなら、死んだ人間は冷たくなると言います。ユウタの身体は最近、とても冷たいのです」
 そんな日々が長引くに連れ、神城家は次第に絶望感に包まれていった。だが、それでも伝えなければならない。その役目は、父親のケンタの方に任された。母ユウコはとてもそんな勇気を奮い起こすことはできなかったのだ。
 そして2月のある午後、ケンタは子供部屋でユウタと2人きりになった。ユウコは全てを避けるように、「ショッピングに行く」と言い残して姿を消していた。
「森緒先生は、残りの時間を精一杯楽しめるように、子供は自分の死期を知るべきだとおっしゃっいましたが、とてもそうは思えませんでした。ユウタに事実を告げた時あの子がどんな反応を示すか、どんな質問を返してくるか、考えるだけで身体が震えてきました。何かを告白するために体を震わせたのは、妻に結婚を申し込む時以来だったけれど……その時とは全然プレッシャーの質が違ったように思います」
 息子に死を宣告するのが本当に最善の選択なのか、ケンタは常に迷っていた。ユウタは現実主義者で、合理的な思考をする子だ。頭も良い。そんな息子が、死を知らされて絶望せずにいられるとは考えられなかった。死期を知ってなお、幸せな時を満喫できるほど事を割りきって考えられるものなのだろうか?

 気が付くと、ユウタと2人きりになってから30分も経っていた。ユウタは、最初ベッドの上でエヴァの玩具で遊んでいたが、暫くすると父親の顔を不思議そうに見上げるようになっていた。
 彼も、父親のただならぬ雰囲気を察知し、大切な話し合いが行われるであろうことを悟ったのだ。
「ユウタ……。ユウタは、また白血病になっちゃったんだ」
 ケンタは、苦労してそう言葉を搾り出した。だが、当のユウタはアッサリとしていた。「多分、そうだと思ってた」と彼は告げた。
 森緒医師の指摘通りだった。そう言えば、以前セカンドチルドレンにも忠告されていた。子供は親が隠そうとしていることに大抵気付いている。そして、親のために自分が気付いていることを敢えて黙っている。ユウタもまた、そんな子供の1人だった。
「それでね、お医者さんに聞いたら、もう治せないって。お医者さんに力を借りても、もうユウタの白血病をやっつけることはできないって」
 それを聞いたユウタは、さすがに驚いたようだった。そして少し考えるような仕種を見せた。手に持った使徒のビニール人形とエヴァンゲリオン初号機の超合金は、もうピクリとも動いていなかった。
 暫くして、「じゃあ、ぼくは死んじゃうの?」とユウタは言った。
 ケンタはかつてない苦痛を必死に抑えつけながら、それを肯定した。
「じゃあ、ぼくはもう、 <チルドレン> にはなれないってこと?」
「そうだ」と、ケンタは答えた。
 随分と長いことユウタは顔を伏せがちにして沈黙した。そして、「そう……」と呟いた。
 2人の会話は、それで終わった。ケンタは息子に「楽しいことをいっぱいしよう」「毎日どこかに遊びにいこう」と言ったが、少年は何の反応も返さなかった。
 父は、幼い息子が泣き叫ぶであろうと何処かで予測していた。だが、それは外れていた。ユウタは静かになって、なにも喋らなくなった。そして、ずっと何かを考えている様子だった。その横顔はとても9歳の子供の顔には見えなかった。
 先に耐えきれなくなったのは、ケンタの方だった。彼は洗面所に行くと、蛇口を力一杯に捻り嗚咽した。この家族は、もう終わった。そう、どこかで思った。


■2月15日
  <T3CH> 小児ガン病棟


 骨髄移植のある意味での失敗により、確かにユウタ少年に期待できる治癒の可能性は大幅に低下した。だがそれでも、可能性が完全なゼロになったわけではない。事実上のゼロと言うならまだしも、100%を誰もが保証できないように、アブソリュート・ゼロもまた医学の世界ではそうそう成立し得ないのだ。
 旧世紀末(1990年代後半)に確立された、 <ドナー・リンパ球輸注:DLT> という治療法は、移植後の再発患者に残された非常に有効な戦略の1つとして、近年広く知られるようになった。日本でも2001年から正式に実施され始め、特に慢性白血病の患者に対して高い効果を得ていた。
 この <DLT> とは骨髄を分けてもらったドナー、つまりユウタの場合はメグミ・北条・プレンティスからリンパ球を貰い、それを輸注するものだ。ドナーからリンパ球を採取して、患者に輸注する。即ち、 <ドナーリンパ球輸注> である。
 これは結構、専門的でややこしい反応を期待するものなので、予備知識のない者に説明するのは難しい。詳細を極力端折ることが許されるなら、ドナーのリンパ球を患者の体内に注入することで、再発して増殖を始めた白血病細胞をこのリンパ球がやっつけ、移植した正常な血液に戻ることを期待する治療ということになるだろうか。
 英国のあるジャーナリストは、これを『白血病と戦うのに必要な武器弾薬の補填』と表現している。これはある意味で的確だ。 <DLT> の特徴を良く捉えているからである。
<DLT> の最大の利点は、患者にかかる精神的な負担の小ささである。リンパ球を輸注するだけだから、2〜3週間に1度くらいの割合の外来ですむ。基本的には自宅にいて、決まった時だけ病院でリンパ球を体内に入れる作業を行えば良い。注射が終わればすぐに帰れるし、基本的に輸血と同じだから、苦痛にしても精神的な負担にしても極力抑えられる。
 リンパ球の注入でガン細胞と戦う。そしてリンパ球という名の弾薬が切れたら、病院に行って補填してもらう。患者と白血病の戦いを戦争にたとえるなら、 <ドナーリンパ球輸注> はまさしく武器弾薬の補填に他ならない。
 ただし、この治療には高度な知識と微妙な計算が必要な治療法なので、医師は大変だ。リスクを最低限に抑えながらも、最大限の効果を引き出すように緻密な計算に基づいて、これを行われなければならない。
「ユウタ君のケースは、私が知る小児白血病の中でも比較的珍しい部類に入ります。大体、最初の発症がALLで、その後二次的にAMLを患うこと自体が稀ですから。と言いますか、こんな例が頻繁にあっては医者はたまりませんがね。……とにかく、ユウタ君が辿ってきた経過は非常に複雑で珍しいものです。だから医師はその分だけ色々な数値を弾き出すのに苦労します。しかも治療経験が全体的に不足している <DLT> となると――私は寛解まで持っていける確率を30%。1年以上生存できる確率を10%。治癒の確率を1〜5%程度だと考えています。
 しかし、これらの数字は経過次第で大きく変動するでしょう。これまでの治療の時と同様、寛解の期間が長く続けば、それだけ治癒の確率が高まるということだけは言えるのですが、なにしろ勘の要素を含んだいい加減な数字ですから。保証はないと思って下さい」
 森緒医師は、これまで小児白血病の患者に <DLT> が試されたケースを40件も見てきた。その内、有効な効果が認められた割合は20%超。治癒となると1割を切る。ユウタと同じ状態に陥った子供が治癒に漕ぎつけた例は、森緒医師が知る限り世界で1件もない。つまり、ゼロ%である。
 だがそれでも、世界で最初の例になれることを期待して、神城家の人々はこの <DLT> に全てを賭けることにした。

 ここでも問題となるのは、ドナーがリンパ球の提供に同意してくれるかどうかだった。
 日本の場合、この時も骨髄移植のように色々な説明が行われ、同意の確認が取られる。メグミ・プレンティスは、今回も同意書にサインをした。採取にクエン酸を使うことによる不快感(時に口唇や手足の痺れを覚える)や採取に伴なう痛み、悪寒などについても説明を受けたが、彼女はそれでも自分のリンパ球を提供することに拒絶を示さなかった。
 そして彼女のリンパ球採取は王立フリー病院で行われ、冷凍されたリンパ球はハイパーソニック・トランスポータに乗って音速で日本のユウタの元に届けられた。
「森緒先生のお話によれば、 <ドナーリンパ球輸注> はある程度状態が落ち着いた時に行った方が効果的だそうです」
 それを聞いて、神城ケンタはユウタに何が行われるかをすぐに悟った。つまり、集中的な化学療法と放射線照射だ。
「ドナーリンパ球の輸注を始めてしまえば、化学療法はできないと聞きます。せっかく輸注したリンパ球が死んでしまうからです。そうなれば先駆けて行う他ないでしょう。つまり、またユウタの髪の毛は抜けて、抗癌剤の副作用に苦しまなければならないということなんだと思いました」
 神城夫妻の予測通り、ユウタには <DLT> の前に化学療法が行われることになった。森緒医師はユウタの血液と骨髄サンプル採取し、それを名古屋にある特別な研究所に送った。ここで、ユウタのガン細胞は培養され、様々な薬剤が実験的に試される。そうして効果が現れた薬剤のリストが森緒医師の元に届き、彼女はこのデータを元にユウタの治療を考えるのだ。プロフェッショナルとして常に最大限の努力を怠らない、森緒医師らしい処置だった。
「ユウタ君は、もう4年以上に及ぶ長期間に渡って様々な治療を受けてきています。それ故、彼の白血病は、その長い戦いの中で抗癌剤に対する抵抗力をつけているのです。これはつまり、もはや画一的なプロトコルによる治療では、我々が望む効果は得られないということです。だから私は、ユウタ君のために専用の治療プログラムを特別に組み上げる必要があったのです。患者家族があれだけ治療の続行を望んでいるのです。医師も諦めるわけにはいきませんから」
 治癒を諦め、緩和ケアに移行した場合、ユウタの余命は数週間から最大で60日程度。10歳の誕生日を迎えるのは、絶望的な数字である。生存確率1%の戦いが、始まろうとしていた。


■02月26日 月曜日
 16時33分
 第三新東京市 コンフォート17


「いなくなった!? いなくなったって、1人でですか」
 滅多にないことだが、サードチルドレン碇シンジは大声で問い返した。それは1本の電話からはじまった。学校から帰って、夕食の支度をする時間になるまで小休止を取ることにした彼の元に掛かってきた緊急連絡。相手はすっかり親しくなった神城ユウコだった。まだ29歳と若いが、シンジからすれば理知的で落ち着いた雰囲気のある大人の女性だ。
 だがその彼女は、電話口でもはっきりと分かるほど狼狽していた。泣いているのだろう、言葉も聞き取り難い。逆にシンジが慌てるほどだった。
「大変だ」要領を得ない言葉ではあったが、ユウコの言わんとしていることが徐々に明らかになるにつれ、シンジの顔色は急速に青ざめていった。
 彼はとにかくユウコを落ち着かせると電話を切り、急いで隣室の少女たちの元に走った。普段からは想像もつかない勢いでドアを叩くシンジの姿に、アスカもレイも大事が起こったことをすぐに察した。今、シンジをここまで追い詰める事件といえば、神城家関連のことしかあり得ない。ユウタの身に何か起こったのだ。
「一体何事よ、シンジ。ユウタに何かあったの」
 最悪のパターンが頭を過ぎり、かつてない緊張を覚えながらアスカは言った。対するシンジの答えは、実に簡潔なものだった。
「ユウタ君がいなくなっちゃったんだって! 家から出てどこかに行っちゃったんだよ。1人で」
「家からって、両親に断らずに? そんなことが簡単にできる体じゃないでしょ、あの子は」
「だから大変なんだよ。探さなきゃ」
 確かに最近、治療が比較的上手くいっているせいか、ユウタの体調は良かったという。1人で遊びに行くくらいの元気なら、辛うじて残されているだろう。だが時期が時期だ。血小板が少ないと事故で怪我でもすれば血が止まらず出血死することだって考えられる。関節痛にみまわれて動けなくなっている可能性だってある。今の弱った体では悪夢のパターンは幾らでも考えられた。
「綾波、一緒に来て。アスカは……」
「私も行くわよ。もしかしたらここに来る可能性もあるけど、その時はここに住んでる保安部の職員が保護してくれるはずよ。私が電話番やら留守番している必要はない」
 3人は頷き合うと、駆け出した。その途中で、携帯電話で葛城ミサトに連絡を入れる。 <チルドレン> の護衛責任者が彼女だ。必要以上の迷惑をかけないためにも、そうする必要がある。その程度の判断が下せないほどシンジも子供のままではなかった。
 もちろん電話に出たミサトには止められた。 <チルドレン> 達が満足な護衛もつけずに単独で動き回るのは危険過ぎる。それが彼女の言い分だった。だが、シンジは驚くべきことに引き下がらなかった。
「大丈夫です。綾波がいっしょですから」
 既に言及したように、ファーストチルドレン綾波レイは純粋な人間ではない。使徒の能力を有する特別な存在だ。そしてそれ故に、 <A.T.フィールド> という特殊な位相空間を操ることができる。
 これは扱う者の意思次第で、全ての物理的な影響を完全無視できる <場> を形成することが可能な能力だ。自然界に存在しない放射線や、増幅された電磁波、音速を超える物理攻撃、果ては核爆弾すらも跳ね返すことができる最も堅固な結界。その <A.T.フィールド> を、微弱ながら彼女は常に周囲に展開している。
 ここまで言えば大体想像がつくであろうが、綾波レイの存在自体が地上最高のシェルターなのだ。つまり、彼女を常に隣に張りつかせておけば、身の安全は完璧に保障される。訓練を積んだ一流のSSが束になってかかっても、綾波レイ1人の存在には敵わない。神城家に外泊することになったシンジに、アスカではなくレイが付き添ったのも、そして彼らが中学校で普通の生徒と同じように学生生活を満喫できるのも、彼女が常に一緒にいるからに他ならなかった。
 彼女が、その <A.T.フィールド> で常に <チルドレン> を守っているから、だからシンジやアスカは普通の中学生らしい生活をなんとか維持出来ているのだ。
「――でも探すって、どこをどうするのよ? シンジ、あてがあるの」
 乗り込んだタクシーの後部座席で、息を整えながらアスカは言った。これまでの付き合いの中で、ユウタ少年とはファーストネームを呼び捨てで親しむ程の間柄となった。が、突然いなくなったと言われて、すぐに行き先が思い付くほどではない。少なくともアスカには、ユウタの行く先が思い当たらなかった。それはシンジも同じだった。
「いや、僕にも心当たりないよ。どこに行ったかなんて全然分からない。でもユウタ君の身体だ、徒歩でそう遠くまで行けるはずがない。まず神城さんのお宅に行って、ユウコさんから詳しい話を聞こう。いつまで家にいたのか、分かる範囲で確認するんだ。それを元に最長の時間を割り出して、そこから捜索範囲を絞り込もう。ミサトさんに頼めば保安部の人たちで計算してくれるよ。そして彼らも協力してくれる」
 ――嫌な予感がしていた。


■同日 午後 19時07分
 第三新東京市


 旧世紀末のセカンドインパクトで地軸が歪んで以来、日本は四季の彩りを失い常夏の国となった。四方八方を珊瑚礁の青い海に囲まれた、赤道直下の観光王国のような気候が365日続くようになったのだ。
 だが生態系が回復しつつある近年、しかも2月ともなれば、19時を過ぎると周囲は夜闇に閉ざされる。日中と比較して肌寒いほどに気温は低下するし、街灯の明かりなくしては周囲の状況を認識しにくくもなる。小学生の男の子を探し出すという簡単な仕事であるが、これ以上の時間経過は捜索作業の難航に直結してくるだろう。もう、時間なかった。
 シンジの元に最初の連絡が入ってから、もう2時間半。距離にして15km以上を駆け回ってきた <チルドレン> の体力も限界に近付いていた。繁華街として有名なセントラルアベニューや少年が両親と共によく行くデパート、近場の公園、ゲームセンター、玩具屋。小学2年生の少年が立ち寄りそうな場所は、手当たり次第に当たってきた。NERV保安部のスタッフも手分けして捜索を手伝ってくれている。だが、未だユウタが見つかったという報せは入っていない。
 シンジ、アスカ、レイの3人は、最後の望みを託してユウタ少年が通う小学校に向かっていた。
「私達の担当地区で、もう可能性があるとすれば学校しかないわよ」
 息を弾ませ、小学校へ続く坂道を駆け上りながらアスカは言った。身体能力の高い彼女も、流石に疲労の色が隠せない。暗闇の中でも汗の透明な雫に自慢のブロンドが張りついているのが分かった。
「でも、可能性としては高いもしれないよ。ユウタ君は小学校が好きなんだ。もう学校くらいしか考えられる場所がない」
 意外なことに、1番元気なのがシンジだった。高校生になってから彼は体力的にも充実してきたらしい。それはもちろんNERVで科せられる運動訓練の地道な継続が生んだものでもあった。
「とにかく、ここで駄目だったら一端戻るわよ」
 一口に学校といっても、グラウンドや校舎内の教室を含めると捜索個所は無数にある。それに最近の小学校はセキュリティが厳しい。辺りもすっかり夜の装いを見せているこの時分、捜索は困難なものとなるだろう。
 どうかいてくれ、と半ば祈るような気持ちで3人は校門に至った。正門は閉ざされ鍵が掛けられていたが、 <チルドレン> はそれを乗り越えて内部に侵入した。幸いなことに、警報装置などはついていなかった。
「どこからいく?」
「グラウンドを調べましょ。そこにいなかったら宿直の職員を探して内部の捜索に許可を貰わないと。いくらオフィシャルな口実があっても、 <チルドレン> が無断で校舎うろつくのはマズイわよ。ファーストもそう思うでしょ?」
「……時間がないわ。行きましょう」

 3人はよじ登った高さ1.5メートルの鉄門から着地を決めると、真っ暗になったグラウンドに向かって足を急がせた。静まり返った構内は、若い生徒たちで賑わう昼間とは全く雰囲気を異にしていた。黒く闇に浮かび上がる校舎の谷間には、ヒンヤリと冷たい空気が充満していて、彼らはその寒気に思わず身震いした。それほどに夜の学校は冷たく寂しい。異世界に迷い込んだ錯覚を覚えるほどだった。
 そんな完璧な無音の中を、シンジたちの駆ける足音が耳に痛いほど大きく響き渡る。乱れた荒い呼吸音を除いて、3人は無言で走り続けた。
 辿りついたグラウンドは、校門から校舎を挟んで反対側に位置していた。真っ平らに慣らされた楕円形のトラックは、見る者に真夜中の海を連想させた。大地に開かれた底無しのブラックホールのようにも見える。
「碇君、あそこ」
 逸早くそれを発見したのは、深紅の瞳を持つ綾波レイだった。指差す先には、闇が集まり蹲ったような小さな黒い影があった。目を凝らせば、膝を落とした人型に見えないこともない。シンジはそれ目掛けて迷わず走り出した。
 駆け寄ると、自分たちの発するものとは明らかに異質な、嘔吐交じりの乱れた呼吸の音が聞こえてきた。それは間違いなく、倒れるようにしてグラウンドの中央に跪いた神城ユウタのシルエットだった。
「ユウタ君!」
 側に屈み込み、グッタリとしたユウタを抱き起こしながらシンジは呼びかけた。遅れて駆けつけたアスカが、その様子を見ながら素早い手つきで携帯電話を取りだし報告を入れる。危急の際、 <チルドレン> のコンビネーションはその真価を発揮する。個々がその時点で何をすべきか、どう動くべきかを良く理解しているからだ。それは、まるで事前に申し合わせていたかのような見事なチームワークだった。
「ミサトに連絡入れたわ、6分で来るそうよ。一応 <T3CH> にも連絡がいってるそうだから、取り合えずドクター森緒に診てもらうといいって」
「そう、良かった」一瞬安堵の表情を見せると、シンジは再びユウタ少年に向き直った。
「ユウタ君、どうしてこんなところに来ちゃったの?みんな心配してたんだよ」
 喘息の患者の様に、荒い呼吸が収まらないユウタは、それでも力なく笑って見せた。
「ぼく、これから毎日、とっくんすることにしたから」
「特訓?」
「そう」怪訝な表情で問い返すシンジに、ユウタは頷いた。
<チルドレン> たちが聞いている限り、近いうちに運動会があるというような話はない。それにユウタは運動クラブにも所属していないし、球技大会が目前に控えているということもない。シンジには事情が飲み込めずにいた。
「特訓って、なんの? 学校で逆上がりとか習ったの」
 小学生に良くありそうなパターンを頭の中で列挙しながら、シンジはできるだけ優しく問いかけた。だが、ユウタは首を振ってそれを否定した。
「じゃあ、跳び箱?」そう聞くが、また首が左右される。「それじゃ、なんの訓練をしてたの」
「別に、なんのとっくんでもないけど……ぼくはカラダを鍛えないとダメだから」
 急いで呼吸を整えると、ユウタは例の淡々とした口調で話し始めた。 <チルドレン> が知る限り、彼はいつもそうだった。自分のことを酷く客観的に、まるで他人事のように語る。
「ぼくの血が、また悪くなったんだって。それで、もう治らないかもしれないって。でも、お医者さんは治せないかもしれないけど、もしかしたら、きっと、特訓したら元気になるかもしれない」
 その言葉で、 <チルドレン> たちは悟った。もうユウタは告知を受けているのだ。ここ最近、進学の準備でなかなか神城家と会う機会がなかったのだが、知らないうちにユウタは教えられていたのである。つまり、自分の命が恐らくもう長くないであろうことを、彼は既に知っているということだ。
「 <チルドレン> も、とっくんするんでしょ? 戦闘訓練とか。TVで言ってたから。だから、ぼくもとっくんすることにした。そしたらぼくも走るの速くなって、たくさん動いてもハァハァ言わなくなって、それで力も強くなって、元気になれると思うから」
<チルドレン> がエヴァンゲリオンの操縦訓練や、戦闘に役立つように格闘技の訓練を受けているのは周知の事実だ。確かに気休め程度ではあるが、それらの訓練次第でシンクロ率が高まるというデータもある。少年は少年なりに、その絶え間ない努力が <チルドレン> には必須なものであると考えたらしい。
「ぼくは <チルドレン> になりたいって言ってたくせに、とっくんしてなかったから。ドッジが下手なのも、走るのが遅いのも、ずっととっくんしたことなかったからだと思った。勉強しないと、テストで100点とれないのは当たり前だし。だから、とっくんしなかったら運動が苦手なのは当たり前だったんだ。だから、ぼくがまた白血病になったのも、きっと、とっくんをずっとサボってたからだって分かった」
「でもね、ユウタ君。今は家で体をゆっくりさせとかないと。特訓したり運動したりするのは、病気がもう少し良くなって、それからにしたほうがいいよ。ね? だから、今日は一緒にお家に帰ろう」
 だが、その時ユウタははじめてサードチルドレンの言葉に逆らった。

「いやだ。ぼくは、帰らない」
「でも、ユウタ君……」
「ぼくは!」ユウタはなおも説得を続けようとするシンジの言葉を遮って、叫んだ。
「ぼくは死んじゃうって! お医者さんも、もうぼくの病気は治せないって」
 大声を張り上げることすら、今のユウタには苦痛を伴なうようだった。だが、それが分かっていながら、 <チルドレン> たちは彼を止めることができなかった。自分の死期を知った9歳の少年に、一体どんな言葉をかければ良いのか。彼らが知るはずもない。
「ぼくはチルドレンになるって決めたから! シンジお兄ちゃんだって言ったじゃない。ぼくはチルドレンにきっとなれるって。だから、ぼくはとっくんして、 <チルドレン> になる」
 拳を握り締めて、少年は懸命に訴えた。
「お父さんは、ぼくが死んじゃうって言ってたけど。もう治らないって……ぼくは、もう、 <チルドレン> になれないって言ったけど。みんな、ぼくなんかが <チルドレン> になれるわけないって。無理だっていうけど」
 彼は、もう自分に一時の猶予もないことを知っていた。神城ユウタは確かにたった9歳にすぎない少年だったが、自らの命に後がないことを悟る者のその主張は、だからこそ命懸けのものだった。
「でも、ぼくはチルドレンにならないとダメだから。 <チルドレン> は凄いから、ぼくじゃシンジお兄ちゃんみたいになれないかも知れないけど。でも、ぼくはチルドレンになりたいから。それで、エヴァにのって活躍しないとダメだから」
 少年は、もう自分がなにを言っているのか把握しきれていなかった。ただ、抵抗したかった。そして決して泣かなかった少年の顔が、徐々に曇り始めた。
「死んじゃうのなんて、ダメだから。そんなのイヤだから。だって、もう、そう決めたんだもん。決めたもん! ぼくは <チルドレン> に…… <チルドレン> になって、それで、ぼくは、それで……だからぼくは、だから……」
 叫びたい想いを言葉にできず、ユウタはただ大声で泣き出すしかなかった。その天に吼えるような号泣は、死に抵抗する少年の必死の咆哮だった。
 父親に治らないと言われたその日から、彼は彼なりに様々なことを一生懸命考えたに違いなかった。どうしたら死なずにすむのか、全ての大人たちの予言を尽く覆して <チルドレン> になってみせるにはどうすればいいのか、きっと何度も悩みに悩んだはずだ。
 そして、彼のいう秘密の特訓は、必死に考え出した最後の手段であったのだろう。
 世界を守った救世主でも、本当に守りたい友人の命1つ守りきることができない。この時、抱きしめて一緒に泣く以外に、 <チルドレン> たちにできることが果たしてあっただろうか。
 少なくとも、彼らはそれ以上の術を1つも知らなかった。


■02月27日 午前04時22分
  <T3CH> 小児ガン病棟


 病院の夜は、世間一般の常識と比較して異様なまでに早い。食事は19時までに全てが片付けられ、21時になれば早々と消灯時間になる。9時と言えばまだ宵の口――とまでは言わないが、それでも寝床に潜り込むには些か早すぎる時分だ。小学生ですら、これからTVドラマに宿題にと忙しいものだろう。だが、どこの病院でも程度の差はあれ、これくらいの時間になると最低限の明かりを残して病棟の電源は落とされるものだ。唯一の例外は、不眠不休のナースステーションと宿直室くらいである。
 特にそれが小児病棟だと、周囲にいるのは大抵が乳幼児か10歳未満の幼児だ。就寝もわりとスムーズに運ぶ。実際その日も、夜泣きとそれをあやす母親の声が時折聞こえてくる以外、22時を回ってからというもの周囲は不気味なほどに暗く静まり返っていた。
 そんな院内の薄暗い廊下を歩いていると、ここが死に1番近しい人間の収容される場所であるということを再認識させられる。もちろん、医師として、そんなことを考えてしまってはならないのだろう。 何せ、自分はその死と戦う患者家族と道を共にする者だ。時に彼らを励まし、最悪の事態を回避するよう常に全力を尽くさなければならない。ここは死に最も近い場所ではない。死とあくまで戦い抜く場所なのだから。
 だが、それは優等生の理論だ。その心意気は必要だが、時に鬱に落ち込んで深く死について考えてみるのもいい。ようやく雑務に見切りをつけた森緒医師は、小休止を入れるため、院内に設置されている自動販売機に向かっていた。
 病院にも、いや病院の中だからこそ、憩いの場というのは重要だ。4台の自動販売機と漫画雑誌。申し訳程度の観葉植物と、それを取り囲むようにして並べられた安っぽいベンチ。この陳腐なスペースが憩いの場として機能しているかは疑問であったが、それでも森緒医師は重宝していた。誰もいない真夜中の静まり返ったこの空間で、一杯80円のブラック・コーヒーを片手に和む時間。これこそが、彼女の唯一の安らぎの時だった。
 だが、今宵は先客がいた。自動販売機の放つ微かな光に照らされて、ボンヤリとベンチに腰を落とした人間のシルエットが浮かび上がっている。深く頭を垂れたその姿は、どこか泣いているようにも見えた。実際、その人物は泣いているのかもしれない。
 ――今日は、ついてない。
 森緒医師は正直、そう思った。神城ユウタは突然運び込まれてくるし、唯一の安らぎの時は先客の存在で重いものになるであろうし。厄日だ。
 だが、そうは言っても彼女は医者だ。無視するわけにもいかない。患者家族の精神的なサポートをするのも、医師の務めの1つではある。森緒医師は気付かれないように小さく溜め息を吐くと、さり気無くその人物に近付いて行った。まず販売機でいつものコーヒーを2つ買い、そしてその片方を先客のシルエットに突き出す。

「どうぞ」
 驚いたことに、その声に顔を上げたのはセカンドチルドレンだった。TVなどこの10年数える程しか見ていない彼女は、最近の有名人の名前など1つも知らない。だが、それでも彼らだけは別格だった。名前もなんとか記憶している。確か――
「惣流さんでしたね」
 その声に、少女はノロノロとした動作で力なく森緒医師を見上げた。覇気のないその姿は、本当にこれがあのセカンドチルドレンなのかと疑わせるほどだった。
「どうしました、あなたのような人がこんな夜分に」
「ユウタの……ドクター」掠れたような声で言う少女に、
「森緒です」と彼女は名乗った。「確か、1度ご挨拶したはずですが」
 そして、半ば無理矢理にコーヒーの入った紙コップを握らせると、少女の隣に腰を落とした。見間違えようがないほど、セカンドチルドレンは落ち込んでいた。もちろん神城ユウタの主治医である彼女には、その原因にも容易に想像がついた。
「良い時期になりましたね。やはり、熱いブラックは寒い冬に飲むのが1番です。ご存知ですか? 日本人はアイスコーヒーなるものを飲みますが、これは邪道だそうです。スペイン人は、どんなに暑い真夏の午後でもホットを飲むんだとか」
 だが予想通り、そんな他愛もない世間話に少女は何の反応も示さなかった。森緒医師にとって、彼女の横顔は幾度も目にしてきた種の表情だった。つまり、家族や友人がもう助からないという宣告を受けた者の顔である。
「どんなに努力しても……むくわれないこともあるんですね」
 やがて少女は、手にしたコーヒーカップを覗きこむように俯いたまま、静かにそう言った。医師には彼女の言葉の意味と、その心情が良く理解できた。何人もの患者が同じことを口にしてきたのを知っているし、自分自身もその想いを幾度となく経験してきたからだ。
「努力が必ず報われるのならば、私は死亡診断書を1枚も書かずに済みます」
 自嘲にも似た薄い笑みを湛えながら、森緒医師は言った。そしてセカンドチルドレンとは視線を合わせず、どこか遠くを見るようにして続ける。
「私は努力してきました。どんな医師よりも熱心に勉強しました。眠らずに研究しました。学会が開かれると聞けば海外まで飛びます。新たな治療法のウワサには常に目を光らせています。過労で倒れそうだと思った時は栄養剤を注射して自分を騙します。それでも、患者は亡くなります。これからも、それは変わりません。どんなに努力しても私が書く死亡診断書の枚数は増えつづけるのです」
「つらくないんですか。そんな話を聞くと、私にはとても小児ガンの専門医は務まりそうにない」
「もちろん、辛いです。何度も辞めようと思いました」
 小児科医の中でも、小児ガンの専門医は最も過酷な職種だ。何故なら、子供の病死原因の大半が小児ガンであるからだ。つまり、子供の死に最も近しい職場を選んだプロフェッショナル。そこに留まる限り、際限なく小さな命が消え逝く瞬間を目撃し続けることを義務付けられる種の医師。それが小児ガンの専門医であり、森緒アヤコなのだ。

「しかし、努力が報われることもあります。だから続けてこられました。白血病の場合、7割くらいですがね。それでも子供が元気になって退院していく。その内、大きくなったその子からお礼の手紙が届く。添えられた写真には元気で幸せそうに日々を送っているその子の笑顔がある。これほど嬉しいことはありません。私はその助けの何割かになれたのですから。結局のところ、100人が死ぬと分かっていても、1人でも助かる子がいるなら、私はこの仕事を辞められないでしょう」
「でも、ユウタ君はその1人にはなれない」
「そうですね」
 森緒医師に言わせれば、現実とはそんなものだった。必ずしも報われることはない。だが報われることもある。だから努力は放棄しない。単純な結論のように思われるが、彼女の場合、報われる・報われないは即ちデッド・オア・アライヴだ。並みの人間に割りきれる問題ではない。
「ドクター、お子さんは?」
「私は、恋愛を知りません。当然、男も子供も家族も知りません。生涯を医学に奉げた人間です。男や子供がどんなものか、それに興味を覚えたこともありましたが結局その部分は捨てました。私はそんなに器用ではない。家族と仕事、色恋と夢、この2つを両立させられると自信をもって言えるほど自惚れてもいません」
 そう言って、森緒医師は自嘲的に笑った。
「世間の女たちは……いや、男もそうです。大抵の場合、彼らは両方とも手に入れられると思っている。だが、私に言わせれば無理な話です。人間はそこまで器用ではないし、強くもない。家族を円満に幸せに保ちつつ、仕事や夢に生涯をかける。ある意味で矛盾しています。この矛盾した事実をパワーで捻じ伏せることができるのは、極一部の天才的な実力者のみです。ところが、多くの人は身の程も知らず、この天才しかなせない偉業に挑もうとする。そして失敗する。愚かな話です。私は夢と愛は2者択一の存在だと思っています。極めようとするなら、どちらかを選ぶしかない。そして、一方を諦めなければならない。……私は夢をとりました。だから、愛までは求めません」
「ドクターは凄い人ですね。覚悟があるから迷いがないって感じがします。凄くストイックで、だからこそ純粋だわ。常人なら竦みあがるような大事に挑む覚悟を、スッパリと簡単に決めてしまう。それにどれだけの胆力がいるか。私には想像もつかないわ。同じ女として、その姿には憧れさえ抱きそう」
 それを聞いて、森緒医師は軽く笑った。久しぶりに斬新なジョークを耳にした。そんな感じの冷めた笑い方だった。
「そんな大層なものではありませんよ。私はただ、自分の求める物に正直なだけです。好きなものや大切なものに明確な優先順位をきめて1番だと思うものを取る。そして2位から下の残りはスッパリ諦める。ただ、そうして生きてきただけのことです」
 それを聞いて、セカンドチルドレンが鳥肌の立つような戦慄を覚えていたことに森緒医師が気付くことはなかった。それが難しいのだ。そして、それを事も無げに言える貴女は凄すぎるのだ。そう、セカンドチルドレンは言いたげだった。

「惣流さん。辛いのは分かります。納得がいかないのも、現実が許せないのも理解できます。ですが受け入れるしかありません。私は自分にできる最良の道を歩んだ。全力で戦いきった。そして、その闘病生活の中で様々なことを学んだ。患者とこれだけ強い絆を培った。最悪の結果が訪れたとき、そう胸を張って逝った人々に言えるように。そうなれるようにするしかありません」
 セカンドチルドレンとして知られる少女は、俯いたままなにも言わなかった。手に持ったコーヒーは、もうスッカリ冷めてしまっているに違いない。接触が悪いのか、自動販売機が時折あげるジジジ……という音が妙に大きく聞こえた。
「惣流さん。今は、私の言うことが綺麗事にしか聞こえないかもしれません。ですが、私はこれが最良だと考えます。少なくとも私は、そうすることで20年の現場生活を乗りきってきました」
 森緒医師は、ほぼ週に1回のペースで患者家族に死の宣告をしなければならない。医者として1番辛い瞬間でもある。告知による相手の反応は様々だ。場合によっては、患者の両親は既にその事実に気づいていることもある。子供の病状に神経を尖らせている彼らは、血液検査の結果や治療法の微妙な変化を常に気にしている。そして、その兆しに気付いてしまうのだ。そんな彼らの姿を見るのは、非常に心の痛むことだ。
 それに、森緒医師は「何故こうなったんだ」「子供が死ぬのは医師の不手際のせいだ」と正面からなじられたこともある。病というどうしようもないものに子供を奪われる親は、その悲しみや怒りのやり場に困る。そのはけ口として医者が選ばれることは、そう極端に珍しいことではない。そんな時、「自分にやれるだけのことはやった。全力を尽くした。これが100%だったのだ」……そう自分に自信を持てなければ、とても耐えられたものではない。

「努力は報われるとは限りません。すくなくとも、結果的にはそうです。ですが、人間は結果以外の何かを評価できる生物です。そして患者も、その部分の評価をきっと期待しているはずです。信じられないかもしれませんが、私は今までであった全ての患者の顔と名前を覚えています。少なくとも私にとって、彼らは掛け替えのない戦友です。
 確かに、その内の既に30%はこの世の人ではありません。ですが覚えています。彼らから学んだことも忘れません。彼らは子供でしたが、私は多くのことを学ばせてもらいました。そして、それは医学技術と経験として現実世界に反映(フィードバック)され、私の力となっています。これが、あなたたちのドラマで語られていた主題――絆なのではないでしょうか?」
 森緒医師はセカンドチルドレンを真っ直ぐに見詰めて言った。それは自信に満ちた宣言のようだった。
「たとえ死が我々を分かとうとも、それで全てが終わってしまうほどの安い繋がりではない。貴女とユウタ少年とは違うのですか? 死で全てが終わってしまう、そんなものなのですか。私は全ての患者家族にそれを考えて欲しいと思います。そして、惣流さん。貴女にも」


■02月27日 午後 17時22分
 NERV本部 プレジデントルーム


 本部総帥と言えば、それはすなわち全世界にネットワークを持つ特務機関NERVの頂点に立つ者の称号である。その一言は政界・財界に絶大な影響力を持ち、時に超法的な存在として振る舞うことすら国連議会で承認されている。地上で最も強大な権力を有する者の1人だ。
 その現NERV総帥の名は、碇ゲンドウ。サードチルドレン碇シンジの実父である。だが如何な血縁の者と言えど、そう簡単に総帥執務室であるプレジデントルームに足を踏み入れることはできない。シンジが父に本部内で面会しようとすれば、それにはかなり面倒な手続きを強いられる。それが我慢できなかったのか。その日シンジは、アポイントなしてプレジデントルームに乗り込んできた。
「申し訳ありません、総帥。お止めしたのですが」
 至近距離からの大砲の一撃さえ跳ね返す分厚い扉が開くと、縺れ合うように慌ただしく人影が雪崩れ込んできた。何人かの男女に羽交い締めにされながら、シンジはそれでも父に面会を求めてやってきたのである。止め切れなかったガードマンたちは、失態を上司に詫びる。たとえ父子の関係にあろうと、ここではその理屈は通用しない。正規の手続きを踏んでからでなければ、シンジのプレジデントルームへの入室は許可されないのである。それが規則だ。
 だがそれでも、事前に咎められることなくシンジがここまでこれたのは、彼がサードチルドレンであり、総帥の1人息子であるという部分が大きい。その上、彼は3佐(=少佐)と、高い地位にある幹部の1人だ。建て前はどうであれ、やはり彼にはセキュリティが甘くなるわけである。

「構わんよ。緊急の要件だろう。放してあげなさい」
 ゲンドウの副官である、冬月コウゾウはシンジの必死の形相を見てそう言った。彼は再編成前からのゲンドウの腹心で、常に事務的なサポートを行ってきた人物である。ゲンドウから最も高い信頼を勝ち得ている、NERVのナンバー2だ。深い皺の刻まれた顔と、白く染まった頭髪を見ればかなりの高齢であることは確かだが、長身の体躯とピンと伸ばされた背筋は、まだまだ彼が現役であることを証明している。
「ご苦労だった。下がってくれ」
 そう言うと、冬月は漸く縛めから開放されたシンジを笑顔で招き入れた。いつも冷静沈着、そして温厚さを忘れない老紳士らしい対応だ。だが、冬月は知っている。紳士の皮は被っていても、自分は生きる価値すら認められない重罪人であることを。そして目の前の少年も、自分の恣意と傲慢の犠牲者としてきた者たちの1人なのだ。
 そんな冬月の胸のうちを知ってか知らずか、碇シンジは落ち着きを払ったまま口を開いた。
「一連の騒動が終結した時、父さんたちは言ったよね。お前たちにも出来る限りの謝罪と償いをしなければならないと考えている。出来ることがあれば何なりと申し出て欲しいって」
「ああ。確かにそう言った」
 今までデスクの上で手を組み、彫像のように微動だにせず、黙って事の成行を見守っていたゲンドウが初めて口を開くと言った。そして、それがどうしたと言わんばかりに、シンジにサングラス越しの視線を向ける。
「父さんに、頼みがあるんだ。最初で、最後の」
 シンジは少し俯くと、真っ直ぐに父親と視線を合わせながら言った。碇ゲンドウがどんなに強大な人間であろうと今日ばかりは退けない。そんな理由があったから、何時もなら萎縮してしまう男の前でも、シンジは怯まなかった。
「父さんにしかできないことなんだ。無茶なのは分かってる。でも、やってもらわなきゃ困る。だから今日、それを言いにここに来た。ぼくの、父さんに対する最後の願いだと思って聞いて欲しい」
 そう前置きして示されたシンジの要請は、さすがの冬月も驚くほど常軌を逸したものだった。
 NERVのプールからすれば微々たるものだが、実行に移せば多額の資金を要することになるし、かなり面倒な手続きが必要となってくるだろう。言われて「はい、了承」と即決できる類いの話ではなかった。だが結局、碇ゲンドウはその要求を聞き入れることになった。
「時間がかかる話だと思うけど、もう時間がないんだ。決行は5月5日。この日までに話をまとめて欲しい。ぼくに手伝えることがあったら何でもするから」


■2019年 3月上旬
 第三新東京市 神城家


 神城家がNERVから借り受けたアパートには、全室に多目的スクリーンがオプションとして付いていた。これはその名の通り様々な役割を果たす大きなスクリーンで、要求に応じてTV画面やミニシアターのスクリーンにもなるし、仮想の景色を投影してヴァーチャル空間を作り上げることもできる優れものだ。そして今、神城家でそれはヴィデオ・フォン(TV電話)のモニタとして機能していた。
「5月5日ですか?」
 小学校の教室に取り付けてあるような、100インチを超えるスクリーンに映し出されているのは、すっかり顔なじみとなったサードチルドレン碇シンジである。1年前までは、こうして <チルドレン> と直接会話できるだけでも信じられないような出来事であったにも関わらず、今では電話が掛かってくるのもそう珍しいこととは思えなくなってきている。人間の適応能力というか順応性という、慣れとは恐ろしいものである。
「そうです。5月5日の日曜日、子供の日です。お二人とも都合は宜しいですか?」
「ゴールデンウィークは休みが取れると思いますので、それは構いませんが……」
 突然の話に、神城夫妻は顔を見合わせて首を捻った。多目的スクリーンの利点は、こうしてソファに並んで腰掛けて、多くの人間があたかもその場にいるように会話できることだ。この場合はサードチルドレンと神城夫妻の3人だけだが、その気になればもっと大人数での討論会や会議なども行うことができる。上手く活用すれば擬似的な学校としても機能するだろう。実際、2008年にはそうした公立高校が国内で開校され話題にもなった。

「子供の日は、ユウタ君の10歳の記念すべき誕生日でしょう? 実は、僕ら <チルドレン> でパーティを企画してるんですが、ユウタ君の体のこともありますし、できればお宅を会場としてお借りしたいんです」
「それは、もちろん。NERVさんに御厚意で貸していただいている部屋ですから」
 ケンタがそう返すと、サードチルドレンはホッとした表情を見せた。そして小さく微笑むと夫妻に頭を下げる。
「ありがとうございます。それじゃ、準備の関係で5月4日に一度お伺いすると思いますので。宜しくお願いします」
「いえ、こちらこそ。ユウタのために、本当にありがとう御座います」
「良いんですよ。僕らも好きでやっていることですから。誕生日、元気で迎えられるといいですね。それじゃ、僕は学校がありますから。朝早くすみませんでした」
 ヴィデオ・フォンが切れた後、夫妻は再び顔を見合わせて小首を捻った。今はまだ3月、ユウタの10歳の誕生日までは、2ヶ月もある計算だ。パーティ云々を企画するには、少し時期が早過ぎるような気がしたのだ。
「10歳の誕生日か」
 それは、治療を断念していれば「迎えられることのない」とされていた日だった。だが <ドナーリンパ球輸注> が順調な成果を上げている今、ユウタが少なくともその日まで生きられるであろう事は確実だと思われた。
 選択次第では、息子の生きている姿を見られなかったであろうその日。それだけに、夫妻にとっても5月5日は特別な意味合いを持つ。
「大丈夫。ユウタならきっと10歳の誕生日も、20歳の誕生日も、30歳の誕生日だって迎えられるわ。治療も上手くいってるし。世界で初の例にだってなれるわよ」
「うん、きっとね。そして僕らの老後の面倒まで見てもらわないと」
「そうね。孫の顔だって見たいし」
「それはちょっと、気が早すぎるってもんだよ」
「それを言うなら、老後の話だって同じじゃない? 私は去年まで20代だったのよ」
 仲の良い夫婦は、そう言って笑いあった。たとえ装いだけでも明るい家庭でなければ、もう一瞬でも生きていけない。彼らはそのことを、誰より良く知っていた。


■2019年 4月初頭
 第三新東京市


 ユウタの再発から既に2ヶ月が過ぎようとしていた。2000年以来、常夏となっていた日本にも四季の彩りが徐々に戻り始めていて、3月下旬から既に桜の花が満開となっていた。新年度を迎え、 <チルドレン> たちは高校3年生になった。最上級生であり、今後の進路について考えなければならない勝負の年を迎えると共に、最後のハイスクールライフに彼らは胸躍らせていた。
 だがその一方で、神城ユウタ少年には残念ながら復学の許可は下りなかった。今はまだ微妙な時期であり、外来ではあったが治療に専念しなければならないとドクターたちが判断したからだ。しかし、治療の経過自体は順調で、森緒医師の完璧な計算に基づく <DLT> によって寛解は維持されていた。このままの調子であと1年半の間、無事に寛解が保てればそのまま治癒の可能性も出てくるし、そこまで至らずとも、2度目の移植も現実的な戦略の1つとして浮上してくるであろうという話だ。期待が膨らむ、春の到来であった。
 同時期、第三新東京市は水面下で様々な動きを見せていた。この月に入ってから、市内への出入りのチェックが急に厳しくなり、まるで外国からの入国審査のようなピリピリとした雰囲気を漂わせていた。
 また警察やNERV保安部による市内のパトロールが活発化され、犯罪の取り締まりや交通整備なども強化された。近々、この町で世界サミットでも開かれるような物々しさである。だがそれらの大半は社会の裏側で起こっているもので、人々の多くはその微妙な変化に気付くこともなく日常を謳歌していた。
「それ、本当に?」
 見事に咲き誇った桜並木の通学路に、アスカ・ラングレーの声が響き渡った。普通ならば淡いピンク色のアーチを眺めながら足取りも軽く帰路を行くものであろうが、今の彼女には周りの景色など目に入らないらしい。  今日も何時もの様に、部活動を行っていない <チルドレン> は、放課後のチャイムと共に帰り支度を整えると3人仲良く並んで下校していた。とは言っても、もちろん徒歩ではない。護衛の運転する、車体全体に特殊処理を施したリムジンに乗り込んでの登下校が彼らの常である。だが広い後部座席の奥からアスカ、シンジ、レイの順番で並んで座っているのだからして、「3人仲良く並んで下校」という表現は、完全な間違いとは言えない。
「へぇ。じゃ、なに。最近、市内の警備やらが妙に厳しくなったり保安部の連中が慌ただしく駆り出されてるのもそのせいってわけ?」
「そうだと思うよ。世界の要人たちが集まるわけだから。下準備ってのが色々あるみたいだし」
 驚きを隠せないアスカに対し、シンジはそっけなくそう言った。なんと言っても、今回の仕掛け人は碇シンジ本人だ。その彼が自分で驚いているようでは困る。
「しかしまぁ、よく上層部が許可したわね。そんなの絶対無理だと思ってたのに」
「……碇君は、ときどき凄いもの」
 珍しく感嘆の声を上げるアスカに、誉めているのか貶しているのか微妙な綾波レイのコメントが続く。否、少しだけ彼女の薄い胸が誇らしげに反り返っているのを見ると、どうやら誉められたと考えて良いようだった。そんなレイの仕種が何だか可笑しくて、シンジはこっそりと笑った。

「父さんと直接交渉したんだよ。冬月副司令は難色示してたけど、イメージアップになるとか、これを切っ掛けに世論を味方にできるとか、僕には借りがあるはずだとか、色々な責め方で頼んでみたら何とかOKが出たんだ」
 それを聞いて、アスカは呆れたような溜め息を吐くと言った。
「あんた最近、碇司令に似てきてない? さり気無く、実は恐喝とか上手いし。似てないとは思ってたけど、さすがは親子ね。キッチリ中身が遺伝してるわ」
「なんかイヤだなぁ。その言われ方」
 アスカのキツイ一言に、シンジは道路で潰れたカエルの死体でも見つけたような顔をした。美人と評判であった母親の容姿と、その穏やかで温厚な性格を継承している彼は、これまで完全に母親似の子供として評価されてきた。最近までは、そのせいで自分は女っぽいなどと言われてしまうのだ、と母に似てしまったことを悔いていたわけであるが、かといってあの妖怪モドキのような父親に似ていると言われるのだけは、どうしても避けたかった。だが、そんなシンジの心情にはお構いなしでアスカは陽気に言葉を続ける。
「そうか。じゃ、5月5日が楽しみよね」
「うん。きっと、ユウタ君は喜んでくれるよ。それに意味を理解してくれれば、きっと世界中の子供たちも」
「そうね。そうだといいわね」
 別れが避けられないものであるなら、それを笑顔で迎えられるような何かが欲しい。シンジは自分にでき得る全てのことから、贈り物をすることを選んだ。泣くのも、泣かせてしまうのも嫌だったから、笑顔でお別れできるような、贈り物。それで最後まで笑っていられるならば、道化を演じることすら厭わない。そう、思った。
 5月、彼の試みは見事に成功することになるのであるが、その時の記者会見の席で彼はこう語っている。
「僕は、彼の夢だけは汚させないと思ってきました。なのに、このまま何もしなかったら僕は彼に嘘を言ってしまった事になる。彼の期待や夢を裏切ってしまうことになる。それだけは絶対に許されないことだと考えました。確かに、見る人が見ればこれはただの茶番です。でもこれが僕にできる最大の行動でした」
 少なくとも、その時の彼に後悔はなかった。それを証明するように、その表情は誰の目にも非常に清々しいものであった。
「もし別れの時が訪れても、僕は泣きたくありません。神城さんご夫妻にも、綾波にも、アスカにも、メグミさんにも、そしてユウタ君にも泣いて欲しくありません。だから、思ったんです。僕に大切なことをいっぱい教えてくれた、小さな友達に僕に出来得る限りの、精一杯の贈り物をしようって」


■2019年 5月5日(日曜日)
 第三新東京市 神城家


 その記念すべき日の目覚めは、馴染みのない喧騒と共に訪れた。神城一家の中で1番寝覚めが良いのは、紅一点のユウコ女史である。この朝も、どこからともなく聞こえてくる不思議なざわめきに、逸早く気付いたのは彼女だった。
 風が木の葉を揺らしているわけでも、耳元で誰かが囁いているわけでもない。ただ、どこからともなく都会の雑踏から零れ落ちたような、微かなノイズが聞こえてくる。決して耳障りで神経に障るというレベルではないが、それでも気にはなった。隣で寝ていたケンタもユウコが起きたのを察知したのか、それとも妻と同じように奇妙な騒音を不審に思ったのか、直ぐに覚醒して怪訝な表情をする。
 その得体の知れないざわめきの正体は、2人が玄関先に新聞の朝刊を取りに出た時、判明した。驚くべきことに、神城家が仮の住まいとしているマンションの周りに、かつて見たことが無い程の人集りが形成されていたのだ。慌てて周囲を振り仰げば、マンション自体が人間によって構成された巨大な包囲網で囲まれている事が分かった。その人数たるや、10人や20人ではとても利かない。恐らく500人以上。下手すると1000人を超える規模の群集が神城家を中心点として周囲を占拠している。夫妻は仰天した。
「何が起こったのかサッパリ分かりませんでした。こんなことは初めてで……。家畜の大暴走ってご存知ですか? 私の父はテキサスで300頭の牛を飼っていたのですが、これがある時そろって大暴走したことがあったんです。まるであの時の再現でした。彼らが移動するたびに、お腹の底に響き渡るような重低音と振動が伝わってくるんです。怖いくらいでした」
 神城ユウコが微かに怯えた表情で語った人の群れとは、マスコミと野次馬の大群、そしてそれを抑えつけるNERVのスタッフと地元警察官たちの集団だった。
 巨大な望遠レンズを装備したカメラマン、マイクの調整をするレポーター、TV局の中継用ワゴン、手帳を片手にした記者。とにかく、360度見渡す限りの報道陣が何故だか神城家の周囲でスタンバイしていて、夫妻がドアから顔を覗かせた瞬間、目も眩むようなフラッシュの嵐を巻き起こした。
 夫妻が混乱と恐怖を覚えるのも無理はない。朝起きたら突然周りを包囲されていた挙げ句、いきなり怒涛のフラッシュ波状攻撃である。彼らでなくても、誰もが同じような反応を示しただろう。
「僕はただ呆けているばかりでしたが、妻は直ぐに事を <チルドレン> と結びつけて考えたようです。つまり、これは彼らが前々から告げていたユウタの誕生日イベントの一環なのだと。確かにそう考えれば、周囲に集った報道陣の存在にも納得がいきました。彼らの目的は我々ではなく、いずれやって来るであろう <チルドレン> なのだと思ったんです」

 だが、これはまだほんの序章に過ぎない出来事だった。それから約7時間後の午後2時、事態は彼ら夫妻が想像すらしていなかった方向へ流れ出した。まず最初に、マンションの周囲2キロ――つまり第三新東京市全域(市の直径は2km)に展開された警備網に守られながら、黒塗りの高級リムジンが次々と駐車場に入り始めた。
 その車から最初に降り立ったのは、NERV擁する3人の <チルドレン> であった。彼らは、護衛のスタッフと警察官たちが詰め掛ける報道陣と野次馬の人集りを <モーセの十戒> のように割って作り上げた道を歩むと、真っ直ぐに夫妻の元にやってきた。
「こんにちは、神城さん。お騒がせしてすみません」
 そう言って頭を下げたのは、サードチルドレンだった。その一言で、神城夫妻はこの戦場のような騒ぎを起こした張本人が、彼らNERVの <チルドレン> であることを確信した。
「ねえ、なんでこんなにいっぱい、みんなが集まってるの?」
  <チルドレン> がやって来たと聞いて慌てて出迎えにきたユウタ少年が、一家を代表して問いかけた。
「パーティよ。今日は、子供の日でそれにユウタの誕生日でしょ?」
 アスカは屈んで少年と視線を合わせると、にっこりと優しく微笑みながら言った。
「じゃ、アスカが呼んだの? み〜んな、ぼくの誕生日だから、だから来たの?」
「そうよ」
「おおー!」ユウタ少年は、その事実に目を丸くして驚いた。
 何しろ、蒼穹を除けば視界の9割を人間の集団が占めているのだ。ユウタはもちろん、神城夫妻もこれだけの大人数が1ヵ所に密集したのを目撃するのは、初めての経験に違いない。しかもそれだけの人数が、たった1人の少年のバースディを祝うために集まったと聞けば、驚くのも無理はない話だった。
「ほら、ユウタ君は寝てないと。今日も少し熱があるって聞いたよ」
「でも、37度だよ」
 子供部屋のベッドに優しく誘おうとするシンジに、ユウタは不思議そうな声をあげた。彼にとって、37度程度の微熱は既に平熱と大差ない。これまでの闘病生活ですっかり慣れてしまったのだ。
「あの、すみません。とりあえず、上がらせてもらって構いませんか? ちょっと後が詰まってるみたいで。来賓の方々が通ってこれないみたいなんですよ」
 気付くと、葛城ミサト将捕が駆け寄ってきて神城夫妻に言った。
「――来賓?」
 夫妻は怪訝に思いながらも、300メートル先でフラッシュを焚きまくっているカメラマンの群れを一瞥し、それから <チルドレン> たちを部屋の中に招き入れた。
「お客様を呼んでいただいてるんですか?」
「ええ。この日のための、スペシャル・ゲストなどを少々」
 ユウコが訊くと、葛城将捕は何かを含んだような笑みを見せて言った。
「 <チルドレン> を除けば、全部で10人程度ですので。ちょっと窮屈かも知れませんが、ユウタ君のお部屋をお借りできますか。そこに集まっていただく手筈になってますから」
「分かりました」
 夫妻が頷くと、将捕は再び玄関から慌ただしく飛び出していった。方向からするとリムジンの群れが乗りいれた駐車場に向かったのだろう。だがそれを確かめるより先に、彼女はひしめく護衛たちの波に飲み込まれて消えた。

 10分弱の時間を置いて再び神城家の玄関に姿を現した葛城将捕は、彼女の言うスペシャル・ゲストを伴なっていた。数は合計9人。だが、その顔ぶれを見て夫妻はあやうくショック死しかけた。葛城将捕と屈強な護衛たちに守られながら来賓の先頭を切ってケンタとユウコに微笑みかけたのは、品の良い初老の貴婦人だった。
 そして夫妻の記憶が正しければ、彼女は史上初の女性アメリカ合衆国大統領その人である。その後ろにはNERV総帥、そして国連軍極東方面総司令官と続いていた。否、それだけではない。続く列には、日本の内閣総理大臣、イギリスのケント公爵夫人、フランスの副首相らしき男性の姿も見受けられる。先進国首脳会談でも行われない限り、絶対に揃うことのない顔ぶれだった。
 半ば気を失いかけている夫妻をよそに、彼らは次々と神城家に上がり込み、ユウタの待つ子供部屋に向かった。当のユウタ本人は、見知らぬ大人たちがいきなりズカズカと自分の部屋に入り込んできたことに混乱していたが、その中にTVで良く見知っているNERV総帥、碇ゲンドウの姿を見つけると、突然興奮しだした。本物を見るのはこれが初めてだったからである。
「ね、アスカ。あれゲンドー? あれ、ゲンドーでしょ」
「そうよ。あれが有名な髭魔人の碇ゲンドウよ。信じられないけどシンジのパパでもあるわ」
「おおー! ゲンドー、でっかいねぇ」
 アスカとユウタはこっそり言葉を交わし合って、クスクスと笑った。190cmの長身を誇るNERV総帥の姿は、他の賓客の中でも異様に目立っていた。おかげでユウタは大喜びである。
 ユウタの子供部屋は、本来客間として使われるスペースらしく、神城家ではリヴィングルームに続いて広い空間だった。だがそれでも、10人を超える大人たちが揃うと些か窮屈である。もちろん、これは報道陣が1人もいない上での人数だ。彼らはマンションの周囲を遠巻きに包囲できても、中までは防犯・安全上の理由から入り込むことはできない。それでも、NERVが用意した中継用の大型TVカメラなどが持ち込まれていたため、尚更室内は狭く感じられた。
 そんな中で、世紀の瞬間は訪れようとしていた。

「今日はね、ユウタ君にとっておきのプレゼントを用意させてもらったんだよ」
「ほんとー? なに」
 シンジがプレゼントの言葉を発すると、ユウタは途端に目を輝かせた。
「じゃあ、父さん。お願いするよ」
「……うむ」
 シンジの目配せに、父でありNERVの総責任者である碇ゲンドウは厳かに頷いた。そして来賓たちの列から1歩踏み出し、ベッドにチョコンと腰掛けた少年を見下ろした。
「神城、ユウタ」
「はい?」
「貴殿は難病と勇敢に戦い、その姿と力強い言葉で全ての人々に希望と感動を与えた。その偉大な志と勇気に敬意を表し、我々は貴殿にささやかな贈り物を用意した」
「アメリカ合衆国の全国民を代表して――」
 そう言ってユウタに歩み寄ったのは、初老の女性。米国大統領だった。
「勇気ある少女少年の証、 <チルドレン> のプラグスーツを」
「世界平和の為に命を奉げる、全ての兵士たちを代表して――」
 大統領に代わってユウタと向かい合ったのは、軍の正装に身を包んだ国連軍極東方面の総司令官であった。
「平和を守る勇敢な子供の証、 <チルドレン> のインターフェイス・ヘッドセットを」
「女王陛下に代わり、連合王国を代表して――」
 続いてユウタにプレゼントを差し出すのは、毎年ウェストミンスター寺院で <勇気ある子供大賞> を授与してきたケント公爵夫人である。
「年に8人選出される特に勇敢と認められた子供の証、その大賞を」
 こうして訪れた各貴賓たちにより、バースディ・プレゼントは次々と贈呈されていった。ユウタはベッドの上で半ば飛びあがりながら、それらを大事に受け取った。
 そしてその全てが少年の手に行き渡った時、再びゲンドウが一同を代表してユウタに宣言した。
「神城ユウタ。私は国連総会の承認と特務機関NERV総帥の権限により、本日本時刻を以って、貴殿を人型決戦兵器エヴァンゲリオン操縦士、最後の適格者 <ラストチルドレン> に任命する。以後、適格者としての自覚を持ち世界平和実現のため尽くすように。なお体調が整い次第、NERV本部にてエヴァンゲリオン初号機を用い、サードチルドレンとの複座による第1回起動実験を行う。養生し1日も早く本部に出頭せよ」
 ゲンドウの言葉の意味がまるで理解できず小さく口を開けて呆けているユウタに向かって、シンジはとびきりの笑顔と共に囁きかけた。
「お誕生日おめでとう、ユウタくん。君は今日、本物の <チルドレン> になったんだよ」

 ――その日の夕刻、記者会見の席で、NERVの葛城ミサト将捕はこう語った。
「神城ユウタ少年は、急性骨髄性白血病という難病と長年に渡り戦ってきました。助からないと言われた事もあります。ですが、彼は決して諦めずそれらの危機や困難と勇敢に戦い、今日という日を掴み取りました。それは、世界の皆さんもご存知のことと思います。
 そんな彼を支えてきたのは、たった1つの、ですが不屈の意思でした。それは夢です。 <チルドレン> になりたいという夢です。我々は、その夢にかける彼の強い意思に多くを学び、大いなる感動を得ました。そこで我々NERVは、彼の生き様に感銘を受けた全ての人々を代表し、ひとつの称号を贈りたいと思います」
 それが人類最後の適格者―― <ラストチルドレン> の称号だった。
「NERVが、今後 <チルドレン> を選出することはないでしょう。よって、彼は最後の <チルドレン> となります。ですが、この <ラストチルドレン> は、今後も永遠に受け継がれていくでしょう。何故なら、これは大志を抱く全ての少年少女に与えられるべき名誉ある称号であるからです。神城少年は、世界の勇敢な子供たちを代表してこれを受け取ったに過ぎません。
 広い空の下、今日もどこかで、生まれてくる小さな命たちへ。夢を抱くのならば、あなたたちの誰もが <チルドレン> なのです。最後にして、永遠の <チルドレン> なのです」

 ――36日後、 <ラストチルドレン> 神城ユウタはNERV本部を訪れ、サードチルドレン碇シンジと共にエヴァンゲリオン初号機に乗り込んだ。そして体長200メートルの巨人の体内から、世界を見渡した。
 その日、少年は <チルドレン> になったのだ。


to be continued...



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