<<

第七章「最終試練」


■2018年 3月05日
 イングランド ロンドン


「えっ、患者の子には会えないんですか?」
 第3次検査に伴なう <骨髄移植> の説明をコーディネーターより受けて、メグミ・プレンティスは驚いた。
 コーディネーターの話によると、ドナーには原則として患者についての詳しいことは教えられないものらしい。もちろん相手の大雑把な病気の状態についてなどは教えてもらえるが、実際に顔を合わせることはできないし、患者のプライベートな事情に関してはその一切が伏せられるという。
 今回、メグミが神城ユウタのドナーになったということを教えてもらえたのは、要するにユウタが既に世界中に知られていた有名人だったからに過ぎない。これはつまり極めて特異な例なのだ。
「この話をコーディネーターの人から聞いた時、ちょっぴりガッカリしたわ。せっかく直接会って彼と彼のパパとママを元気付けてあげたいと思ったのに。――でも、移植が終わった後、彼が退院したら面会もできるって聞いたんですよ。だからとりあえず納得することにしたの。だって、その時のことを想像したらワクワクするじゃないですか」

 神城ユウタのドナー(骨髄提供者)となるメグミ・プレンティスは、極めて明るい性格をした少女だった。
 非常にエネルギッシュな彼女は、18歳の年齢をフルに活かした人生の楽しみ方を知っていた。つまり、常に前向きに積極的に万事を騒ぎたてて喜ぶのだ。
「コーディネーターの人から聞いて私、勉強したのよ。私のあげた骨髄って、血を作る装置なんでしょ?――そうそう、それで思い出した。ユウタ君の血液型はO型らしいけど、私はAB型なんですよ。だからなんと、彼は私の血液型に合わせてO型からAB型にチェンジするんですって! 人間って血液型が変えられるものだったのね。初めて知った。でも、私のAB型の血を作る骨髄が彼の中に入り込むんですものね。考えてみれば当たり前のことなのかも」
 そこまで言うと、彼女は何かに気付いたように小さく目を見開いた。そして自分の大発見に、どうにも興奮を抑えきれないといった口調で言った。
「……ってことは、もしかすると、私たちって血の繋がりが出来るってことですか? ああ神様、よしてよ。これって良く考えたら、スッゴイことじゃない。だって、もしかすると弟ができるって感じなのかもしれないのよ。うわあ、どうしよう。あんなに可愛い子が私の弟になってくれるなんて。だとしたら、なんてラッキィ。私って、昔から妹か弟が欲しかったのよ」

 ――このように、患者とHLA型が一致したドナーは、コーディネーターという専門家から骨髄移植についての詳しい説明を受けることになる。
 患者とドナーが直接面会して話し合いをすると様々な精神面での摩擦が生じやすい。そのため両者を仲介して骨髄移植を円滑に進めるのが、この <コーディネーター> と呼ばれる特殊なスタッフである。
 彼らの存在なくしては、近年の骨髄移植は成り立たない。それほどに重要視される役回りだ。
 コーディネーターからの説明が終わると、ドナーは『3次検査』と呼ばれる検査を受けることになる。これはHLAを遺伝子レベルまで細かく調べる検査で、患者とドナーとの適合性がより入念に調べられる(メグミとユウタ少年のHLAは、ピタリと一致した)。
 これらの段階をクリアすると、いよいよ『最終同意』の確認だ。ドナー(提供者)は家族か、最低でも親しい友人を同伴した上で、この同意の確認を受けなければならない。日本の場合はほとんど『同意』の名を借りた『許可』を受けなければならないほどに厳しいが、海外でも第3者の理解が重要視されることに違いはない。
 この最終同意の確認では、ドナー本人、その家族、弁護士等の立会人のもと、コーディネーターおよび調整医師より骨髄提供についての説明が行われる。この説明を聞いて「提供に同意できない」と考えた場合は、この時点まで提供の意思を取り消す事ができる。しかし、この最終同意でOKを1度出した後、意志を翻して提供を拒否した場合、それは患者の死に直結するので注意が必要だ。それ故に、この最終同意は最も重要視される手続きの1つなのである。
 骨髄提供に関する最終同意が確認され、ドナーが「同意書」にサイン(日本の場合は署名捺印)すると、移植日程・採取病院等の話し合いがされ、遂に骨髄移植が具体的に走り出す。

「今日、最終同意書にサインしてきました。ちゃんと父と母も側にいたし、彼らの了解だって得たわ。両親は私がキチンと考えて判断したことに異論を挟むような人たちじゃないわ。だから安心よ。今後、同じ同意書が私の前に差し出されることがあるかもしれないけど、私はその度にサインをするでしょうね」
 メグミ・プレンティスは、最終確認が行われた3月14日、向けられたマイクにそう語った。
 これでようやく骨髄移植に関する手続きが完了したことになる。
 この後、健康診断と何度かの血液検査を経て、3月29日、『骨髄提供』を行うために、彼女は王立フリー病院に入院した。


■3月16日
 イギリス ロンドン ウェストミンスター地区
 王立フリー病院 小児ガン病棟


 メグミ・プレンティスの登場と彼女の同意が明らかにされたことにより、HLAの適合したドナー、患者の健康状態、移植ができる十分な設備、そして医療費――神城ユウタの骨髄移植に必要な4大材料は全て揃った。
 そして少年にはヴァレリィ・ラヴロック教授をチーフとする合計3人の主治医がつけられ、彼女たちによって <骨髄移植> に向けた綿密なスケジュール調整が行われた。
 入院から実際に移植が行われるまでの期間は、標準で2週間。ユウタ少年の場合もそれにほぼ倣う形で、移植が行われる日は3月30日と決定された。世界が注目する神城一家、運命の日である。
 さて、ここまでは骨髄移植を行うために必要とされる条件だ。だが移植を成功に導くためには、さらに幾つかの条件のクリアが必要となってくる。その内でも、充実したクリーンルーム(無菌室)の存在は成功に欠かせない、絶対条件の1つだ。
 無菌室とは、その名の通り空気中のチリや細菌の存在を極力抑えるように設計された、特別な病室のことである。王立フリー病院の小児ガン病棟に入院したその日から、神城ユウタは『クラス10000』という準無菌室(セミ・クリーン)に入れられていたが、この3月16日、いよいよ『クラス50』の完全無菌室に移され、骨髄移植に備えることになった。
 この『クラス〜』というのは、要するに無菌室のレベルである。クラスの後につく数字は、空気中に含まれる不純物の多さと考えれば良い。つまり数字が小さければ小さい程それは高度な無菌室であり、完全無菌状態に近しいことになる。
 もちろん、神城ユウコもこれについてはきちんとした説明を医師から受けた。

「骨髄移植を行う前の準備としての治療を我々は『前処置』と呼ぶのですが、移植を成功させるためには、この前処置において患者の悪い骨髄を徹底的に殺してしまわなくてはなりません。患者の不良な部分をゼロの状態にして、ドナーな正常な骨髄を注ぎ込むためです」
 だが、たとえ悪性の骨髄であっても完全破壊してしまえば色々な問題が生じてくる。致死量に及ぶ抗癌剤の投与、身体に有害な強力な放射線……これらの直接な危険性はもちろんだが、他にも間接的なネガティヴ要素が幾つか存在するのだ。
「骨髄や白血病細胞を完膚なきまでにやっつけてしまうためには、強力な抗癌剤の投与と放射線照射を行う必要があります。ですが、これを行うと患者は病気に対抗する力を完全に失ってしまうことになります。こうなると普段は笑って跳ね返せるウイルスや細菌が元で、深刻な病気にかかってしまう可能性がでてくるのです」
 特に恐るべきとされているのが『サイトメガロウィルス』と呼ばれるウィルスで、これはどこにでも存在する大変ポピュラーな存在だ。もちろん健康な人間には何ら害はなく、どんな人間でもこれを小なり体内に住まわせている。
 だが抵抗力がゼロの状態の患者がこのウィルスに感染し、『サイトメガロウィルス肺炎』を引き起こした場合は非常に危険で、極めて高確率で死に至る。
 特に白血病では合併症として各種肺炎を起こしやすく、無菌室に入らなければならないような状態でこの肺炎にやられてしまうと、医者たちは本気で慌てることになる。助からないと考えた方がいい。
 事実、移植患者の死亡原因の30%以上がこの肺炎でやられるというデータもある。
(参照=全米骨髄プログラム・NMDP:「移植患者の死亡原因」1989)
 つまり、こうしたウイルスや細菌から患者を守るための砦が、無菌室と呼ばれる特殊設備なのである。

「日本にいた時も、ユウタは無菌室というものを体験しました。これはベッドの周囲に巨大なビニールのテントを展開し清浄機で内部の空気を綺麗にするという簡単なものでしたが、フリー病院の本格的な無菌室の徹底ぶりはそれとは比較にならないほど凄いもので、私とユウタは正直驚かされました。
 両親や見舞い客はもちろん、ドクターやナースたちでさえ、気軽に出入りすることはできません。どうしても必要な時にだけ消毒液で手を洗い、クリーン・ルーム用の特別な装備をまとって漸く入ることが許されるほどなんです」
 神城夫人のこの言葉は大袈裟なものではなく、王立フリー病院が誇る無菌病棟の設備はヨーロッパでも間違い無く5本の指に入る充実ぶりだった。
 長い廊下一列、ズラリと並んだ『クラス50』の無菌室には、アメリカ航空宇宙局(NASA)開発の特殊フィルタを装備した超高性能送風機が取り付けられており、室内を神の世界もかくやというクリーンな空間にしたてあげている。
 移植が行われる日まで2週間前後の期間、ユウタはこの閉ざされた空間の中で生活することになるのだった。


■3月22日
 王立フリー病院 無菌病棟


 ユウタ少年の入ることになった無菌室は、4畳程度の狭い空間だった。
 室内には、無菌処置・消毒処置を施された注射器やガーゼ、生理食塩水などが所狭しと並べられていて、自由に身動きできるスペースは唯一部屋の中央に置かれたベッドの上だけという状況だ。
 元より化学療法の副作用で暴れる元気などないユウタ少年だが、それでも遊びたい盛りの子供に、これは辛い試練である。基本的に話し相手もいない室内には、ユウタが退屈しないように殺菌処置を施したTVやゲーム機などが持ち込まれた。
 このように患者が無菌室に持ち込めるものには厳しい制限が設けられていて、基本的に熱殺菌や消毒ができないものには許可が下りない。病院食以外の差し入れ食品も、『缶詰め』 『缶ジュース』『レトルト・パック入り食品』と、極度に限定される。
 洋服も、玩具も、それに注射器や錠剤に至るまで、ありとあらゆる全てが部屋に持ち込む前に消毒・減菌の処理を施されて、ようやく患者の手元に届けられるのだ。
 毎日取りかえられる衣類にしても、消毒の時、縮んでしまう恐れがあることから木綿70〜100%のものと限定される始末だ。馴染みのない人間にとっては、異常なまでの徹底ぶりである。
 ユウタ少年の入った部屋の一面には巨大なガラス窓が取り付けられており、この窓越しに隣の部屋にやってきた見舞いの客と会話を交わすことができるようになっていた。しかし、これ以外に室内には外界との接点は何一つとしてない。
 唯一の例外は、毎日1度、極短時間だけやってくる医師や看護婦たちだ。彼らは全身を覆う『無菌ガウン』と『無菌手袋』を完全装備した姿で現れ、必要な処置を手早く施し、そして風のように去っていく。ここまで徹底して、無菌状態を保つのだ。
 逆にこの状態を見れば、骨髄移植に伴なう患者の危険性が如何に高いものであるかが理解できるだろう。

「無菌室での生活は、特に小さな子供たちには大変酷なものです。なにしろ、大好きなお母さんや兄弟姉妹と会える時間が極端に制限されてしまうのですから。幼く見えても、長い闘病生活に耐えてきた子供たちは精神的に発達しているもの。哀しいことだけれど、実際の年齢にプラス2〜3歳分、時に5歳分を上乗せした精神年齢にあることを考慮に入れなくてはならない程なのです。
 そんな彼らは、これから行われる <骨髄移植> がどれだけ自分にとって重要なものか、周囲の大人たちの表情や雰囲気から敏感に察知してしまうの。それ故に、彼らの孤独や不安は計り知れないものがあります。ですから、私たちは無菌室の状態に常に気を配りつつも、小さな患者と家族とのふれあいをできるかぎり推奨するようにしているんですよ。両親にはありったけの愛情を込めて子供と接する気でいて欲しいわ。そして実際、私が願うまでもなく多くの親たちはその通りに振舞ってくれるのです」
 ユウタ少年の骨髄移植チームの総責任者を務めることになった、ヴァレリィ・ラヴロック博士は語る。
「それにね。前処置――骨髄移植に備えるための強力な化学療法と放射線全身照射で、今までに体験したことのない程に辛い吐き気が子供たちを襲うの。大人の患者でも弱音を吐くほどに、これは辛いものなのです。でも私は、愛らしい子供の死亡診断書を書くのはもう沢山。そのためにも、辛いでしょうけど彼らにはこの試練に耐えて欲しいのです」

 博士の願い通り、神城ユウタは全ての試練に尽く耐え抜いた。こつずいいしょくが終わってしまえば、血が綺麗になる。そう聞かされていたからだ。
 事実、移植が終わった後の直接インタビューに少年はこう答えている。
「これをガマンすれば、きっと病気がよくなるって。ぼくの血がキレイになるんだってお医者さんが言ってたんだって。お母さんが教えくれたの。お母さん、えいごしゃべれるから。こつずいいしょくが終わったら、きっとぼくも <チルドレン> になれるって思ったから。だって、シンジお兄ちゃんも絶対なれるって言ってくれたから。だから、ぼくは『むきんしつ』嫌いだったけど、がんばることにしたんだ」
 骨髄移植を成功させて、自分は断固 <チルドレン> になる。そうした強い意思と希望が、ラヴロック博士を驚かせるほどの強さを、ユウタ少年に与えていた。
「もう40年も現場を見てきたけれど、あんなに従順で頑張り屋さんな子供は、もしかすると初めてかもしれないわね。少なくとも、稀に見るケースだわ。たった7歳の子供が、弱音ひとつ吐かず全ての重圧をはね退ける。誰もこの本当の凄さを理解は出来ないでしょうけれど、今まで何百という移植に立ち会ってきた私には良く分かります。これは、本当に驚くべきことなのですよ」
 3月22日から始められた『前処置』は、1日2回を3日間に渡って繰り返す『放射線全身照射』と、致死量の数倍に匹敵するという、極めて強力な『抗癌剤』の投与によって行われた。
 これらの処置で、ユウタは黒髪を再び完全に失い、胃の中が空になっても続く強烈な吐き気に苦しめられることになった。
 酷いときには、1日に10度以上も嘔吐した。
 よく <骨髄移植> は、骨髄液を抜く際の痛みから、「患者よりドナーの方が辛い」などと言われることがあるが、必ずしもそうとは決めつけられない。
 ドナーは全身麻酔と未知の痛みに対する恐怖を味わうだけだが、患者は『失敗すれば死ぬ』という恐怖と戦わねばならない。無菌室での孤独と不安に耐えなければならない。場合によっては、全処置で副作用に苦しまねばならないし、頭髪だって失わなければならない。
 そんな患者の苦しみを知りながら、それでもドナーの方が辛いと断言できる者が、果たしてどれだけいるだろうか。


■3月30日
 イギリス ロンドン ウェストミンスター地区
 王立フリー病院 小児ガン病棟


 3月30日の午後6時、神城ユウタの <骨髄移植> は終了した。
「目が醒めたら、全部終わってたわ。最初、混乱しちゃったくらい。本当に終わったのか、それとも寝ていただけで移植はこれからやるのか、その判断に迷ったんです。でも、点滴がつけられてたから、すぐに終わったんだってことに気付いたわ」
 翌日、入院中のベッドの中でメグミ・プレンティスは語った。
 各TV局のリポーターや報道カメラマンは、移植が行われた当日に彼女の病室で取材をしたがったが、精神面や健康状態など様々なことを考慮した上で、1日置いてからの取材しか医者に許可を貰えなかったのだ。
 そもそも、 <骨髄移植> に関する全てはマスコミには伝えてはならないことになっている。これはイギリスや日本に限らず、世界中のどこの国でも同じだ。報道によって患者やドナーに精神的な負担がかかったり、プライバシーが侵害される恐れがあるからである。
 神城ユウタの骨髄移植に関して、マスコミが自由に報じることができるのは、ひとえに神城家がプライバシーを犠牲にしてまでドナー探しに奔走したからに他ならない。それに加えて、ドナーであるメグミ・プレンティスの積極的な協力があったことも大きい。
 彼女は「それが誰かの助けになるのなら」と、自分の名前を公表することや、TVのインタビューを受けることを快く承知している。彼女のこの姿勢と理解があったからこそ、世界はリアルタイムに事の行方を見守ることができるのだということを忘れてはならない。

「骨髄移植って言っても、ほとんど何が起こったのか分からないんです。前の日にこの病院に入院して、腰のうぶ毛を剃って用意を整えただけ。あ、お昼からはご飯を食べちゃ駄目なんですって。私って、自他共に認める食いしんぼうじゃないですか。正直、かなりお腹が空いたわ。もしかすると、あれが1番辛かったかも」
 エネルギッシュな18歳の少女にとって、空腹に耐えるというのはそれなりに辛い試練だったのだろう。彼女は、毛虫でも見たかのように眉を顰めて言った。
 だが、すぐに気持ちを切り替えられるのが彼女の取り柄だ。その後は常に笑顔だった。
「当日は、特別な服に着替えるの。ウエストの辺りから骨髄液を抜くから、それがやりやすいようになっている服ね。素肌に直接着るのよ。ちょっとした拍子でお尻が見えちゃうんだけど、あの恰好じゃセクシーとは誰も思わないでしょうね。後は、手術台に寝かされるだけよ。それからヒップにプスッと麻酔の注射を打たれて眠たくなるの。このヒップの注射はチョッピリ痛かった……かな? でも、泣くほどのものじゃないことは確かですよ」
 彼女の言葉通り、骨髄の採取は『全身麻酔』をかけて手術室の中で行われる。まず医師たちは、手術台に横たわったドナーの腸骨上の皮膚を小さく――普通、ほんの五〇〇円玉程度だ――切開し、そこから『骨髄吸引』専用の注射針を刺して、骨髄液を吸い取る。
 腸骨とは寛骨という腰の骨の一部で、要するに骨盤あたりのことだと思えばいい。自分の背中に手を回し、背骨を伝ってお尻の辺りまで這わせていくと、腰の部分に大きくて固い骨の存在を見出すことができるはずだ。
 それは、人体の中で最も大きな骨のパーツで、数百ccの骨髄を抜くには最も適した部分なのである。

 骨髄採取に必要とされる時間は、40〜50分程度。まさに「あっ」と間の出来事である。
 そして、ドナーから吸い取られた骨髄は特別な容器に集められ、様々な処理を施された後、点滴パックに入れられて、患者の静脈に輸注される。要するに点滴注射だ。
 このように、 <骨髄移植> とは他の臓器移植とは全く違い、ほとんど『輸血』の要領に近しい。少なくとも、手術室で行うと聞いて誰もが連想するものとは程遠いと言えるだろう。
 しかも腎、肝、心臓移植などでは、ドナーは身体から臓器の一部を取り取られてしまい、これが復元されることは永久にないが、骨髄移植で採取する骨髄液は回復可能なものだ。約1リットルほどの抜かれたとしても、それは通常1ヶ月前後で完全に元に戻る。
「えっ、今の感想?……感想ねぇ。腰が痛い。ズーンと重たい感じ。寝返りをうつのも結構苦労するのよね。お医者さんには歩いた方がいいよなんて言われたけど、きっと今無理に歩いたら凄く不恰好になると思いますよ。――でも、予想してたようなズキズキする感じの激しい痛みとかじゃなくて、ちょっと安心してるわ。実は、昨日は気分が悪くて1度だけ吐いちゃったんです。でも、その後はスッキリした感じ。あ、これって感想になってないわね」
 患者ほどではないが、ドナーもまた骨髄移植には様々な不安を抱く。なにせ、全身麻酔をはじめそのほとんどが初めての経験となるのだ。緊張しない方がおかしい。
 しかも、患者は骨髄を輸注してもらうだけだが、ドナーは手術室に運び込まれ、全身麻酔をかけられた挙げ句、骨盤の4〜8ヵ所に針を刺し、20〜30回の吸引作業を行うことになるわけだ。しかも「痛みが伴なう」と予め宣告されるのだから、不安にもなるものだろう。
「それはね、不安もありましたよ。怖いとも思いました。全身麻酔って、なんだか危険があるらしいし。入院しなきゃダメだっていうし。でも、彼が私の弟だったらって考えたの。ユウタ・シンジョウが私の弟で、それでドナーがいなかったら? 私はキンダーガーテン時代にまで遡って、卒業アルバムに載っている人たち全員に片っ端から電話をかけまくる。そして、ドナー登録してくれって頼むでしょうね。それに必要となれば、私の貯金でよければだけど、全部あげちゃうわよ。愛してる人のためなら、そうまでしてでも何とかしたい筈よ。きっと。
 彼の両親も同じ気持ちで、ようやく私に巡り合えたんだわ。それ考えちゃうと、不安だとか怖いとか言ってられないじゃない? 私はこの世界にたった1人、人類で唯一、ユウタ・シンジョウの命を救える人間なんだから。それを見捨てるのは、私の考えだと、私が彼を殺すこととそんなに違いはないから」
 その後、実は1番不安に思っていたのは生理のことだったと、彼女は少し恥ずかしそうに語った。
 何でもタイミング悪く移植の日と生理が重なってしまったとかで、これが原因で提供ができなくなってしまったらと危惧していたらしい。

「コーディネーターは男の人だったから。ちょっとね……? だから、入院した時に看護婦さんに打ち明けたわ。そしたら、全然問題ないわよって。笑顔でそう言われた時は心底ホッとしたわ。やっぱり、病院には女性のスタッフがいないと困るわよね。ドクターだって女の人の方がいい。幾ら病気だからって、男の人に身体を見られたり触られたりするのはイヤだもん。その点、私はラッキーだったわ。骨髄移植スタッフのほとんどが女性だったし、主治医のヴァレリィ先生は白髪のおばあちゃんドクターだっから。お尻を見られても平気よ。男のお医者さんは怖いから嫌い。それは、怖い顔の看護婦さんとかもいるけどね」
 年頃の女の子である彼女には、『全身麻酔』という馴染みのないものに対する恐怖より、ちょっとした身近な問題の方が大きな心配の種として扱われたようだ。
「色々言われるから、逆に想像を勝手に膨らませて怖がっちゃうけど……要するに、骨髄移植って輸血の上級版みたいなものかしら。ホント、私にとっては『献血がちょっと大袈裟になった』って感じ以外の何物でもないわ。腰の注射の跡も、大抵の場合は時間が経てばキレイに消えちゃうんですって。でも、見せてあげないわよ」
 そのジョークに、メグミ・プレンティスは自分で声をあげて笑って見せた。
 彼女のこの明るさは、神城家にとっても大きな救いとなったようだ。移植と聞いて即座に連想してしまう重く暗い雰囲気を吹き飛ばすような彼女の元気は、間違いなく当事者たちの精神にプラスの影響を与えるものだった。
 ひとり日本に残り、息子の移植の無事成功を祈っていた神城ケンタも後にこう告げている。
「僕は英語が喋れませんし、仕事もありましたから日本に残りましたが、言葉は分からずともTV中継で私に明るく語りかけてくれる彼女の存在は、本当にありがたいものでした。何度でも必要とされる限り骨髄提供に協力する。だから、安心してよくなってほしい。その言葉を、僕はTVの前で泣きながら聞いていました。彼女には感謝の言葉もありません」
 だが、今回は理想的に事が上手く進んだという極端なケースだ。全ての骨髄移植がこのように円滑に進み、全てのドナーが積極的な態度でこれに挑むとは限らない。むしろ何かの悶着が発生する例の方が、圧倒的に多いだろう。事実、 <T3CH> にいた頃のユウタ少年の主治医であった森緒医師は言う。
「日本における骨髄移植で、ドナー側の最大の問題となるのは家族の同意です。はっきり申し上げて、家族や親類から猛反対を受けて提供を断念しなくてはならなくなった、というケースが他国と比較して多すぎます。これは明らかな問題でしょう。ドナーの両親や親類たちは、往々にして <骨髄移植> に関しての十分な知識のないまま、自分のイメージでこれを拒絶します。移植という言葉に生理的な嫌悪感を示したり、骨髄と脊髄を混同して勝手な危険性を想像し、これに難色を示すのです。こういった一方的で無知な反論で、ドナーの意思が無碍にされてしまうのは医師としても非常に残念なことです」

 この家族の反対に、ドナー候補たちは長い間悩まされてきた。ドナー候補自体は色々と学び、骨髄移植が患者の命に直結してくるという重要性を良く理解するようになるが、彼らの家族や親戚はそうではない。
 森緒医師は、特に日本ではその傾向が顕著に見られると言う。
「反対する人間の中には無知・無関心は美徳と思っている者が多いので困るのですが、反対するならキチンと内容を理解してからにして欲しいものです。『骨髄を提供するのか。でもお前が脳死の場合じゃないと駄目なのだろう』『骨髄? 失敗して傷付いたりしたら一生動けなくなるんじゃないのか』『それで、どこの骨を切り取るんだ』『なぜ、お前でなくてはならないのだ。他の人に任せておけば良い』……全ては、最初から知ることを拒み、先入観から勝手に拒絶する人間の言葉です。そして私が見てきた限り、この手の輩は非常に多い。大多数を占めます」
 更に森緒医師は、この先入観からの無知な拒絶の姿勢こそが、医療の世界での差別を生んでいると指摘する。
「知ることを放棄して、自分勝手なイメージを正さないままそれを否定する。多くの人は気付いていませんが、この姿勢こそが差別を生んでいるのです。私は彼らに問いたい。自分の子供が骨髄移植が必要なほどの難病に倒れ、なおかつドナーが見つからないという状況に追い込まれた時、果たして知りもせずに頭から拒絶する人々にどんな感情を抱くだろうかと」
 彼女は、ドナー登録をしない人間や骨髄提供を拒否する人間を責めたてているのではない。十分に理解した上で、それでも協力できないのならば、それは仕方がないと言う。だが何も知らず、また知ろうともしない人間が、賛同者の意思を挫くことについて憤りを感じているのだ。
「そして、彼らなのです。白血病の患者に対して差別を行い、偏見の視線を向けるのは。白血病の患者の多くは完治して社会復帰した後も多くの場合、差別を受けます。エイズの時と同じように、近付くと病気が移るなどと見当外れも甚だしいことを考える者もいます。1番多いのは、縁談の破談です。家族の中に白血病の患者がいたという理由で、全てが流れるのです。
 周囲の態度が突然変わる、無視される、遠巻きにされる、職場で孤立させられる。冗談ごとではなく本当にこれらはザラに起こっています。学校で苛められる元患者の子も大勢います。事実、ユウタ君だってその傾向にあります。私や病院のカウンセラーは、こういった差別に苦しみ、涙を流しながら相談をしに来る患者家族をそれこそ何千人と見てきました。だからこそ、やるせない怒りを覚えるのです」
 これまで何度かのインタビューや取材で、記者やレポーターたちは、森緒医師がいつもクールで静かな医師であるというイメージを抱いていた。だが、この時の彼女は自分の感情を隠す努力を、敢えて放棄しているように見えた。
「無知は時に罪にもなりえることを知ってほしい。そして彼らには、その適当な反対の声で、提供の意思を持つ1人のドナーを潰すことが、何を意味するのか真剣に考えていただきたい。私は現場で実際にその差別を目撃し続けてきた人間の代表として、声を大にしてそう訴えたいのです」


■骨髄移植後
 王立フリー病院 無菌病棟


 骨髄移植が行われてから、ユウタ少年は感染からその身を守るために、再び完全無菌室に隔離された。
 今、彼の体内ではメグミ・プレンティスから貰った骨髄が、その身体に根付こうと必死の格闘を繰り広げているはずだ。骨髄移植の場合は、GVHDと呼ばれる一種の拒絶反応が最大の問題となってくるが、これらの障害を乗り越えて、メグミの骨髄がユウタの身体に受け入れられると、移植はほぼ成功となる。
 その目安となるのが、医師たちが <生着> と呼ぶ反応だ。
 これは、ドナーの骨髄が拒絶反応を乗り越えて患者の身体に宿り、無事に新しくて正常な血液を作り出すことである。
 生着の最初の徴候は、移植が行われてから約2週間後に見られる。これが確認されると一安心だ。その後、白血球は増えつづけ、血小板の生産も始まる。ユウタは無菌室を出て一般病棟に戻れるだろう。さらに養生を重ね、免疫抑制剤の量を少しずつ減らしていき、大体100日の間順調な経過を辿れば、患者は退院となる。待望の社会復帰だ。
 その未来は、間違い無く訪れるものと誰もが確信していた。
 何故なら、メグミとユウタの相性はまるで双子のようにピッタリで、移植後の反応も担当医が驚くほどに良好なものだったからだ。

 移植から約1ヶ月後の5月5日。
 神城ユウタは、満8歳の誕生日を一般病棟のベッドの上で迎えた。メグミ・プレンティスの協力がなければ、或いは「訪れることがない」とまで言われた記念すべき誕生日だ。この日は、日本から父ケンタも駆け付け、息子のメモリアル・バースデイを家族と共に祝った。
 まだこの時点では、メグミとユウタの対面は許されていなかったが、TVのインタビューを通してメグミの祝福のメッセージも彼らの元に届いた。
「ハッピーバースデイ、ユウタ。病室でのパーティ、ニュースで見たわ。経過は順調みたいね。凄く嬉しい。この調子でがんばってね。絶対よくなるわ。そしてきっと、あなたは <チルドレン> にだってなれるに決まってる」
 彼女は英語しか喋れなかったが、母の通訳でユウタは彼女の想いを受け取った。そして「メグミお姉ちゃん、こつずいくれてありがとう」というユウタのお礼の言葉は、メグミを飛びあがって喜ばせた。彼女は、自分の骨髄が彼の命となった事実に実感を持ったのだ。
 骨髄提供を断ればそこにいなかったはずの少年が、TVカメラ越しにではあるが自分に微笑みかけている。これを彼女が喜ばないはずが無い。全てはディスプレイ越しのキャッチボールではあったが、命をやりとりした両者にはそれでも十分過ぎるコミュニケーションだった。
「こんなに嬉しい事ってないわ。私が助けたなんてことは言わない。でも、彼が生き延びるチャンスが私の骨髄から生まれたのよ。他の誰にもできないことを、私は何処か誰かのためにできたんだから。もちろん、ただ運が良かっただけってこともあるけど――でも、これは誇ってもいいことよね」

 骨髄提供に、人間としての誇りや幸福感を感じるのは、なにも彼女が珍しいケースではない。1987〜1990年の3年間で、のべ493人のドナーに行われたNMDP(全米骨髄バンク)によるアンケートでは『骨髄提供後、自分をより良き人間と感じるか?』という問いに71%の人々が「YES」と答えている。
 また、『骨髄提供が期待したより感動的だった』と答えたのは移植直後で45%、1年後で60%。『移植を考えるとき、非常に誇りに思った』と答えたドナーは66%。そして『もう1度骨髄提供を頼まれたら?』という問いに、実に91%のドナーが「再度提供する」と答えている。
 これらドナーの反応や心理的影響の研究は今も大きな注目を集めながら進められていて、現在までのところでは、骨髄提供したドナーは幸福感を得るという結論がだされている。(参照=NMDP骨髄提供者のアンケート調査

「正直に言うとね、私はドナーとか骨髄移植とか、そんなの全然興味なかった。もし <チルドレン> がTVで頻繁に訴えることがなければ、私は耳を傾けなかったはずよ。だって、前から骨髄バンクって聞いたことあったけど、登録するなんて考えたことすらなかったもの。元々、ボランティアに積極的に参加するっていうタイプじゃないですしね。私は」
 メグミ・プレンティスはそう正直に語った。要するに、今回の骨髄提供は気紛れやミーハーが生んだものであり、偶然の産物に他ならないことを自ら認めたのである。
 確かに、一般人が骨髄ドナー登録をするためには、何らかの大きな切っ掛けが必要なケースが多い。彼女の場合は、たまたまそれが <チルドレン> であったというだけのことだ。
 だが、偶然にせよ幸運にせよ、それで神城ユウタの命にチャンスが生まれたのは確かである。彼女は今、その事実を多いに喜んでいた。
 そんな彼女が最も大きな歓喜の声を上げたのは、神城ユウタ「退院」のニュースを聞いたときだった。 移植から約3ヶ月半が経過した、2018年7月12日のことである。
 この日、ユウタ少年は遂に退院を許された。彼の体内に根付いたメグミ・プレンティス提供の骨髄は、順調に綺麗な血を生産しつづけ、少なくとも今のところはユウタの健康を維持してくれていた。医師団はこの状態が今後も長く続いてくれることを祈りつつ、彼を送り出した。
 もちろん退院の日、病院の正面玄関には500人を超えるリポーターとカメラマンが詰めかけ、元気な姿を見せ退院していくユウタ少年の姿を全世界に中継した。 <チルドレン> を夢見る白血病の少年、ユウタ・シンジョウを応援していた全ての人々は、TVの前で手を取り合ってこの最高のニュースを喜び、分かち合った。


■2018年 7月
 ロンドン ウェストミンスター地区


 まるで天使が守護にでも付いたかのように、こと骨髄移植に関して、神城ユウタは理想的な経過を送っていた。ドナーであるメグミ・プレンティスはこれ以上ないというくらいに協力的であったし、王立フリー病院の骨髄移植専門スタッフと言えば、世界一の呼び声も高い超一級の医師たちだ。
 それに、患者であるユウタ少年自身が非常に若いということもあって、生着後も移植された骨髄は非常に良い反応を見せていた。
 だが、順調であったのは、あくまで技術的な面での話である。
 退院後、神城ユウコとユウタは王立フリー病院から3ブロック程離れた安いアパートに落ち着き、何かあった時は、すぐに病院で診てもらえるような態勢を整えていた。
 王立フリー病院では、ソーシャルワーカー部門を通じて、移植センターに近い場所に患者と家族のための宿泊施設を世話している。神城家もそのサービスを受けたわけだ。
 そうした生活は日本への帰国が許されるまで6ヶ月続いたわけだが、その間、ユウタ少年は得体の知れない不安感や恐怖心に苛まされて続けていた。これまでは、まったく持ちあがることのなかったメンタル面での問題が、ここにきて急浮上したのである。
 王立フリー病院のカウンセリングを専門とする医者によれば、これは移植後の患者に良く見られる症状だという。
「白血病が不治の病でなくなってから、我々医師の関心は、白血病が患者やその家族に及ぼす心理的影響に移り始めました。そして今日では研究も進み、その成果で色々なことが分かっています。たとえば、ユウタ君が抱えている不安や正体不明の強迫観念。これは移植を経験した子供たちの多くに現れるもので、外傷性ストレス症候群(PTSD)によく似ているという報告があるのです」
 日本では「外傷後ストレス障害」とも言われるPTSDだが、これは要するにトラウマ(精神的な傷)の一種だ。事故や家庭内暴力、性的虐待、自然災害などといった、本人の生命・身体にかかわる経験が心の傷として残り、これが元で悪夢を見たり、反復的に再体験(フラッシュバック)したりしてしまうのである。
 具体的には、ユウタの様に長い闘病生活で様々な苦しみや恐怖を味わった患者、オウムのサリン事件や性的虐待および阪神大地震の被害者、アメリカではベトナム戦争からの帰還兵、湾岸戦争の経験者などにこのPTSDの症状がよく見られる。
 要するに、最も忘れたいと思っている辛い過去が、悪夢や記憶のぶり返しといった形で頻繁に甦り、その人の心を痛めつけるタイプの苦痛。これがPTSDだと考えればいい。
 ユウタは4歳の誕生日から、もう4年以上も白血病と戦ってきた。40度を超える発熱、1日に10回も訪れる吐き気、下痢、関節痛、薬の副作用による様々な苦痛。骨髄穿刺、腰椎穿刺といった強烈な痛みを伴なう検査、嘔吐したくなるほどに不味い薬。物理的な苦しみだけではない。孤独、不安、悲しみ、恐怖といった心の苦痛。
 ユウタは、8歳の少年が経験するにはあまりにも過酷な痛みと苦しみを、絶えずその身に抱えてきたのだ。幾ら気丈に振る舞って見せても、やせ我慢を続けていても、その心には目に見えない深刻なダメージが刻み込まれている。

「ユウタを見ていると、時々、胸を締め付けられるような痛みを感じます。まだこの子は小学生になったばかりなのに死と常に戦い、それに疲れ果てているのです。心も身体も、もうボロボロになっていることがふとした瞬間にハッキリと悟れるのです。8歳です。また小学2年生なんです。そんな小さな子供が、生きることに疲れ果てているんです。一体、ユウタがどんな悪いことをしたのでしょうか。あんまりです。あまりに酷すぎます」
 神城夫人は、心底辛そうにそう語った。確かに骨髄移植の予後は順調だ。だが、彼らの闘いはまだ終わっていない。王立フリー病院での定期検診は欠かせない状態にあったし、ユウタの精神状態も落ち込んでいる。
 何より、まだ完治が宣言されたわけではないのだ。
 理論上、骨髄移植が終わって5年間白血病が再発しなければ、一応の完治と見なされる。だが逆に言えば、5年経ってみないと白血病に本当に勝利したかどうかは判別できないのだ。
「私たちはすでに1度、再発を経験しています。最初に寛解を告げられた後、治ったと喜んだのも束の間、今度はもっと難解で強力な白血病がユウタを襲いました。骨髄移植が終わって退院はできたものの、私たちはその経験があるからこそ、未だに心から安心することができずにいるのです。この微妙な心理状態は、5年後に完治とドクターに太鼓判を押していただくまで、決して消えることはないでしょう」
 それは辛い精神状態だった。5年という時が、あまりに遠く果てしなく感じられる。
 時が過ぎるたびに「完治まで近付いている」という安心と、「また再発するのでは」という恐怖と不安が責めぎ合う。気の休まる時は、一瞬たりともない。神経をすり減らしながら、ただ神城家の人々はユウタの経過をじっと見守るしかない。
 それ故だろうか、神城夫妻にとってユウタの身体から白血病が消えている今この時が、とてつもなく貴重な一時であるように思えてならなかった。


■移植から6ヶ月後
 2018年 10月


 移植が終わり退院した後も、患者は外来通院として検査を怠ることができない。GVHDと呼ばれる拒絶反応が出ないか、白血病が再発しないだろうかと、血液の状態を常に監視しておかなくてはならないのだ。
 しかし、そんな検査の間隔も、移植後の時間経過に従って大きく長くなっていく。最初は週に2回の通院だったのが、週1回に。そして半月に1回から月に1回。3ヶ月に1回から半年に1回へ。診察と検査の回数が減るに従い、「治ったんだ」という淡い期待が患者家族の間で徐々に強まっていく。
 そして、10月の7日。ユウタは、ついに日本に帰国することになった。
 移植から既に半年。ここまで来ると、なにも王立フリー病院に居座る必要もない。彼は父の待つ第三新東京市に戻り、故郷の落ち着いた環境で養生に専念することとなった。
 ユウタ少年自身も、この決定を大いに喜んだ。何故なら、日本には <チルドレン> がいる。彼は第三新東京市に戻れば再び <チルドレン> に会えるのではないかと期待に胸を膨らませていた。
 その <チルドレン> たちは、ユウタ少年のドナーが見つかった後も、学業に専念する側で精力的にボランティア活動を継続していた。
 ユウタのような少年少女を勇気付けるために、小児ガンで苦しむ彼らの病院を巡り、その小さな手と握手を交わした。今だ浸透しきれない <骨髄移植> や白血病の知識について、TVでも引き続き語りつづけた。財政難に苦しむ骨髄バンクのため寄付金を募る運動も行ったし、チルドレングッズを専門に扱うチェーン店を展開し、収益を小児ガンで苦しむ子供たちに奉げた。
 彼らももう高校3年生である。卒業後の進路の問題など、色々と大変な時期ではあったが、それでも白血病患者との出会いは彼らにとって、非常に良い刺激となったようだった。
 特に惣流・アスカ・ラングレーは、卒業後の進路を医学方面に絞ることにしたらしい。今回の件や、赤木博士との話の中でこの分野に大きな興味を抱いたのだろう。夢は、医院運営論も学び、アスカ印の巨大な病院を経営することだそうだ。
 日本では、医院の運営を特別視することはないが、欧米に行くと病院の運営・経営にも特別なプロフェッショナルが存在するのだ。

「別に、白血病の医者になろうだなんて思ってないのよ? それは別として、今度のことで医学の面白いところが色々分かったってこと。日本の大学ってのも興味あったから、あんたと同じところに行こうかと漠然と思ってたんだけど、ドイツに帰って医学を一から学んでみるのも面白いってね。そうだ、シンジも一緒に来る? ドイツは良いところよ。私の故郷だけあってね」
 アスカのいきなりの提案に、碇シンジは大層驚いたそうだ。彼は彼女と一緒にドイツに行きたがったらしいが、NERVの方から「待った」がかかって、結局は断念することになったらしい。
 それもそうだろう。『零号機(レイ専用機)』と『弐号機(アスカ専用機)』は大破し、稼動可能なエヴァンゲリオンは『初号機』が現在のところ唯一の存在だ。その専属パイロットである碇シンジが外国に行ってしまうとなると、NERVとしては非常に困ったことになる。なにしろ、エヴァを使った起動実験やシンクロテストは完全にストップだ。
「それは、こっちとしても困ったわね。こうなったら、リツコに弟子入りしようかしら」
 冗談とも本気ともつかない口調で、アスカは呟いたという。
 もちろん、これを聞きつけた葛城ミサト将捕に「そんなにシンちゃんと離れたくないの?」と散々からかわれたのは言うまでもない。

 ――さて、日本に帰国した神城ユウタだが、彼もまた進路について考えることになった。
 NMDPが纏めた資料によると、「移植の後、少なくとも6ヶ月間は職場及び学校への復帰を予定するべきでない」という。経過によっては症状の観察を行うため、あるいは感染症やGVHDの治療のために入院期間が延びることや再入院することが、決して珍しいケースではないからだ。
 だが、ユウタは既に骨髄移植のための医師団から帰国を許され、しかも移植後6ヶ月を無事に経過した患者だ。社会復帰を具体的に考えてもよい時期だった。
「結局、ユウタの強い意思もあって、あの子は小学校に戻りました。たとえ誰も友達がいなくても、長い入院生活でベッドの上から身動きできなかったユウタにとって、ピカピカのランドセルを背負って学校に行くことはひとつの夢だったのです」
 ユウタは自分がクラスメイトたちに快く思われていないことを知っていたが、それを母親には隠し通すつもりでいた。もし「みんなに嫌われている」という事実が知れたら、学校に行かせてもらえなくなるかもしれないと恐れたからだ。
 だがもちろん、彼の母親は、息子が学校でどんな扱いを受けているのかを正確に把握していた。ユウタのクラス担任が、特殊な事情を抱えた少年に常に気をかけていたからだ。
 その教師は32歳の若い男性であったが、豊富な経験をもつ優秀な教育者だった。
「神城ユウタ君は、あきらかに異質な存在でした。容姿は確かに他の小学2年生と変わりませんが、その精神はずっと先を行っていました。まるで、6年生の子が低学年の教室に迷い込んで来たかのような感覚です。もともと頭の良い子であり、しかも精神年齢が闘病生活で不要なまでに高まってしまっていました。これらの要素が絡み合い、彼は独特の個性を形成してたのです」
 彼は教師として8年間、色々な学年の小学生を指導してきたが、ユウタのような子は初めてだったと語った。
「だからこそ、ユウタ君が不憫でした。1〜2年生くらいの子供は、相手が白血病であることなど全く考慮できません。TVで騒がれている、学校を休みがちな変な奴としか思えないのです。加えて、その個性から彼はクラスで否応なく孤立した存在になってしまいます。それでも何人か仲良くしてくれる子もいますが、クラス全体の雰囲気は実に冷たいものです。8歳の子が、まるで15歳の子のように大人びた話し方をする。教師でも、どこか気味悪がる者がいたほどですから」

 精神年齢の高さは、知能の高さだ。特に、幼少期にその差は歴然と現れる。普通の子の半分も授業を受けられなかったユウタだったが、彼はそれでも楽々と授業に付いてきた。成績はずば抜けてよく、むしろ今までできなかった勉強を楽しんでやっていた。明らかにイジメの色を含んだ視線に苛まされつづけたが、それでもユウタは学校が好きだったのだ。
 同じ年齢の友達が一杯いて、机を並べてみんなで勉強する。お昼になると掻き込むように給食を平らげ、我先にとグラウンドに飛び出して、ドッジボールやサッカーをして遊ぶ。
 誰も理解できないであろうが、4年もの間病院のベッドの上でこの日常に憧れていた神城ユウタは、そのありふれた時間がどれほど貴重なものであるか、まさに死ぬほど知っていた。
 だからどんなに邪魔者扱いされても、嫌いだと言われても、学校が嫌いになれるはずがなかった。


■2018年 12月25日
 クリスマス 聖誕祭
 ジオフロント NERV本部


 日本に帰国してからというもの、神城ユウタは、今まで入院していた4年分を取り戻そうとするかのように、元気に遊びまわった。
 学校にはできるかぎり毎日行ったし、冬休みに入ると、アメリカのディズニィワールドで3日間遊び尽くした。静岡のおばあちゃんにも会いに行ったし、家族で野球の試合も見に行った。
 そして、その年のクリスマスの日、ユウタは皆から最高のプレゼントを貰った。NERV本部で行われた、クリスマス・パーティに特別に招待されたのである。
 パーティ会場に指定された、ジオフロントにあるNERV本部の巨大ホールはスタジアムのように広く、豪華な飾り付けが施されていた。
 会場の中央には、ホールの何処からでもハッキリと見える高さ30メートルの巨大クリスマスツリーが煌びやかな光を放ちながら真っ直ぐに立っていたし、奥の特設ステージではNERV職員のバンドが賑やかな歌を楽しげに歌って、場を盛り上げていた。
 もちろん、ユウタ少年と彼の両親は再び <チルドレン> 3人と再会したし、イギリスから遥々招かれたドナーのメグミ・H・プレンティスも姿を見せ、ついに両者は感動的な出会いを果たした。
 特にメグミは、やっと出会えた義理の弟との出会いを大いに喜んだ。挨拶を交わした瞬間、彼女はギュッと強くユウタを抱きしめて、そのプクプクしたホッペにキスをした。彼女らしい、感情にストレートな反応である。
 対して、日本ではあり得ない種の手荒い愛情表現を受けながら、ユウタは何事が起こったのかキョトンとしていた。いきなり抱きしめられるなど、初めての経験なのだ。
 そのユウタの表情がまた可愛らしくて、メグミは楽しそうに笑っていた。
「ユウタくん、可愛かったわ。目がくりくりしててウサギみたいなの。ああ、持って帰りたい。ダメかしら?……ダメよね。またイギリスに来てくれるといいんだけど。それより、髪の毛また生えたみたいで良かったわ。ちょっとパーマがかかってたけど、あれって天然かしら。いえ、これもどうでもいいことよね。それはともかく、彼に実際に会うと不思議な気分がしました。私の骨髄がなければ危ないところだった人が、実際に目の前で元気にしてるんだから」

 このクリスマス会場には、招待されたプレンティス一家と神城一家を除いて一般人の出入りは禁止されていたが、それでもメグミとユウタの出会いの模様は、NERVのTV中継で世界の人々に発信された。
 7歳の白血病の少女ブルック・ウォードとドナーである49歳の女性ダイアン・ウォルターズとの劇的な出会い――その筋では <クリスマスの奇跡> として有名だ――の模様が、1989年にTVで放映され世界中に話題を振り撒いたことがあるが、今回の患者とドナーの対面も非常に感動的なものとなった。
 ただ、これがあくまで非常に稀なケースであることを忘れてはならない。もし、メグミ・プレンティスが <日本骨髄バンク:JMDP> の仲介で発見されたドナーであったら、恐らく2人の対面はあり得なかったであろう。厚生労働省の審議会は、患者とドナーは絶対に会わせないという方針を日本骨髄バンク設立当初から頑ななまでに守り通してきたからだ。
 彼らは、過去に一度決めてしまったルールは、どんなに社会状況が変化しようと医療体制に変革が訪れようと、変えることを検討しない。検討したにしても、慎重論を先行させがちだ。メグミがNERVとアンソニィ・ノーラン研究所の協力で発見され、移植自体もイギリスのルールに従い、日本の骨髄バンクを一切介さない形で行われたから、今回JMDPは2人の出会いを阻止することが出来なかっただけのことである。
 日本に帰ってきたユウタの主治医を再び勤めることになった、 <T3CH> の森緒アヤコ博士も、かつてこの日本骨髄バンクの腰の重さに苛立たされた経験をもつ人間の1人だ。

「白血病に有効な治療の1つに、 <ドナーリンパ球輸注:DLT> というのがあるのですが、外国では旧世紀から一般的に行われているこの治療も、日本では行えない時期があったのです。1999年の3月23日、我々一部の医者の勧めもあって、ある患者が1通の要望書をJMDPの理事会に提出しました。内容は、患者自らがDLTを考える事態となっており、実施を希望している。DLTについての議論がかなり以前から進行しておりながら、いまだに実行に移されていないのは正当化できない遅延である。ただちにDLT解禁に必要な作業を終えられ、これの実施を開始されるよう強く要望する――といったものでした」
 確かに骨髄移植推進財団は、1998年の6月の理事会でDLTの実施を決議している。しかし、1年近く経過したその時点でなお、現場での実施について具体的な方策が出ていない状況にあった。患者や医師たちが怒りの声を上げるのも無理はない。1年とは、白血病と戦う者たちにとって、あまりに重く長すぎる時間なのだ。
「そして、その要望書にはこうも書き記されていました。理由なくDLT実施のための作業が遅延しているのは不作為の罪にあたる恐れがあり、患者の生存権を脅かしている可能性もある。ただちにDLTの実施が行われない場合は、訴訟など法的な対応を含めて検討したいと考えている。――財団上層部は、患者に「不作為の罪」「生存権の侵害」を指摘され、訴訟をチラつかされる段階に至って、漸く腰をあげることになったのです」

 法や制度というものは、時代の流れに対して常に後手に回るものだ。それが宿命と言ってもいい。だが、その中でどれだけ迅速で柔軟な対応ができるか。特に人の命をやり取りする <骨髄バンク> と関係省庁には最も必要とされる要素であった筈だ。
「過去にあるルールを決めてしまったが最後、彼らはそこで考えるのをやめてしまう傾向にあります。確かに、ルールを頻繁に変えていてはそれ自体に意味がなくなります。これが難しく微妙な問題であることは、我々にも良く分かっているつもりです。しかし実際に制度の不備で患者が亡くなっていくのを見せ付けられる私たちには、絶え難いものがあることも確かなのです」
 神城ユウタとメグミ・プレンティスの出会い、そして彼らが見せた会心の笑顔は、JMDPにも何かを考える良い切っ掛けになり得るのではないか。森緒医師は、そう期待していた。
 骨髄移植を巡る闘いに、ユウタは現在のところ優勢を維持している。だが、森緒医師にとって彼の存在は患者の1人でしかない。彼女はまだ何人もの小児ガンの患者を抱え、そしてこれからも新しく現れるであろう患者と共に戦わねばならない。
 だからこそ森緒医師はユウタの成功を喜びつつも、大局を忘れず常に将来を見据えている。
 そうしてまた1人患者を社会に復帰させ、その後ろ姿を見送った後、彼女は静かに戦場へと帰るのである。
「患者の戦いは、病の完治と共に終了します。ですが、私たち医療に従事する者は決して忘れてはなりません。すなわち、我々の戦い終わりはないということをです。この世から全ての病が無くなるその日まで、永遠に終わらない戦いに挑み続けます。それが、私たち医療のプロフェッショナルに科せられた使命なのです」


■2019年 1月20日(日曜日)
 第三新東京市  <T3CH>


 その日、神城家はこの世で最も恐れていた出来事に遭遇した。
 骨髄移植から約10ヶ月。ユウタ少年の両親はここ最近、息子の健康状態があまり良くないことに気付いていた。血色が悪く、疲れたようにほとんど身動きしない。学校も2日連続で休み、食欲は無いに等しかった。
 極めつけは4日前、定期検診のため病院にユウタを連れて行ったその翌朝のことだった。ユウタは目覚めると、枕に少し血を吐いていた。
 何かが起こり始めている。そう気付くには十分過ぎる予兆だった。
 そして電話が入った。ケンタが受話器を取ると、電話の相手の声は、ユウタの主治医であるドクター森緒だった。彼女は事務的な口調で、要点だけを簡潔に述べた。すなわち、こうである。
「先日の検査の結果、ユウタ君の血液に異常が見つかりました。輸血の必要もあるので、至急 <T3CH> に連れて来て下さい」
 信じたくはなかったが、ケンタにはドクターの言葉の意味が分かっていた。電話の内容をユウコに告げると、彼女は一瞬で蒼白となり、そして声を殺して泣き崩れた。
 本当はケンタを小脇に担ぎ、全速で病院に連れていきたかった。だが、ユウタは頭が良い。こんな中途半端な時間に、突然「病院に行こう」と告げたら何かを悟られる可能性がある。だから夫妻は相談し、病院に連れていくのは翌日にすることにした。
 いつも病院に行く時間に家を出て、いつもの検査と思わせる態度で病院に運ぶ。もう、それくらいしかできることは思い付かなかった。

 翌日、神城夫妻は持てる演技力をフルに発揮して平静を装い、ユウタをお馴染みの <T3CH> に連れていった。彼らの試みは一応のところ成功したらしく、ユウタは具合が悪そうにしている以外は、普段と変わらない様子だった。
 小児ガン病棟に着くと、既に森緒医師が検査と血小板輸血の用意を整えて待っていた。検査には十分な時間が掛けられた。固唾を飲んで結果を待ちわびる神城夫妻にとって、それは永遠にも感じられる時だった。
 やがて、ユウコとケンタは個室に呼び出された。ドアを開けて中に入ると、そこには森緒医師が待っていた。その表情は、かつて無い程に厳しいものだった。彼女は言った。
「検査の結果、ユウタ君は再発していました。急性骨髄性白血病です。もう手の施しようがほとんどありません。ドナーリンパ球輸注という方法で延命はできます。もしかするともう1度くらいは寛解まで持っていけるかもしれません。ですが、これまでユウタ君と同じケースの患者は例外無く再々発しています。統計的には、寛解導入率は30%。ですが、その後100%が再発して亡くなっています」
 それはつまり、 <ドナーリンパ球輸注> では再発の小児AMLを治すことは出来ないということだった。しかも、死を先に引き伸ばす時間稼ぎにしかならない。
 ユウコとケンタは、頬を伝う涙を隠そうともしなかった。そして、再度の移植は考えられないのかと訪ねた。
「骨髄移植を終えてから1年以内の発病で、再度の移植をしても効果はありません。再度の移植をやったケースはありますが、あくまで成人の例です。そしてそのいずれもが完治に至っていません。成功の確率は過去の実績ではゼロです」
「……ユウタは死ぬんですか」
 暫くの沈黙のあと、ケンタは訊いた。森緒医師は、一瞬目蓋を閉じた後、ゆっくりと言った。
「人類の知る医学と我々医師の手では、もうユウタ君を救うことはできません」



to be continued...


note

注1:骨髄移植について
 医師か骨髄移植を経験した方以外は気付きはしないでしょうが、本編中 <骨髄移植> のシーンについて一部奇妙な部分があります。つまり、ドナーが見つかってから実際に移植が行われるまでの時間が極端に短いのです。
 これは物語の舞台が2018年と15年以上の未来であり、その間に医療技術が発達しているであろうこと、それから物語上の都合を考慮した結果です。2001年現在の日本であればドナーが見つかってから実際に移植が行われるまでは、数ヶ月はかかると思ってください。
補足1:日本骨髄バンクは、コーディネート開始から移植までを平均約200日としています
補足2:緊急コーディネートという方法では、最短で3ヶ月で話を纏めたケースがあります
補足3:1,2ともに、国内での話です。海外では更に短期間で話を纏めたケースがあるでしょう


注2:骨髄移植について
 骨髄移植を受け退院した後のユウタの精神的・心理的な反応は、1994年にAMLで実際に骨髄移植を受けた『チャイルドB(ジェイミー・ボウィン)』のケースを参考にしています。
これに関しては『JAYMEE:The story of Child B: Copyright 1996 by Sarah Barclay. Japanese translation rights arranged with Sarah Barclay. c/o A.P.Watt Limited,London through Tuttle-Mori Agemcy,Inc.,Tokyo. (c)Yoshiko Yamamura,Printed in japan,1998』の内容をほぼそのまま当て嵌めています。

注3:DLTと骨髄移植推進財団
 本編中、森緒医師の口から語られるDLT関連の財団とのやり取りは実話に基づきます。今から手に入るかは分かりせんが、これに関しては「東京の会通信」第84号(1999年4月号)の記事を参考にしています。ちなみに、日本で <DLT:ドナー・リンパ球輸注> が正式実施されるようになったのは2000年の1月からです。

<< 目次  Copyright 2001-2004 Project "MS4U" by Hiroki Maki, O.I.B.  次頁 >>