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第三章 「死に至る病」


■12月25日 クリスマス
 20時06分
 第三新東京市 神城家リヴィング


 神城ユウタは、白血病で命の危険にあると言われてシンジが予想していた、病に伏せる無気力な子供という典型的イメージとは対照的な少年だった。くりくりと大きくてつぶらな瞳は、まさに元気一杯の小学1年生のそれだ。血色が多少悪く、そして髪の毛がほとんど抜けてしまっていることを除けば、彼は何処にでもいる普通の子供だった。
 シンジたちがリヴィングに入った瞬間、ユウタは面白いほど劇的なリアクションを見せてくれた。「あっ」という声を出しきれずにポカンと開かれた口と、まんまるく見開かれた大きな目。魔女の邪眼を受けて石化でもしてしまったかのように、彼は硬直していた。
 なんだかリスみたいだ。シンジは少年の可愛らしい驚愕の表情を見て、そう思った。
「ユウタ、お客様にご挨拶は?」
「…… <チルドレン> だ!」
 父親の声を全く無視して、少年は硬直から開放されるやいなや叫んだ。子供用の木製の椅子を蹴るように立ちあがり、わたわたとシンジたちに駆け寄る。フットボールのスカウトマンが惚れ込みそうなほどの勢いだった。
「ほんものー、ほんものー?」
 ユウタはシンジ、ついでレイ、アスカ順で <チルドレン> たちの周囲をぐるぐると駆けまわり、360度あらゆる角度から彼らを観察、検証した。そしてついに彼らがTVで毎日のように拝んできた、あの伝説の <チルドレン> であるという結論に行きつく。
「おおー、ほんものー!」
「こんばんは、ユウタ君。碇シンジです」
 シンジはゆっくりと膝を折り苦労して少年と目線の高さを合わせると、にこやかに挨拶した。たったそれだけで、白血病の少年は瞳を輝かせた。そのぷくぷくとした丸い顔に、たちまち満面の笑みが浮かべられる。
「ぼくユウタ」
「うん。ユウタ君、よろしくね」
 シンジはそう言うと、一瞬躊躇したが、結局髪の毛の無くなった彼の頭を優しく撫でた。少年は再びニッコリと笑ってくれた。
「エヴァに乗ってきたの?」
「いや、初号機たちは本部でお留守番だよ。今日は車で来たんだ」
「ふーん」
 もしかしたら、表に3機のエヴァ・シリーズが停められているのかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたのか、ユウタはシンジの返答に些か気落ちした表情を見せたが、それも一瞬のことで矢継ぎ早の質問は怒涛の如く続いた。
「じゃあ、ぷらぐすーつは?」
「あれはエヴァに乗る時だけに着るんだ。でも、ユウタ君が元気になって本部に遊びに来られるようになったら、初号機と一緒に見せてあげるよ」
「ホントー!?」
「うん、本当。約束」
 小学生に入ったばかりの子がプラグスーツなどという言葉まで知っていることに些か驚きながら、シンジはそう応えた。プラグスーツとは、 <チルドレン> たちがエヴァンゲリオン搭乗の際、その身に纏う特殊装備のことだ。その名の通り、ダイバーが着るような全身を覆うタイプのスーツになっていて、TVアニメのヒーローが身に着ける戦闘服のような恰好良いデザインをしているため、子供たちにも非常に人気が高い。これを模したパジャマや変身セットの売れ行きが、それを数字で証明する程だ。
「それでね、ユウタ君。今日は、ユウタ君のお父さんとお母さんにクリスマス・パーティに呼んで貰ったんだ。だからね、友達の綾波とアスカも連れてきたの。一緒にパーティに入れてもらっていいかな?」
「いいよ!」
 ユウタは元気に即答すると、早速シンジとレイの手をとり食卓の方へ引っ張り始めた。レイは少し狼狽しながら、シンジは苦笑しながら、アスカと大人たちは目を細めながらその背中を追う。
 そして、 <チルドレン> と葛城ミサトを交えたクリスマス・パーティは始まった。

「……へぇ、病院の中に小学校があるんだ」
「そう。でもね、退院してからはみんなの小学校に行けるようになったの。ランドセルもあるよ。見る?」
「うん。見せてくれると嬉しいな」
 ユウタは終始、1番好きなサードチルドレンにベッタリだった。少しでも話が途切れれば <チルドレン> たちは帰ってしまうとばかりに、休むことなく次々と新しい話題を見つけ出しては、必死にシンジの注意を引き付ける。彼は、自分が今、束の間の奇跡にいるのだという事実を敏感に察知していた。
 そしてシンジも、話をする内、ユウタ少年がとても7歳とは思えないほどに大人びていることに気づいていた。なんと言うべきか、非常に論理的な思考をしていて考え方が酷く現実的なのである。確かに子供らしい無邪気な面もあるが、根本の部分でどこかクールだ。
 その理由が、シンジには少し分かるような気がした。死と身近に付き合う人間は、否応なく様々な問題を現実に突き付けられ、必然的に多くの事柄について頭を悩ませ、考えるようになる。年齢に見合わない論理的な思考やどこか冷めた雰囲気は、その死の恐怖との共生の中で身に付けたユウタ少年なりの成長の証なのだろう。つまり彼は、無理矢理にでも大人にならざるを得ない人生を送ってきたのだ。彼の白血病の発症は3歳の時だと聞く。物心つく前のことだ。ならば彼は、世界中の子供が当然の様に享受している日常を全く知らないに違いない。それはつまり、神城ユウタが誰も窺い知ることの出来ない異世界で、ずっと孤独な戦いを続けてきたことを意味する。
 シンジがエヴァンゲリオンのパイロットに、半ば無理矢理に任命された時と同じだ。突如、日常が弾け、そしてそれが2度と戻らないことをやがて悟る。死と隣り合わせの日々が、日常とは何であったのかを忘れさせるほどに。――それが、戦争だ。
 だが、それでいて自分とユウタ少年には決定的な違いがあることにもシンジは気付いた。それは選択する自由の有無だ。碇シンジは己の弱さ故に周囲に流され、エヴァのパイロットであり続けた。抗う自由があったにも関わらず、結局その選択肢を自ら放棄し逃げたのである。だがユウタ少年は違う。白血病からは逃れる術が無い。彼は自由を持たない。逃避の選択肢がない。彼は戦うことから逃れることすら出来ず、生まれながらそれを宿命づけられている。
 それはとても哀しいことなのではあるまいか。シンジは思う。


■約3時間後 23時17分
神城家リヴィング


 はしゃぎ疲れたのか、 <チルドレン> が訪れてから1時間後、ユウタは38度の熱を出した。熱が出ること自体は、もう珍しくもなんともない出来事だと言う。両親も落ち着いたものだった。
 だが、当の本人は酷く荒れた。眠ってしまったら <チルドレン> が帰ってしまう。そう考えた彼は、眠気と体調不良の両者と懸命に格闘しながらベッドルームに向かうことを頑なに拒んだ。見かねた母親が抱き上げて運び出そうとすると、少年は泣き喚いて更なる抵抗を示した。彼にとっては眠気と戦うより、38度の熱より、 <チルドレン> との別れの方が辛い試練だったのだ。
 結局、ユウタ少年はその後も頑固に抵抗を続け2時間後に漸く床に就いた。ふと見上げたリヴィングの鳩時計に、セカンドチルドレンS・A・ラングレーは驚いた。時刻は23時を回っていた。どう考えても、小学1年生の就寝時間にしては遅すぎる。裏返せば、それだけ彼の執着心と精神力が強かったと言うことだろう。
 子供部屋まで息子を運び、無事寝かしつけた父親がリヴィングに戻ってくると、アスカは言った。
「ユウタ君のこと、差し支えなければ詳しく話していただけませんか?」
「ユウタのこと、ですか」
 神城ケンタは、セカンドチルドレンの申し出に多少驚いたようだった。彼にしてみれば、今回の <チルドレン> の厚意はこれ限りのものであり、彼らがユウタに関心を持つことはあり得ないと考えていたのだ。
「僕からもお願いします。恥ずかしながら白血病のことを良く知っているわけじゃないので、ユウタ君が本当のところ、どれだけ深刻な問題に直面しているのかいまいち把握できてないんです。僕らにどれほどのことが出来るかは疑問ですけど、力になれることがあったら是非とも協力させてもらいたいと思ってますし」
 サードチルドレンは言葉をそこで一端切ると、暫く頭の中で話を整理してから再び口を開いた。
「そのためにも、正確なことを知っておいたほうが良いと思うんです。正直、最初はユウタ君に会ってそれでお終いなのかと思っていたんですけど、なんだかそんなに簡単に割りきれる話じゃないような気がしてきて。あ、いえ、これは僕の勝手な考えですから、その、無理にとは言えないんですけど」
「でも、ご迷惑では?」
「神城さん。 <チルドレン> はそれを迷惑だと考えたりはしません。手間だとも思わない子達です。もし少しでも自分の不利益に繋がると思ったのなら、彼らはここに最初から来たりしないでしょう。当然、NERVもこれを許しません。ですがこの子達は自分たちの意思でユウタ君に会いに来たんです。この場合大切なのは、その事実なのではないでしょうか」
 恐縮する夫妻に、ミサトは毅然とした態度でそう言った。どこか教え諭すようなその口調は、命令し慣れた人間の風格のようなものさえ漂わせていた。

「長くなりますが」
「構いません」ケンタの言葉に、アスカ・ラングレーは即答した。
 その迷いの無い反応に、彼も観念したらしい。向かって左隣に座る妻に目配せする。ユウコはそれに頷いた。こういう時の出番は、何時も彼女に任される。ケンタよりも几帳面で頭の回転の速い彼女の方が、上手く話を整理して他人に伝えるのを得意とするからである。
「どこからお話ししましょうか。わたし、ユウタが生まれる前から欠かさず日記をつけていますから、大抵のことは正確にお話しできると思うんですけれど」
「白血病については、どれくらいご存知なんですか?」
 アスカの質問にほんの一瞬だけ思考時間を置くと、神城夫人は言った。
「私たちなりに、白血病のことは調べたつもりです。ドクターからも積極的にムンテラ(病気についての説明・告知)を受けるようにしていますし。ですからあまり医学の専門的な話にならなければ、お話しできることはあると思います」
「そうですか。では、まずその辺りからお願いできますか」
「分かりました」
 ユウコ夫人は頷くと一言断って席を立ち、書斎としている部屋から日記を持って戻ってきた。そして再びリヴィング中央に置かれたテーブルセットの一席に腰を落とすと、 <チルドレン> とミサトを見回しおもむろに語り始めた。


■3年前 2014年 5月
 静岡県静岡市


 最初は、風邪だと思ったんです。熱が出て、食欲が落ちて、お腹を壊して。ユウタも辛そうでしたが、そんなに大袈裟な苦しみ方もしませんでしたから、その時は病院につれていくことはしませんでした。でも、これが最初の異変だったんだと今では思っています。
 3年半前、ユウタが4歳の誕生日を迎える2日前のことでした。風邪は5月5日の子供の日――ユウタの誕生日には、何とか治ったように見えました。ですが、その2日後に今度は中耳炎になったんです。しかし、この時も特に不審には思いませんでした。2日前まで風邪をひいていましたし、ユウタはもう何度か中耳炎を経験していたからです。もちろん、この時は耳鼻科に連れていき、ドクターの診察も受けました。
 それから数日後、今度は首の辺りが腫れてきたんです。中耳炎でまだ幼稚園をお休みしていた時でしたから、直ぐに診療所に連れていきました。診断結果はリンパ節炎。特に騒ぎたてるほどのものではなく、抗生物質を打ってもらって腫れも直ぐに引きましたから、私も胸を撫で下ろしたものです。
 でも6月に入って暫くすると、また首筋に腫れものが出来たんです。診察していただいた耳鼻科のドクターは、中耳炎との関連性はないと仰いました。それで首を捻りながら近所の小児科に連れていったのですが……ここで、血液検査を勧められたんです。
「その時は、やはり何か予兆のようなものを感じていたんですか?」
 セカンドチルドレンの言葉に、ユウコは軽く首を左右した。
 いえ。その時も少し奇妙には感じていましたが、そこまでの大事とは思っていませんでした。事実、余裕をもって血液検査は翌日していただくことにしたくらいです。
 結局、ユウタの状態が私たちの想像を超えて遥かに深刻なものであることを漸く悟ったのは、次の日のお昼に、大学病院で血液検査の結果を聞かされた時でした。
「お母さん。実はですね、ユウタ君の白血球がちょっと多いんですよ。普通の子の何倍かあって、ちょっと普通じゃないんです。もしかしたら聞いたことがあるかもしれませんが、白血病か悪性リンパ腫っていう病気かもしれません。すぐに入院してもらって色々詳しく検査をした方が良いでしょう。それで腰椎穿刺の必要があるんですが、同意書にサインをいただけますか。あと、ご家族の方には今から連絡しておいた方が宜しいでしょう」

 ドクターのその言葉に、私は動転しました。良く「殴られたような衝撃」という表現を耳にしますが、まさにその時がそれでした。頭の中がチカチカと真っ白に点滅して、思考が上手く働かないんです。気が付いた時には、泣きながら夫の勤め先に電話をかけていました。
 幸いにも小児病棟のベッドに開きがあったので、ユウタはそのまま検査入院となりました。私も病院に残り、その日は駆けつけてくれた夫と一緒に院内で夜を明かしました。そして翌日の午後、私たちはユウタの正式な病名を知りました。担当の女医さんは、廊下のソファで検査結果を待ちわびていた私たちを個室に呼び、丁寧に説明をしてくれました。
「詳しい検査結果は少し時間が掛かりますが、現状でユウタ君の病名は大方確定しています。我々はALLと呼んでいるんですが、これはご存知かも知れませんが白血病のことです。正確には <小児急性リンパ性白血病> と言いまして、分かりやすくいえば血液のガンのようなものです」
 そう言って、彼女は私たちを労わる様に微かな笑みを浮かべて言いました。
「ですが、安心してください。白血病は医学の進歩でガンの中では1番治りやすい病気なんです。これが50歳、60歳以上になってくるとわりと厳しいのですが、幸いなことにユウタ君は若いです。若ければ若いほど完治しやすいのがこの世界の常識ですから。治る確率を数字にすれば80〜95%。ほとんど100%治ると言って良いでしょう。私たちも全力を尽くします。治る病気です。頑張って治療していきましょう」
 ――白血病は、彼女の言葉通り血液のガンです。簡単に言うと、血液の種類の1つである『白血球』というものが悪くなり、これがどんどんと増えていく病だそうです。白血球は元々、身体に侵入してくる病気と戦う役割があるそうで、悪い白血球が増殖してしまうと病気への抵抗力がなくなって、ちょっとしたことでも死んでしまうようになるそうです。
「悪い白血球が増えるから、白血病っていう名前なんですか?」
 はい。碇さんのおっしゃる通り、そう考えれば理解は早いと思います。勿論、私も専門的な知識は持ちません。ですから誤った解釈かもしれませんが、大筋はそう間違っていないとは思います。ただ、白血病にも色々と種類があるそうで、病気の進行速度から『急性』と『慢性』、特徴で『リンパ性』と『骨髄性』に分かれるそうです。
 ユウタの患った白血病は、『急性』という進行が早いタイプの、『リンパ性』白血病だそうです。子供の白血病においては、そのほとんどが『リンパ性』だそうで、その意味で子供のガンとしては世界一割合の大きい病気が、この <小児急性リンパ性白血病> だというデータがあると聞きます。
 最もスタンダードであるがため、逆に言えば治療の研究も最も進んでいて、今では約80%前後の患者に完全治癒の可能性が開けているとも言っていただきました。

「ガンが80%は治るって、確率が高めなんですか?」
 そのサードチルドレンの質問に答えたのは、博識で知られるアスカ・ラングレーだった。
「80は、明らかに高いわね。患者の年齢とか進行具合、治療方針によっても色々変わってくるんでしょうけど、他のガンだと完全治癒のパーセンテージはそんなにまで高くないはずよ。精々5割超ってとこじゃないの?」
 はい。惣流さんの仰る通り、急性白血病の場合は『成人』よりは『小児』の方が、『骨髄性』よりは『リンパ性』の方が、治る確率は高いそうです。例えば <小児急性骨髄性白血病> の場合、5年後に生きていられる確率は50〜60%。これはリンパ性より、20〜30%も低い数値です。
「じゃあ、ユウタ君も見込みは高かったんですね。お医者さんも、ほとんど100%――正確には80から95%でしたか? そのくらいの高確率で治るって保証下さったって話だし」
 葛城女史の言葉に、ユウコは弱々しい微笑を浮かべて頷いた。
 はい。確かにドクターはそう仰いました。ですが――これは後で知った話なんですけれど――ドクターが打ち明けたこの時の数値は、私たちの心理状態を考慮に入れた極めて楽観的な数値だったようです。
 今となっては、それも頷ける話です。楽観的に「治るんだ」と思わせて貰わなければ、私たちはあの時とても耐えられなかったでしょうから。現実はもっと厳しかったわけですが、私たち夫婦はあの時の女医さんのムンテラ(告知)の仕方には感謝しています。
「なるほど。今まであんまり考えたこと無かったけど、そう言われてみれば医者からの告知っていうのは大切ですよね。特にガンだとかそういうシリアスなケースでは」
「なに今更のように感心してるのよ、ミサト。そんなこと言うの先進国じゃ日本くらいよ? 医学は仁術であり、算術であり、話術なのよ。患者の心理状態を考慮して、いかに情報と意思の伝達を図るか。医療に従事する人間の立場からも、患者の立場からもとっても大事なことじゃない。そういうアフターケアを抜きにして、ただ治療だけやっていれば良いのなら医者なんて楽な商売よ」
 惣流さんの仰ることは正しいと思います。自分、もしくは家族の患った病のことを正しく知って、それに対する知識や心構えを正しく身に付けることの重要性は、この3年余りの闘病生活の中で痛いほど思い知りました。
 確かにある程度の楽観は必要です。しかし、現実を直視することはそれ以上に重要なことだと思うのです。

「――なるほど、白血病に関しては大体分かりました。それで、肝心のユウタ君の治療の方はどんな風に運んだんですか? 確か、今は <骨髄移植> に備えてドナーを探している途中だという話をうかがったんですけれど」
 アスカの方向修正を受けて、ユウコは再び口を開いた。
 私たち夫婦は、ドクターから何度も様々なことについて説明を受けました。白血病のこと、ユウタの具合のこと、入院手続きのこと、保健のこと、そして治療のこと。その女医さんはとても親切な方で、非常に噛み砕いた表現で私たちにも分かりやすく説明してくださいました。
「ユウタ君のかかっている急性白血病の場合、治療期間はだいたい2から3年くらいかかります。そう絶望的な顔をされる必要はないですよ。その間ずっと入院しているわけではないですから。入院しなくちゃならないのは、最初の数週間とそれから中頃の強化期間だけ。合計して数ヶ月程度です」
 治療に何年もかかると聞いて、一瞬目の前が真っ暗になりかけたのですが、すぐにフォローしていただいたおかげで私たちは希望を持つことができました。
 彼女の自信に満ちたあっけらかんとした態度と口調に接していると、白血病と言えど実はそう大した病気ではないのではないかという気さえしてくるのです。私たちはそれ以後、彼女のこの力強さに幾度となく救われました。
「まず、最初の治療でユウタ君の身体の中にある白血病細胞を95%退治します。悪いガンを20世紀末当時の消費税以下まで減らしてしまうわけですね。こうして白血病細胞が5%以下まで減ってくれた状態を、この世界では『寛解(かんかい)』と言います。まずは、この寛解を目指して治療をしていくわけです。この治療法のことを寛解導入療法と呼び、治療には主に抗癌剤(こうがんざい)というガン専用の強力な薬を使うことになります。
 ユウタ君が寛解に至ったら、今度は第2段階。残った5%のガン細胞を、今度は完璧にゼロにします。やっつけて根絶やしです。この状態を、先程の寛解に『完全』の2文字を付けて <完全寛解> と呼びます。我々のような専門医は、これを英語で表現することが多いので覚えておくと良いかもしれません。正確にはコンプリート・リミッションというのですが、大抵の場合はイニシャルだけをとって <CR> という風に使います(30%以下=「部分寛解」、5%以下=「完全寛解」)。
 こうして白血病細胞を0%にし、完全寛解を目指す第2段階の治療を『強化療法』と呼びます。こうなると、後は外来でこのゼロの状態を維持する治療を行うだけ。これが『維持療法』。『導入療法』『強化療法』『維持療法』。3コース全部合わせて2年間。後は、 <CR> のまま白血病が再発しないように祈るのみです。
 私には、ユウタ君を <CR> に導ける自信があります。ですが問題が1つ。実は抗ガン剤には副作用があるんですよ。微熱が出たり、吐き気が出たり、身体がだるくなったり、食欲が無くなったり……そして、髪の毛が全部抜けてしまったりするんです。これらの副作用はなるべく軽くするように努力はできますが、完全には防げません。髪の毛も、辛いでしょうが間違い無く抜けてしまいます。ですが治すためです。治療をしなければ治りませんが、治療をすれば治ります。そのためです。一緒に頑張ってください」

 髪の毛が抜けると言われた時は、正直ショックでした。ですがある意味、まだ4歳の子供であったことが幸いしたのかもしれません。これが思春期の子供でしたら、その精神的な衝撃は計り知れないものがあったでしょうから。
 実際、ユウタは薬の副作用で簡単に抜けてしまうようになった髪の毛を、自分で引き抜いては遊んでいました。見ている私たちには、堪えるものがありましたが。
「じゃあ、今もユウタ君の頭にちょっとしか髪が生え揃っていないのは……」
 はい。碇さんの考えていらっしゃる通りだと思います。あの子は度重なる化学治療と放射線照射の副作用で、もう何度も髪を失いました。つい先月まで、あの子には1本の髪の毛も無かったんです。
 他にも、寛解導入法という治療の中で現れる抗ガン剤の副作用には、色々と悩まされました。1日の内に何度も熱が出たり引いたり、酷いときには40度に達する熱が頻発しました。また、ある薬の副作用では食欲が急に出たり、逆に体調不良で食欲が落ちて急に体重が落ちたりもしました。
 しかし辛かったのは、何も薬の副作用だけではありませんでした。マルク(骨髄吸引)やルンバール(腰椎穿刺)と呼ばれる検査には、大人でも苦痛に感じるほど痛みが常に付き纏いました。太い注射針を骨に直接突き刺してサンプルを取るんです。痛くない筈がありません。初めてマルクを体験した時、廊下で待っていた私たちの元へもユウタの泣き叫ぶ声は聞こえてきました。
 率直に言って、治療の日々は辛かったです。ユウタは泣かなかったら早く家に帰してもらえると思ったらしく、必死に涙を堪えるようになりました。楽しみにしていた小学1年生の入学式は、入院していて行けず、院内学校に通いました。小児病棟で仲良くなったお友達の女の子が亡くなって、初めて死を知りました。
 2年間で急速に精神的な成長を遂げていくユウタを見て、私たちは哀しみました。退院してからというものユウタは市内の小学校に通えるようになりましたが、クラスでは浮いた存在になったようです。過酷な闘病生活と死と隣り合わせた非日常の中で、ユウタは無邪気なばかりの子供ではいられなくなったのかもしれません。明らかに周囲の同い年の子供の集団からは異質な存在になっていたんです。7歳になった今も、それは変わりません。
 あの子は兄弟姉妹もいませんから、ずっと独りぼっちでした。これからも、きっとそうでしょう。でも、それでも、2年間の治療を終え <CR> ――完全寛解をドクターに告げられた時は本当に嬉しかったです。

 去年の5月12日。ユウタが6歳の誕生日を迎えた、ちょうど1週間後のことでした。私たちは、これで元の生活に戻れるのだと、ユウタの病気は治ってもう安心なのだと喜びました。そしてその希望通り、ユウタの予後は順調に経過したんです。
 ドクターの話では、完全寛解のまま5年の間白血病が再発せずに済めば、一応の完治と言えるそうです。5年間です。ユウタが小学校を卒業するくらいになるまで、無事でいてくれれば。
 最初の数ヶ月は、もしかしたら今にも再発するのではと絶えずビクビクしていました。ですが、1年が経つとその恐怖も楽観に変わってきました。1ヶ月が経過していくごとに、ユウタはもう大丈夫なんだと私たちは固く信じるようになりました。根拠はないかもしれません。でも、その時は確信していたんです。あんなに辛い治療をがんばったのだから、再発する筈はない。ユウタはもう、完全に治ったんだと。


■2017年12月26日 24時14分
 神城家リヴィング


 話が一区切りついたところで、コーヒーブレークが入った。神城夫妻が全員分のコーヒーをキッチンから運び込む。周囲に芳しいブルーマウンテンの香りが充満した。
 夫妻はどちらも家事を得意とするらしく、引っ越しの片づけがまだ終わっていない煩雑としたキッチンでも手際良く作業を進めていた。
「思えば――」
 カップをトレイに戻すと、神城ケンタは妻に代わって徐に口を開いた。
「今思えば、あの油断がいけなかったのかもしれません」
 何がと問わずとも、シンジには彼の言わんとすることが理解できた。不幸はいつも人がふと気を緩めた瞬間を狙っていたように訪れる。それを知っていればこそ、神の存在は信じられなくても悪魔の存在になら確信を持てるという人間が少なくないだろう。
 つまり、この世には明確な悪意がある。これはいつも人を不幸に陥れようと常に誰を狙っているのだ。そして一度その標的に選ばれれば、無力な人間に抗う術はない。シンジはそう考える。
 白血病という突然の悲劇に訪れた神城家の人々も、きっと同じ様に思ったに違いない。何故なら、ユウタ少年は現在 <骨髄移植> の必然性に晒されているのだ。1度は化学療法で完全寛解に至ったらしいが、そのまま完治したというのなら <骨髄移植> は必要ない。つまり、彼を再び捉えた悪意の手が存在したことは確かなのである。
 そしてそれを肯定するように、ケンタは言った。
「ユウタの白血病が、再発したんです」
 今年の11月2日、つまり約2ヶ月前のことである。午前中に全ての家事を終えた神城ユウコは、息子ユウタの遊び相手を務めている時、その異変に気が付いた。血液の異常を示す内出血の赤黒いアザを、息子の身体に幾つか発見したのである。
 ユウコはこれが何を示すかに気付いて愕然とした。泣きながらユウタを抱きしめたが、残酷にも息子の身体に回した腕さえ、新たな内出血のアザを作り出す始末であった。
 ユウコはすぐに夫の勤め先に連絡を入れると、ユウタを大学病院まで連れていった。検査の結果は、両親立ち会いのもと、数日の内に宣告された。 <小児急性骨髄性白血病> 。恐れていた細胞遺伝学的再発であった。

 この時のことは、両親ばかりでなくユウタ少年本人も後々まで良く覚えていた。後に彼を主演としたドキュメンタリィ番組の取材班に向けて、彼はこのように語っている。
「お母さんが泣く時は、ボクのせいなの。ボクの血が悪くなってから、お母さんは泣くようになったから。家に帰ってずっと病院に行かなくても良かったけど、あの時お母さんが泣いたから、ボクの血がまた悪くなったんだって思った」
 ユウタ少年は、既に自分の病が死に繋がる重篤なものであることを知っていた。知識として理解していたわけではないが、同じ病気の女の子として紹介されたかつての闘病仲間が、突然この世からいなくなったという事実を、彼は自分と結びつけて考えていたのである。
「かなり深刻なケースです。私たち専門医が二次性白血病と呼んでいるタイプで――普通の場合の再発とはまた違い、非常に危険な再発の仕方をしています。正直申し上げまして、ユウタ君にとっても危険な状況と言わざるを得ません」
 それから、「生存率はどのくらいですか」という質問に、専門医が「高く見積もって、40から50%です」と答えた瞬間、両親が涙を零した光景をユウタは鮮明に記憶に焼き付けた。そして、自分の病気はとてつもなくシリアスな状態にあるのだと、彼は彼なりに悟った。もともと感受性に優れた彼は、子供特有の能力もあって、周囲の大人の感情をその雰囲気や表情から敏感に察知することに長けていたのである。
 だが、彼は本能的に確信していた。すなわち、自分は死なないと。何故なら、彼には決して譲ることの出来ない夢があったからだ。
「それが、 <チルドレン> の皆さん。あなたたちでした」
 ケンタは向かい合って食卓を囲む3人の <チルドレン> それぞれを見詰めながら言った。
「あなたたちの存在がユウタの希望になりました。あの子は <チルドレン> を知ったのです」

 ――今年、2017年の1月。
 新生NERV発足と共に、世界中で放映された1本のTVドラマがある。名を『新世紀エヴァンゲリオン』。救世の英雄 <チルドレン> の活躍を描いた、ノンフィクション長編ドラマシリーズである。
<チルドレン> と呼ばれる選ばれた3人の少女少年が、巨大ロボット『エヴァンゲリオン』のパイロットとして、突如現れた正体不明の巨大生物兵器『使徒』と戦う。まるでSF映画のような、およそ現実味を欠いた出来事が実際に起こったのだ。その奇跡の如きドラマティックな事件に、人々が狂おしいまでの関心を向けるのも無理はない話である。
 それは結局NERVのイメージ戦略の一環でしかなかったが、MAGIの記録していた戦闘映像を適度な編集とコンピュータ処理を加えてそのまま使用、そして実在の <チルドレン> とNERVスタッフをそのまま役者として起用し、使徒戦争と呼ばれた一連の事件をリアルに再現するという手法で作り上げられた『新世紀エヴァンゲリオン』は、放映開始と同時に全人類の話題を攫っていった。
 世界を救った <チルドレン> たちの物語に世界は熱狂、勿論、あまねく全ての子供たちも、 <チルドレン> とエヴァに夢中になった。
 なにしろ、悪い怪獣をやっつけるヒーローが本当に世界に現れたのだ。本物の正義の味方なのだ。 <チルドレン> たちの存在は、子供たちの夢となり、彼らを虜とするに充分過ぎるインパクトを持っていた。
 神城ユウタも例外ではなかった。『新世紀エヴァンゲリオン』を一目見た瞬間、巨大ロボットを駆り悪を討つ <チルドレン> たちの勇姿に彼は心奪われた。そして思ったのである。「ぼくも <チルドレン> になりたい」、と。
「――ユウタは、もう夢中でした。TVシリーズを収めたDVDボックスを買い与えると、画面に食いつくような勢いで毎日それを繰り返し見ました。 <チルドレン> の台詞は全部覚えました。使徒の名前も全部言えます。話すことはいつも、 <チルドレン> のことばかり。求めるものは、いつもエヴァグッズ。あの子は思っていたようです。 <チルドレン> が実在するなら、自分も本物のヒーローになれるチャンスが回ってくる、と」
 神城夫人は当時のことを思い起こしたか、微かな笑みを浮かべながら言った。その表情は優しくて美しかったが、シンジは同時にどこか哀しいと思った。
「それからというもの、ユウタには夢が出来たようです。皆さんと同じ <チルドレン> になってエヴァに乗ることです。ヒーローになることです。あの子は口癖のように言うようになりました。『ぼくは大きくなったら、 <チルドレン> になるからね。使徒が来たらやっつけて、お母さんのこと守ってあげる』」
 それは子供の夢でしかなかった。だが7歳の少年にとっては、死ねない理由が出来た瞬間だった。


■12月26日 01時22分
 神城家リヴィング


 小児急性骨髄性白血病。再発したユウタが新たに宣告された病の名である。彼が最初にかかったのは、骨髄性ではなくリンパ性。少年は治療に用いられた抗ガン剤の副作用で、新しい種類の白血病を患ってしまったのである。しかも最初の白血病より、更に難解な種類の病気に。
 強力な劇薬を用いて行われる白血病の化学療法は、諸刃の剣だ。白血病に大きな効果を見せるが、その副作用で重篤な症状が出たり、他のガンになってしまったりする危険性は否定できない。毒をもって毒を制すと言ったところか。
 医師は慎重な計算に基づいて極力副作用を抑えた処方をするが、彼らとて万能の神ではない。必ずベストの結果を出せるとは誰も保証できないのだ。ユウタ少年の場合はたまたま運が悪く、結果が最悪のケースに転んだに過ぎない。だが、本人たちにとってそれはとてつもない衝撃である。何度か言及しているように、骨髄性はリンパ性よりも難しい白血病だ。
 新しく <急性リンパ性白血病> と診断された子供は、80%前後は治癒の確率があるとされるが、 <急性骨髄性白血病> はどのような形にしろ、5年後の生存確率は50%程度と言われている。なお悪いことに、ユウタは再発での発症である。前の治療で、白血病細胞が抗ガン剤に抵抗力をつけてしまったため薬も効きにくい。治療が非常に難しくなっていくだろうことは、明白だった。
 後のTVインタビューで、ユウタ少年の担当医を勤めた森緒(もりお)アヤコ女史はこう告げている。
「子供に見られる白血病は、そのほとんどが典型的なALL――急性リンパ性です。小児急性骨髄性白血病というのはそれだけ症例が少なく、また治療の経験も少ないのです。ユウタ君の場合は、もはや最悪と言って良いほどの悪条件が揃っていました。急性骨髄性白血病がもともと薬が効きにくいタイプであるという事実に加え、子供には稀にしか見られない種類の染色体異常や、2度目の白血病であることなどを加味して考えると、生存確率を計算することすら困難な状況でした。
 あの時、ご両親に告げた40〜50%という数字は、精一杯無理をしての最高数値です。最低値を告げたなら、きっとあの若い夫婦は正常な精神状態ではいられなかったに違いありません。ですから、私はまた同じようなケースに見舞われた時も、やはり同じような告知をするでしょう」
 急性リンパ性白血病の場合、1度寛解した時点で <骨髄移植> を頭に入れることは稀だ。だが白血病が再発し、それが急性骨髄性白血病であった場合、根治――つまり完全な治癒――を望める唯一の治療法は <骨髄移植> だけといっても過言ではない。
 化学療法は所詮、時間稼ぎにしかならない。白血病に対する最大にして最強の治療方法は <骨髄移植> をおいて他にないのである。
 非常に難しいケースのユウタ少年には、もはやこれを積極的に検討するに異論は出なかった。

「ユウタは即座に再入院となりました。最初に行われたのは集中的な抗ガン剤投与でしたが、これはあまり効果を上げませんでした。しかし、その後1クールの科学治療と放射線照射で、なんとか寛解に漕ぎつけることには成功したのです」
「え、寛解ってことは……また治ったんですか?」
 シンジのその言葉に、神城夫人は哀し気な表情で首を左右した。そう。それで治癒したなら、今現在 <骨髄移植> を希望している事実に繋がらない。悪夢はまだ続いているのだ。
「いえ。1度再発すれば、そう簡単には直りません。寛解にまでもっていったのは、ある意味で準備です。骨髄移植は寛解の状態になければ行えませんから。寛解に至って、初めてカンファレンスという <骨髄移植> を検討する会議に掛けてもらえ、ドナーを探すこともできるんです」
 ――そして、約1ヶ月前の2017年11月23日。カンファレンスにより、神城ユウタの治療方針が決定。 <骨髄移植> が行われることになった。
 だが、ここでまた1つの問題が生じたのである。それがドナーの存在であった。 <骨髄移植> とは、その名の通り骨髄を提供者から患者へと移植する作業のことだ。良く聞く肝臓や心臓などの臓器移植のように、何かを提供してもらう者(レシピエント)と、何かを提供してあげる者(ドナー)が存在することは変わらない。
 この場合、骨髄を提供してもらう側であるからして、ユウタはレシピエントとなるわけだが――これは良いとしても、提供者であるドナーを探してこないことには移植は成り立たない。
 ここで伊吹女史がシンジにした説明を思い出す必要がある。彼女はこのようなことを言った筈だ。「骨髄移植は、ある意味で輸血に似ている。血液型が合わなければ輸血が出来ないように、骨髄移植も『HLA型』が合わないと行うことができない」と。
 つまり、ドナーは誰でも良いというわけではない。ユウタの不良な骨髄と取り代えるための、健康で正常な骨髄を分け与えることが出来るドナーは数十万人に1人しか存在しない。選ばれた、ユウタと相性の良い人間だけなのである。
 HLAの型は遺伝によって決定されるので、適合する確率が1番高いのは兄弟姉妹であることが知られている。両親を同じくする姉弟たちがいたならば、25%の高確率でHLAの型は合うのだ。それ以外では、両親でさえマッチの確率はあまり高くない。
 ユウタは一人っ子だから、この面では不利だった。まず念のために両親のHLAの型が調べられたが、これは一致しないことが分かった。こうなると日本中からHLAの型が合う人間を探してこなければならない。
 これを助けるのが <骨髄バンク> の存在である。 <骨髄バンク> は、一般からドナー希望者を募り、彼らのHLAの型を登録して巨大なデータベースを作る組織だ。肉親とも親戚ともHLA型がマッチせず、途方に暮れていた患者が最後の望みをこれに託す。
 たとえば、ユウタのような骨髄移植希望者が申し出ると、 <骨髄バンク> は登録してあるデータからすぐにHLA型が合うドナー登録者を探し出してくれる。そしてその白羽の矢が立った人物の元に飛んで行き、移植に協力してくれるよう交渉までしてくれるのだ。

「12月3日、ユウタ担当のドクターを通して、その <骨髄バンク> から連絡が入りました。結果は日本骨髄データバンクに該当者なし。ユウタに骨髄を分けてもらえるドナーは見つかりませんでした」
 知っていた筈の事実であったが、それでもユウコ夫人の口から直接それを聞いた瞬間、 <チルドレン> と葛城将捕は息を呑んだ。それが意味することが分かったからである。
「そうか……セカンドインパクトですね」
 葛城ミサトは険しい表情で言った。シンジもそれに即座に頷いて見せる。
「うん、多分そうですよね。マヤさんも言ってました。1999年のセカンドインパクトで人類の大半が亡くなって、データバンクの機能が事実上破綻したって。今の登録者は確か6万とか7万でしたよね。 <日本骨髄バンク> が100%マッチングの目標に掲げてるのが30万人って話だから――」
「0.001%の確率なら、7万では採算が合わない」
 今まで一言も口を利かずにいた寡黙なファーストチルドレン綾波レイが、その透き通った小声でシンジの後を継いだ。
「こんなことをお訊きして良いのか分かりませんが、率直に。このままユウタ君のドナーが見つからなかった場合、彼はどうなりますか?」
 葛城将捕は真っ直ぐに神城夫妻を見詰めた。興味本位や軽い気持ちで放って良い質問でないことは、彼女自身が1番知っている。指揮者として、時に人命という名の犠牲すら厭わない命令を下してきた彼女だ。その眼には命をやり取りする者の覚悟があった。
「私たちはドクターに同じことをお聞きしたとき、その答えはこうでした。ユウタが10歳の誕生日を迎えられる可能性は非常に低いと。ユウタのケースで、 <骨髄移植> を受けずに助かったケースは世界的にも例がないだろう。少なくとも自分は聞いたことがないと。そう仰いました。このままでは、あの子は助かりません」
「ドナーが見つかる可能性は?」
「ドクターの話だと、確率を変動させる選択肢は4つあるそうです。1つは提携しているアメリカや韓国、英国などの <骨髄バンク> にも照会を求めること。2つ目は、自己末梢血幹細胞移植、自家骨髄移植といった方法の違う移植を行うこと。3つ目は、治癒を諦めて、痛みを除く以外の積極的な治療を放棄すること。そして4つ目は、自分たちの手でドナー登録を呼びかけ、新規登録者の中から適合者を見つけ出すことです」
「この内、全米骨髄バンク(NMDP)には、既に認定病院である名古屋第一赤十字病院を通して協力を要請していただける運びになっているそうです」
 妻の説明を補足するように、ケンタは言った。
「 <全米骨髄バンク> はドナー登録数100万を数える、日本のそれとは比較にならないほど巨大で先進的なものです。人種が違うとHLA型の適合率が下がるのですが、それでも望みはゼロではありません。むこうの日系人の方やアジア系の方から、上手くマッチするドナーが現れることは充分考えられると聞いています。――実際、セカンドインパクト以前の話ではありますが、1992年に中堀由希子さんという日本の患者さんが、 <全米骨髄バンク> に登録されていたドナーから骨髄液の提供を受け、実際に移植を受けるに至ったという前例もあるそうですから」
「上手く見つかってくれると良いですね」
 シンジは出来うる限りの笑顔で、彼らを励ました。そしてその言葉とほとんど同時に、午前2時を告げる鳩時計が鳴った。一同は食卓を囲んだまま、静かな夜にどこか寂しく響くその音を聞いていた。
「すみません、随分と遅くまでお邪魔してしまって」
 一通りの話も聞いたし、頃合いだろう。そう判断して、椅子から立ち上がりながら葛城将捕は言った。
「いえ、こちらこそ時間も考えずにお引き留めして本当に申し訳ありませんでした」
 世界の <チルドレン> を、こともあろうか4時間も独占してしまったのだ。神城夫妻は慌てて事の大きさに気付き、揃って頭を下げた。
「どうかお気になさらずに。さぁ、すっかり遅くなっちゃったわ。シンジ君、アスカ、レイ。そろそろ失礼するわよ」
 ミサトの声に <チルドレン> たちは頷くと、席を立って神城夫妻と挨拶を交わした。今日が初体面であり、4時間程度の短い付き合いでしかないが、ここまでの話を聞くと両方とも既に相手をただの他人とは思い難い。奇妙な関係ではあるが、 <チルドレン> と神城家の人々の間にささやかな絆が出来上がったことだけは確かだった。
「それじゃあ、何かあったらまた連絡してください。僕らも出来るだけお見舞いに行きますから」
「いえ、幾らなんでもこれ以上ご迷惑をお掛けするわけには……」
 にこやかに頭を下げるシンジに、ケンタは慌ててそう言った。勇気付けてくれるどころか、ここまで親身になって話を聞いてもらったのだ。神城夫妻にとっては、それで充分過ぎる厚意であった。
「そうよ。なにワケの分からないこと言って帰ろうとしてんのよ、あんたは」
 そう言ってシンジの前に立ち塞がったのはセカンドチルドレンだった。
「シンジ、アンタはここに残るのよ。ユウタ君があんなに泣いて別れを惜しんだってのに、挨拶もしないで帰るつもり? いいこと、シンジ。アンタは今夜一晩、あの子に付き合いなさい。朝起きたらやっぱり <チルドレン> が帰ってたなんてことにならないようにね。ミサトに言って、あとで護衛の増員を送らせるし、学校は冬休みだから問題ないでしょ」
「え、でも……」
「そうです、惣流さん。幾らなんでも、そこまでして戴くわけにはいきません」
 アスカの突然の提案に、シンジと神城夫妻は狼狽した。シンジは考えてもみなかった選択肢に、夫妻はあまりの申し出にと、それぞれ種類は違ったが驚いたことに変わりはない。特に夫妻は泣き出しそうな程に困惑していた。
「残るのは僕だけなの? アスカと綾波は」
「あんたバカ? あのね、私たちが出来ることは何も彼を勇気付けることだけじゃないでしょ。鈍いシンジには分からないでしょうけど、他にやるべき仕事は一杯あるの。だったら3人が其々の特性と能力に見合った仕事を分担してこなした方が合理的に決まってんじゃない」
 アスカは、口付けを交わすのではと心配してしまうほどシンジに顔を寄せて言った。そしてすぐに彼から離れると、今度はレイに顔を向ける。
「ファースト、あんたもそう思うでしょ。適材適所、日本には良い言葉があるじゃない。あたしたち3人の中で、最もクールで合理的な判断を下せるあんたなら分かるはずよ」
 その言葉に、綾波レイは少しの思考をおいて頷いて見せた。つまり肯定である。
「私は碇君と一緒に残るわ。私にはあなたを手伝えない」
「ま、確かにそうかもね」セカンドチルドレンは一瞬虚をつかれたような表情を見せたが、すぐに苦笑を浮かべながら肩をすくめて見せた。「姿を見せただけでもそれなりに効果はあるでしょうけど、アンタはどう見てもマイク・パフォーマンスが得意には見えないし。いいわ、ファーストはシンジに付き合いなさい。その代わり文献漁りの方は手伝うのよ」
「分かったわ」
 少女たちのやり取りを、サードチルドレンと神城夫妻は混乱しながら聞いていた。
「あの、それってどういうこと?」


to be continued...


note

 作品内では <日本骨髄バンク> のドナー登録数は設定上6〜7万人程度となっていますが、現実世界での登録者数は、2001年3月末時点で13万5847人です。(骨髄移植推進財団調べ)
 しかし、100%マッチングのために、財団及び骨髄バンクがドナー登録数30万人を掲げているのは事実で、現状ではこの目標値の半分にも至っていません。そのために、この企画では読者諸兄にドナー登録をお願いをしている次第です。この物語はフィクションですが、ユウタ少年のような境遇にいる子供が実際にいるのは紛れもない事実であり現実なのです。/div>

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