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第四章「少年の夢」


■12月26日 深夜
 神城家子供部屋 ユウタ寝室


 ファーストチルドレン綾波レイは人間ではない。少なくとも生物学的には、そう判断される存在だった。
 彼女の出生の謎を知る人物は数少ないが、それでもシンジを含める一部の者は彼女の正体を知っている。確かに彼女の遺伝子を調べれば、その99.89%までが人間のそれと合致するだろう。だが残りの0.11%が、彼女の存在をある意味で異質な者として存在させていた。
 綾波レイは、使徒と人間の間に生まれたクローンなのである。彼女は既に2度の死を経験し、その度に身体を乗り換えた。今は3回目の人生を送っている。3度目にして、最後の人生を。
 ファーストチルドレンは、無言で傍らに眠る碇シンジと神城ユウタを見詰めていた。既に彼らは深い眠りに就いている。
 神城夫妻の了解とNERVの許可を得て、彼女とシンジはこの夜を神城家で過ごすこととなった。時刻は既に午前4時を回っている。1時間ほど前まではシンジも起きていたのだが、今では彼女の隣で静かな寝息を立てていた。
「ユウタは助からないでしょう」
 ふと、ユウタの両親の言葉が脳裏を過ぎった。助からないということは、つまり死ぬということだ。
 レイは思う。死――。人はこれを本能的に恐れる。だが命に果たして意味はあるのだろうか。特に人間になり損ねたような、自分の命には。
 かつては、死を超えた『無』に憧れた彼女である。この世から消滅することを自ら望んでいた少女である。まだ命の価値を計り知ることができないのも無理はない。
 掛け替えのないものと言うのなら、それは彼女にとって全ての存在がそうだ。道に転がる石ころだって、究極的に言えば人間は生み出すことはできない。人間が「生み出す」「創造」と呼ぶ行為は、この世に予め存在する材料と反応を用いて、その状態を変化させるだけのことだ。無から何かを創造する能力を人間は持たない。何故なら、これができる存在を人間は神と呼んできたのだから。その意味で、綾波レイにとっては人命も道端に転がる砂利も、そう大した価値の相違はなかった。
 失われたら戻らない。かといって、自ら生み出すことも出来ない。どこが違う。風に流されて転がる石ころが消滅することと、人の命が消え去ることにどれほどの違いがあるのか。彼女には理解できなかった。どう考えてみても同じだ。そう思っていた。
 だが、その考え方にちょっとした変化をもたらした人間がいる。それが今、彼女の隣に敷かれた布団の中で安らかな寝息を立てる碇シンジだった。

 随分昔のように思える話だが、こんな出来事が2年前の彼らに起こった。ある時、強力なエネルギー収束帯を放つ使徒と戦ったのであるが、この時、綾波がシンジを庇ったのだ。しかも、ただ庇ったのではない。己の身を盾にして彼を守ったのである。当然、彼女は著しいダメージを受けて倒れた。そんな彼女に血相を変えて駆け寄ってきたのがシンジだった。
 彼は泣いていた。涙が零れていた。だが、綾波レイにはそれが分からなかった。何故彼は泣くのか。涙を流すのか。人は悲しい時に泣くのではないのか。ならば敵を倒せた今、任務を完遂した今、彼は何故泣くのか。何がそんなに彼を悲しませているのか。不思議だった。
 だから彼女は涙に頬を濡らす少年に、なぜ涙を流すのか問うた。少年は嬉しいからだ、と答えた。綾波レイが生きていたことが嬉しいからだと言った。
 その時、綾波レイは初めて人が嬉しい時にも涙を流す生物であることを知った。とても不思議だったが、自分の命が涙を催すまでに他人の感情に影響していることを知った。
 いつしか彼女は思うようになった。碇シンジの哀しみは回避したい。彼を哀しみから回避させたい。
 そして今、様々な経験を経て更に思う。石が消えても人は哀しまないが、人間でない自分が消えることにさえ涙を流す存在があり得るのだ。人の存在の有無に、誰かが感情を動かすことを絆と呼び、その絆を失うことを嘆くのならば――人の死は、最大限の努力を以って回避されなければならない。
「あなたの死は、回避しなくてはならない。神城ユウタの死は碇君の感情に影響する。碇君を哀しませる。きっと、あの人の瞳からは涙が出る。だから、あなたの死は全力を以って回避されなければならない」
 薄いレースのカーテンから、蒼い月の光がさし込んでくる。浮かび上がった幼い少年の寝顔をいつまでも見詰めながら、レイは独り呟いた。


■翌日 深夜 24時13分
 ジオフロント NERV本部


 惣流アスカが最初に起こした行動は、情報の収集だった。
 彼女は、既にマスターコースをクリアしているという実績がある。教養は人一倍あるつもりであったし、知識の及ぶ範囲も広域に渡るため、他の <チルドレン> たちでは理解しきれない専門的な事情も吸収できる。
<チルドレン> は3人いるのだ。ならば、それぞれが己の役割を自覚して、最も適した仕事に従事したほうが事は合理的に進行する。彼女はそう判断したのであった。
 ファースト、サードにはできないが、セカンドであるアスカ・ラングレーにはできること。それが白血病に関する専門的な知識の習得であった。白血病患者である神城ユウタと関わっていくには、これに対する多くの情報を手にする必要がある。そう考えたアスカは、最も身近な医師免許所持者である、友人赤木リツコ博士を訪ねた。
「ハァイ、リツコ。久しぶり」
 分厚い扉がスライドして開くと、高く積み上げられた書類とジャンクパーツの山が飛び込んできた。相も変わらず、住人の趣味趣向をそのままストレートに表現したかのような部屋だ。アスカは苦笑が大半を占める複雑な表情で、呆れ混じりの溜め息を吐いた。
「あら、アスカ。貴方がここに来るなんて珍しいこともあるものね」
 端末に向かって何やら怪しいデータの打ち込みを行っていた金髪の女性は、振り向くと青みがかったレンズの眼鏡を外しながら言った。血のように紅いルージュと、抑揚のないクールな口調。そしてノースリーブのシャツとミニスカートの上に無造作に羽織ったお馴染みの白衣。どれをとっても、赤木リツコ博士は2年前から全く変わらない。
「ちょっと時間いいかしら?」
「構わないけど。どうせ閑職だしね」自嘲的な笑みを浮かべて、博士は言った。
 世紀の天才、世界最高の電子工学者というのが使徒戦争終結までの赤木リツコの評価だった。エヴァンゲリオン開発計画の最高責任者にして、NERV本部技術開発部の初代主任といった過去の肩書きもそれを証明している。しかし今では、使徒戦争の責任追及もあって第一線を退き、 <技術開発部名誉顧問> なる閑職に追いやられている。
 議決権および形式的にはほとんど発言力を持たないオブザーバー的ポジションであるが、本人は逆にこれを歓迎しているようだ。2年前とは違って、雑務に追われる事なく自分の好きな研究を自由に行える。彼女にとってこの環境はほとんど極楽に近い。

「マヤはどうしてる? ちゃんとやってるかしら」
「あれ、最近会ってないの?」
 現在、技術開発部主任を務めている伊吹マヤは、赤木リツコの愛弟子といった存在である。いつも先輩、先輩と言って、マヤがリツコに懐いていたことをアスカは知っていた。それ故に、長らく彼女たちが会っていないという状態は些か意外に思えた。
「会ったと言えば会ったんでしょうけど、仕事のことは聞いてないわ。あの子も立場が変わって成長したのよ。これを自立って言うのかしらね」
「へぇ。なんだかちょっぴり寂しそうじゃない」
「そうね。我ながら意外な反応だけど、少し寂しいわ。母鳥の心境ってところかしら」
 2人の才女は、微笑みを交わし合った。
 思えば、過ちと知りながらそれを正せず傷を負った者。侭ならない人の性を知る彼女たちはどこか似ている部分がある。
「それでアスカ、その後の経過はどう。新しい自分を見つけることはできた?」
「そのことで来たのよ。今日は」
「――なるほど」
 アスカの返答に、リツコは小さく頷いた。その素振りからも考えて、彼女は既にアスカが自分の元を訪ねてくるであろう可能性を予測していたに違いない。この辺りの頭の回転の早さは、流石である。
「どうやら、マヤから粗方の話は聞いてるみたいね。リツコ?」
 アスカは勧められた椅子に腰を落としながら、確認の意味も込めてそう言った。
「ええ。察しの通り、相談は受けたわ。議決権はないことになってるけれど、私の言葉はNERVのトップにそれなりの影響力を持つみたいだから。何とか一般人に <チルドレン> との面会を許可してやれないかってね。あの子、かなり真剣だったから、その時大方の事情は聞いたの。彼が <T3CH> に転院してきた日にはお見舞いにも行ったのよ。ご両親にも会ってきたわ。検査中だったから本人には会わなかったけど」
「欲しいのは神城ユウタ、そして白血病について医療に従事する専門家から見た見解と助言よ」
「多分あなたなら、そうくると思っていたわ。もっとも、私が予測していたよりも随分早い行動だったけどね。流石は、惣流アスカといったところだわ」
 そう言って微笑すると、赤木博士はプリント・アウトした分厚い書類を綴じ込んだバインダと、10冊に及ぼうかという書籍をアスカの前に積み上げた。

「神城ユウタ君のカルテを見たわ。 <急性リンパ性白血病> 。1度寛解した後、再発。二次性白血病で、今度は <急性骨髄性白血病> ね。資料を集めておいたわ。貴女のことだから、ネットで得られる程度の情報なら既に習得してきている――」
「神城家から帰ったのが昨夜の深夜3時。それから今まで、徹夜で漁りまくったわ」
「――でしょうから、ここに集めたのは小児白血病に関する、欧米で発表された最新の論文や研究成果の報告書よ。ネットでは入手の難しい類いのものをチョイスしておいたわ。まずは、これを消化しなさい。基礎知識があれば、そう難しい話ではないわ。理解が難しそうなところは、私が簡単な解説文を加えておいたしね」
「全部予測済みってわけね」
 此処に来ることも、その動機も、欲する情報も、全て計算にいれて行動を完了させていたわけだ。アスカは、その余りの用意の良さに呆れ混じりの口調で言った。
「白血病の患者を持つ家族は、まず例外なくこの病について色々な情報を集めたがるわ。それだけシリアスな問題をこの病は持ち上げるし、闘病生活を送る上でこれは自然な話よ。勿論、あなたは神城家の血族というわけではないけれど、それでも白血病の患者を身近に置くと同じ様な行動に走ることが容易に予測できる性格をしているから。インテリってのは、往々にして情報を集めたがるもの。行動パターンを読み易くて楽なのよ」
 さも当然という表情でリツコは言った。そして席をたち、コーヒーメイカーで出来あがったブラックコーヒーをカップに注ぐと、それを持って再び戻ってくる。彼女はアスカにもカップを1つ手渡すと、再び話を続けた。

「白血病はね、1960年代まではほとんど不治の病だった。この疾患は、その性質上から他のガンと同じように <5年後の生存率> という数値でものを語る場合が多いんだけど、半世紀前まではこの5年無病生存率は5%以下。かかったらまず死ぬという類いのものだったの。その事情が化学療法の確立に伴なって大きく変わったのが、1990年代の話。90年代後半に入ると、5年無病生存率は80%にまで飛躍的に伸びたわ」
「聞いてはいたけど、ガンとしてはかなり良いパーセンテイジよね」
「確かにそうね。子宮頸部なんかに良く見られる <上皮内腫瘍> に匹敵する治癒率だと言える。事実、旧世紀末から白血病は不治の病といった雰囲気ではなくなったわ」
 ひとつ頷くと、リツコはコーヒーを一口含んで舌を湿らせた。そしてゆっくりと続ける。
「人間の骨の内部には、骨髄(こつずい)と呼ばれるスポンジ状の組織があるわ。血液っていうのは、ここで製造されるものなの。それでこの骨髄で作られる血液細胞だけど、これには3つの種類があることは知ってるわね?」
「当然よ」
 この辺りは、何も医学をかじっていなくても、ハイスクールの保健や生物学で習得できる知識だ。大抵の子供たちはこんなことに興味は抱かないので、教わった瞬間から忘れていくが、アスカはきちんと記憶に留めている。彼女が誇る高い知能指数は、1度覚えると大抵のことなら忘れないという非常に便利な特性を持っているのだ。
「血液細胞の種類を大きく3つに分類しろと言われたら、RBC(red blood cell)、WBC(white blood cell)、plateletよね? 日本風に言えば、それぞれ『赤血球』『白血球』『血小板』になるんだったかしら。血漿を加えて4種類ってパターンもあるわね」
「その通りよ。白血病というのは、早く言えばこの血液のガンね。神城ユウタ君が最初に患ったのは、この白血病の一種類で <急性リンパ性白血病> ――医療関係者はAcute Lymphoblastic Leukemialを略して <ALL> と呼んでいるわ。これがどういうものかと言うと、そうね。リンパ球と呼ばれる、感染(病気)と戦う役割を果たす『白血球』の未成熟な細胞が、血液及び骨髄の中に異常に多く見られる病気と説明すれば、シンジ君たちにも理解できるかしら?」
「どうかしらね。何せ馬鹿シンジって呼ばれてるくらいだし」

 より詳しく言えば、血液細胞が正常のコントロールから外れてしまって成熟せず、なおかつ死なない病的な芽球(=成熟しない白血球)が、どんどんその数を増やしてしまう……というのが大まかな解説になる。
 ともかく、白血病とは血液に関係する病であり、骨髄からその主な問題が発生すると理解できれば問題ないだろう。
「ALLの発病原因は現在のところ不明。ただ、EBウイルスやC型RNAウイルス、化学物質、電磁波、被爆などが発症の確率を高めていることだけは分かってるわね。それから、白血病の他の病態と異なり地域によって発症率が違っていて、先進国・社会経済性がより高いグループでの発症率が高いことが認められているわ。例えば、日本では少ないけれどUSAでは多いとか。
 小児の白血病としては最もポピュラーなタイプで、発症のピークは2歳〜6歳前後。MPO陰性でAuer小体陰性。顕微鏡下で識別できる主要な亜型(サブタイプ)が、『L1』『L2』『L3』と3種類あり、小児ALLは特殊なケースを除いて、そのほとんどがL1。成人はL2であるケースが多し。まあ、専門的なところも含めて大体こんなところが大きな特徴として挙げられる部分ね」
 そう言うと、どんなルートで入手したのか、リツコは神城ユウタのカルテらしきものを眺めた。
「ユウタ君の場合は、ALL・L1。4歳で発症。初期6ヶ月間でオンコビン、ビンクリスチン、プレドニゾロン、ダウノルビシン、シクロフォスファミド、アスパラギナーゼなどの併用を中心とした化学療法による寛解導入療法。更にメソトレキセートによる中枢神経白血病予防、次いで強力地固め療法、そして強化維持療法へと繋ぐ、計2ヵ年のプロトコル(治療プログラム)。ある意味、典型的なパターンだわ。小児の白血病では1番多く見られるケースでしょうね」
 そこまで来て、リツコは目を細めた。近年、小児ALLの寛解率はほとんど100%に近い。だから、ある意味で問題となるのはここからなのだ。
 寛解後の経過。ハッキリ言ってしまえば、そのまま完治に流れるか再発するか。ここが肝心になってくる。 「ユウタ君は、このプロトコルで多くのケースと同じように寛解に至っているわ。そして退院。社会復帰。ここまでは順調。だけど、ここからが問題ね。1年8ヶ月後、再発。診断結果は、AML。小児骨髄性白血病。原因は特定不能となってるけど、確率としては化学療法に用いられた抗癌剤の副作用による二次性血病である可能性が高いわ。多分、podophyllotoxine系抗癌剤あたりの影響でしょう。少なくとも、私だったらそう考えるわね。……しかもM5bとは。ある意味で、最悪のパターンよ」
「M5b?……あれ、AMLにそんなのあったかしら。この書類にFAB分類っていうのがあるけど、それによるものなんでしょ? M0からM7までの合計8種類にAMLを細分化させるってやつ」
 アスカは手渡された書類にざっと目を走らせ、急速に知識を吸収しながら、リアルタイムでリツコに問いかける。
 知能指数(IQ)は頭の良さとは全く直結しないが、少なくとも知識の吸収には優れた特性を見せ付ける。この理解の早さと頭の回転の良さが、『高いIQ=頭が良い』と一般人に誤解させる要因のひとつだ。
 だが、本当に頭が良い人間なら、自我を崩壊させ、自ら命を絶たねばならない窮地に陥るまで、自分を追い詰めるようなミスは犯さない。その意味で、アスカ・ラングレーという少女は評価し難い。まして、天才と呼ばれる人間では決してあり得ないと言えよう。
 何故なら、天才には超越者レベルの人格が求められるからだ。人類が持て余すほどの能力を完全に制御し、これを支配下に置く。この域に至ってはじめて人は天才と呼ばれるに値するのだろう。
 彼女はネックとなる精神の弱さと人間性の未熟により、この領域には程遠いと言わざるを得ない。

「M5は更に2種類、「M5a」「M5b」に分けるのよ。どちらにしてもM5は非常に厄介ね。その分頻度の低い珍しいタイプで、小児ではほとんどケースが無いはずなんだけど。とにかく、治療成績は不良が多いわ」
「AML自体、ALLより状況が厳しいのね?」
「そうね。確かに、AMLの方がより危険な特徴を持っていると言えるでしょうね。5年無病生存率もALLと比較すると数十%落ちるわ。化学療法の効果も見劣りするし。2017年現在、新規に小児AMLと診断された子供の生存率は、多分50〜60%。特にユウタ君の場合は2度目の白血病、しかも22番転座をはじめ、染色体異常も見られるわ。C−12の異常もあって、これだとAMLとALLを併発しているような感じに近いわね。少なくとも、AMLお決まりのプロトコルじゃ効き目は薄いでしょう」
「なるほど。9番と22番の転座、フィラデルフィアってやつね。昨夜漁った治療情報要約にも、化学療法に難反応性のPh(フィラデルフィア)染色体陽性の存在が認められた場合、その白血病はリスクが高いと分類されるってあったわね」
「間違いなくハイリスクと診断される症例よ」
「率直に言って、リツコの見る神城ユウタの生存率は?」
「難しいけど、様々な要素を加味してみるに20〜40ってところかしら。専門医に聞いても、50%以上という解答は得られないでしょうね」
 フィラデルフィア染色体陽性は、主に成人に多く見られる染色体異常である。小児と比較して、成人の急性白血病の治癒率が30〜50%も落ちるのは、このPh染色体が多くのケースで見受けられることも大きく影響している。この染色体異常は主に成人に見られるが、ユウタは稀少な例として7歳にしてこれにやられていた。

「最大の問題は、CR(完全寛解)に至って骨髄移植の詳細についても検討されているというのに、肝心のドナーが見つかっていないことね。最新の研究では、FAB分類のタイプ M5の場合、白血球数が20000/立方mmを越えていて、かつ寛解までに1回以上のサイクルを要するものは寛解維持が長く続かないと予測されるそうよ」
「つまり、このまま時が過ぎれば、またいつ再発するか分からない……」
「ええ。そうなると <2nd CR> 、つまり2度目の完全寛解を目指すことになるけれど、移植に関してはよりリスキィな話になることは歴然ね」
 パサリとカルテをコンソールに放ると、リツコは改めてアスカに向き直って言った。
「だけど、アスカ。私は血液病理学者でも、ガン専門医でもないわ。だから、確かなことは言えない。同じ医者でもね、畑が違うと色々と見解にも思想にも相違が見られてくるのよ。特にこういうリスキィなケースではね、経験を積んだ専門家の意見は大事だわ」
「確かに、ね。同じ患者を見せても、専門が全く違う医師だと診断結果が其々違ってくるなんて話も聞くし」
「それ、事実よ。シロウトさんにはちょっと信じられない話かもしれないでしょうけどね。だからこそセカンド・オピニオンなんて考え方もあるんでしょうし」
 アスカは腕を組んで、沈黙した。そして暫し思考する。リツコは少女が何を考え悩んでいるかを知っているため、それを黙って見守っていた。やがて、セカンドチルドレンは考えを纏めたのか、徐に口を開く。
「やっぱり、知識の吸収と並行して現実な行動も起こしておくべきよね。またこの肩書きに頼るのは気に食わないけれど」
「肩書きを利用する、と考えてみてはどう?」
「それって、詭弁にならないかしら?」
 アスカその言葉に、赤木博士は肩を竦めた。
「覚悟があれば、詭弁も誇りよ。自分が道化になってでも……っていう風に思えればね。あなたに必要だったのは、セカンドチルドレンとしての誇りではなく、セカンドチルドレンにかける誇りだったのじゃなくて? 役者の名前は、セカンドチルドレンだったかもしれない。でも、役者が演じられる役割は1つじゃないと思うわ。役者はコメディもやれるし、ホラーも、ラブストーリーもやれる。悪役も善玉も自在よ。だけどアスカはそのことを忘れ、セカンドチルドレンの名に固執しすぎた。そして、そこで考えるのを止めていた。少なくとも2年前まではね。違う?」
「そう……かもね」
「あなたが今考えていることは――セカンドチルドレンの知名度を借りて、世界にドナー登録を呼びかけようって考え方は間違っていないと思うわ。何故なら、たとえセカンドチルドレンの名を利用するとしても、貴方はセカンドチルドレン故に動くわけではないのだから。そうでしょう? それともアスカは、 <チルドレン> だから神城ユウタのために動くの? <チルドレン> でなければ動かないの?」
「違う。 <チルドレン> は関係ない。違うわ」
 アスカは、少し戸惑いながら言った。
「私が動くのは、私のため。それと、彼らのため。神城家の人々と会って、話をして、理性で判断して感情で決めたの。彼らと会うことになったのは、確かに私が <チルドレン> だったからでしょうけど……でも、たとえ全く別の出会い方をしたとしても、私はきっと同じ事をしようと考えたはずよ。 <チルドレン> だから動くんじゃない。私がそう決めたから動くの。これはセカンドチルドレンじゃなくて、そう。惣流・アスカ・ラングレーの決定よ」

「その言葉を聞いたら、きっとシンジ君は喜ぶでしょうね。それから、あなたのカウンセラーも。気付いてるでしょう。その考え方が、あなたにはずっと必要だったの。あなたがシンジ君に今、惹かれるものを感じているのは……そして過去に嫉妬していたのは、潜在的にそこに起因していると思うわ」
「なんで、そこでシンジが出てくるのよ」
 アスカは顔を顰めて抗議したが、赤木女史はそれを無視して続けた。
「彼は、人として動くわ。 <チルドレン> としてでなく、人間個人として動くの。そのためには、自分の社会的な立場や肩書きを失うことすら全く厭わない。あなたが己の全てと考えていた <チルドレン> の名すら、彼らは簡単に投げ捨てることができた。あなたはそれが許せなかった。その姿にどこかで憧れながらも、だからこそ絶対に容認できなかった。憎しみさえ抱いた。でも……これからのあなたなら、きっと超えられるわ。本当に大切なのは、社会人としてでなく人間としての誇りを抱くこと。他人の目も評価も関係ない。誰に何を言われても、自信を持って胸を張れること。あなたはセカンドチルドレンじゃない。惣流・アスカ・ラングレーとして世界に名乗りを上げなさい」
「うん。ありがと」
 少し考えると、アスカは結局素直に礼を言った。少し、照れくさそうに。
「あとは、レイに負けないようにシンジ君を捕まえておくことね」
「だから、なんでそこでシンジが出てくるのよ」
 赤木博士は、猫のように目を細めて笑った。
「あら、最近の彼は成長著しいじゃない? 多分、自分でも気づきかけてるでしょうけど、彼は変わろうとしてるわ。彼はレイに選ばれたことで、自分に自信を持ちつつあるんでしょうね、きっと。あなたも知ってるでしょう。先の戦争の最終局面の時。あの子は、絶対服従の対象であった碇司令を捨て、シンジ君に走ったわ」
「碇君が呼んでる……って、あの恥ずかしいやつでしょ。聞いたわよ、それなら」
「レイはその感情の名を知りはしないでしょうが、自分にとっての碇シンジの価値に勘付きはじめてる。そうなると、あの子一途だから。命懸けでシンジ君に尽くすわよ」
「別に良いんじゃない?」
 アスカのその言葉には、発声までに微妙なタイム・ラグがあった。勿論、それを見逃す赤木リツコではない。
「シンジ君もまだ甘さが多分に残ってるけど、もしかしたら近々超えるかもしれない。彼を評価する上で、ひとつの基準となるラインがあると、私は考えているわ。そのライン至らなければ、彼はどうしようもない男で終わるでしょうけれど、一度これを超えれば……それまでとは180度異なった絶大な評価を受ける男になるでしょうね。そうなると、彼は大バケして見えるわよ。周囲の女の子だって放ってはおかないわ」
「だから、何が言いたいのよ」
「あなたも、まだまだ正直になりなさいってことよ」
 そう言って、赤木博士は自嘲的な笑みを浮かべた。
「そうじゃないと、後悔することになるわ。私のようにね」


■同日 午後14時26分
 神城宅子供部屋


 クリスマスの翌日であるその日、朝目覚めると神城ユウタはまっさきに <チルドレン> の姿を探した。
 そして自分のベッドの隣で眠るファースト、サードの2人の <チルドレン> の姿を発見するや歓喜の声と共に飛びあがった。いなくなっていることをどこかで確信しながら、それを最高の形で裏切られたのだ。こんなに喜ばしいことはない。束の間の奇跡は、まだ続いているのだ。つまり、クリスマス・パーティでの、 <チルドレン> との出会いは夢ではなかったのである。
<チルドレン> が家に遊びに来て、家に泊まってくれた。その現実を噛み締め、少年は喜んだ。
 だが生憎と、ユウタはその日、朝から38度の熱を出していた。抗癌剤の副作用で4年の間、幾度となく40度近い発熱を経験してきた彼にとって、38度前半の熱など平熱か微熱程度に過ぎなかったが、両親は彼がベッドから出ることを禁じた。彼はこれを悲しんだが、大尊敬する <チルドレン> たちにも諌められたため、渋々ながらこれに従うしかなかった。
 その代わり、彼は綾波レイと碇シンジを1日中独占していた。戦争時代の話をしきりにせがみ、色々なことを質問した。話題が尽きることは一瞬たりともなかった。
「じゃあじゃあ、どの使徒が1番つよかった?」
「そうだねぇ……」シンジは少し考えて言った。「やっぱり、ラミエルかな。個人的には」
「ピームが出るやつ?」
 子供用のベッドに横たわる少年は、傍らの椅子に並んで腰掛ける <チルドレン> 2人に訊いた。
「そうそう。青くって、サイコロが傾いたみたいな形をしていたやつだよ。あれは、強かった。 <A.T.フィールド> も通じないし。死ぬかと思ったよ。実際、綾波がいてくれなかったら絶対勝てなかっただろうなぁ。NERVでは最強の使徒はゼルエルだっていうのが一般的だけど、ゼルエルとの戦いはよく覚えてないんだ。ほとんどエヴァの力で勝ったようなものだし」
 当時の様子を思い起こしながら言うと、シンジは左隣に座る蒼銀の髪の少女に視線を向けた。
「綾波はどう思う?」
「私も、最強はゼルエルだと思う。でも、ラミエルも強かった」
 綾波レイは言葉少なくそう告げた。彼女は終始このような調子で、語り部役を務めていたのは大半がシンジだった。レイは、質問されると時折短く解答するだけで、後はシンジとユウタ少年とのやりとりを静かに見守るだけである。いかにも彼女らしい態度であったが、それでも一瞬たりとも彼らの傍から離れることはなかった。

「でも、ラミエルにもゼルエルにも勝ったんだよね」
「うん。なんとかね」
「ふ〜ん」
 ユウタ少年は、どこか遠くを見るような目で言った。何かに憧れるような、だが届かないような、大人びた子供の目だった。
「やっぱり、 <チルドレン> はすごいなぁ」
 シンジは暫く何も言えなかった。ユウタ少年も、感じ入ったように憧憬の念に浸ったまま不思議な沈黙を形成している。
 どれくらい時が過ぎただろうか。恐らく数分程度の後に、シンジはゆっくりと口を開いた。
「ユウタ君は、どうしてそんなに <チルドレン> になりたいの?」
 それはある意味で、愚問だったのかもしれない。小学校の1年生や2年生に、「なぜ宇宙飛行士になりたいの?」「なぜお花屋さんになりたいの?」と聞いて、理に適った解答が返ってくるだろうか。答えは大抵の場合、否であろう。彼らは安易に夢を語るが、それは現実的でも理性的でもない無邪気な子供の思考から生まれた、単純な夢なのだから。
 だがそれでも、目の前で床に伏せる少年からは、何らかの回答が返って来るような予感がシンジにはあった。
「ぼくね、 <チルドレン> になりたい。シンジお兄ちゃんみたいになりたい」
 少年は、ポツポツと整理しきれない言葉で語り出した。
「ぼくは白血病であんまり学校にいけないから、みんなズルしてるって言うの。走るのもクラスで1番遅いし、ドッジボールもサッカーも、どヘタだからいない方がいいって言われるし、だから、ぼく、昼休みのドッジで、チーム分けの時も1番最後に選ばれるんだ」
 少年に表情はなかった。ただ、己の身を振りかえりながら、少しずつ淡々と。だが、懸命に語っていた。
「ノリオ君はクラス1番走るの速いから、だから、ノリオ君は、ぼくみたいに髪の毛もなくて、走るのも遅くて、ドッジもヘタなやつは、 <チルドレン> なんかなれるわけないって言うし。みんな、ぼくは学校にこないからズルイし、そんなやつは <チルドレン> になれないって。すぐアウトになるし、弱くて負けるから、チームにいても邪魔なだけだって」
 その言葉で、シンジはユウタ少年の身の上を悟った。

 そう、子供は残酷だ。小学1、2年生くらいの年齢だと、白血病のハンデを負った人間の事情など理解できない。
 恐らくユウタ少年は、学校も休みがちで授業にも時々しか参加できていないのだろう。
 両親の話だと、熱が出て早退するのも頻繁にある出来事だと言う。当然、担任の教師はそれだけユウタに気を使うだろうが、それは子供たちにはヒイキにしか見えない。嫉妬の対象にもなるのだろう。加えて、病と戦ううちに彼の精神は異様に成長し、発達してしまっている。両親の話だと、それが原因でクラスの輪に馴染めない生活を送っているらしい。
 抗癌剤と放射線照射の副作用で、髪も抜ける。身体的特徴もあり、彼はイジメの対象になる条件を備えている。
「――きっと、ぼくの血が悪いから、お母さんも泣くんだと思うし。だって、治ったって言われて、でもまた血が悪くなった時、お母さんまた泣いたから。だから、お母さんもぼくがいると邪魔なんだと思う。ぼくの血がキレイなら、お母さんは悲しくなって泣いたりしないと思うから。
 それにきっと、お母さんとお父さんが先生に頼んでくれたから、小学校に行けるようになったんだろうと思うし。それで先生が注意してくれるから、病気で邪魔でもみんなクラスにいさせてくれるんだろうし。カラダが弱いから、だから、 <チルドレン> になれないってみんな言うけど。走るのも遅いし、すぐ熱も出るし、ドッジも弱いから <チルドレン> になれないし、使徒にも勝てるわけないって言われたけど。そのとおりかもしれないけど」
 少しだけ、彼の声に熱が篭もった。小学生の彼はその胸の内を表現しきれるほど饒舌ではないが、それでも何とか自分の想いを伝えようと懸命に言葉を捜して語った。
「だって、 <チルドレン> ってスゴイから……! ぼくはなれないって言われてもしょうがないけど。でも、 <チルドレン> になったらみんな許してくれると思うから。おかあさんたちも、喜んでくれると思うから。だから、 <チルドレン> にならないと。シンジお兄ちゃんみたいに強くなって、エヴァにのって、使徒をやっつけてみたいから。 <チルドレン> になりたいから」
 小学生があこがれる職業のナンバー1は、もちろん <チルドレン> だ。これからもその傾向は続くだろう。誰もが憧れる <チルドレン> 。だが、彼は少しだけ <チルドレン> に違うものを見ていた。
「痛い検査とか、嫌な薬とかあるけど、我慢して良くなったら……もしかして、いつかかならず、ぼくも <チルドレン> になれるんじゃないかと思って。だから、 <チルドレン> になるって決めたから。シンジお兄ちゃんみたいに強くなって、エヴァにのってみたいから、だから……」


<チルドレン> たちは、何も言えなかった。
 何かを言うべきなのは分かっていたが、綾波レイも碇シンジも、その時必要な言葉を何も知らなかった。 ただ、沈黙があった。
<チルドレン> になってエヴァに乗れば、みんな自分を見てくれるのではないか。それは、かつてシンジも考えたことだった。誰かに捨てられ、疎外されたと感じた子供は、自分の存在に疑問を覚え自らを卑下するようになる。親に捨てられたと感じたシンジ自身がそうだった。だから、彼にはそれが痛いほど良く分かった。
 そしてユウタ少年は、7歳にして既にそれを感じ始めている。彼はそのハンデ故に、周囲に疎外され、差別的な視線を無邪気で残酷な子供たちから浴びせられてきた。邪魔だと、いない方がいいと言われることに慣れてしまったのだ。それ故に、自分の存在をどうしても卑下してしまう。自分の価値を見失ってしまう。
 だから、世界中で大人気の <チルドレン> になれば。脚光を浴びる <チルドレン> になれば。
 少年は幼いなりに、理論にしきれない部分でそう考えたのだろう。少なくとも、シンジにはその気持ちがわかった。だから、少年の言葉が辛かった。
 ――その日の夜、ユウタ少年に別れを告げて帰宅するリムジンの中、シンジは泣いた。何故、涙がでるのかは分からなかったが、何かが悲しかった。涙は止まらなかった。
<チルドレン> は、子供たちが憧れるような存在ではない。『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する <チルドレン> は、ただの虚像だ。都合よく脚色された、御伽噺の登場人物に過ぎない。碇シンジは、英雄でも正義の味方でもない。好きだと言ってくれた友人を、ただ使徒だという理由で殺したことすらある。
<チルドレン> をやめ、逃げ出したことも何度もある。友人を傷付けたことだって、自ら手を汚したことだってある。
 だがそんな事実を、あの少年の前で正直に言えるだろうか?
 言えよう筈もない。
 だから、シンジは思う。真実を知る者からは蔑まれるかもしれない。だが、たとえ道化になってでも、彼の夢だけは汚せないと。せめて、あの少年にとっては <チルドレン> でいようと。自分がどれだけ汚れても、それだけは貫き通さねばならない。彼が碇シンジをサードチルドレンとして認めてくれる限り、永遠に。
 だから、シンジは言った。
 使徒はもうこない。NERVが新たに <チルドレン> を選出する理由はなにもない。 <チルドレン> になりたいという子供の夢が叶えられることはあり得ない。
 そう知っていたけれど、言った。

――痛い検査とか、嫌な薬とかあるけど、我慢して良くなったら……もしかして、いつかかならず、ぼくも <チルドレン> になれるんじゃないかと思って。だから、 <チルドレン> になるって決めたから。シンジお兄ちゃんみたいに強くなって、エヴァにのってみたいから、だから、ぼくはチルドレンになりたい。
 あのね、ぼくみたいにカラダがちっちゃくて、走るの遅くて、白血病でも、 <チルドレン> になれるかな? エヴァにのって、大活躍できるかな!? ホントに <チルドレン> になれるかな――

「なれるさ。ユウタ君が諦めなかったら、絶対なれるに決まってるよ。僕だってなれたんだ、白血病にだって負けない子なら <チルドレン> なんて簡単だよ」


to be continued...



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